1. 概要
藤山一郎(ふじやま いちろうふじやまいちろう日本語、1911年 - 1993年)は、日本の代表的な歌手、声楽家、作曲家、指揮者であり、本名を増永丈夫(ますなが たけおますながたけお日本語)といった。東京音楽学校(現東京芸術大学)を首席で卒業し、クラシックで培った正統な声楽技術とハイバリトンの音声を武器に、流行歌界でテナー歌手として国民的な人気を博した。彼は『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『東京ラプソディ』、『青い山脈』、『長崎の鐘』など、数多くのヒット曲を世に送り出し、その格調高い歌声は「楷書の歌」と評された。戦後の日本社会の混乱期には、希望と励ましを与える歌を通じて人々に勇気を与え、復興と民主化の象徴的存在となった。
また、NHKの嘱託歌手として活動の幅を広げ、長年にわたりNHK紅白歌合戦のフィナーレを飾る『蛍の光』の指揮を務め、国民的指揮者としても親しまれた。日本歌手協会の会長として歌手の権利向上に尽力し、協会の社団法人化を実現するなど、音楽業界の発展にも貢献した。1992年には、スポーツ分野以外の人物として初めて、存命中に国民栄誉賞を受賞し、その多大な功績が広く認められた。彼の音楽は、西洋音楽の技術と日本の情感を融合させ、日本の大衆音楽に新たな境地を開拓し、後進の歌手にも大きな影響を与えた。
2. 生涯
藤山一郎は、幼少期から音楽的才能を育み、東京音楽学校で正統な声楽を学んだ後、大衆音楽の世界で国民的歌手としての地位を確立しました。戦争中の慰問活動や捕虜生活を経て、戦後も日本の復興を象徴する数々のヒット曲を発表し、音楽界の発展に大きく貢献しました。晩年には国民栄誉賞を受賞するなど、その生涯は日本の近代音楽史と深く結びついています。
2.1. 幼少期・少年時代
藤山一郎は1911年(明治44年)4月8日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に、モスリン問屋「近江屋」の三男として生まれた。父は信三郎、母は店主の養女であるゆう。幼少期は、家業が順調であったことに加え、母のゆうが株式投資で得た収益で多くの借家を所有し、多額の家賃収入を得ていたため、経済的に非常に恵まれた環境で育った。
幼少期から音楽家としての資質を育む環境にも恵まれた。母の教育方針で幼少期からピアノを習い始め、通っていた幼稚園が終わると、親戚の作曲家である山田源一郎が創立した日本女子音楽学校(後の日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったり、ピアノの弾き方や楽譜の読み方を教わった。また、家族に連れられて隅田川を往復する蒸気船で浅草へ遊びに行き、物売りの口上や下町の歯切れの良い発音に触れた経験が、後に彼の歌唱における発音の明瞭さに影響を与えたと語っている。
1918年(大正7年)春、慶應義塾幼稚舎に入学し、岡本太郎とは同級生であった。この頃にはすでに楽譜を読みこなせるようになり、学内外で童謡の公演に出演し、『春の野』(江沢清太郎作曲)などのレコードも吹き込んだ。慶應幼稚舎の音楽教師である江沢清太郎の勧めにより、一時期は歌をやめて楽典、楽譜、ピアノ、ヴァイオリンの修練に専念した。学業成績は唱歌が6年間を通して10点中9点以上と特に優れており、その他の教科もすべて7点以上であった。
1924年(大正13年)春、慶應義塾普通部に進学。同校の音楽教師を務めていた弘田龍太郎(当時東京音楽学校助教授)にピアノを師事し、課外授業にも参加するなど音楽に励んだ。また、梁田貞(声楽)や大塚淳(ヴァイオリン)にも師事し、作曲家本居長世の自宅にも出入りし、後に本居が設立した如月社に参加してその作品を独唱した。
音楽活動の傍ら、ラグビー部に入部して運動にも打ち込み、3・4年時には1929年度の全国中等学校蹴球大会で優勝を経験している。しかし、この時期の学業成績は音楽と体育以外は悪く、卒業時の学内順位は52人中51番であった(最下位は岡本太郎)。
慶應普通部在学中の1927年(昭和2年)、慶應の応援歌『若き血』が制作された際には、早慶戦に向けて普通部に在学中の藤山が学生の歌唱指導にあたった。上級生にも厳しく指導したため、早慶戦後、普通部の5年生に呼び出され、脅され殴られた経験もある。しかし、この出来事から『若き血』との長いつきあいが始まった。慶應義塾在籍中を通じて、藤山は福沢諭吉が説いた奉仕の精神を身につけ、これが後にロータリークラブやボーイスカウト活動、福祉施設への慰問へと繋がっていく。
2.2. 東京音楽学校時代
慶應義塾普通部を卒業後、1929年(昭和4年)4月に、当時日本で唯一の官立音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(後の東京芸術大学音楽学部)に入学した。当時の日本社会では「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した男性は藤山ただ一人であった。入学試験の口頭試問で音楽の道を志す理由を問われた際、藤山は「オペラ歌手を目指します」と答えた。
