1. 生涯
美空ひばりの生涯は、幼少期からの音楽的才能の開花、デビュー後の全国的な名声、結婚と離婚、家族との絆と悲劇、そして晩年の病との闘いと不死鳥のような復活、そして早すぎる死という波乱に満ちたものであった。
1.1. 幼少期と家族
美空ひばりは1937年5月29日、神奈川県横浜市磯子区の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉(1912年 - 1963年)と母・加藤喜美枝の長女・和枝(かずえ)として生まれた。妹に佐藤勢津子、弟にかとう哲也と香山武彦がいる。両親ともに音楽好きで、家にはフォノグラフがあり、幼い頃から歌謡曲や流行歌に親しんでいた。
1943年6月、第二次世界大戦で父・増吉が海軍に出征する際の壮行会で、6歳の和枝が『九段の母』を歌い、集まった人々を感動させた。この出来事をきっかけに、母・喜美枝は娘の歌唱力に人を惹きつける可能性を見出し、地元の横浜近郊で和枝の歌による慰問活動を始めた。
1.2. デビューと初期の活躍
敗戦直後の1945年、母・喜美枝は私財を投じて自前の「青空楽団」を設立し、近所の公民館や銭湯に舞台を設けた。8歳の和枝は母の提案で「美空和枝」と名乗り、初舞台を踏んだ。
1946年、9歳の時にNHK『素人のど自慢』に出場し、『リンゴの唄』を歌ったが、審査員からは「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」といった理由で不合格とされた。しかし同年9月、横浜のアテナ劇場で初舞台を踏んだ後、翌1947年春には横浜で開催されたのど自慢大会の審査員であった作曲家・古賀政男のもとに母子が駆けつけ、和枝がアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し、「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。
1947年、横浜の杉田劇場で漫談家の井口静波や俗曲歌手の音丸の前座を務め、この一行と地方巡業に出るようになる。高知県での巡業中、1947年4月28日に乗っていたバスが崖に転落する事故に遭い、和枝は左手首を切り、仮死状態となる重傷を負った。しかし、たまたま村にいた医師に救命措置を施され、一命を取り留めた。この時、歌をやめさせようとする父に対し、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切ったという。
1948年2月、神戸松竹劇場への出演を機に、当時神戸の興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。同年5月には、当時人気絶頂のボードビリアンであった川田晴久(旧名: 川田義雄)に横浜国際劇場公演に抜擢され、川田を「アニキ」と慕い、その節回しや歌い方を学んだ。ひばりは後に「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と語っている。川田一座では笠置シヅ子の物真似が非常にうまく、「ベビー笠置」と呼ばれ喝采を浴びた。一方で、詩人・作詞家のサトウハチローは「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と批判的な記事を書いたが、後にひばり母子と和解している。
同年10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、横浜国際劇場と準専属契約を結んだ。この時、演出家の岡田恵吉に「美空ひばり」と命名された。横浜国際劇場の支配人であった福島通人は彼女の才能を認め、マネージャーとして"ひばり映画"を次々と企画し成功させた。
1.3. 全国的な名声の獲得
1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』に出演し、笠置シヅ子の『東京ブギウギ』などを歌い踊る姿が注目された。同年3月には東横映画の『のど自慢狂時代』で映画初出演。8月には松竹の『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』で日本コロムビアからB面ではあるが、11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒットし、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)、国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する姿として現在も広く知られている。
1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戦敗記念碑建立基金募集公演のためアメリカに渡り、ハワイやカリフォルニアで公演を行った。帰国後すぐに2人の主演で『東京キッド』に出演し、映画とともに同名の主題歌も大ヒットした。この映画で演じたストリートチルドレンの役は、戦後日本の苦難と国民的楽観主義の象徴となった。
1951年、松竹の『あの丘越えて』で鶴田浩二扮する大学生を慕う役を演じ、実生活でも鶴田を「お兄ちゃん」と慕うようになった。同年5月には新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立し、福島通人が社長、ひばり、川田晴久、斎藤寅次郎が役員に就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演し、以後これを持ち役とした。
1952年、映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。
1953年、『お嬢さん社長』に主演したことを機に、母・喜美枝がひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、周囲もそれに倣った。1954年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。この契約には田岡一雄が同席し、当時としては破格の3本で1000.00 万 JPYという条件であった。岡田茂(後の東映社長)は、この交渉時に子供ながら気丈なひばりに将来性を予見し、ひばり作品の量産体制に入った。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演し、二人はたちまち恋仲となったが、周囲の猛反対と田岡一雄、岡田茂の説得により別れさせられた。この後、東映の新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門と言われるようになった。
1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。これは、1953年の第3回、第4回紅白歌合戦からオファーがあったものの、正月興行や年末公演との兼ね合いで辞退していたNHKからの3度目の「ラブコール」が実った形であった。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深めた。当時のひばりの映画ギャラは1本750.00 万 JPYと、映画界で最も稼ぐ女優であった。
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約したが、キャリアを諦めることを条件とされたため、後に破棄となった。同年、初の那覇(当時アメリカ統治下)公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた同年齢の熱狂的な女性ファンから塩酸を顔にかけられる事件に遭った。幸い顔に大きな傷は残らず、3週間の入院を経て1月29日には舞台に復帰した。この事件を機に、ひばりは田岡一雄にボディーガードを要請し、興行権を神戸芸能社に委ねた。同年12月31日、第8回NHK紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子や二葉あき子といったベテラン歌手を抑え、出場2回目にして初めて紅組トリ(大トリ)を務め、既に芸能界における黄金期を迎えていたことを示した。
