1. 生涯
溝口健二は、貧しい家庭環境、姉の犠牲、父との関係、幼少期の病気、そして芸術への関心など、自身の個人的な経験が作品のテーマやスタイルに深く影響を与えた。
1.1. 生い立ち
1898年5月16日、東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた。彼は3人姉弟の2番目で、7歳上の姉・寿々と7歳下の弟・善男がいた。父・善太郎は大工(屋根葺職人という説もある)で、日露戦争に際して軍隊用雨合羽の製造事業に乗り出したが、戦争の終結により事業は失敗し、家族は多額の借財を抱えることになった。これにより、溝口家は貧窮のどん底に陥り、1905年には家が差し押さえられ、一家は浅草玉姫町(現在の台東区清川)へ転居を余儀なくされた。この経済的困窮を打開するため、口減らしのために姉の寿々が芸者として養女に出されるという悲痛な犠牲を払うことになった。この出来事は、溝口の生涯と彼の作品に深い影響を与え、女性の犠牲というテーマが後の作品に繰り返し現れる要因となった。
1905年、溝口は私塾の田川学校に入学し、1907年には近所に開校した石浜小学校へ転入した。同級生には後年に共に仕事をする川口松太郎がいた。1911年秋、小学6年生だった溝口は、約半年間、岩手県盛岡市の親戚のもとに預けられた。東京に戻ると中学進学を希望したが、父の反対で叶わず、その後リウマチを患い約1年間闘病生活を送った。この病気は彼の歩行に影響を与え、生涯にわたって足を引きずるようになった。溝口は、一家を貧困に陥れ、母を苦しませた無能力な父を憎むようになり、父との関係は悪化の一途を辿った。溝口の監督作『浪華悲歌』(1936年)に登場する主人公の頑固で卑屈な父親は、溝口の父をモデルにしているとされる。寿々からの仕送りによって一家の生活は支えられ、彼女は後に子爵の松平忠正の妾となり、溝口と弟を自分の家で引き取った。松平忠正は寿々を深く愛したが、当時は華族の結婚は宮内庁の許可が必要で、芸者である寿々との結婚は許されなかった。寿々は忠正の妾として4人の子を産んだが、独身だった忠正は他の華族から正妻を迎えさせられた。その正妻は1926年に死去したが、寿々の妾という地位は変わらなかった。1947年に華族制度が廃止され自由結婚が認められると、忠正と寿々は正式に結婚した。
1913年、絵を描くことを好んだ溝口は、浅草の浴衣図案屋に弟子入りした。同じ図案屋仲間の弟子には、松竹蒲田撮影所の監督で小津安二郎の師匠となる大久保忠素がいた。しかし、浴衣の図案に物足りなさを感じ、日本橋浜町の模様絵師に弟子入りした。この頃、一家は寿々が父の隠居所としてあてがった日本橋新場橋(現在の日本橋と兜町の境)の家へ転居した。1914年12月には貧苦の家庭で苦労し続けた母が亡くなり、それにより溝口の父に対する反発はさらに強まった。やがて溝口は本格的に画家の道を志し、1916年に黒田清輝の主宰する赤坂の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学んだ。当時葵橋洋画研究所で塾頭をしていたのが和田三造であり、後年に溝口はその関係で『新・平家物語』(1955年)の色彩監修に和田を起用している。この頃、研究所近くの劇場ローヤル館でローシーが上演していた浅草オペラの背景画を手伝う中でオペラに熱中した。また、寄席で講談や落語に親しみ、レフ・トルストイ、エミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサンなどの外国文学や尾崎紅葉、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風らの日本文学を読破した。
1917年、寿々の口利きで名古屋市の陶器会社の図案部に就職したが、翌日には東京へ戻った。1918年、神戸又新日報社で広告の図案係として採用され、神戸へ赴任した。ここでは自作の短歌を紙面に載せたり、当時盛んだった新劇に熱中したりした。しかし、ここも1年で辞め、東京に戻り寿々の家に居候した。20歳を過ぎても定職がなく、図書館や美術館に通い、浅草でオペラや活動写真を見物して日々を過ごした。
1.2. 映画界入り
1920年、溝口は向島で琵琶を教えていた友人の紹介で、日活向島撮影所の俳優・富岡正と親しくなった。富岡の手引きで撮影所に出入りするようになり、新進監督の若山治の脚本清書などを手伝う中で、同年5月に若山の勧めで向島撮影所に入社した。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた。当初は俳優を志望していたが、最古参監督の小口忠の助監督に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした。1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督を務め、田中にその能力を認められた。同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と阪田重則などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした。
1923年2月、溝口は若山治脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎ入れて公開した。溝口の回想によると、検閲でカットされ琵琶劇を入れて公開した作品は『愛に甦る日』であるとし、「農民が金持に向って騒ぐところなんかがあるのでね、警視庁に呼びつけられて切られてしまいましたよ」と述べている。しかし、映画研究者の佐相勉は、「農民が金持に向って騒ぐ」場面があるのは『愛に甦る日』ではなく『故郷』の方であり、溝口の回想は記憶違いであるとしている。なお、溝口は『故郷』について「よく覚えていない」と述べている。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た。同年9月1日には関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは京都の大将軍撮影所に移った。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた。
