1. 生涯と背景
武烈王は、新羅の王族として生まれ、その血筋は聖骨(ソンゴル)に属していたが、王位に就く際には真骨(チンゴル)出身の最初の王となった。彼の幼少期の環境や成長過程については詳細な記録は少ないものの、王位継承前の政治的・外交的活動を通じて、その才能と指導力が培われたと考えられている。
1.1. 出自と血筋
武烈王の父は第25代真智王の息子の金龍春(キム・ヨンチュン、後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の長女(または次女)である天明公主(チョンミョンコンジュ、後に文貞太后と追封)である。これにより、彼は父方と母方の双方から王族の血を引く聖骨の身分であった。しかし、祖父である真智王が在位4年で廃位されたため、その血統は王位継承から遠ざけられていた。一部の記録では、彼の父は金龍春の兄である金龍樹(キム・ヨンス)であるとも伝えられており、金龍春と金龍樹は別人物であり、金龍春の死後に金龍樹が天明公主と再婚し、春秋を養子にしたという『花郎世紀』の記述もあるが、これは他の史料と矛盾する点も指摘されている。また、『旧唐書』や『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀の分注ではこれを誤りであると指摘している。
聖骨は新羅の骨品制における最高の身分であり、王位は原則として聖骨の者のみが継承できた。しかし、善徳女王、真徳女王と続いた後、聖骨の血筋が途絶えたため、真骨出身である金春秋が王位に推戴されることになった。彼は、聖骨の血統を持ちながらも、真骨出身の最初の王として即位したという点で、新羅の歴史における重要な転換点となった。
1.2. 初期活動と外交使節
金春秋は、王位に就く以前から新羅の外交において重要な役割を担っていた。当時の新羅は、高句麗と百済からの圧迫に苦しんでおり、周辺国からの支援を模索していた。
642年8月、百済の将軍允忠(ユンチュン)が大耶城(テヤソン、現在の慶尚南道陜川郡)を陥落させ、大耶城主であった金春秋の娘婿、伊飡(イチャン、2等官)の金品釈(キム・プムソク)と娘の古陀炤(コタソ)が殺害された。この事件は金春秋に大きな衝撃を与え、百済滅亡への強い決意を抱かせたという。
彼はまず、高句麗に援軍を求める使節として派遣された。高句麗の宝蔵王と実力者淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)に面会したが、高句麗は援軍の条件として、新羅が真興王時代に獲得した竹嶺(チュンニョン)以北の土地の返還を要求したため交渉は決裂し、金春秋は一時的に抑留された。しかし、金庾信の武力示威と、高句麗の重臣先道解(ソンドヘ)の助けを得て、土地返還を約束する偽りの手紙を書くことで解放された。
また、『日本書紀』には孝徳天皇の大化3年(647年)に金春秋が日本を訪れたという記録がある。この時、彼は上臣大阿飡(サンシンデアチャン)の官位にあったと記されている。日本側は、新羅からの任那への貢納を廃止させ、新羅から日本へ人質を差し出させることを要求し、金春秋は一時的に人質として日本に留まったとされている。
648年12月、金春秋は息子の金文王(キム・ムンワン)と共に唐に入朝した。彼は唐太宗から厚遇を受け、「特進」(正二品)の地位を与えられた。金春秋は唐太宗に対し、百済の侵攻によって新羅が危機に瀕していることを訴え、援軍の派遣を要請し、唐太宗はこれに応じた。また、彼は新羅の官服を唐の制度に倣って改めることを請願し、唐から珍しい服を賜った。帰国に際しては、息子金文王を唐に留めて宿衛とし、唐への恭順の意を示した。帰路、西海上で高句麗の巡邏兵に捕らえられそうになったが、同行していた温君解(オン・グンヘ)が身代わりとなって注意を引きつけ、金春秋は無事に帰国することができた。