1958年4月、美空ひばりは田岡一雄が設立した神戸芸能社の専属となり、同年7月には新芸プロを離れ、8月1日にひばりプロダクションを設立し、田岡一雄が副社長に就任した。同年8月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。東映は1950年代後半から1960年代にかけて『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など、タイトルに「ひばり」を冠した映画を13本製作し、次々とヒットを飛ばした。特に『べらんめえ芸者』シリーズでは、後に大スターとなる高倉健を相手役に迎えた。ひばりは1954年から1963年までの10年間で東映映画に102本出演し、東映時代劇の黄金期を支えた。彼女は「岡田茂さんは東映時代の恩人。岡田さんなくしては、映画俳優としての自分の存在はなかった」と語っている。生涯で166本から170本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演作で、映画の題名に「ひばり」が付いた作品は47本に及び、これは日本一の記録である。彼女の映画は芸術性よりも娯楽性に徹し、ファンに愛された。1961年にはブルーリボン賞大衆賞を受賞し、「映画主演で13年間大衆に愛され親しまれて来た功績」が認められた。
1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
1.4. 結婚と離婚
1962年5月29日、人気俳優であった小林旭との婚約を発表。二人の出会いは雑誌の対談企画であった。交際を始めたものの、小林はまだ結婚を考えていなかったが、ひばりの強い希望と、父親代わりであった田岡一雄の説得により、結婚に至った。同年11月5日に挙式したが、ひばりの母・喜美枝はこの結婚を快く思っておらず、後に「人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したこと」と公言するほどであった。小林は結婚生活でのひばりを「懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と述懐している。しかし、小林は入籍を希望したが、喜美枝が不動産処分の問題を理由に断り続けたため、二人は事実婚であり、ひばりは戸籍上生涯独身であった。ひばりは一時的に仕事をセーブしたが、喜美枝や周辺関係者の絶え間ない介入、そしてひばり自身も歌への未練を捨てきれず仕事を再開したため、小林が求めた家庭の妻としての生活は叶わなかった。また、結婚翌年の1963年には父・増吉が肺結核により52歳で死去している。
別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。田岡一雄が小林に「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡し、小林は逆らうことができなかったという。記者会見は別々に行われ、小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明し、この「理解離婚」という言葉は当時の流行語となった。ひばりも田岡同席のもと記者会見を行い、「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と語り、今後は舞台を主に頑張ると宣言した。
離婚直後に発表した『柔』は、東京オリンピックとも相まって翌1965年にかけて大ヒットし、180万枚(後に195万枚)という当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年に第7回日本レコード大賞を受賞した。1966年には『悲しい酒』が145万枚(後に155万枚)を売り上げ、1967年には『芸道一代』、そしてグループ・サウンズのジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚(後に150万枚)を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
1.5. 母親との関係とマネジメント
母・喜美枝はひばりのキャリア形成に深く関わり、マネージャー兼プロデューサーとして常にひばりを支え続けた。1963年、喜美枝は岡田茂に「お嬢のこれからの生き方についてどう思う?」と相談した。岡田は、ひばりの時代劇はリアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力的であり、これからはテレビと舞台が中心になると進言した。浅草国際劇場での正月公演の客入りが悪くなっていたことから、喜美枝は田岡に相談せずに新宿コマ劇場での初の座長公演を決定した。このことで田岡の逆鱗に触れたが、岡田の尽力で事態は収拾された。揉め事が起こるたびに喜美枝は岡田を頼ったという。また、喜美枝は新宿コマ劇場の舞台演出に沢島忠を希望し、当時の五社協定により困難な中、岡田の尽力で沢島の貸し出しが実現した。これにより沢島はひばりの座付き作者のようになり、映画界から遠ざかった。
1964年5月、新宿コマ劇場で初の座長公演『ひばりのすべて』、『女の花道』を行った。それまでの歌だけのステージに芝居を加える舞台公演の第一号であった。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し、新宿コマ劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を務め続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝であった。ひばりは喜美枝を傍らに従え、日本全国のコンサート会場やテレビ出演など精力的に活動した。当時のマスコミからは、ステージママの域を超えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームが付けられた。
1970年8月には日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロでブラジル公演を行い、3日間で5万人を動員した。オーケストラメンバーからは「言葉は分からないが素晴らしい歌手だ」と絶賛された。
1.6. 兄弟とのトラブルと肉親の死
1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会と大トリを兼任した。これは紅白史上初の組司会とトリの兼任であり、女性に限れば唯一の記録である。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」であった。
しかし1973年、実弟の哲也が起こした不祥事により、加藤家と暴力団山口組および田岡一雄との関係が問題視された。全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、マスコミも大々的にバッシングを取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆を大事にし、哲也を外すことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した(事実上の落選)。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く、また数年ヒット曲に乏しかったこともあり、理事会でほぼ満場一致で決定されたという。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビの『美空ひばりショー』に出演した。以後、NHKからオファーが来ても断り続けたが、1977年には同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなく、1979年の第30回には藤山一郎と特別出演という形で、生涯最後の紅白出場となった。