この頃、溝口は毎晩のように祇園や先斗町、木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず、同年5月末、ロケ撮影から帰宅した溝口は百合子に背中を剃刀で斬りつけられる事件を起こした。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の三面記事に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ、3ヶ月の謹慎処分を受けた。『赫い夕陽に照らされて』は三枝源次郎に監督を交代して完成した。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した。岸松雄によると、百合子はその後生活に困って洲崎の娼妓に身を沈めたが、以後も不幸な生活が続き、数年後に長野県で自殺したという。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まったキネマ旬報の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた。
1926年末、溝口は大阪のダンスホールでダンサーの嵯峨千恵子(本名:田島かね、通称:千恵子)と出会い、次第に親密な関係になった。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザの親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌1927年8月に永田の媒酌で結婚した。この頃から1928年にかけて溝口の作品数は減少し、体調を崩すこともしばしばあった。1928年5月には撮影所が大将軍から太秦へ移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた。9月には昭和天皇の御大典記念映画を監督する話が出たが、撮影所の都合で延期となり、次に溝口初の時代劇を大河内傅次郎主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった。1929年1月公開の泉鏡花原作『日本橋』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『東京行進曲』や、当時の左翼思想を反映した『都会交響楽』で成功を収めた。
1.3. 映画監督としてのキャリア
溝口健二の映画監督としてのキャリアは、サイレント映画時代から始まり、トーキーへの移行期、戦時下の困難な時期、そして戦後の国際的評価を得た時期を経て、晩年に至るまで、彼の芸術的探求と社会への洞察が深化していった。
1.3.1. サイレント映画時代
1920年代のサイレント映画時代において、溝口は年間10本以上のハイペースで作品を製作したが、現存する作品は少ない。彼の初期の作品は、アルセーヌ・ルパンを翻案した探偵もの『813』(1923年)や、ドイツ表現主義映画の影響を受けた『血と霊』(1923年)など、多岐にわたるジャンルを模索していた。
また、レフ・トルストイやユージン・オニールの作品を翻案した文芸映画も手掛けた。1920年代後半には、当時隆盛した左翼思想を背景とした「傾向映画」にも挑戦し、『都会交響楽』や『しかも彼等は行く』(1931年)で社会主義的な傾向を表現し、このジャンルの先駆者となった。
彼のリアリズム志向は、『唐人お吉』(1930年)で初めて明確に現れ、この頃から「ワンシーン・ワンショット」と呼ばれる長回し技法を導入し始めた。この技法は、後の彼のトレードマークとなる。現存する最古の作品は1925年の『赫い夕陽に照されて』である。
1.3.2. トーキー映画時代と初期の傑作
1929年以降、日本でもトーキー映画が普及し始め、溝口も1930年にミナ・トーキー方式を用いたパート・トーキー作品『藤原義江のふるさと』を監督したが、技術的には失敗に終わった。1932年には自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を監督したが、撮影終了直後の4月4日に日活を退社し、白井信太郎の誘いで新興キネマに移籍した。
新興キネマでの最初の仕事は入江たか子の独立プロ入江プロダクションの第一回作品『満蒙建国の黎明』(1932年)で、2か月間に渡り満州各地でロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶に撮ってしまい、途中で編集を放棄して雲隠れしたという。次に、再び入江プロで泉鏡花原作の『瀧の白糸』(1933年)を監督し、この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、サイレント映画時代の溝口のピークを築いた。
1934年3月、溝口は新興キネマと契約が切れたことで退社し、日活の製作部長だった永田雅一の要請で日活多摩川撮影所に入社した。同社では山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮ったのみで、8月22日に永田が日活を退社すると溝口も行動を共にし、9月に永田らと第一映画社の創立に参加した。同社では鏡花原作の『折鶴お千』(1935年)をはじめ、『マリアのお雪』『虞美人草』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調な評価で再びスランプに突入した。
しかし、1936年公開の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は批評家から絶賛され、キネマ旬報ベスト・テンでそれぞれ3位と1位に選ばれ、スランプを脱することができた。岸松雄はこの2作を「日本映画史上に輝かしい金字塔を打ち立てた」作品と評し、佐藤忠男は「それまでもベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級の呼び名で呼ばれる存在にした」作品と述べている。これらの作品は、近代日本の「モダンガール」(モガ)の反抗的な生き方を描いたもので、溝口自身もこれら2作で芸術的成熟に達したと述べている。特に『浪華悲歌』は彼の初の本格的なサウンド映画であり、ここから脚本家依田義賢との長期的な協業が始まった。
