1. 来歴
町井久之は、戦後の混乱期に闇市での活動を通じて勢力を拡大し、ヤクザ組織である東声会を結成した。その後、事業家としても活動し、日本と韓国の経済界に影響を及ぼした。
1.1. 幼少期と教育
町井久之は、1923年(大正12年)に東京の芝区南佐久間町(現在の港区)で、在日朝鮮人一世の子として鄭建永として生まれた。幼少期に母親によってソウル(当時の日本統治下)の祖母に預けられ、そこで育った。13歳の時に東京へ戻り、1943年(昭和18年)に専修大学に入学したが、後に中退している。
1.2. 戦後初期の活動
第二次世界大戦終結直後の1945年(昭和20年)、町井は朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長を務めた。この混乱期において、彼は闇市での活動に深く関与し、その中で勢力を築いていった。
この頃、町井は事件屋の「中央商会」と興行会社の「中央興行社」を設立した。これらの会社は、当時GHQの調達のために発行されていたPD(現在の小切手に類似)を、満期以前に現金化する事業を主に行った。日本国籍者には困難であったこの事業は、交換窓口に近い新橋に多数の同様の会社が乱立し、彼らを通じて民間に流れた闇ドルは莫大な利益を生み出した。これらの事業を基盤として、町井は愚連隊である「町井一家」(関東町井一家)を形成し、その後の組織拡大の礎を築いた。
1.3. 東声会の結成と影響力拡大
町井は、曺寧柱との出会いを契機に「大アジア主義」の思想を信奉するようになった。この思想に基づき、1947年(昭和22年)に東京・銀座で、町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」という理念のもと、暴力団東声会を結成した。この組織は、当時勢力を拡大していた在日朝鮮人連盟(現・朝鮮総連)を牽制する狙いがあったとされている。東声会は、東京のみならず横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎など、全国各地に支部を設置し、その構成員は1960年代初頭には1,500人を超え、最大で1,600人に達した。その急速な勢力拡大ぶりから、東声会は「銀座警察」とまで呼ばれるほどの強力な存在となった。しかし、その急成長は他のヤクザ団体からの反発を招き、東声会は四面楚歌の状態に陥った。さらに、警察による集中的な取り締まりを受け、多くの東声会幹部が逮捕される事態となった。
1.4. 米軍政下での活動
戦後、アメリカによる日本占領下において、町井は児玉誉士夫と同様に、アメリカ軍政当局と良好な関係を築いた。これは、町井が反共産主義の立場を強く持っていたためである。東声会の組員は、占領期に頻繁に発生したストライキの破壊活動に動員されることが多く、町井自身もアメリカ陸軍防諜部隊(CIC)と協力関係にあったとされる。
当時の日本において、日本のヤクザの指導者たちが投獄されたり、アメリカ占領軍の厳重な監視下に置かれたりする中、在日朝鮮人系のヤクザは、利益の大きい闇市を自由に支配することができた。しかし、町井は日本の親分衆と対立するのではなく、彼らと同盟を結ぶ道を選び、生涯を通じて児玉誉士夫や三代目山口組組長・田岡一雄と密接な関係を維持した。
1.5. 主要事件への関与
町井久之は、その生涯において数々の重要な事件に関与したとされている。
1.5.1. 山口組・児玉誉士夫との関係
東声会が他のヤクザ団体から孤立し、警察の取り締まりが強化される中、1963年(昭和38年)には児玉誉士夫の仲介により、三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟となった。これにより、東声会は山口組の傘下に入り、その勢力拡大の足がかりを得た。