1970年代から1980年代前半にかけては、大きなヒット曲には恵まれなかったものの、幅広いジャンルの楽曲を自身のスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けた。岡林信康(『月の夜汽車』〈1975年〉)、来生たかお(『笑ってよムーンライト』〈1983年〉)、イルカ(『夢ひとり』〈1985年〉)、小椋佳(『愛燦燦』〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエーターなどとのコラボレーションも頻繁に行われた。また、新曲のキャンペーン活動にも活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』は、この地道な活動が功を奏し、久々のヒット曲となった。1982年には『裏町酒場』もロングヒットを記録した。
しかし1980年代に入り、悲運が続いた。1981年には最愛の母・喜美枝が転移性脳腫瘍により68歳で死去した。同年日本武道館で行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、喜美枝が危篤状態の中で行われたものであった。さらに父親の代わりを担っていた田岡一雄も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年には「銭形平次」で18年間主役を演じ、親交のあった大川橋蔵が55歳で死去した。追い打ちをかけるように実弟の哲也を1983年に、香山武彦を1986年に、共に42歳という若さで次々と亡くした。ひばりは1977年に加藤和也を養子として迎えていたが、家族や親友を続けざまに亡くした悲しみや寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコは日に日に量を増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。
1.7. 健康問題と晩年
1985年5月、ひばりは誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。この頃から原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵にも感じさせない熱唱を見せていた。翌1986年には芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催した。しかし1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰はついに耐えられない激痛の状態に陥った。
同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望で鳥羽水族館のラッコを見物した。同地でカラオケビデオの撮影にも臨んだ際、段差を上りきれず付き人の手を借りて歩行する姿が確認されている。現在、DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」などのカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨み、体調が悪い中「愛燦燦」などを歌った。
同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院した。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3か月半にわたり同病院で療養に専念した。実際は「肝硬変」であったが、ファンや関係者に心配をかけないようマスコミには一切発表しなかった。同年5月29日、ひばりは入院中に50歳の誕生日を迎えた。闘病中にひばりは、マスコミ陣や大勢のファンに対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」などと吹き込まれた肉声入りのカセットテープを披露した。
1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、7月17日には石原裕次郎(享年52)と、ひばりと親交が深かった昭和の大スターが相次いで死去する中、ひばりは入院から3か月後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のファンに笑顔で投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動を再開した。
しかし、病気は決して完治してはいなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面であったという。
1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養し、2月中に帰国した。同年4月に開催予定の東京ドーム復帰公演に向けて、準備が進められていたが、足腰の痛みはほとんど回復せず、肝機能数値も退院時の60%から20~30%の状態を行き来する状況であった。
1988年4月11日、東京ドームのこけら落しとなるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施した。この復活コンサートの様子は、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。

この東京ドーム公演の会場客席には、森光子・雪村いづみ・島倉千代子・浅丘ルリ子・岸本加世子など、ひばりと特に懇意であった女性芸能人達もひばりの復帰ステージを見届けるために駆けつけた。しかし、ひばりにとってはまさに命がけのステージであった。楽屋入りの際には楽屋前で私服のまま、ひばりはファンやマスコミへ向けて不死鳥コンサートへの意気込みをコメント映像として残したが、このコメントに応じられるかどうかもひばりの状態次第という状況であった。徳光和夫も後年、「あのコメントを残してくださったことを心から感謝しています、まさかあんなに状態が悪かったとは思いもしなかったですよ」と語っている。
ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩と、この調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せていたが、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはおろか、立つことすら困難な病状の中でステージに立った。
公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。本番前に楽屋を訪れた浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋と、ひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100 mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛に歪んでいるかのようであった。とても歩けるような状態でないにもかかわらず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピールした。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時、マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばりにとっては命を削って臨んだ伝説のステージとなった。