649年には新羅の官服が唐風に改められ、650年には新羅独自の年号を廃止し、唐の永徽年号を使用するなど、親唐政策をさらに加速させた。
2. 人物像
武烈王は、韓国、中国、日本を股にかけた外交官として知られている。日本の『日本書紀』には、孝徳天皇3年(647年)に日本を訪れた金春秋について「容姿が美しく、談笑に長けていた(美姿顔善談笑)」と評する記録が残っている。また、『三国遺事』には、武烈王が援軍を請うために唐に入朝した際、唐太宗が彼の風采を称賛し、「神聖な人物(神聖之人)」と呼んで留め置こうとしたが、武烈王が固辞して帰国したという逸話が伝えられている。『三国史記』では、武烈王の容姿は英明で優れており、幼い頃から天下を治める志があったと記されている。
彼はまた、非常に大食漢であったと伝えられている。『三国遺事』によれば、彼は一食で米54 Lと雉9羽を食べ、百済を滅ぼした660年以降は昼食を摂らず、朝食と夕食のみであったが、それでも一日に米108 Lと酒108 L、雉10羽を摂取したという。
3. 結婚と家族関係
武烈王の家族関係は、当時の新羅の政治情勢と深く結びついていた。特に、金庾信の妹である文姫(ムンヒ)との結婚は、王位継承における重要な政治的同盟を形成した。
武烈王には、金庾信の妹である文明王后(ムンミョンワンフ、金文姫)と、その姉である金宝姫(キム・ボヒ)、そして最初の妻である宝羅宮主(ポラグンジュ)薛氏(ソルシ)がいた。
『三国遺事』に伝えられる金春秋と文姫の結婚に関する逸話によれば、金庾信には内気な妹の宝姫と、活発な妹の文姫がいた。金庾信はかねてから金春秋と妹の縁談を望んでいた。ある日、金春秋が金庾信の家で撃毬(キョック、朝鮮の伝統的なポロ)をしている最中、金庾信はわざと金春秋の衣の紐をちぎり、妹に縫わせると申し出た。宝姫は人見知りをして断ったが、文姫が代わって縫い、この時に二人は恋に落ちた。文姫が妊娠したが、金春秋は既に結婚していたため、その事実を隠そうとした。これを知った金庾信は、妹の妊娠を公にし、焼き殺すと噂を流した。
その後、善徳女王が南山に遊行する日、金庾信は自宅の庭に薪を積み重ねて火を放ち、煙を上げた。南山からその煙を見た女王が理由を尋ねると、側近たちは文姫が未婚のまま妊娠し、金庾信がそれを理由に焼き殺そうとしていると答えた。女王は驚き、その相手が誰かと尋ねる中で、金春秋が不安な表情をしていることに気づき、彼に真相を問いただした。真実を知った女王は、金春秋に文姫を救うよう命じ、彼女を二番目の妻として迎えることを許可した。
文姫は、金春秋の最初の妻であった宝羅宮主が第二子出産後に産褥死した後に、正式に彼の妻となった。そして、654年に金春秋が新羅第29代の王として即位すると、文姫は王妃となった。彼らの間には、後に三国統一を完成させる文武王(ムンムワン)が生まれた。金庾信は武烈王の治世中に宮廷で最も権力を持つ人物となり、6年後には上大等(サンデドゥン)に任命された。金庾信のもう一人の妹である宝姫も、武烈王の妻の一人となった。
なお、『花郎世紀』の記述によれば、武烈王は文姫と結婚する以前に、宝宗と良明公主(真平王の娘)の娘である宝羅宮主薛氏と結婚していたとされ、文姫は当初側室として結婚したが、宝羅宮主の早逝により正室となったという。また、文姫の姉である宝姫との間にも支援(ジウォン)という王子がいたと記されているが、これらの王子の実在はまだ確実には明らかになっていない。
武烈王には他に、宝羅宮主との間に長女の古陀炤公主と長男の金文主(キム・ムンジュ)がいた。また、文明王后との間には、文武王の他に金仁問(キム・インムン)、金文王、金老且(キム・ノチャ)、金智鏡(キム・チギョン)、金愷元(キム・ゲウォン)の息子たちと、金庾信に嫁いだ智炤夫人(チソブイン)がいた。金宝姫との間には、金皆知文(キム・ゲジムン)、金車得(キム・チャドゥク)、金馬得(キム・マドゥク)の息子たちと、瑶石公主(ヨソクコンジュ)がいた。これらの家族関係は、武烈王が王権を強化し、統一事業を推進する上で重要な基盤となった。