藤山は予科声楽部で30人中15番の成績を収め、本科に進学。1931年(昭和6年)2月には成績優秀者による「学友演奏会」(土曜演奏会とも)に出演し、歌劇『ファウスト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱でバリトン独唱を務めるなど、順風満帆な学生生活を送っていた。しかし、音楽学校進学後間もなく、世界恐慌の影響を受けた昭和恐慌により、実家のモスリン問屋の経営が傾き、38,000円の借金を抱え廃業に追い込まれた。
家計を助けるため、藤山は山田耕筰の自筆譜の清書などの写譜のアルバイトを始めたが、収入が少なく、レコードの吹き込みの仕事を始めるようになった。これは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったため、彼は「藤山一郎」という変名を用いることになった。この名前は、親友である永藤秀雄の名前から「藤永」とし、さらに「富士山」の「山」と合わせて「藤山」とし、「日本一」を目指すという意味を込めて「一郎」を続けたもので、わずか5分で考えられたという。藤山一郎以外にも、花房俊夫、井上静雄、南一郎、藤村二郎、田垣宣文、藤井龍男などの変名も用いた。
1931年から1932年にかけて、藤山は約40曲を吹き込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。当時の日本に存在した蓄音機が、併合により日本領であった台湾や朝鮮を含めても約20万台であったことを考えると、これは「狂乱に近い大ヒット」であった。この曲の吹き込みでは、声量を抑えつつ美しい共鳴を活かし、声楽技術を正統的に解釈したクルーン唱法を用い、電気吹き込み時代のマイクロフォンの特性を効果的に生かした歌唱によって、憂鬱さとモダニズムが同居する当時の世相を表現した古賀の意図を実現させた。同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットし、藤山と古賀はスターダムにのし上がった。
歌のヒットと同時に藤山一郎への世間の注目は高まり、学校関係者に正体が発覚することを恐れた藤山は、レコードが売れないことさえ願っていた。古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した際には、舞台の袖から姿を隠して歌ったため、観客が不満を訴える騒ぎになったこともある。そのような中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。藤山は「先生は作曲などで学外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したため、一時は退学処分寸前となった。しかし、クラウス・プリングスハイム、弘田龍太郎、大塚淳、梁田貞といった教師たちが彼の学業成績の優秀さやアルバイト収入を全て母親に渡していることを理由に擁護に回り、結果的に今後のレコード吹き込み禁止と停学1ヶ月の処分に落ち着いた。この停学期間は学校の冬休みに当たり、実質的な処分は科されなかった。この時、藤山はまだ吹き込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹き込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にした。停学が解除されると、藤山はレコードの吹き込みを止め、学業に専念した。
1932年(昭和7年)当時、東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、東京音楽学校奏楽堂で例外的に舞台上演された学校オペラ『デア・ヤーザーガー』(クルト・ヴァイル作曲)では、藤山は主役である少年役を演じた。さらに、日比谷公会堂でプリングスハイム指揮で上演されたワーグナーのオペラ『ローエングリン』では、ヘルマン・ヴーハーぺニッヒやマリア・トルといった外国人歌手と並んでバリトン独唱を務め、期待のホープとして注目された。
2.3. レコード会社での活動
東京音楽学校を首席で卒業後、藤山一郎は日本の主要レコード会社と専属契約を結び、クラシックと大衆音楽の双方でその才能を発揮した。
2.3.1. ビクターレコード時期
1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。『週刊音楽新聞』は、卒業演奏における「歌劇『道化師』のアリア」や「歌劇『密猟者』より」の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないかと評した。藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという強い思いから、卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年から藤山と接触し、毎月100 JPYの学費援助を行っていた。藤山は『酒は涙か溜息か』などのヒット曲を発売したコロムビアへの入社も検討したが、コロムビアが月給制を拒否したのに対し、ビクターが月給100 JPYに加え2%のレコード印税支払いを約束したため、ビクター入社を決めた。一方で、コロムビアはビクターに藤山を奪われた形となり、作曲家の佐々紅華と作詞家の時雨音羽をビクターから引き抜くという対抗策に出た。