東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化していった。段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13ヶ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10ヶ月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で福岡の病院に一時入院したが、すぐに仕事を再開することができた。6月の入院を乗りきったひばりはその後の年内の仕事も予定通りに全てこなし、同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。この時の映像は、現在の特番でもたびたび放映されている。
1988年10月28日、神津はづきの紹介で「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングコーナーに最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、秋元康の企画による『不死鳥パートII』という題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『川の流れのように』もレコーディングされている。ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願した。普段ならばスタッフの意向を尊重するひばりであったが、そのひばりがあまりに必死に懇願したことを受けた結果、彼女の希望通りの形となった。
そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばりの生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康立ち合いの下で公開初披露し、その後に会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー...もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね...」と全てを覆すような回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったというエピソードが残されている。
同年暮れの12月12日・16日・17日の3日間にわたっては、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子、森繁久彌と尾崎将司が出演した。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーの池田文雄に向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが...」と話している。しかしプロデューサーの池田はこの言葉が耳にこびりついて仕方がなかったという。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。
この頃既に、ひばりの直接的な死因となった『間質性肺炎』の症状が出始めていたとされており、立っているだけでも限界であったひばりは、歌い終わる度に椅子に腰掛けて息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括った。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。なお、ワンマンショーの放送からさかのぼること2日前の1月2日には『パパはニュースキャスター』の復活スペシャル第2弾にも田村正和演じる主人公の鏡竜太郎とTBSの廊下で遭遇するワンカットのみではあるが、ゲスト出演。これが生涯最後のテレビドラマへの出演となった。
1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子や王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。この時の映像は特番等で稀に放送されたことがある。ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。
1.8. 死去と社会的反響
1989年1月8日、ひばりは元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日を「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに...」と短歌に詠んだ。その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。
1月15日、『演歌の花道』と『ミュージックフェア』へそれぞれVTRで出演した。各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は「美空ひばり特集」として1月8日に予定されていたが、昭和天皇の崩御に伴い特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せて、体調は明らかに悪化していた。なお、1月中のひばりは熱海への家族旅行や、両国国技館の大相撲見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調は一時期平行線であっても、好転することはなかった。
コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」をスタートさせたが、初日の2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。
2月7日、九州厚生年金会館での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった(その映像は残されていないが、スタッフが確認用に録音したカセットテープに音源のみ残され、ひばり17回忌の2005年にCDとして商品化された)。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程に衰弱していたため、急遽ヘリコプターを使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後はすぐに横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います...お医者さんには、間髪を入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当...死んだ親父やばあちゃんがいたらな...って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がりステージへ向かうが、廊下からステージに入る間にある僅か数センチの段差すらも1人では乗り越えられなかった。また、コンサート中は大半が椅子に座りながらでの歌唱となり、加えてあまりの体調の悪さから予定されていた楽曲を一部カットした(村田英雄の「無法松の一生」など)。息苦しさをMCでごまかすひばりであったが、翌3月に診断される「特発性間質性肺炎」の病状は進行していた。だが、1,100人もの観衆を前にひばりは全20曲を無事に歌い終えた。
2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京した。その際、東京ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力はとうに限界を超えていた。3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に竣工した横浜アリーナのこけら落とし公演が予定されていた。この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と頑として譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの! 余計な口出ししないで!!」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!」と言い返すなど、度々口喧嘩をしていたという。その口喧嘩の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。