1936年3月、数十人の日本映画の代表的監督が、互いの親睦を図るとともに、日本映画の向上に尽くす目的で日本映画監督協会を結成した。溝口もその創立メンバーに名を連ね、これを機に小津安二郎、清水宏、山中貞雄などと親交を結ぶようになった。同年9月、第一映画社が経営難で解散し、溝口は翌月に上京して新興キネマ大泉撮影所に入社し、山路ふみ子主演の『愛怨峡』(1937年)、『露営の歌』『あゝ故郷』(1938年)を撮影した。
その間の1937年6月には、日本映画監督協会初代会長の村田実が死去。島津保次郎、小杉勇らと臨終に立ち会い棺を担いだ。葬儀後、溝口は村田の後任として2代目会長に就任した。1939年には白井信太郎に招かれて松竹京都撮影所で1本撮ることになり、村松梢風原作の『残菊物語』を監督した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、戦前の主要作品の一つと見なされている。この作品では、若き歌舞伎役者が芸術的成熟を遂げるために、献身的な女性の犠牲が描かれている。同年秋には清水宏、内田吐夢、熊谷久虎らとともにキネマ旬報創刊20周年記念の満州視察団に加わり、帰国後の12月には内閣の映画委員に任命された。
1.3.3. 戦時下の作品と評価
1939年末に新興キネマを退社し、1940年に松竹と契約した溝口は、『浪花女』(1940年)や『芸道一代男』(1941年)などの「歌舞伎三部作」を手掛けた。この頃、溝口は愛国心を高め、日本民族の精神を鼓舞するような真の国民映画を撮りたいという熱意から、1941年に真山青果原作、前進座出演による『元禄忠臣蔵』前後篇(前篇1941年、後篇1942年公開)を監督した。この映画は、戦時体制下の映画会社の統合によって特作プロが合流した興亜映画(同年末に松竹に吸収された)で製作され、溝口が美術や考証を徹底したことで莫大な製作費がかかったが、興行的にも批評的にも成功を収めることはできなかった。
『元禄忠臣蔵 後篇』撮影中の1941年12月、溝口の妻・千恵子が精神に異状をきたし、終生病院を出ることがなかった。千恵子は勝気で気性の激しい女性であり、溝口にぞんざいな口を利いたり、月給を全部取り上げて小遣いもろくに与えなかったりしたが、その一方で溝口の作品を客観的かつ正確に批評してくれる人物でもあった。2人は時には激しく喧嘩することもあったが、溝口は妻に弱く、精神的に頼りきっていた。そんな妻の病気を知った溝口は号泣したが、妻を精神病院に入院させるとすぐに撮影現場に戻り、何事もなかったかのように撮影を続行した。溝口は妻の病気の原因が自分にあると思い込み、その後も悩み続けた。千恵子は終生病院を出ることはなかったが、溝口はその後千恵子の弟の未亡人である田島ふじを事実上の妻に迎え、その2人の娘を養女とした。
1942年、溝口が会長を務める日本映画監督協会が戦時統合で解散し、国策団体の大日本映画協会に合流することになり、溝口は同協会の理事に就任した。この頃の溝口の映画作りは難航し、織田作之助の脚本で大阪物を作ろうとしたり、大化の改新を描く作品を検討したりしたが、いずれも実現はしなかった。1943年、軍部の要請で松竹が企画した日華親善映画『甦へる山河』の監督を務めることになり、上海へ約1ヶ月間の視察旅行をした。この視察旅行は軍の委嘱によるものだったが、溝口は軍属としての待遇が将官待遇ではなく佐官であることに不満を表明し、「上海の陸軍報道部長が大佐であるのに、溝口が将官待遇では命令が出せない」と言われて納得したという。しかし、この作品もロケの困難さや製作費がかかりすぎるなどの理由で製作延期となった。その後は戦局が大きく傾き、物資窮乏で劇映画の使用フィルムが制限される中で、『団十郎三代』『宮本武蔵』(1944年)、『名刀美女丸』(1945年)といった1時間程度の中編を撮影し、さらには情報局募集国民歌の宣伝映画『必勝歌』(1945年)を共同監督したが、いずれの作品も失敗作と見なされている。
1.3.4. 戦後の国際的評価と代表作


終戦後の1946年、溝口は人手不足だった松竹大船撮影所に呼ばれて『女性の勝利』を撮影した。同年4月には松竹従業員組合の委員長に選出されたが、就任の挨拶でいきなり「この後、諸君に命令いたします」と言い、組合員たちを唖然とさせたという。結局、溝口はすぐに組合の仕事から手を引き、京都に戻って『歌麿をめぐる五人の女』(1946年)、『女優須磨子の恋』(1947年)を撮影したが、いずれも不評で戦中からのスランプが続いた。とくに松井須磨子が主人公の『女優須磨子の恋』は、衣笠貞之助監督の東宝作品『女優』(1947年)と競作になるも、評価が集中したのは『女優』の方であり、作品的に敗北を喫した。1948年公開の『夜の女たち』はキネマ旬報ベスト・テンで3位に選ばれるなど高評価を受け、溝口の復活を印象付けたが、翌1949年公開の『わが恋は燃えぬ』は再び失敗作となり、もとの低調さに後戻りした。
1949年5月、日本映画監督協会が任意団体として再建され、溝口は再びその会長に就任した(翌1950年に協会は事業協同組合に改組され、それに伴い溝口の肩書きは会長から理事長に変更した)。この頃の溝口は、六代目尾上菊五郎主演で松竹が企画した『名工柿右衛門』の監督に決まっていたが、同年7月の菊五郎の死去により中止となった。さらに原節子主演で予定した『美貌と白痴』も中止となり、その次に戦時中から映画化を望んでいた井原西鶴原作の『西鶴一代女』に着手しようとしたが、これもまた松竹と意見が合わなかったため中止となり、これが原因で翌1950年に松竹を退社した。