町井は、児玉誉士夫と盟友関係にあり、共に不動産投資で巨額の富を築いた。また、町井の広大な事業帝国には、観光、エンターテインメント、バーやレストラン、売春、石油輸入などが含まれていた。彼は韓国政府とヤクザとの間の取引を仲介し、日本の犯罪組織が韓国に進出することを可能にした。町井のおかげで、韓国はヤクザにとって「第二の故郷」となったとさえ言われる。両国の裏社会の仲介役として、町井は下関と釜山を結ぶ最短ルートである釜関フェリーの最大株主となることを許された。
1.5.2. 田中清玄銃撃事件
1963年(昭和38年)11月9日午後6時9分頃、東京会館前で、東声会組員である木下陸男が、同会館で行われた出版記念祝賀会から帰る途中の田中清玄を銃撃する事件が発生した。警察は事件の背後関係を疑い、町井を銃砲刀剣類所持等取締法違反で別件逮捕して捜査を進めたが、背後関係については立件できなかった。結局、町井は起訴されることはなかった。田中清玄は自身の自伝の中で、木下陸男が児玉誉士夫からの指示と金銭を受け取って犯行に及んだと記している。
1.5.3. 金大中事件への関与
1973年(昭和48年)7月、韓国中央情報部(KCIA)が当時の韓国の主要な野党指導者であった金大中を東京のホテルから拉致した事件(金大中事件)において、町井久之がKCIAに協力したと広く信じられている。金大中は拉致された後、海上に連れ出され、縛られ、猿ぐつわをされ、目隠しをされた上で、遺体が浮上しないように重りを付けられたとされる。この事件は、韓国の政治的・社会的な状況に大きな影響を与えた。
1.6. 東声会の解散と再編
1964年(昭和39年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、全国的な暴力団の一斉取り締まりである「第一次頂上作戦」を開始した。この中で、町井の東声会は警察庁によって、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、川崎・日本義人党、東京・北星会と並ぶ広域10大暴力団の一つに指定された。
警察からの強い圧力に直面し、1966年(昭和41年)9月1日、町井は東声会の解散声明を発表した。その一週間後、東京の池上本門寺で解散式が執り行われ、これにより町井はヤクザ社会の表舞台から身を引いた。
しかし、1967年(昭和42年)4月、町井は東声会を、企業体を装った「東亜友愛事業協同組合」として再建し、自らは名誉会長に就任した。町井はこの組合に資金提供を行い、人事権も掌握していたとされる。この再編された組織は、後に「東亜友愛事業組合」と改称された。関東会もまた「関東二十日会」として復活した。
1.7. 晩年の事業展開と法的問題
東声会の解散後、町井は合法的な事業活動に深く関与するようになったが、晩年には事業を巡る抗争や法的問題に直面し、組織内外の混乱と事業破綻に至った。
1.7.1. TSK/CCCターミナルビル事業
町井はその後、東亜相互企業株式会社を設立し、児玉誉士夫が会長に就任した。この会社は、銀座で料亭「秘苑」を営業するなど、多角的な事業を展開した。
1973年(昭和48年)7月、東亜相互企業株式会社は六本木にTSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。このビルの建設資金については、韓国外換銀行東京支店が東亜相互企業株式会社に約60.00 億 JPYの支払い保証を与え、これに基づいて東亜相互企業株式会社は日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)から約54.00 億 JPYの融資を受けた。このうち約33.00 億 JPYが那須高原・白河高原の総合開発事業に、約21.00 億 JPYがTSK・CCCターミナルビルの建設に充てられた。
TSK・CCCターミナルビルは、町井が暴力団活動などの非合法活動から決別し、「表の社会の成功者」として振る舞うことを演出する主な目的で建設された。そのため、東声会の構成員がTSK・CCCターミナルビルのオフィス棟に置かれていた東亜相互企業とそのグループ企業のオフィスに出入りすることは固く禁じられていた。
1.7.2. 釜関フェリーを巡る抗争と事業破綻