その頃、石井ふく子の紹介で近所の診療所の医師に診察を仰いだが、指先や顔色の青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間の沈黙があったという。その沈黙の後、ひばりはついに再入院の決断を下した。
3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオのニッポン放送で『美空ひばり感動この一曲』と題する10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメントした。結果的に歌以外ではこのラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院となった。
再入院から2日後の1989年3月23日、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナのこけら落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された(再入院当時「間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せていたが、ひばりは3月上旬に診察を受けた際に医師から間質性肺炎の説明を受けていた。しかし和也にはずっと知らないふりをして過ごしていたという。なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。間質性肺炎を発症した原因は「不明」とされ、治療に有効とされているステロイドホルモンは肝硬変の症状も出ていたひばりに対しては副作用の懸念からほとんど使えなかったという。
その後もはっきり報道されない容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、ひばりは入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて... その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表した。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージおよび肉声披露となった。
それから2日後の5月29日にひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。同じ頃ひばりの実妹・佐藤勢津子は、看病していた時に「突然、お姉ちゃんがポロポロと泣き出してしまって...『勢津子、私はまだ生きられるの?』って。『何言ってるの、まだ52歳でしょ? これからも頑張って生きなきゃ駄目よ!』って励ましたら、姉ちゃんは『そうだね、和也を独り遺して死ねないよね。頑張るわ』と、珍しく私の前で弱音を吐いた」と述懐していた。
しかし、誕生日から15日後の6月13日に呼吸困難を起こして重態に陥り、人工呼吸器がつけられた。ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」「大丈夫だよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、後に和也が語っている。
そして最後のステージから136日後、再入院から3ヶ月後の1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の悪化による呼吸不全併発のため、和也らに看取られ死去した。52歳没。
6月25日に通夜、翌26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀には当時最高記録の4万2千人が訪れた。喪主は和也が務め、葬儀では萬屋錦之介・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・和田アキ子・とんねるずの石橋貴明が弔辞を読み上げ、北島三郎・雪村いづみ・森昌子・藤井フミヤ・近藤真彦などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。法号は、慈唱院美空日和清大姉(じしょういん みそらにちわせいたいし)。墓所は、横浜市営日野公園墓地にある。菩提寺は、港南区の唱導寺。
2. 音楽活動
美空ひばりの音楽活動は、幅広いジャンルを歌いこなし、数々のヒット曲を生み出した。
2.1. 代表曲とヒットシングル
美空ひばりは生涯で約1,500曲をレコーディングし、517曲のオリジナル楽曲を発表した。
2000年5月時点でのシングル売上(再発盤を含む、日本コロムビア調べ)は以下の通り。
- 1位: 『柔』(1964年) - 190万枚
- 2位: 『川の流れのように』(1989年) - 150万枚
- 3位: 『悲しい酒』(1966年) - 145万枚
- 4位: 『真赤な太陽』(1967年) - 140万枚
- 5位: 『リンゴ追分』(1952年) - 130万枚
- その他: 『みだれ髪』(1987年)、『港町十三番地』(1957年)、『波止場だよ、お父つぁん』(1956年)、『東京キッド』(1950年)、『悲しき口笛』(1949年、50万枚)
2019年3月時点でのシングル売上(日本コロムビア発表による出荷枚数、概数)は以下の通り。
- 1位: 『川の流れのように』(1989年) - 205万枚
- 2位: 『柔』(1964年) - 195万枚
- 3位: 『悲しい酒』(1966年) - 155万枚
- 4位: 『真赤な太陽』(1967年) - 150万枚
- 5位: 『リンゴ追分』(1952年) - 140万枚
- 6位: 『みだれ髪』(1987年) - 125万枚
- 7位: 『港町十三番地』(1957年) - 120万枚
- 8位: 『東京キッド』(1950年) - 120万枚
- 9位: 『悲しき口笛』(1949年) - 110万枚
- 10位: 『波止場だよ、お父つぁん』(1956年) - 110万枚
彼女の最後の歌唱曲である「川の流れのように」は、NHKが1997年に実施した国民投票で「史上最高の日本の歌」に選ばれた。この曲は、ザ・スリー・テナーズ(スペイン/イタリア)、テレサ・テン(台湾)、マリアッチ・バルガス・デ・テカリトラン(メキシコ)、十二女子楽坊(中国)など、国内外の多くのアーティストやオーケストラによってカバーされている。
2019年5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数)は約1億1700万枚に達する。この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない。内訳はアナログレコードがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。カセットテープが2650万枚、8トラックテープが900万本、CDが1150万枚である。
2.2. アルバムとディスコグラフィー
美空ひばりは膨大な数のシングル、EP、オリジナルアルバム、カバーアルバム、セルフカバーアルバム、ライブアルバム、ベストアルバム、企画アルバムをリリースした。
没後の1989年8月21日、35枚組・517曲を収録した『美空ひばり大全集 今日の我れに明日は勝つ』がCDとカセットテープで発売され、1989年11月20日現在で6万3000セット(日本コロムビア調べ)が販売された。定価6.00 万 JPYと音楽ソフトとしては高額ながらオリコンでは最高9位(1989年9月4日付アルバムランキング)を記録した。1989年には、ひばりの音楽ソフトが年間120.00 億 JPY(日本コロムビア調べ)を売り上げ、1997年時点でも年間で約15.50 億 JPYを売り上げ、日本コロムビア所属の演歌歌手としては現役歌手を抑えて最も売り上げが多い。