松竹を退社してフリーとなった溝口は、新東宝と滝村和男プロダクションの提携で舟橋聖一原作の『雪夫人絵図』(1950年)、旧知の永田雅一が社長を務める大映で谷崎潤一郎原作の『お遊さま』(1951年)、東宝で大岡昇平原作の『武蔵野夫人』(1951年)を撮影したが、この3本も失敗作となり、長いスランプから脱出できずにいた。それでも『雪夫人絵図』の時の監督料は200万円で、当時の日本映画界で最も高給取りの監督となった。1951年7月の『武蔵野夫人』公開直後には、クレジットタイトルに「監督」ではなく「演出」と表記されていたことから、日本映画監督協会を通じてクレジットの表記を「監督」に統一することを各社に徹底させ、映画監督の権限や表現の自由を守ることを訴えた。この表記の変更には、当時の日本映画界が監督を管理し、その権限を縮小させたり、表現の自由を制限させたりする目的で「演出」の呼称を使っていたという背景があった。例えば、プロデューサー・システムを導入した東宝などの映画会社は、監督を他のスタッフと同列に扱ってクレジットに「演出」と表記し、戦時中の映画法でも監督を「演出」と呼称した。溝口は一人の監督として、日本映画監督協会理事長として、これに断固として反対した。
1951年9月、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)が第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。これに強い刺激を受けた溝口は、念願の企画だった『西鶴一代女』を新東宝と児井英生プロダクションの提携で撮影した。この作品は興行的に失敗したが、同年の第13回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、国際賞を受賞した。この受賞は溝口に大きな自信を与え、ようやく戦後の長いスランプから脱出することができた。その後、溝口は東宝との契約を1本残していたことから、石坂洋次郎の短編小説『憎いもの』の映画化に着手したが、シナリオをめぐり東宝と意見が対立したため実現には至らなかった。結局、東宝との契約が未消化のまま、同年秋には大映と専属契約を結んだ。
1953年、溝口は大映専属の1作目として、上田秋成原作の『雨月物語』を撮影した。この作品も第14回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、溝口は『祇園囃子』撮影後の8月、脚本の依田義賢や主演の田中絹代らとともに映画祭に出席するためイタリアへ渡った。日蓮宗の信者である溝口は、滞在先のホテルの部屋に日蓮像の軸をかけて受賞を祈願したという。『雨月物語』は第2席賞である銀獅子賞を受賞する。この年は金獅子賞の授与がなかったため、実質的な最高賞となった。この作品は、欲望に囚われた男たちによって引き起こされる悲劇と、それに翻弄される女性たちの姿を描いている。
翌1954年には森鴎外原作の『山椒大夫』が第15回ヴェネツィア国際映画祭で再び銀獅子賞を受賞し、これで3年連続の映画祭受賞という快挙を達成した。『山椒大夫』は、封建社会における人間の尊厳と苦難、特に女性や子供たちの受難を深く描いた作品である。同年は『噂の女』と近松門左衛門原作の『近松物語』も撮影し、後者ではブルーリボン賞の監督賞を受賞した。『近松物語』では、封建的な社会規範と個人の感情との間の葛藤が描かれている。
1.3.5. 後期の作品と晩年
1954年6月、溝口は大映取締役の永田雅一やカメラマンの宮川一夫らとともにカラー映画の研究のため渡米した。翌1955年には自身初のカラー映画として、大映と香港のショウ・ブラザーズの合作映画『楊貴妃』を撮影し、その次にカラー映画2作目となる吉川英治原作の『新・平家物語』を撮影した。この2本は商業的成功を収め、『楊貴妃』は第16回ヴェネツィア国際映画祭に出品されたが、4年連続の受賞とはならなかった。同年8月、大映取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助とともに候補に挙がったが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任し、重役監督となった。10月には日本映画監督協会理事長を小津安二郎に交替した。そして11月には映画監督として初めて紫綬褒章を受章した。
最後の監督作となる1956年の『赤線地帯』では、吉原の赤線地帯で働く娼婦たちの厳しい現実を、モノクロ映像で再び現代的なテーマとして描いた。この作品の完成前後から体調に異変が見られ、同年5月には京都府立医科大学附属病院の特別病棟に入院した。
1.4. 死去
溝口健二は1956年8月24日午前1時55分、京都の病院で骨髄性白血病のため58歳で死去した。病名は本人には知らされず、永田雅一などの大映首脳部のみに知らされていた。彼は毎日のように輸血を受けたが、回復することはなかった。亡くなる前日には「もう新涼だ。早く撮影所の諸君と楽しく仕事がしたい」という絶筆を残している。
8月30日、青山斎場で大映による社葬が営まれた。戒名は常光院殿映徳日健居士。墓は東京の池上本門寺の子院である大坊本行寺に建てられた。京都の満願寺にも分骨されて碑が建てられ、永田雅一が碑の側面に「世界的名監督」と刻ませた。溝口の訃報は、ちょうど開催中だった第17回ヴェネツィア国際映画祭の会場にも届き、出品されていた『赤線地帯』の上映に先立ち、追悼の言葉が捧げられた。
撮影に至らなかった次回作『大阪物語』は、1957年に吉村公三郎監督によって映画化された。同年8月には産経新聞社の主催で、日本映画の最優秀作品の監督やスタッフに贈られる「溝口賞」が創設されたが、授与はわずか3回で終了した。溝口賞の受賞者は、第1回が『米』の今井正と八木保太郎、第2回が『楢山節考』の木下惠介、第3回が『彼岸版』の小津安二郎と『浮草』『鍵』の宮川一夫である。
2. 作品世界
溝口健二の映画は、社会や男性の犠牲となる女性の苦悩と抵抗を描くテーマ性、独自の映像スタイルと演出、そして完璧主義的な製作プロセスと「溝口組」と呼ばれる協力体制によって特徴づけられる。
2.1. 主要なテーマ
溝口は生涯を通して、封建的な社会や男性中心社会で犠牲となる女性の姿を描き続けた。彼が描く女性には主に二つのタイプがある。一つは、男性に尽くし、社会の犠牲となり、身を持ち崩したり極限まで貶められたりしながらも、情を忘れずにひたむきに生きる女性である。これは、男性の立身出世を助けるために喜んで自己犠牲を遂げる女性像に重なり、『残菊物語』、『雨月物語』、『山椒大夫』に見られる。泉鏡花原作の『日本橋』、『瀧の白糸』、『折鶴お千』でも、女芸人や芸者が若者の出世を助け、その犠牲となって身を滅ぼす姿が描かれている。