4. 外交と対外関係
武烈王の外交政策は、新羅の存亡をかけたものであり、特に唐との同盟関係構築に焦点を当てていた。これは、当時の新羅が高句麗と百済からの脅威に直面していたためである。
4.1. 唐との関係構築
金春秋は、王位に就く前から唐との関係構築に尽力した。彼は648年に唐に入朝し、唐太宗と直接会談して新羅の窮状を訴え、百済討伐のための援軍を要請した。この時、彼は唐太宗から「特進」の官位を授けられ、唐の国学を視察するなど、厚遇を受けた。
金春秋は唐への恭順の意を示すため、息子の金文王を唐に留めて宿衛とし、650年からは新羅独自の年号を廃止して唐の永徽年号を使用するようにした。また、649年には新羅の官服を唐風に改めるなど、積極的に唐の制度を取り入れた。これらの政策は、新羅が唐の冊封体制に組み込まれることを意味したが、同時に唐からの軍事支援を引き出すための重要な布石でもあった。
652年に金春秋が即位すると、唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、さらに楽浪郡王の称号も与えられた。これは、唐が新羅を自国の属国として認識しつつも、その独立性を一定程度認める姿勢を示したものである。
4.2. 百済・高句麗討伐への協力
武烈王は、唐との同盟関係を基盤として、百済と高句麗の討伐に乗り出した。
655年1月、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が新羅の北部辺境を攻撃し、33城が奪われた。これに対し、武烈王は唐に使者を送り、救援を求めた。唐はこれに応じ、営州都督程名振と右衛中太将蘇定方らを派遣して高句麗を攻撃した。659年にも百済が国境を侵犯したため、武烈王は再び唐に出兵を要請する使者を送った。
新羅からの度重なる懇願に応じ、660年3月、唐は水陸13万の兵を百済に派遣した。武烈王も唐軍の総管として5万の兵を率いてこれに合流し、百済の義慈王を降伏させ、百済を滅亡させた。この時、金庾信は5万の兵を率いて黄山伐の戦いで百済軍を撃破し、百済を無防備な状態に追い込んだ。
百済滅亡後、唐は百済の旧領に五つの都督府を設置し、唐に協力した地方豪族を都督に任命した。旧都の泗沘城(サビソン)には唐軍の鎮将劉仁軌が駐屯し、この百済府城は後に唐軍の対日工作基地ともなった。
5. 治世と政策
武烈王の治世は、新羅の王権を強化し、国家体制を整備するための重要な改革が実施された時期であった。彼は唐との同盟を背景に、国内の政治運営にも大きな影響を与えた。
5.1. 即位と王権強化
654年3月、真徳女王が崩御した後、真骨貴族たちは相対等(サンデドゥン)の閼川(アルチョン)に摂政を要請したが、閼川はこれを辞退し、金春秋に王位に就くよう勧めた。金春秋は辞退を重ねたものの、最終的に国人の推挙を受け入れて第29代新羅王として即位した。彼は、新羅の始祖赫居世居西干から真徳女王までの28代の王が聖骨であったのに対し、武烈王以降の王は真骨であるとされ、武烈王は真骨出身の最初の王として新羅中代王室の礎を築いたと評価されている。また、『三国史記』では、新羅の始祖赫居世居西干から真徳女王までの28代の王を聖骨、武烈王から最後の敬順王までを真骨と分類しており、武烈王から恵恭王に至る8代の王が在位した時期を「中代」と称している。一方、『三国遺事』では真徳女王以降の王統を「下古」と分類している。