入社後2年間、藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍し、ヴーハーぺニッヒの指導を受けながら、作曲・編曲・吹き込みを行う傍ら学校やヴーハーペニッヒの自宅にも通った。1933年4月には読売新聞社主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の日比谷公会堂での定期演奏会に出演。クラウス・プリングスハイム指揮のベートーヴェン『第九』をバリトン独唱で歌った。この時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っており、1933年10月には日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎としてジャズと流行歌を、増永丈夫としてクラシックを歌い分け、双方の音楽的魅力を披露した。レコードとしても、流行歌以外にクラシック(ワーグナー、シューマン)やジャズの楽曲もリリースしている。
ビクター時代の藤山は、『燃える御神火』(売上18万7500枚)、『僕の青春』(売上10万500枚)などがヒットしたが、音楽学校在校中に吹き込んだ古賀メロディーほどの大ヒットには恵まれなかった。この時期を振り返り、藤山は「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命令とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。しかしその一方で、「官学出身者の厭味なアカデミズムを排し、下品な低俗趣味を避けたい」という思いから、「シューマンを歌い、欧米の名曲や民謡を歌い、そしてもちろん流行歌も歌う」という充実した日々を送っていたと語っている。
2.3.2. テイチクレコード時期
ビクターとの3年契約が満了を迎えた後、藤山はテイチクへの移籍を決意した。当時コロムビアからテイチクに移籍していた古賀政男が移籍を促したためである。テイチクのブランドイメージ(創業者が楠木正成に傾倒し、正成の銅像をレーベルマークにしたり、正成にちなんだ芸名を歌手につけたりしていた)に抵抗を感じたものの、生家の経済的事情に加え、古賀と再びコンビを組むことへの魅力が勝った。ビクターとの契約期間満了から1ヶ月を置いてテイチクへ移籍し、当時の内閣総理大臣の月給が約800 JPYの時代に、契約金1.00 万 JPYという破格の条件であった。
1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚の大ヒットとなった。これにより、藤山はB面の『東京娘』と合わせて2.10 万 JPYの歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同タイトルの映画も制作され、藤山が主演を務めた。同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』、『青春日記』もヒットした。藤山はこの時期の印象深い曲として、『東京ラプソディ』の他に大阪中央放送局が企画した『夜明けの唄』を挙げている。この頃、ドイツ大使の前で歌った際、自身の愛車がみすぼらしいフランス車であったことを大使夫人に指摘され、大使館経由で新車のドイツ車を特別価格で購入できたという逸話がある。
1937年(昭和12年)に盧溝橋事件が起こり日中戦争が始まったことをきっかけに、国民精神総動員を打ち出した政府は、音楽業界に対し戦意高揚を促す楽曲の発売を奨励し、ユーモア、恋愛、感傷をテーマとした歌の発売を禁止する指示を出した。テイチクはこの方針に従い、藤山も『忠烈!大和魂』、『国家総動員』、『雪の進軍』、『駆けろ荒鷲』、『最後の血戦』、『歩兵の本領』、『愛国行進曲』、『山内中尉の母』といった戦意高揚のための楽曲を吹き込むようになった。テイチク時代の藤山一郎の人気は凄まじく、ポリドールの東海林太郎と並んで「団菊時代」と呼ばれる黄金期を形成した。この時期の藤山は、バリトン声楽家としての活動よりも、テナー歌手としての流行歌に重点を置いていた。
2.3.3. コロムビアレコード時期
1939年(昭和14年)にテイチクとの契約期間が満了を迎えた。この頃、古賀政男とテイチクの間で方針の相違から対立が生じており、藤山は古賀とともにコロムビアへ移籍した。移籍後、藤山は『上海夜曲』や服部良一との初の共演となる『懐かしのボレロ』を吹き込み、これらはヒットした。1940年には古賀作曲の『なつかしの歌声』や『春よいづこ』がヒットしたが、音楽観の違いから、次第に古賀との距離を置くようになった。