もう一つのタイプは、同様に社会や男性の犠牲になるが、そのような社会や運命に必死に抵抗する女性たちである。この例は、『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』、『夜の女たち』、『赤線地帯』などに見られ、娼婦や芸者などの淪落した女性を描くことが多い。一方で、男性の描き方としては、女性を助けることにおいて無力であったり、女性に対して卑怯な態度をとったりする場合が多く、強く頼もしい男らしい男は滅多に登場しない。溝口は、このような女性の苦難を描くことで、当時の日本社会における性差別の問題を浮き彫りにし、女性の自立と解放を訴えかけた。
2.2. 映像スタイルと演出
溝口の最も特徴的な映像スタイルは、現実の時間をそのまま捉える「ワンシーン・ワンショット」技法と、クローズアップを極力排してロングショットや全身ショットを多用する点である。彼はショットを細かく割ることで演技の流れが中断されることを嫌い、またクローズアップやカットバックなどの技法が「ごまかし」を可能にし、完全な演技を求めることができなくなると考えた。この技法は『唐人お吉』で初めて採用され、『残菊物語』で一つの様式として完成した。
『残菊物語』の夜の堀端を歩くシーンでは、主人公の男女が歩きながら話す姿を、路面より低い堀の中から見上げるような角度でカメラを構え、5分以上の長回しによるワンシーン・ワンショットの移動撮影を行っている。流れるように巧みな移動撮影も溝口の特徴的な手法であり、特にクレーンを使用した移動撮影を好み、必要ない場面でもあえてクレーンを使うことがあった。彼の作品は、日本の伝統的な絵画に着想を得た唯美的な構図と、人物を突き放すような冷徹なリアリズムを融合させており、観客に感情移入を強いることなく、被写体のありのままの姿を表現しようと努めた。
2.3. 製作プロセスと「溝口組」

溝口は生粋の完璧主義者であり、常に俳優やスタッフに最高の仕事をするよう求めた。彼は俳優の演技を極限まで絞り、スタッフには無理難題を突きつけ、自身が満足するまで何度もやり直しを命じた。しかし、具体的な指示を出すことは少なく、俳優やスタッフに自ら考え、努力や工夫を凝らすことを要求し、その結果が自身の求めるものになるまで待つという独特の方法を用いた。この過程で、彼は俳優やスタッフの潜在能力を最大限に引き出した。
溝口はしばしば俳優やスタッフを罵倒し、怒鳴りつけることもあり、役に立たない人物や要求に応えきれない俳優を容赦なく降板させた。そのため、彼は「サディスト」「暴君」「ゴテ健(「ゴテる」は不平不満を言うこと)」などと呼ばれた。
脚本は自身では書かず、依田義賢や成澤昌茂などの脚本家に依頼した。脚本作りにおいては、脚本家が書いた初稿を酷評し、完成するまでに10稿以上もの練り直しを命じることもあった。最終稿が完成してから撮影を始めても、撮影現場に脚本家を呼び寄せてセリフを修正させた。その時は、当日に撮影するシーンのセリフを黒板に書き、打合せをしながら俳優にセリフを喋らせてみて、不自然なところや喋りくいところなどを直した。また、彼は絵コンテを作らず、撮影現場でリハーサルをする俳優の動きを見ながら、カメラのアングルやポジション、ショットの長さなどを決めた。
リアリズムを追求した溝口は、映画美術においても徹底的に本物志向であった。小道具一つにも細かく注文を出し、スタッフにはその時代の風俗や生活様式を綿密に調査させた。専門家を招いて美術や衣装、建築などの考証を行うことも多く、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗や衣装の考証に何度も起用したほか、『狂恋の女師匠』では美術考証に小村雪岱、『残菊物語』では美術考証に木村荘八、『元禄忠臣蔵』では武家建築考証に大熊喜邦、民家建築考証に藤田元春を起用した。こうした溝口の美術に対する完璧さの追求が頂点に達したのは『元禄忠臣蔵』である。この作品では徹底した史料調査に基づくリアルな忠臣蔵を志向し、大熊喜邦が所有する江戸城の平面図を基にして松の廊下のセットを原寸大で再現した。
俳優への演技指導は、具体的にこうしろという指示は出さずに「やってみてください」と言うだけで、あとは満足のいく演技になるまで同じ芝居を何度もやり直させ、俳優に自分で演技や動きを工夫させるようにした。悩んだ俳優がどうすればいいのか訊いても「それはあなたが考えてください。あなたは役者でしょう」と突き返した。溝口は具体的に演技指導をしない代わりに、「反射していますか」と何度も俳優に問いかけた。この言葉には、俳優が相手のセリフや動きに反応して動くことができるかという意味がある。演技のやり直しは何十回もやらせることがあり、例えば『楊貴妃』では山村聰にワンカットで42回のテストを繰り返させ、『赤線地帯』では三益愛子の舞台的な歩き方が気に入らなくて80回ものテストをさせた。また、俳優たちには、役になり切るために努力することを求めた。文楽の世界を描く『浪花女』では、主演の田中絹代にたくさんの文楽の専門書を読んで勉強するよう命じ、『山椒大夫』でも女奴隷役の香川京子に中世日本の奴隷制度の歴史書や経済史の本を読むことを要求した。
溝口は俳優の演技が気に入らないとしばしば激怒し、時には悪口雑言を言い放つことがあった。『わが恋は燃えぬ』では菅井一郎が少し長いセリフを喋り切れないことに腹を立て、菅井の頭をスリッパで叩き、「精神病院へ行き給え」と言い放った。『残菊物語』では主演の北見礼子の子供をあやす演技が気に入らず、「君、子供の抱き方が違う。子供を産んだ経験がないから」と言って降板させた。『雨月物語』でも兵士たちに輪姦される女性を演じた水戸光子の演技に満足せず、「キミはいったい(輪姦された)経験がないんですか」と怒鳴りつけた。『楊貴妃』では入江たか子の演技に満足せず、「何ですかその芝居は。それは猫です、猫芝居ですよ」と罵倒した。猫芝居は当時の入江が主演した化け猫映画のことであるが、化け猫映画はゲテモノ映画として扱われていたため、往年の大スターである入江が落ち目になったという風に捉えられていた。溝口は入江に何度も演技をやらせても不機嫌な態度のままOKを出さず、入江はその気持ちを理解して自ら降板した。溝口は過去に入江のプロダクションで『滝の白糸』を作って成功させてもらった縁があったため、周りのスタッフや俳優は溝口があまりにも冷酷だと批判した。