即位直後、武烈王は父の金龍春を文興王に、母の天明公主を文貞太后に追封し、王権の正統性を確立した。655年には、文姫との間に生まれた長男の法敏(後の文武王)を太子とし、他の王子たちにも官位を授与した。また、大角干(テガッカン)金庾信には娘の智炤夫人を嫁がせ、重層的な婚姻関係を通じて王権の基盤を固めた。
武烈王は、唐に即位を知らせる使者を派遣し、唐高宗から開府儀同三司・新羅王の冊封を受けた。さらに、658年には息子の金文王を執事部の中侍(チュンシ)に任命するなど、親族中心の内閣を構成して王権の安定を図った。
5.2. 官制改革と政治運営
武烈王は、在位期間中に新羅の官職・制度改革を進め、唐風の律令制度の基盤を整備した。
654年5月、彼は理法府の令(長官)に命じて律令を詳しく調査させ、理法府格(きゃく、律令の修正・補足のための法令)60余条を制定した。これは、新羅が唐の先進的な法制度を取り入れ、国家の統治体制を近代化しようとする試みであった。
また、彼は王権強化のために、従来の貴族中心の上大等制度と、新興の執事部による政治制度との競合を図った。654年には伊飡の金剛を上大等に任命するとともに、波珍飡(パジンチャン、4等官)の文忠を中侍(真徳女王代に設置された執事部の長官)に任命した。これは、官位の低い貴族を能力本位で要職に就けることで、旧来の中央貴族による権力を抑制し、王の直接的な支配力を拡大しようとする意図があった。後に658年には文忠を伊飡に引き上げ、中侍には王子の金文王を任命した。
660年1月、上大等の金剛が死去すると、後任には金庾信を充てた。武烈王が即位する以前の相対等は、貴族たちの会議である和白会議の代表者として王権を牽制する存在であり、王位継承の有力候補でもあった。しかし、武烈王以降は王が相対等を任命するようになり、和白会議は恵恭王以前まで王権の下に位置づけられることになった。当時の新羅の軍事力の中核は、王都金城付近を地盤とする中央貴族の私兵の連合であり、必ずしも新羅王が軍事力を掌握していたわけではなかった。百済討伐戦やその後の高句麗討伐戦における王の論功行賞では、下級の地方豪族や投降した敵将など、中央貴族の私兵に属さない層が重視され、これらの階層が三国統一後の新羅王権を支えていくことになったと見られている。このような王権の強化を背景に、武烈王は高句麗および百済との本格的な戦争に臨んだ。
6. 三国統一戦争への関与
武烈王は、唐との強固な同盟を背景に、百済と高句麗を滅ぼすための軍事作戦を主導し、三国統一の道を切り開いた。
6.1. 百済滅亡への道
660年3月、新羅の要請を受け入れた唐は、左武衛大将軍蘇定方率いる水陸13万の大軍を派遣した。援軍を要請するために唐に派遣されていた金仁問は、蘇定方が率いる神丘道行軍の副大総管として帰国し、武烈王もまた嵎夷道行軍総管の地位を授けられた。
武烈王は、660年5月26日、大将軍金庾信らと共に5万の兵を率いて徐羅伐(ソラボル)を出発し、唐軍との合流を目指した。6月18日には南川停(現在の京畿道利川市にあった部隊)に到着し、21日には太子金法敏(キム・ボプミン)に兵船100隻を率いさせて徳物島(トクムルド)で蘇定方を迎えさせ、7月10日に百済の泗沘城前で合流する約束を交わした。唐軍と共に百済を攻撃する5万の新羅軍の指揮は、太子金法敏、大将軍金庾信、将軍金品日(キム・プムイル)、金欽春(キム・フムチュン)らが担当し、武烈王自身は金突城(クムドルソン)に留まった。
660年7月9日、金庾信らが率いる新羅軍は黄山伐の戦いで百済軍を撃破した。唐軍も百済軍の抵抗を突破して伎伐浦(キボルポ)に上陸し、7月13日には泗沘城が陥落した。7月18日には熊津城(ウンジンソン)に逃れていた百済の義慈王も降伏し、百済は滅亡した。泗沘城が陥落した際、金法敏は百済の王子扶餘隆(プヨリュン)を馬の前にひざまずかせ、顔に唾を吐きかけ、「かつてお前の父が私の姉を不当に殺し、獄中に埋めたため、私は20年間も心を痛めてきた。今日、お前の命は私の手の中にある!」と叱責したという。