1969年(昭和44年)、町井は釜関フェリー株式会社を設立し、下関と釜山を結ぶ航路を就航させた。1971年(昭和46年)には、在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任している。
しかし、白河高原の開発事業を巡って、1976年(昭和51年)7月5日、東亜相互企業の黒沢勝利ら3人が、福島県知事・木村守江に対する約500.00 万 JPYの贈賄容疑で逮捕された。同年8月6日には、木村守江も収賄容疑で福島地方検察庁に逮捕され、町井自身も任意で取り調べを受けた。この事件は、1977年(昭和52年)6月に東亜相互企業が不渡りを出して倒産する要因となった。これ以降、町井はほとんど人前に姿を現さなくなり、TSK・CCCターミナルビル近くの自宅マンションに引きこもる日々が続いた。
20世紀後半、韓国の経済成長に伴う旅行需要の増加を受けて、釜関フェリーは九州への航路拡大を試みたが、この計画は頓挫した。当時、東京ではわずか一週間のうちに約70人の東亜友愛事業組合(旧東声会)関係者が銃撃されたり、刺されたりする事件が多発した。これは、小倉港を支配する工藤會、または九州西部のほとんどの港を支配する道仁会のいずれかの暴力団による犯行であると強く信じられていた。特に、道仁会が東亜友愛事業組合に対し薬物密売への協力を強要したが、東亜友愛事業組合がこれを拒否したため、大規模な襲撃が始まり、東亜友愛事業組合が航路拡大計画を断念し、道仁会に法外な「解決金」を支払うまで攻撃が続いたという道仁会説が有力視された。このような暴力団抗争は歴史的に道仁会の得意とする手口であり、工藤會のものではなかったためである。
この事態は、もし町井が健在であれば決して起こらなかっただろうという憶測も飛び交った。当時の東亜友愛事業組合は、その指導力の低さから組員の間で評判の悪かった三代目組長・沖田守弘が率いていた。釜関フェリーの広島港事務所は2002年に開設されたが、2005年に閉鎖された。下関事務所は現在も活動を続けている。
2. 人物・評価
町井久之は若い頃、「銀座の虎」や「猛牛」といった異名で呼ばれた。
町井は児玉誉士夫と共に女優の三田佳子と親交が深く、TSK・CCCターミナルビルがオープンした際には三田がオープニングレセプションに出席している。裏社会の人間でありながらも、在日韓国人社会の中では隠然たる影響力を持ち、特に在日同胞のスポーツ選手の後ろ盾になったこともあったという。
1968年(昭和43年)には、韓国より国民勲章・冬栢章を受勲している。
3. 死去
晩年の町井は糖尿病に苦しみ、かつて「猛牛」と呼ばれた面影は失われ、衰弱していたとされる。2002年(平成14年)9月14日午前5時頃、東京都内の病院で心不全のため死去した。79歳没。
3日後の9月17日に通夜が執り行われ、翌18日には六本木の自宅で、近親者のみによる葬儀・告別式が営まれた。墓所は東京都大田区の池上本門寺にある。
4. 遺産と歴史的評価
町井久之の生涯と活動は、日本のヤクザ社会、経済、そして在日韓国・朝鮮人コミュニティに多大な影響を与えた。彼は戦後の混乱期に闇市を舞台に勢力を築き、東声会という強力な暴力団を組織した。その影響力は、他の主要なヤクザ組織との関係構築や、アメリカ占領軍との協力関係にまで及んだ。
一方で、町井は事業家としての一面も持ち、不動産投資やフェリー事業を通じて合法的な経済活動を展開した。しかし、その事業はしばしば裏社会との繋がりを指摘され、金大中事件への関与など、政治的な疑惑も持たれた。晩年の事業破綻は、彼の築き上げた「表の社会」での成功が、裏社会との関係から完全に切り離されることが困難であったことを示唆している。
在日韓国・朝鮮人社会においては、彼の存在は賛否両論を呼んだ。一部からは同胞の支援者として評価される一方で、暴力団の首領としての活動は批判の対象ともなった。町井久之の遺したものは、戦後日本の複雑な社会構造、特に裏社会と在日コミュニティの関わりを理解する上で、重要な一例となっている。