溝口の製作方法は、俳優やスタッフに最高の緊張感を強いるものだったが、溝口も作品の雰囲気に浸りながら緊張感を作って自分自身を追い込んだ。撮影現場の緊張感が中断されないようにするため、撮影中は終日現場のスタジオを離れず、昼食時でも外へ出ることがなかった。晩年にはスタジオに尿瓶を持ち込み、スタジオの隅で用を足していたという。『雨月物語』の撮影では、移動撮影用のクレーンの監督席に腰かけていた溝口が、緊張感のあまり力強く手すりを握りしめて小刻みに震え、その振動がカメラにまで伝わってフレームが微妙にずれたため、カメラマンの宮川一夫の進言でクレーンの監督席から降ろされたという。
2.4. 溝口組
溝口は気心の知れたスタッフや、同じ俳優を何度も作品に起用することが多く、彼らは「溝口組」と呼ばれた。溝口組の代表的な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。
- 脚本:依田義賢(23本)、畑本秋一(20本)、川口松太郎(9本)、成沢昌茂(3本)
- 撮影:横田達之(27本)、三木滋人(16本)、宮川一夫(8本)、青島順一郎(7本)、杉山公平(6本)
- 美術:亀原嘉明(25本)、水谷浩(21本)
- その他スタッフ:坂根田鶴子(助監督・編集・記録、19本)、早坂文雄(音楽、8本)、甲斐庄楠音(考証、8本)、大谷巌(録音、7本)、岡本健一(照明、7本)
- 俳優:梅村蓉子、浦辺粂子(16本)、田中絹代、菅井一郎(15本)、進藤英太郎(12本)、中野英治、酒井米子(10本)、田中春男(9本)、夏川静江、清水将夫(8本)、入江たか子、山田五十鈴(7本)、沢村春子、河津清三郎、毛利菊枝(6本)、岡田嘉子、岡田時彦、山路ふみ子、柳永二郎、小沢栄太郎(5本)
その中で溝口が最も信頼を置いた人物は、脚本家の依田義賢と美術監督の水谷浩である。溝口は2人を「僕の肉体の一部みないな」存在と呼び、「僕がああだとか、こうだとか、口に出して説明しなくても、僕の考えている通りにやってくれる」と述べている。とくに依田は『浪華悲歌』で初めて組んで以来、約20年にわたり溝口作品で脚本を書き、溝口の女房役のような存在となった。小学校時代の同級生である川口松太郎も溝口組の脚本家で、芝居作りのツボを心得ていることから溝口の良き助言者にもなり、溝口は壁にぶつかると川口に相談した。後期の作品では、撮影の宮川一夫、音楽の早坂文雄、照明の岡本健一、録音の大谷巌が信頼の置けるスタッフとなった。俳優では、『浪花女』で初めて起用した田中絹代が、それ以後の溝口作品に欠くことのできない演技者となった。溝口は田中に恋心を抱くほど気に入り、戦後には結婚の噂話が流れたこともあった。
溝口の弟子となった主な人物に、坂根田鶴子と新藤兼人がいる。坂根は『しかも彼等は行く』以来溝口に師事し、監督助手やスクリプターや編集についた。溝口作品で装飾を担当した荒川大によると、溝口は「坂根は俺の弟子であるだけでなく、脚本も直せる」存在だと言っていたという。坂根は1936年に『初姿』を監督して日本初の女性映画監督になったが、溝口はこの作品で監督補導にあたっている。新藤は『愛怨峡』『元禄忠臣蔵』で美術助手を務めて以来溝口に傾倒し、溝口にシナリオ執筆を師事した。この時の苦労は新藤の初監督作『愛妻物語』(1951年)で描かれ、溝口をモデルにした大監督(滝沢修演)も登場する。新藤は脚本家として一本立ちしたあと、溝口の『女性の勝利』『わが恋は燃えぬ』で脚本を提供し、監督になってからも「溝口が絶対に着想できない本を書こう」と意識しながら映画を作った。さらに新藤は1975年に溝口の関係者にインタビューした記録映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を製作した。
3. 人物像

溝口は、撮影現場では俳優やスタッフを罵倒する厳しい人物として知られていたが、私生活では気が弱く、照れ屋でシャイな人物であり、仕事場と私生活とではまるで別人のようになったという。そんな溝口には大学教授や警察などの権威的な存在に対して弱い一面もあり、そのために作品の考証に学者や専門家などの権威者をよく起用した。溝口は本物の小道具を要求するなど美術考証に凝ったが、スタッフが有名な研究所や大学が認めた小道具だと言い張れば、たとえそれが偽物だったとしても信じ込んだという。製作者の児井英生によると、溝口組の美術監督の水谷浩はそのへんをよく心得ており、本物の小道具が用意できなかったとしても、平気で偽物を用意し、立派な桐箱に入れたり、お墨付きを付けたりさえすれば、溝口はそれだけで満足したという。
子供の頃から怒ったりすると右肩が釣り上がるという癖があり、歩く時も右肩をいからした。撮影現場でも俳優の演技がテストを重ねても上手くいかなかったりして機嫌が悪くなると、だんだん右肩が釣り上がったという。ほかの体の特徴としては、背中に一寸ほどの長さの一筋の刀の傷跡があった。これは1925年に愛人に斬りつけられた事件の時にできた傷である。『西鶴一代女』などで助監督を務めた内川清一郎によると、溝口と一緒に風呂に入った時に、その背中の刀傷を目撃して驚いたが、それに対して溝口は「君、こんなことで驚いたら駄目ですよ。これでなきゃ女は描けませんよ」と言ったという。
溝口は若い時から古美術が好きで、暇があると京都や奈良の仏像を見て歩いたり、後年に依田義賢らを伴って博物館や美術展へ行ったりした。映画作りで『唐人お吉』辺りから時代考証に凝り出すようになってからは、下手物(粗雑な作りの素朴で大衆的な品物)にも似た骨董品を集めるのを趣味としたが、周囲の人の言動にたやすく動かされるところがあったため、書画骨董で何度も偽物をつかまされることがあり、大久保忠素に「偽物堂風動子」というあだ名を付けられた。晩年は篆字を書くことにも嵌まった。また、溝口は読書家でもあり、たいていは人に勧められた本を乱読していたが、仕事のない時は夜中の2時や3時頃まで読書をしたため、朝寝坊をするのが習慣になったという。