義慈王の降伏の報を聞いた武烈王は、7月29日に金突城から所夫里城(ソブリソン)に赴き、弟監(チェガム)の天福(チョンボク)を唐に派遣して勝利を報告した。8月2日には、かつて大耶城の陥落時に新羅側で内応した毛尺(モチョク)と検日(コムイル)を捕らえて処刑し、酒宴を催して新羅の将兵を労った。この時、義慈王とその息子扶餘隆を床に座らせ、時には義慈王に酒を注がせるなどしたため、百済の臣下たちは皆、声を上げて泣いたという。
百済を滅ぼした後、唐軍の司令官蘇定方は、9月3日に郎将劉仁願(ユ・インウォン)率いる1万の兵を泗沘城に残して守らせ、捕虜とした義慈王をはじめとする百済の王族や高位官僚、1万2千人の百済の民を連れて唐に帰還した。新羅側からは金仁問や沙飡(サチャン)金儒敦(キム・ユドン)、大奈麻(テナマ)中知(チュンジ)らが蘇定方に同行し、王子金仁泰(キム・インテ)らが新羅軍7千人を率いて劉仁願を助け、泗沘城の守備にあたった。唐は百済の地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置し、熊津都督には王文度(ワン・ムンド)を派遣した。王文度は9月28日に三年山城(サムニョンサンソン)で武烈王と会見し、唐高宗の詔書を伝達したが、贈呈の途中で急死したため、別の者がその任務を終えた。
6.2. 百済復興勢力との戦い
義慈王が降伏した後も、百済の旧領では復興軍が蜂起し、新羅・唐連合軍との戦いを繰り広げた。高句麗も660年11月1日には七重城(チルジュンソン、現在の京畿道坡州市積城面)を攻撃し、軍主の必夫(ピルブ)が戦死した。
百済復興軍に対する攻勢に出た武烈王は、660年10月9日、太子金法敏と共に諸軍を率いて尒礼城(イェソン)を攻撃し、18日に陥落させた。これにより、隣接する百済の20余りの城が降伏した。30日には、泗沘城南の山にあった百済復興軍を攻撃し、1,500人の首を斬る戦果を上げた。11月5日には鶏灘(ケタン)を渡って王興寺岑城(ワンフンサジャムソン)を攻撃し、7日後に陥落させて700人の首を斬る戦果を挙げた。22日には徐羅伐に帰還し、論功行賞を行った。この際、黄山伐の戦いで捕虜となった佐平(チャピョン)の忠常(チュンサン)や常英(サンヨン)に一吉飡(イルギルチャン)の官位を与え、総管職に任命するなど、捕虜としたり降伏してきた百済の官僚たちを処罰せず、官職を与えることで懐柔を図った。
百済を滅亡させた後、武烈王は辺境の守備兵を廃止し、圧督州(アプトクチュ)を移設して都督を任命した。
661年、唐の高句麗出兵に参加した武烈王は、軍を北上させている途中で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。享年59歳であった。金城(現在の慶尚北道慶州市)の永敬寺の北に埋葬され、武烈王の諡と太宗の廟号を贈られた。唐高宗は武烈王の死を悼み、洛陽の城門で葬儀を行った。
7. 陵墓
武烈王の陵墓は、現在の慶尚北道慶州市西岳洞842番地にある仙桃山東側の丘陵に位置する西岳里古墳群の五つの古墳のうち、最も下にある円形封土墳が武烈王陵であると比定されている。その面積は1.42 万 m2に及び、新羅の王陵の中で被葬者が確実に判明している数少ない墓の一つとして価値が高い。1963年1月21日に大韓民国史跡第20号に指定され、1972年から1973年にかけて周辺整備が行われた。この墓は横穴式石室墳と推定されており、他の王陵に比べて封土の装飾は質素で、墓の周囲には自然石で石積みが施されている。