2011年には、日本コロムビアの創立100周年を記念して「美空ひばり トレジャーズ」が発売された。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の沙漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1.38 万 JPYで発売された。また、同年には1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12.00 万 JPYのセット「ひばり 千夜一夜」もリリースされた。単一歌手が1,000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてで、最大収録数である。
没後も、1999年に『元禄港歌 -千年の恋の森-』劇中歌としてレコーディングされた未発表曲「流れ人」が、ひばりの死後初のシングルとして発売された。2001年には未発表曲「越前岬」、2003年には「武蔵流転」がCD化された。2016年5月29日には、未発売音源の「さくらの唄」がCD化され発売された。
2.3. 音楽的特徴とスタイル
美空ひばりは歌謡曲、演歌、ジャズ、民謡など、幅広いジャンルを歌いこなした。彼女の歌唱は、独特のこぶし回しや表現力、そして時代ごとの音楽トレンドへの適応力によって特徴づけられる。
ひばりは生前に22曲を作詞し、そのうち18曲は自ら歌唱し、『花のいのち』『太陽と私』『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などがシングル発売された。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用することもあった。1966年には『夢見る乙女』を作詞し、可愛がっていた弘田三枝子へ提供した。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていた島倉千代子に提供された。
1985年には、ひばりが作詞し、イルカが作曲した『夢ひとり』がシングルとしてリリースされた。
3. 映画活動
美空ひばりは1949年から1971年の間に166本から170本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演作であった。
3.1. 主要な出演映画
彼女のキャリアを象徴する代表的な作品には以下のようなものがある。
- 『のど自慢狂時代』(1949年、大映) - デビュー作
- 『悲しき口笛』(1949年、松竹) - 国民的ヒット作
- 『東京キッド』(1950年、松竹) - 戦後日本の象徴となる役柄
- 『鞍馬天狗・角兵衛獅子』(1951年、松竹) - 杉作少年役
- 『あの丘越えて』(1951年、松竹) - 鶴田浩二との共演
- 『リンゴ園の少女』(1952年、松竹) - 同名主題歌が大ヒット
- 『ジャンケン娘』(1955年、東宝) - 江利チエミ、雪村いづみとの「三人娘」映画
- 『港町十三番地』(1957年、東映)
- 『べらんめえ芸者』(1959年、東映) - 人気シリーズの第一作
- 『ひばりの佐渡情話』(1962年、東映)
- 『柔』(1964年) - 同名ヒット曲の主題歌
- 『祇園祭』(1968年、松竹)
- 『ひばりのすべて』(1971年、東宝・日本コロムビア) - ドキュメンタリー映画
- 『女の花道』(1971年、東宝)
彼女の映画作品は娯楽作品に徹しており、芸術作品として評価されることは少なかったものの、生涯を通じて高い興行力を誇り、女優としても日本映画に貢献した。映画の題名に「ひばり」が付いた作品は47本で日本一である。
3.2. 映画での歌唱曲
美空ひばりの歌唱曲は多くの出演映画で印象的に使用された。
- 『七変化狸御殿』(1954年)
- 『ジャンケン娘』(1955年)
- 『天竜母恋い笠』(1960年)
- 『魚河岸の女石松』(1961年)
- 『花と龍 青雲篇 愛憎篇 怒濤篇』(1973年)
4. テレビ番組出演
美空ひばりは映画だけでなく、テレビ番組にも多数出演し、その歌声と演技を披露した。
4.1. NHK紅白歌合戦への出演
美空ひばりは第5回(1954年)に初出場し、第8回(1957年)から第23回(1972年)までの16年間連続出場し、通算17回出場した。この記録は1972年当時の紅白歌合戦における史上最多記録であった。
彼女は13回トリを務め、紅組歌手としては単独最多記録である。また、10年連続で紅組トリを務めたのは史上最多記録である。通算大トリ回数は11回で、北島三郎と並び歴代最多タイである。

第21回(1970年)では紅組司会も担当し、大トリも務めた。これは紅白史上初の組司会と大トリの兼任であり、女性に限れば唯一の記録である。
1973年、実弟の不祥事により紅白歌合戦への出場を辞退(事実上の落選)し、その後数年間はNHKからのオファーを断り続けた。しかし、1977年にNHKの『ビッグ・ショー』に出演し関係を修復した。そして1979年の第30回には特別出演という形で紅白に復帰し、これが生涯最後の紅白出場となった。
ひばりの生前の功績の大きさから、その功績を称えるために死後も他の歌手によってひばりの持ち歌が幾度となく紅白歌合戦で歌唱されている。
年度 | 放送回 | 歌手名 | 曲目 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1989年 | 第40回 | 雪村いづみ | 愛燦燦 | 大親友だった雪村いづみが、ひばりの追悼として歌唱。 |
1994年 | 第45回 | キム・ヨンジャ | 川の流れのように | NHKが実施した「戦後50年で思い出深い歌」「紅白で聴きたい歌アンケート」の1位であった同曲を歌唱。 |
1999年 | 第50回 | 天童よしみ | NHKが実施した「21世紀に伝えたい歌」(アンケート)の1位であった同曲をひばりを慕っていた天童が歌唱。 | |
2005年 | 第56回 | 川の流れのように | 『スキウタ~紅白みんなでアンケート~』で紅組8位にランクインした同曲を天童が自身3回目の紅組トリで歌唱。 | |
2011年 | 第62回 | 愛燦燦 | 2011年がひばりの23回忌であり、ひばりの写真も映し出された。 | |
2015年 | 第66回 | 人生一路 | ひばりが「東京ドーム 不死鳥コンサート」のラストで同曲を歌ったときと同様に、『終りなき旅』の一節も併せて歌われた。また、天童の衣装も「不死鳥コンサート」でのひばりの衣装を模したものであり、ひばり本人の映像や写真も映し出された。 | |
2016年 | 第67回 | 島津亜矢 | 川の流れのように | |
2017年 | 第68回 | 市川由紀乃 | 人生一路 | |
2021年 | 第72回 | 氷川きよし | 歌は我が命 | |
2022年 | 第73回 | 坂本冬美 | お祭りマンボ~スカパラSP~ | 東京スカパラダイスオーケストラとの共演。 |
特別企画として、2007年の第58回ではひばりの生誕70周年を記念し、小椋佳が生前のひばりの歌唱映像とデュエットで「愛燦燦」を歌唱した。2019年の第70回では、AIによる声とCGによる姿で再現された「AI美空ひばり」が出場し、新曲「あれから」を披露した。
4.2. その他のテレビ出演
ひばりは数々のテレビドラマや音楽番組にも出演した。
- NECサンデー劇場「かわだぶし物語」(1961年、NET) - 天才少女歌手 ※特別出演
- 東芝日曜劇場「下町の空」(1964年、TBS) - ドラマ初主演
- 美空ひばり劇場(1964年 - 1965年、TBS) - 座長公演をテレビ化したシリーズ
- ひばり・与一の花と剣(1966年、フジテレビ)