溝口は酒好きであるが、酒乱を起こすことがしばしばあり、その時は物を壊したりして周囲を困らせたという。溝口の友人の渾大防五郎は、溝口と京都の妓楼で飲んでいた時に、あまりにも溝口の酒乱がうるさかったため、面白半分に泥酔した溝口を中庭の石灯籠に縛り付けたが、溝口はその後2時間近くも縛られながら眠っていたという。戦後に織田作之助と料亭で夕食を共にした時も、織田が「僕もこの頃は西鶴を勉強してるんですよ」と言うと、酔った溝口が突然「西鶴が君に分かるんですか。キサマなんかにわかってたまるもんか!」とキレて、織田に殴りかかろうとした。溝口は制止に入った人と取っ組み合いになり、そのうち階段から転げ落ち、傍らの座敷で放尿したが、その座敷の客は松竹時代に世話になった白井信太郎だったため、すぐに酔いがさめたという。
4. 評価と影響
溝口健二は、日本内外の批評家から高く評価され、「日本映画の巨匠」としての地位を確立した。彼の作品は後世の映画監督に多大な影響を与え、数々の受賞歴を誇る。
4.1. 批評的評価
溝口は1930年代頃から日本映画界で屈指の「巨匠」の一人と呼ばれ、小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男、木下惠介などと共に日本映画を代表する映画監督に位置付けられている。日本の映画批評家からは、女性を描くことで最もその手腕を発揮した作家として高く評価されてきた。岩崎昶は「日本の映画作家で女を描いたものはけっして少なくはないが、いまだに溝口以後溝口なしである」と評し、津村秀夫も「人生流転の極限での人間の姿、女の姿をとらえては当代に並ぶものなき名人」であると評した。映画監督の市川崑は「一見、女性を見る目が乾いているようで、実は物凄く温かいところ。人間を見つめる目の深さには脱帽します」と評している。
「リアリズムの作家」としても高く評価されており、特に『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は日本映画に本格的なリアリズムが確立した作品と見なされている。しかし、戦後には「ワンシーン・ワンショットの手法のためにテンポが遅い」「題材が古くさくて前近代的である」などと批判されることもあった。
4.2. 後世への影響

1950年代にヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞してからは、国際的にも高い評価を受けた。特にフランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の同人で、作家主義批評を展開した若手批評家のジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、エリック・ロメールなどが溝口を熱狂的に賞賛した。同誌が発表する年間作品トップテンでは、1959年に『雨月物語』が1位に選ばれ、翌1960年には『山椒大夫』も1位に選ばれた。『カイエ・デュ・シネマ』の批評家は、溝口を日本映画や西洋映画といった枠を超えた、世界共通の映画言語であるミザンセーヌを持つ普遍的な映画作家として高く評価した。なかでもゴダールは溝口を「最大の映画作家のひとり」と呼ぶなどして強く傾倒し、1966年の来日時には溝口の碑を訪れている。
『カイエ・デュ・シネマ』の批評家は、1950年代後半に映画監督となり、ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍したが、その作品にも溝口作品の影響が見られた。リヴェットの『修道女』(1966年)は、『西鶴一代女』から影響を受けたことを監督自身が明らかにしている。ゴダールは『軽蔑』(1963年)の終盤の海へパンニングするシーンで、『山椒大夫』のラストシーンを引用した。ゴダールは『気狂いピエロ』(1965年)のラストシーンでも同様のオマージュをしており、さらに『メイド・イン・USA』(1966年)では小坂恭子演じる「ドリス・ミゾグチ」という名前の日本人女性を登場させている。
ヌーヴェルヴァーグ以外の監督では、溝口と同様に長回しと移動撮影を得意とするテオ・アンゲロプロスが、そのスタイルについて溝口から影響を受けており、ベルナルド・ベルトルッチも溝口の流麗なカメラワークの影響を受けている。アンドレイ・タルコフスキーは『雨月物語』を好きな作品の1本に挙げている。ほかにもジャン・ユスターシュ、オーソン・ウェルズ、ヴィクトル・エリセ、ピーター・ボグダノヴィッチ、マーティン・スコセッシ、アリ・アスターなどの監督が溝口を高く賞賛しており、影響を与えた。
4.3. 受賞歴
溝口健二の主な受賞歴は以下の通りである。
- 1936年:キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン1位(『祇園の姉妹』)
- 1952年:ヴェネツィア国際映画祭 国際賞(『西鶴一代女』)
- 1953年:ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞(『雨月物語』)
- 1954年:ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞(『山椒大夫』)
- 1954年:ブルーリボン賞 監督賞(『近松物語』)
- 1955年:芸術選奨(『近松物語』)
- 1955年:紫綬褒章
- 1956年:勲四等瑞宝章(没後追贈)
- 1956年:毎日映画コンクール 特別賞(没後受賞)
- 1956年:ブルーリボン賞 日本映画文化賞(没後受賞)
5. 作品一覧
溝口の監督作品は92本あるが、そのうち戦前期の大部分の作品は現存していない。以下の作品一覧は、主要な監督作品を年代順にまとめたものである。
サイレント映画(現存するもの以外は喪失フィルム)
- 1923年:愛に甦る日 (喪失フィルム)
- 1923年:故郷 (喪失フィルム)
- 1923年:青春の夢路 (喪失フィルム)
- 1923年:情炎の巷 (喪失フィルム)
- 1923年:敗残の唄は悲し (喪失フィルム)
- 1923年:813 (喪失フィルム)
- 1923年:霧の港 (喪失フィルム)
- 1923年:夜 (喪失フィルム)
- 1923年:廃墟の中 (喪失フィルム)