陵墓の東北側には『太宗武烈王陵碑』(大韓民国国宝第25号)があるが、日本統治時代以前に既に碑身部分は失われ、亀趺と螭首の部分のみが残っている。螭首には「太宗武烈大王之碑」という八文字が刻まれており、墓の主が武烈王であることを明確に示している。『大東金石書』によれば、この碑は武烈王が死去した661年に建立され、碑文の書は武烈王の息子である金仁問が書いたとされている。

8. 評価と影響
武烈王の生涯と業績は、新羅の歴史、ひいては朝鮮半島全体の歴史に多大な影響を与えた。彼の評価は、その時代や視点によって肯定的な側面と批判的な側面の両方からなされている。
8.1. 肯定的な評価
武烈王に対する当時の新羅人の評価は非常に高かった。これは、「太宗」という廟号が贈られたことからも窺える。これは三国時代を通じて最初の廟号であり、新羅の歴代国王の中でも元聖王と並んで唯一の事例であった。
唐高宗は、唐太宗が魏徴や李淳風を得て天下を平定したことで太宗の廟号を得たのに対し、新羅のような小国が太宗の号を用いることは天子の称号を僭称する不忠であるとして、これを改めるよう要求した。しかし、新羅の神文王は、「武烈王も金庾信という聖臣を得て、三韓を統一する大業を成し遂げた」と婉曲に反論する返書を送った。この返書を受け取った唐高宗は、自身が太子であった頃に「33天の一人が新羅に降りて金庾信となった」という天啓があったことを思い出し、その記録を確認して驚き恐れ、太宗の廟号を許したという。
後世の朝鮮の儒学者たちも、武烈王の業績を高く評価した。例えば、李氏朝鮮の金宗直は、『東国輿地勝覧』に記録された高麗の太祖以来の歴代君主の廟号を朝鮮成宗が諡号に代替しようとした際、武烈王の先例を挙げ、記録された廟号をあえて削除する必要はないと主張した。
聖徳王は武烈王の冥福を祈るために奉徳寺を建立した。また、恵恭王は五廟を定めた際に、金氏で最初に王となった味鄒尼師今と共に、百済と高句麗を平定した武烈王と文武王を代々取り壊さない神主(世世不毀之宗)とした。これは愛荘王2年(801年)に武烈王と文武王だけを祀る祠堂が建てられ、神主が移されるまで続いた。
9世紀中葉の新羅の文人である崔致遠は、890年頃に建立された『聖住寺郎慧和尚白月普光塔碑』において、武烈王の8世孫である僧侶郎慧和尚の事績と武烈王の業績を対比させ、「この時(太宗武烈王の入唐後帰国)から我々の土地は一変して魯のようになった」「二つの敵国を平定し、人々を文明に接するようにしてくださった」と述べ、武烈王が新羅国内の制度を唐風に改編して「文明化」させ、当時の新羅だけでなく中国にとっても敵国であった高句麗と百済を平定して平和をもたらしたと称賛した。また、真聖女王7年(893年)に唐の太師侍中へ送った書簡では、高句麗と百済の強大さ、唐太宗の高句麗侵攻、その直後の武烈王の入唐と修交、援軍要請による百済・高句麗滅亡、そしてその後の渤海と唐・新羅の衝突といった事実を列挙し、「300余年間、一方の地方が安泰で広大な海が穏やかであったのは、まさに我らの武烈大王の功績である」とまで評価した。高麗や李氏朝鮮の儒学者たちも、ほとんどが同様の認識であった。
8.2. 批判的な視点
20世紀初頭、日本による植民地支配が始まると、従来の朝鮮史に対する批判と共に、武烈王は外勢を引き入れて民族史的領域を縮小させたという批判を受けるようになった。乙巳勒約を批判した張志淵は、金春秋が唐の兵を率いて同族(百済と高句麗)を討ったこの事件によって、朝鮮の歴史は千年以上にわたり外国の思想に引きずられ、自国の威厳を失い、他国の勢力が増大したと批判し、これが朝鮮が一つにまとまれなかった要因の一つであると主張した。