- 美空ひばりショー ひばりはひばり(1968年、NET)
- 大奥(1968年、関西テレビ/東映) - 和宮役
- 歌のグランドショー(1968年、NHK総合)
- あゝ忠臣蔵(1969年、関西テレビ) - おかる役
- 銭形平次 (フジテレビ) - 最終回スペシャル(1984年)に特別出演
- ザ・ガードマン 第285回「ひばりの愛の逃亡姉妹」(1970年、TBS)
- 柳生十兵衛第27話「殴り込み中仙道」(1970年、フジテレビ) - お甲役 ※特別出演
- 徳川おんな絵巻(1970年、関西テレビ) - お初役
- 銀河ドラマ「満開の時」(1971年、NHK) - 美人芸者役
- 金曜スペシャル「初春はひばりとともに」(1972年、東京12チャンネル)
- 長谷川伸シリーズ道中女仁義(1973年、NET)- 女やくざ役
- 大江戸捜査網(東京12チャンネル/三船プロ)
- 吉宗評判記 暴れん坊将軍 Iシリーズ(テレビ朝日、東映) - 紀州屋お奈津役
- 幾山河は越えたけど-昭和のこころ・古賀政男第1部、第2部(1979年、NHK)
- 水曜ドラマスペシャル「女コロンボ危機一髪!」(1985年、TBS) - 水木一枝役
- NHK放送開始60周年記念 あの歌この人60年(1985年、NHK)
- 昭和の歌 歌は電波にのって(昭和20年~30年)(1986年、NHK)
- ミュージックフェア'86 1100回記念 第2回(1986年、フジテレビ)
- 木曜ドラマストリート「熱血女先生! まるでセンチな乙女のように」(1986年、フジテレビ)
- 美空ひばり 新たなる旅立ち!(1987年、日本テレビ) - 退院後初のテレビ出演
- 今夜は最高!ゲスト・ひばりスペシャル(1987年、NTV)
- 忠臣蔵・いのちの刻(1988年、TBS) - 照月尼役
- パパはニュースキャスターお正月スペシャル(1989年1月2日、TBS) - 生涯最後のドラマ出演
- 昭和の歌 第2回「東京キッド」から「涙の連絡船」まで(1989年、NHK)
- NHKスペシャル(1989年、NHK)
- ミュージックフェア'89(1989年、フジテレビ) - 生涯最後のテレビ出演
5. 受賞歴と栄誉
美空ひばりはその輝かしいキャリアの中で数多くの賞を受賞し、日本を代表する歌手としての地位を確立した。
- 1960年 第2回日本レコード大賞・歌唱賞
- 1962年 第12回ブルーリボン賞・大衆賞
- 1965年 第7回日本レコード大賞・大賞
- 1969年
- 10月8日 日本赤十字社金色有功章
- 12月17日 紺綬褒章
- 1971年 第2回日本歌謡大賞・放送音楽特別賞
- 1973年 第15回日本レコード大賞・15周年記念特別賞
- 1976年 第18回日本レコード大賞・特別賞
- 1977年 森田たまパイオニア賞
- 1989年(没後)
- 国民栄誉賞 - 女性として初めての受賞。歌手としては藤山一郎に次いで二人目。
- 第31回日本レコード大賞・特別栄誉歌手賞
- 第20回日本歌謡大賞・特別栄誉賞
- 第22回日本作詩大賞・特別賞
- 第18回FNS歌謡祭・特別賞
- 2000年 第2回青森りんご勲章
6. 功績と遺産
美空ひばりは「歌謡界の女王」「昭和の歌姫」として、日本の大衆文化、音楽、そして社会に計り知れない影響を与えた。
6.1. 文化的な影響力
彼女の歌は、第二次世界大戦後の混乱期から高度経済成長期にかけて、人々に希望や勇気を与え、時代を象徴する存在となった。
石井竜也はひばりの才能について、「彼女が凄いのは『縁起が悪い』を歌詞にしてしまう所ですよね。普通だったら恥ずかしくて歌えないのに、歌唱力をもって照れずに歌うから笑えない。人に聞くとひばりさんは面倒見がよかったらしいんですよね。つまり、自分の後継者や崇拝者を作れない人は、それ以上大きくなれないんじゃないかと。ロックだろうと演歌だろうと外人だろうと全部同じですよ。そういった意味であの人は偉大だったと思います」と評価している。
奥田民生は「世界一ピッチが良い人です。マトリックスよりピッチが安定している」と絶賛した。
6.2. 記念活動と追悼
美空ひばりの死後も、彼女を記憶し顕彰するための様々な取り組みが続いている。
1993年4月、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館し、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。その後運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。しかし、2013年5月31日限りで閉館された。
しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にある東映太秦映画村の映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『のど自慢狂時代』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている。さらに、2014年5月には東京都目黒区のひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表され、同年5月28日に女優の中村メイコ、タレントのビートたけし、歌手の郷ひろみらを最初の客として迎え、「東京目黒美空ひばり記念館」のオープニングセレモニーが行われた。

美空ひばり遺影碑
復帰第一弾として発表した「みだれ髪」は福島県いわき市の塩屋岬を舞台としており、その縁で塩屋埼灯台近くには歌碑、遺影碑、銅像などが建つ「雲雀乃苑」が整備されている。この地には1988年10月2日に「みだれ髪歌碑」が建立され、1990年5月26日には「美空ひばり遺影碑」が建てられた。周辺の道路420メートル区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年5月25日には「永遠のひばり像」が建立された。その後、2024年春に京都市の東映太秦映画村内にあった「京都太秦美空ひばり座」が老朽化で取り壊されたのに伴い、その入口にあったブロンズ像が同年10月17日に雲雀乃苑へ移設された。
1990年以降、毎年彼女の誕生日にテレビやラジオで「川の流れのように」が流され、彼女への敬意が示されている。2012年11月11日には、東京ドームで美空ひばりの追悼コンサートが開催され、AI、倖田來未、平井堅、氷川きよし、EXILE、AKB48、岡林信康など、多くの著名なミュージシャンが彼女の最も有名な歌を歌い、追悼の意を表した。
2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。
2019年9月、NHKスペシャルで、過去の膨大な映像や音源を元に、最新のAI技術を用いてひばりのライブを再現する試みが行われた。4K・3Dの等身大のホログラム映像でステージ上に"本人"を出現させ、ヤマハが開発した深層学習技術を用いた歌声合成技術『VOCALOID:AI』により新たに制作された楽曲「あれから」(作詞:秋元康・作曲:佐藤嘉風)を歌わせる様子が放送された。CGによるひばりの振り付けは天童よしみのモーションを元にしている。同年12月31日放送のNHK紅白歌合戦でも、このAIによるライブが行われた。
6.3. 評価と批評
美空ひばりは、没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞した。
デビュー当初、サトウハチローや服部良一から、飯沢匡に至るまで批判的な言論も連綿と続き、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」「大人の真似をするゲテモノの少女歌手」といった批判もあった。