- 1923年:血と霊 (喪失フィルム)
- 1923年:峠の唄 (喪失フィルム)
- 1924年:哀しき白痴 (喪失フィルム)
- 1924年:暁の死 (喪失フィルム)
- 1924年:現代の女王 (喪失フィルム)
- 1924年:女性は強し (喪失フィルム)
- 1924年:塵境 (喪失フィルム)
- 1924年:七面鳥の行衛 (喪失フィルム)
- 1924年:伊藤巡査の死 (喪失フィルム) ※鈴木謙作、大洞元吾、近藤伊与吉と共同監督
- 1924年:さみだれ草紙 (喪失フィルム)
- 1924年:歓楽の女 (喪失フィルム)
- 1924年:恋を断つ斧 (喪失フィルム) ※細山喜代松と共同監督
- 1924年:曲馬団の女王 (喪失フィルム)
- 1925年:無銭不戦 (喪失フィルム)
- 1925年:噫特務艦関東 (喪失フィルム)
- 1925年:学窓を出でて (喪失フィルム)
- 1925年:大地は微笑む 第一篇 (喪失フィルム)
- 1925年:白百合は歎く (喪失フィルム)
- 1925年:赫い夕陽に照されて (最古の現存フィルム)
- 1925年:ふるさとの歌(La Chanson du pays natalフランス語)
- 1925年:街上のスケッチ (喪失フィルム) ※オムニバス映画『小品映画集』の一篇
- 1925年:人間 (喪失フィルム)
- 1925年:乃木将軍と熊さん (喪失フィルム)
- 1926年:銅貨王 (喪失フィルム)
- 1926年:紙人形春の囁き (喪失フィルム)
- 1926年:新説己が罪 (喪失フィルム)
- 1926年:狂恋の女師匠 (喪失フィルム)
- 1926年:海国男児 (喪失フィルム)
- 1926年:金 (喪失フィルム)
- 1927年:皇恩 (喪失フィルム)
- 1927年:慈悲心鳥 (喪失フィルム)
- 1928年:人の一生 人生万事金の巻1 (喪失フィルム)
- 1928年:人の一生 人生万事金の巻2 (喪失フィルム)
- 1928年:人の一生 人生万事金の巻3 (喪失フィルム)
- 1928年:娘可愛や (喪失フィルム)
- 1929年:日本橋 (喪失フィルム)
- 1929年:朝日は輝く (数分が現存)
- 1929年:東京行進曲 (数分が現存)
- 1929年:都会交響楽 (喪失フィルム)
- 1930年:藤原義江のふるさと (喪失フィルム)
- 1930年:唐人お吉 (数分が現存)
- 1931年:しかも彼等は行く (喪失フィルム)
- 1932年:時の氏神 (喪失フィルム)
- 1932年:満蒙建国の黎明 (喪失フィルム)
- 1933年:瀧の白糸
- 1933年:祇園祭 (喪失フィルム)
- 1934年:神風連 (喪失フィルム)
- 1934年:愛憎峠
- 1935年:折鶴お千
サウンド映画(全て現存)
- 1935年:マリヤのお雪
- 1935年:お嬢お吉 ※高島達之助と共同監督
- 1935年:虞美人草
- 1936年:初姿
- 1936年:浪華悲歌
- 1936年:祇園の姉妹
- 1937年:愛怨峡
- 1938年:露営の歌
- 1938年:あゝ故郷
- 1939年:残菊物語
- 1940年:浪花女
- 1941年:芸道一代男
- 1941年:元禄忠臣蔵 前篇
- 1942年:元禄忠臣蔵 後篇
- 1944年:団十郎三代
- 1944年:宮本武蔵
- 1945年:名刀美女丸(L'Épée Bijomaruフランス語)
- 1945年:必勝歌 ※田坂具隆、清水宏、マキノ正博と共同監督
- 1946年:女性の勝利
- 1946年:歌麿をめぐる五人の女
- 1947年:女優須磨子の恋
- 1948年:夜の女たち
- 1949年:わが恋は燃えぬ
- 1950年:雪夫人絵図
- 1951年:お遊さま
- 1951年:武蔵野夫人
- 1952年:西鶴一代女
- 1953年:雨月物語
- 1953年:祇園囃子
- 1954年:山椒大夫
- 1954年:噂の女
- 1954年:近松物語
- 1955年:楊貴妃 (カラー映画)
- 1955年:新・平家物語 (カラー映画)
- 1956年:赤線地帯
その他の作品
溝口健二が監督以外で携わった作品は以下の通りである。
- 映画**
- 京子と倭文子(1926年、阿部豊監督) - 応援監督
- 阿里山の侠児(1927年、田坂具隆監督) - 応援監督
- 地球は廻る(1928年、田坂具隆・阿部豊・内田吐夢監督) - 顧問監督
- 蔚山沖の会戦(1928年、東坊城恭長・畑本秋一監督) - 総指揮
- 一九三一年日活オンパレード(1931年、阿部豊監督) - 出演
- 初姿(1936年、坂根田鶴子監督) - 監督補導
- 晴小袖(1940年、牛原虚彦監督) - 構成
- 血槍富士(1955年、内田吐夢監督) - 企画協力
- 祇園の姉妹(1956年、野村浩将監督) - 原作
- 大阪物語(1957年、吉村公三郎監督) - 原作
- ラジオドラマ**
- 土(1937年、NHKラジオ第1放送) - 演出
- 思ひ出の記(1938年、NHKラジオ第1放送) - 演出
- 吉野葛(1939年、NHKラジオ第1放送) - 演出
- 舞台**
- 折鶴お千(1935年、大阪劇場) - 演出
6. ドキュメンタリー作品
溝口健二に関するドキュメンタリー作品は以下の通りである。
- 『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年、新藤兼人監督)
- 『時代を超える溝口健二』(2006年、櫻田明広監督)
7. 外部リンク
- [https://www.imdb.com/name/nm0003226/ Kenji Mizoguchi] - インターネット・ムービー・データベース
- [https://www.allcinema.net/person/120609 溝口健二] - allcinema
- [http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=115553 溝口健二] - KINENOTE
- [https://moviewalker.jp/person/109250/ 溝口健二] - MOVIE WALKER PRESS