申采浩は、民族主義的観点から高句麗・百済・新羅をすべて「神聖な扶餘族」、すなわち「朝鮮韓民族の兄弟」と呼び、唐と手を組んで高句麗・百済を討った金春秋(武烈王)の行動を「盗賊を引き入れて兄弟を殺した」に等しく、「他の民族を引き入れて同族である高句麗・百済を滅ぼした歴史の罪人」と厳しく批判した。特に申采浩は『読史新論』において、4千年の民族史を扶餘族の消長盛衰の歴史と捉え、扶餘族が主族であるという認識のもと、肯定的に評価されてきた「三国統一」の歴史的意義を批判し、金庾信・金春秋および金富軾の功罪を論じた。これは、朝鮮の古代史を半島中心に見ていた従来の歴史認識体系を、満州中心、檀君、扶餘族中心に転換させたことによるものである。
南北国時代論を支持し、『朝鮮上古史鑑』を著した安在鴻も、新羅が唐を引き入れて百済と高句麗を滅ぼしたことは、平壌や関北一帯を含む大部分の北方領土を放棄しただけでなく、唐の命令を借りて外勢の力を用いた新羅の行動から、後世に登場した「事大主義」の大部分が始まったと評した。
解放後も、このような認識は引き継がれた。韓国の民俗学の創始者である孫晋泰は、金庾信や金春秋の能力を高く評価しつつも、「同族を攻撃するために異民族と同盟を結ぶことは民族的に最大の罪悪」であり、新羅が唐と手を組んだことを「貴族国家の非民族的本質」と非難した。韓国歴史研究会が編纂した『韓国歴史』(1992年)は、「統一」という用語を用いつつも、その統一の「不完全さ」と、その後の時代である「南北国時代」の性格を強調した。
1993年には成均館大学校の金英夏教授が、千里長城の例を挙げ、縮小された領域で満州の遼東の地を踏むことができず、古土を失って過ごし、李氏朝鮮になってようやく鴨緑江と豆満江、そして白頭山だけを取り戻すことができたと評価した上で、唐の朝鮮半島経略に同調し、外勢との協力で百済を辛うじて征服した新羅は「統一を完遂する力も意図も全くなかった」と断定し、「統一新羅時代」の代わりに「新羅と渤海」あるいは「南北国時代」という用語を使用することを積極的に主張した。
8.3. 後世への影響
新羅が「三韓統一」を成し遂げ、その端緒を開いた金春秋の対唐事大外交に対する批判において、主要な論点となるのは、果たして金春秋が活動していた当時、あるいはそれ以前に、新羅、高句麗、百済の三国間に互いを「同族」と認識する観念が存在したのかという点である。
『旧唐書』などでは、新羅、高句麗、百済の三国が互いに言葉や風俗が同じであったと記述されており、互いを「同類」と見なす意識があったことは推測できる。しかし、扶餘系である高句麗・百済(ただし百済の土着勢力は馬韓系)と、三韓のうち辰韓および弁韓(伽耶)系である新羅は、始祖神話や祭祀、政治体系、婚姻風俗などで多くの違いがあり、特に数百年にわたって続いた熾烈な競争の中で、特化した異質性と長年の戦争による敵対感情が相当に蓄積されていた。4世紀に百済が膨張した際、新羅は当時百済と対立していた高句麗と連携したが、高句麗の全盛期であった5世紀後半には、再び百済と羅済同盟を結び、高句麗を共通の敵として接近した。しかし、羅済同盟も552年の漢江流域を巡る対立で破綻し、554年には百済の聖王が新羅の伏兵にかかって戦死し、修復不可能な状態に陥った。
642年の金春秋と淵蓋蘇文の交渉は、新羅に対して竹嶺以北の漢江流域全体を明け渡し、現在の嶺南地域に限定された弱小国として残ることを要求する高句麗の帝国主義的態度と、漢江流域(現在の京畿道、江原道および忠清北道忠州市圏)を失えば滅亡を免れないという新羅支配層の認識が、妥協の余地なく衝突し、決裂せざるを得なかった。このような当時の現実において、唐と連合して高句麗と百済を滅亡させた金春秋の選択は、彼が現代の韓国人ではなく古代の新羅人、それも新羅の支配者であったという点を冷静に認識した上で評価されるべきである。