声楽家としては、1939年に日比谷公会堂で行われた「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」でヴェルディのアリアをバリトン独唱し、1940年にはマンフレート・グルリット指揮のベートーヴェン『第九』(NHKラジオ放送)をバリトン独唱で歌い、テノールの美しさを兼ね備えたバリトン増永丈夫としての健在ぶりを示した。増永丈夫名義では、松尾芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」という旅の叙情を主題にした国民歌謡『旅愁』の吹き込みも行っている。
2.4. 戦争中の活動と捕虜生活
1941年(昭和16年)12月に大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦した。日本軍は優勢を保っており、軍は新聞社に対し、各地に駐屯する将兵に娯楽を与えるため慰問団の結成を要請した。読売新聞社が海軍の要請を受けて南方慰問団を結成すると、藤山もこれに参加した。藤山には音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという強い思いがあり、「昭南(シンガポール)や香港をはじめとするヨーロッパ諸国の植民地であった占領下の場所へ行けばヨーロッパの文化に触れることができるかもしれない」という期待と、「祖国の役に立ちたい」という思いから慰問団に加わった。
1943年2月(昭和18年)、慰問団は旧オランダ領のボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発した。途中で寄港した高雄港では敵の潜水艦による魚雷攻撃を受け、藤山は初めて戦局が内地で宣伝されているよりもはるかに緊迫したものであることを察知した。日本軍はこの頃から激戦を強いられていたが、藤山はその情報を正確に把握しておらず、もし当時の戦況を正確に把握できていたら南方慰問には出なかったであろうと後に述べている。しかし、結局のところ、海軍嘱託となり終戦まで各地で慰問を続けた。
3月にボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパンに到着。ボルネオ島のほかスラウェシ島・ティモール島など、周辺一帯を慰問に回った。藤山は持ち歌や軍歌の他、地元の民謡(『ブンガワンソロ』は帰国後藤山のレパートリーに加えられ、日本で流行歌となった)を歌った。海軍士官が作った詞に曲を付け、『サマリンダ小唄』を歌ったこともある。藤山は7月に予定されていた慰問を終え、帰国した。
藤山は帰国後すぐに海軍より再度南方慰問の要請を受け、11月にスラウェシ島へ向けて出発した。藤山はヨーロッパの文化にさらに触れ、また現地の民謡を採譜したいという気持ちから要請を承諾した。前回の慰問での扱いは軍属で、藤山はこれに強い不満を覚えていたが、この時は月給1800 JPYの海軍嘱託(奏任官5等・少佐待遇。滞在中、藤山の待遇は中佐待遇に格上げされた)としての派遣であった。
藤山の慰問団はスラウェシ島、ボルネオ島、小スンダ列島のバリ島、ロンボク島、スンバワ島、フローレス島、スンバ島、ティモール島などを巡った。このうちスンバ島は多数の敵機が飛び交う最前線の島で、慰問に訪れた芸能人は藤山ただ一人であった。小スンダ列島を慰問するにあたり、軽装で着任するよう要請された藤山は、愛用していたイタリア・ダラッペ社製のアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま出発したが、同島に戻ることなく敗戦を迎えたため手放す羽目になった。これ以降藤山はジャワ島スラバヤで購入したドイツ・ホーナー社製のアコーディオンを愛用することになる。
2.4.1. 捕虜生活
1945年(昭和20年)8月15日、藤山はジャワ島スラバヤからマディウンへ向かう車中で日本の敗戦を知った。彼は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容された後、ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送された。
1946年(昭和21年)、後の大統領スカルノの命令により、マラン州プジョンの山村に移動した。そこには三菱財閥が運営していた農園があり、旧日本海軍の将兵が一帯を「鞍馬村」と名づけて自給自足の生活を送っていた。鞍馬村滞在中、藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回った。この鞍馬村での生活は数ヶ月で終わりを告げた。戦争終結直後から行われていた独立戦争において、インドネシア独立軍とオランダ軍、イギリス軍との間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになったためである。藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。