彼女の生涯において、山口組との関係は常に論争の的であった。特に、実弟のかとう哲也が1973年に暴力団関連の不祥事を起こした際には、加藤家と山口組の関係が問題視され、全国の公会堂や市民ホールから使用拒否されるなど、大々的なバッシングが起こった。この結果、ひばりは1973年末から数年間、NHK紅白歌合戦への出場を辞退することになった。ひばり自身は田岡一雄を父親代わりの存在として慕い、田岡の葬儀にも参列している。
没後の一億総服喪的な過剰報道に対しては、小林信彦が批判を発表した。小林の批判は、才能を全面的に否定するものではなく、モダニズムの要素も多分に持っていたひばりの才能が日本的にウェットな演歌のカテゴリーに押し込められていったことへの疑問を呈するものであった。
7. エピソード
- ひばりは生前、芸能界で公私にわたり親しかった人物として俳優では、中村錦之助、大川橋蔵、林与一、映画監督では、マキノ雅弘、渡辺邦男、沢島忠、歌手では、橋幸夫、北島三郎、西郷輝彦、森進一、恩人としては伊志井寛、三島由紀夫、岡田茂らの名前を挙げている。
- ひばりは各界の大物スターたちとの交友が深かったが、特に王貞治とは『義姉弟』(王貞治本人談)というほど、肝胆相照らす仲であった。金田正一とも親しかった。
- 無名時代の牧伸二がひばりの地方巡業公演で前座を務めていた際、牧の漫談が会場を湧かせる場面をひばりとその母(加藤喜美枝)が見てこれを気に入り、ひばり母子は「牧さんはすぐにスターになりますよ。見ていてご覧なさいな」と関係者に後年のブレークを予見する発言をしていたという。
- 大阪・北野劇場に「美空ひばりショー」で来演したひばりのお芝居の相手役を当時同劇場の専属コメディアンで売り出し中の大村崑が抜擢されたが、大村が登場する度に馴染みの観客が笑うので母・喜美枝の怒りに触れて大村は降ろされる(その後その役は堺駿二が務めた)。大村はその時の悔しさを忘れなかった。それから年月が経ち、1970年9月3日から9月27日に新宿コマ劇場で香山武彦と共演した際に「弟がお世話になってます」と、ひばりから食事の招待を受ける。ここぞとばかりに当時のことを母・喜美枝に話すと「崑さん、お嬢も今まで沢山いじめられてきたのよ。あなたは私だけでしょ。」と慰められる。すると、ひばりが大村のためだけに耳元で「柔」を熱唱した。それに感激した大村は全てのことを水に流したと言う。その時、ひばりから贈られたお守りは肌身離さず大切にしている。
- 1984年の「第35回NHK紅白歌合戦」は、紅組トリおよび大トリの都はるみの引退ステージ(後に復帰)となったが、都の歌唱後に総合司会の生方恵一が都の名前を「ミソラ」と言い間違えてしまった。ひばりは上記の通り、1973年以降紅白には出場依頼が来ても受けなくなるなど確執があったがこの時、親友の浅丘ルリ子らと自宅のテレビで紅白を観ており、「あっ! ウブさん、今変なこと言ったよ」と浅丘と思わず顔を見合わせた後、「ウブさんったら、私のことホント好きなんだから」と苦笑いしたという。この場面をテレビで見ていたひばりの関係者は、「お嬢、大変なことが起きた!」と叫んだとされる。その後ひばりは「ウブさんがあれでNHKをクビになるんだったら、私が一生食べさせてあげなきゃ」とも話した。
- 日本中央競馬会に馬主として登録したこともあり、「タケシコオー」という牝馬を走らせていた。
- 1981年7月29日に実母・喜美枝が亡くなり、火葬場にて最後の別れが終わった後、母の入った棺がかまどの中に入る際、ひばりは大きな叫び声をあげながら本気で一緒にかまどの中に向かおうとした。参列していた高倉健と萬屋錦之介に強く制止され、ひばりはずっと号泣していたという。
- 基本的に芸人との交流はなかったが息子の和也が大ファンであったとんねるずだけは認めており晩年は弟のように可愛がって2人のことをタカ、ノリと呼び、2人もひばりのことを「御嬢」と呼んで慕っていた。テレビでの共演は『とんねるずのみなさんのおかげです』にVTRで会話をしたのと、ひばり50歳の時にとんねるずがお祝いに駆けつけ両頬にとんねるずのキスを受けている。ラジオでは『とんねるずのオールナイトニッポン』にひばりが乱入し2時間ジャックした。
- 1990年放送の午後は○○おもいッきりテレビ内のコーナー、「ちょっと聞いてョ!おもいッきり生電話」の生放送中、ゲストのアグネス・チャンの背後にひばりらしき顔が映っていたのを多数の視聴者が目撃した。その後、カメラが再度アグネスの所に向けられると顔はテレビカメラに向かって移動していた。その後、再度カメラが向けられた時、その顔は消えていた。放送後、日本テレビには視聴者からの電話が殺到した。奇しくもこの日はひばりの一周忌の直後だった。
- 親友であった中村メイコと赤坂近辺をハシゴしていた時、二軒目で寄った屋台の味を気に入り、居眠りしていた屋台の主人に「私の家、この坂を上った近くにあるんだけど、うちの前まで屋台引っ張って行ってくれない?」とお願いしたが、主人に断られてしまった為、居眠りしていた主人を放ったまま、ひばりが屋台の前を、メイコが後ろを押しながらひばり邸の前まで屋台を持って行き、そこで二人で食べた三倍の値段の代金を屋台に置き、屋台を放置したまま、また二人で夜通しハシゴしたという逸話をメイコ自身が話している。
- ある晩、緊急の用事でタクシーに乗ってメイコ宅へ行き、目的地に着いた時に、財布を忘れてきたことに気付いたひばりは、「私は美空ひばりですが、財布を忘れてきたので、お金を(友人から)借りてきます」とタクシーの運転手に事情を話したが、この時のひばりは化粧をしておらず、普段よりも地味な顔つきだったため、運転手は相手の女性が美空ひばりだとは信じようとはしなかった。しかし、困ったひばりが何とか信じてもらおうとして、持ち歌の「リンゴ追分」を歌い出すと、運転手はその歌声が間違いなく美空ひばり本人の声であることを即座に理解した。ひばりが歌い終わった後、感激した運転手は、「お金を出してもなかなか聴けないひばりさんの生の歌をただで聴かせてもらえたのですから、料金はいただかなくて結構です」と言って、料金を取らずに帰って行ったという。このエピソードは1985年に出演した「徹子の部屋」でひばり本人が話しているほか、後年メイコも回顧している。
- ちあきなおみの歌唱力をほとんど唯一「私に匹敵する」と高く評価していた。
- 戦後間もない頃のものとはいえ、楽屋で秋刀魚を焼いて食べていた写真が残されている。
- 帝国劇場で興行をしていた際、「あの音はなんなの?」と不快感を示した。その音の正体は、帝国劇場の南側を通っていた当時の営団有楽町線であった。それを聞いた営団側は、すぐに車両の振動が構造物に伝わらない軌道構造を開発し、振動を地下に逃がすようにしたという。
8. 関連人物・項目
- 加藤和也 - 養子、ひばりプロダクション社長
- 加藤喜美枝 - 母、マネージャー
- かとう哲也 - 弟
- 香山武彦 - 弟
- 佐藤勢津子 - 妹
- 小林旭 - 元夫
- 田岡一雄 - 父親代わりとして庇護
- 江利チエミ - 親友
- 雪村いづみ - 親友、「三人娘」
- 中村錦之助 - 共演俳優、元恋人
- 高倉健 - 共演俳優
- 岡田茂 - 東映時代の恩人
- 古賀政男 - 恩師、作曲家
- 秋元康 - 生涯最後のシングル「川の流れのように」の作詞家
- 見岳章 - 生涯最後のシングル「川の流れのように」の作曲家
- 王貞治 - 親交の深かった野球選手
- 中村メイコ - 親友
- 森繁久彌 - 親交の深かった俳優
- 石井ふく子 - 親交の深かったプロデューサー
- とんねるず - 親交の深かったお笑いコンビ
- 最も売れたアーティスト一覧
- テレサ・テン - 「川の流れのように」をカバーした歌手
- VOCALOID:AI - 歌声合成技術
9. 外部リンク
- [http://www.misorahibari.com/ 美空ひばり公式ウェブサイト] - ひばりプロダクションが運営する公式サイト
- [https://www.toei-eigamura.com/event/detail/24 京都太秦美空ひばり座] - 東映太秦映画村内にある記念館
- [https://www.misorahibari.jp/ 東京目黒美空ひばり記念館] - 目黒区青葉台にある美空ひばり邸の一部を改装して一般公開されている