四方を敵に囲まれ窮地に陥った新羅は、唐太宗の高句麗征伐政策に便乗して百済と高句麗を滅亡させた戦争の結果、当時の新羅人は数百年間続いた戦争状態の終結、百済領土の吸収、中国新文物の輸入による中華式改革など、新羅の国家的大業を達成することができた。また、高句麗領土についても、近現代の民族主義的観点のような認識がなかった古代の新羅支配層にとっては、領土を喪失するどころか大同江以南地域(現在の黄海道)を新羅が獲得することで領土を拡張する成果を上げたものであり、当時最強国家であった唐を相手にした最善の結果であった。ただし、このような冷静な評価は、金春秋が韓民族史の英雄というよりは、重要人物の一人であるという本質と限界を再確認させるものである。
百済の領土を吸収し、朝鮮半島の中南部地域を支配することになった新羅は、後代の朝鮮半島統一国家である高麗、李氏朝鮮の母体となったため、7世紀末に新羅人が使用した「三韓一統」や「三国統一」といった言葉は、19世紀まで特に抵抗感なく受け入れられ、使われ続けた。
9. 系図
武烈王の直系および傍系の家族関係は以下の通りである。
- 祖父(父方)**: 真智王 - 新羅第25代国王。
- 祖母(父方)**: 知道夫人朴氏
- 父**: 金龍春 - 真智王と知道夫人の息子。武烈王即位後に文興王と追尊された。金龍樹とも呼ばれる。
- 外祖父**: 真平王 - 新羅第26代国王。
- 外祖母**: 摩耶夫人
- 母**: 天明公主 - 真平王と摩耶夫人の娘。武烈王即位後に文貞太后と追尊された。
- 伯母/叔母(母方)**: 善徳女王 - 新羅第27代国王。
- 叔母(母方)**: 善花公主
- 従兄弟**: 義慈王 - 百済第31代国王。
- 叔父(父方)**: 廉長公 - 第17代風月主。金龍春の異父弟。父は天柱。
- 王妃**: 文明王后金氏(金文姫) - 金庾信の妹。
- 次男**: 文武王 - 新羅第30代国王。
- 妻**: 慈儀王后金氏 - 波珍飡金善品の長女。
- 孫**: 神文王 - 新羅第31代国王。
- 妻**: 慈儀王后金氏 - 波珍飡金善品の長女。
- 三男**: 金仁問
- 四男**: 金文王 - 江陵金氏の先祖。
- 六男**: 金老且(キム・ノチャ)
- 七男**: 金智鏡(キム・チギョン)
- 八男**: 金愷元(キム・ゲウォン)
- 三女**: 智炤夫人 - 母方の伯父である金庾信に嫁いだ。
- 次男**: 文武王 - 新羅第30代国王。
- 後宮**: 金宝姫 - 文明王后の姉、金庾信の長妹。
- 五男**: 金皆知文(キム・ゲジムン)
- 九男**: 金車得(キム・チャドゥク)
- 十男**: 金馬得(キム・マドゥク)
- 次女**: 瑶石公主
- 夫**: 元暁 - 新羅の僧侶。
- 子**: 薛聡 - 新羅の学者。
- 夫**: 金歆運 - 655年に百済との戦闘で戦死。
- 娘**: 神穆王后 - 神文王の王妃。
- 夫**: 元暁 - 新羅の僧侶。
- 夫人**: 宝羅宮主薛氏 - 最初の妻。美室の息子で第16代風月主・宝宗殿君と良明公主(真平王の娘)の娘。長男出産後に産褥死。
- 長女**: 古陀炤公主
- 長男**: 金文主(キム・ムンジュ)
- 後宮**: 不詳
- 十一男**: 金仁泰(キム・インテ)
10. 大衆文化
武烈王の生涯と業績は、多くの歴史ドラマや映画で描写されており、その波乱に満ちた人生と三国統一への貢献が注目されている。
- 映画『黄山伐』(2003年) - 演:イ・ホソン
- テレビドラマ『淵蓋蘇文』(SBS、2006年 - 2007年) - 演:キム・ビョンセ
- テレビドラマ『善徳女王』(MBC、2009年) - 演:ユ・スンホ、子役:チョン・ユンソク
- テレビドラマ『階伯』(MBC、2011年) - 演:イ・ドンギュ
- テレビドラマ『大王の夢』(KBS1、2012年 - 2013年) - 演:チェ・スジョン、子役:チェ・サンウ
- テレビドラマ『韓国史記』(KBS1、2017年) - 演:パク・ジュンヒョク