2.5. 戦後活動再開と国民的歌手への躍進

1946年7月25日、葛城は広島県大竹港に到着した。東京の自宅に着いて間もなくNHKがインタビューにやって来るなど、藤山の帰国はニュースとなった。藤山は8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、早速日本での歌手活動を再開させた。1947年(昭和22年)に入ると、戦前派の歌手たちが本格的に復活の狼煙を上げた。藤山一郎もラジオ歌謡『三日月娘』、『音楽五人男』の主題歌『夢淡き東京』、日本歌曲としても音楽的評価の高い『白鳥の歌』などをヒットさせた。
1949年(昭和24年)、永井隆の随想を元にした『長崎の鐘』がヒット。1950年(昭和25年)には、この歌を主題歌として映画『長崎の鐘』が制作された。曲に感動した永井と、藤山、作詩のサトウハチロー、作曲の古関裕而の3人の間には交流が生まれ、永井は3人に以下の短歌『新しき朝』を送った。
:新しき朝の光のさしそむる 荒野にひびけ長崎の鐘
藤山はこの短歌に曲をつけ、『長崎の鐘』を歌う際に続けて『新しき朝』を歌うようになった。藤山は1951年(昭和26年)1月3日に行われた『第1回NHK紅白歌合戦』に白組のキャプテンとして出場し、白組トリおよび大トリを務めて『長崎の鐘』を歌唱した。永井はこの4ヶ月後の5月1日に永眠した。藤山は1951年の第1回から1958年の第8回まで8年連続で出場するなど、歌手として計11回紅白に出場している。
1949年7月、東宝は石坂洋次郎の小説『青い山脈』を原作にした映画『青い山脈』を公開した。この映画の主題歌として同じタイトルの『青い山脈』が作られ、藤山が奈良光枝とデュエットで歌った。この歌は映画・歌ともに大ヒットした。『青い山脈』は長年にわたって世代を問わず支持され、発売から40年経った1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る200』においても第1位を獲得している。奈良光枝が1977年に死去すると、『青い山脈』は藤山一郎の持ち歌となった。
2.6. 国民的歌手・指揮者としての活躍
1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。この転身について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたと述べている。しかし、背景には、かねてからレコード会社の商業主義に対する疑問があり、さらに俳優が脚本を読んで出演を決めるように、自身も希望する歌を歌いたいという気持ちがあったという。1961年(昭和36年)には筑摩書房発行の『世界音楽全集』第13巻声楽(3)においてフォスター歌曲を独唱し、編曲も担当した。
1965年(昭和40年)、NHKの許可を得て出演した東京12チャンネル(後のテレビ東京)制作の『歌謡百年』がヒットした。『歌謡百年』はベテラン歌手が昔懐かしい歌を歌うというコンセプトの番組で、後に『なつかしの歌声』とタイトルを変え、なつかしの名曲ブームを巻き起こした。藤山は、クラシックの香りのするホームソングを主体にし、1958年以降は紅白歌合戦にも数回を除いて歌手としてではなく指揮者として出演していたが、この番組をきっかけに再び歌手として人気を集めるようになった。彼は、1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として連続出演を果たした。特に紅白歌合戦のフィナーレを飾る『蛍の光』の指揮を長年務め、国民的指揮者としても名声を得た。
2.6.1. NHK紅白歌合戦出場歴
藤山一郎のNHK紅白歌合戦における出場歴は以下の通りである。
年度/放送回 | 放送日 | 会場 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1951年(昭和26年)/第1回 | 1月3日 | NHK東京放送会館第一スタジオ | 初 | 長崎の鐘 | 7/7 | 渡辺はま子 | 大トリ |
1952年(昭和27年)/第2回 | 1月3日 | NHK東京放送会館第一スタジオ | 2 | オリンピックの歌 | 12/12 | 渡辺はま子(2) | トリ(2) |
1953年(昭和28年)/第3回 | 1月2日 | 3 | 東京ラプソディ | 11/12? | 月丘夢路 | トリ前(この回は灰田勝彦がトリだったとする説と、藤山がトリだったとする説がある) | |
1953年(昭和28年)/第4回 | 12月31日 | 日本劇場 | 4 | 丘は花ざかり | 17/17 | 淡谷のり子? | トリ(3) |
1954年(昭和29年)/第5回 | 日比谷公会堂 | 5 | ケンタッキーの我が家 | 05/15 | 松田トシ | ||
1955年(昭和30年)/第6回 | 産経ホール | 6 | ニコライの鐘 | 16/16 | 二葉あき子 | トリ(4) | |
1956年(昭和31年)/第7回 | 東京宝塚劇場 | 7 | あゝ牧場は緑 | 10/25 | 二葉あき子(2) | ||
1957年(昭和32年)/第8回 | 8 | ブンガワン・ソロ | 18/25 | 渡辺はま子(3) | |||
1964年(昭和39年)/第15回 | 9 | 長崎の鐘(2回目) | 04/25 | 渡辺はま子(4) | 7年ぶりの出場 | ||
1973年(昭和48年)/第24回 | NHKホール | ー | 長崎の鐘(3回目) | ー | (渡辺はま子) | 9年ぶりの出場・特別出演 | |
1979年(昭和54年)/第30回 | ー | 藤山一郎メモリアルメドレー(丘を越えて・長崎の鐘(4回目)・青い山脈のメドレー) | ー | (美空ひばり) | 6年ぶりの出場・特別出演 | ||
1989年(平成元年)/第40回 | 10 | 青い山脈(2回目) | 7/7(第1部) | (都はるみ) | 歌手としての出場は生涯最後となるが、1990年・第41回から1992年・第43回(それ以前も一部回を除き、蛍の光の指揮を担当した)は指揮者として出演している。 |
第5回紅白歌合戦までは、紅白両軍どちらが大トリを取ったかは記録に残っていない。
藤山は紅白史上最後の明治生まれの出場歌手である。また、満78歳での歌手としての出場は、当時の紅白史上最高齢記録であった(2014年の第65回で美輪明宏がこの記録を更新)。
2.7. 日本歌手協会会長としての貢献
1972年(昭和47年)10月、初代会長であった東海林太郎の死去に伴い、日本歌手協会会長に就任した。同協会は歌手の立場強化を掲げる任意団体であったが、藤山の会長就任を機に社団法人にすることが議論された。文化庁との折衝の結果、1975年(昭和50年)5月に協会は社団法人として認可された。社団法人となった日本歌手協会の立場は強化され、それまで作詞家と作曲家にしか支払われなかった著作権収入が著作隣接権として歌手にも支払われるようになった。藤山は1979年(昭和54年)5月まで会長を務め、以後は理事を務めた。藤山の死後、日本歌手協会はNHKと共催で追悼コンサートを開いた。
2.8. 国民栄誉賞の受賞
1992年(平成4年)5月28日、藤山は国民栄誉賞を受賞した。その受賞理由は、「正当な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独自の境地を開拓した」、「長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」というものであった。
藤山の受賞を決定づけたのは、1992年3月28日(土曜日)にNHK総合で放送されたテレビ番組『幾多の丘を越えて - 藤山一郎・80歳、青春の歌声』である。この番組のために藤山は、NHKのラジオ局のスタジオで持ち歌と自身が作曲した『ラジオ体操の歌』の計24曲を録音した。この番組を見た衆議院議員・島村宜伸が、当時自由民主党の幹事長であった綿貫民輔に国民栄誉賞授与の話を持ちかけたことで政府が検討に入ることになった。また、NHKのアナウンサー出身で参議院議員であり、かつて古賀政男の国民栄誉賞受賞に尽力した高橋圭三も福田赳夫を通じて政府に働きかけを行った。
藤山は娘を通じて受賞を打診され、受諾した。当初授賞式は4月25日に予定されたが、この時藤山は坐骨神経痛を患い入院中であったため、退院後の5月28日に延期された。授賞式会場の首相官邸に車椅子に乗って現れた藤山は、中に入ると車椅子から降りて杖をついて歩き、東京音楽学校時代の恩師クラウス・プリングスハイムの指揮で声楽家増永丈夫として日比谷公会堂で独唱したベートーヴェンの『歓喜の歌』を伴奏なしで歌い、数十年の時を経てクラシック音楽の増永丈夫と大衆音楽の藤山一郎の二つの顔を披露した。これはスポーツ選手を除く国民栄誉賞受賞者の中では初の存命中の受賞となった。1996年に上野恩賜公園内に設置された「日本スポーツ文化賞栄誉広場」には国民栄誉賞受賞者の手形が展示されており、藤山の手形も残されている。
3. 音楽哲学と歌唱法
藤山一郎は、音楽における日本語の発音の明瞭性を極めて重視した。彼は、NHK紅白歌合戦で『蛍の光』が歌われる際に指揮者を務めた際、歌い出しの部分の節がアクセントに合わないという理由で自らは声を出して歌おうとしなかったという有名な逸話が残っている(ただし、テレビ東京の『なつかしの歌声』などの番組では歌唱している映像も存在する)。音名をイタリア式に発音する際も、「ラはlaで、レはre」だと厳密に発音を区別するなど、徹底したこだわりを見せた。言語学者の金田一春彦は、藤山のこの厳しさは、幼少期に言葉のアクセントに厳しかった作曲家本居長世の家に出入りしていたことで培われたものだと推測している。
藤山は、プロの歌手にとって最も重要なのは、正式に声楽を習い、基本的な発声を習得し、その基本に忠実でしっかりとした発声によって歌詞を明瞭に歌い上げることであると考えた。技巧を凝らすのはその先の段階であると説き、後輩歌手たちにもこの原則を指導した。
彼が評価した後輩歌手には、伊藤久男、近江俊郎、岡本敦郎、布施明、尾崎紀世彦、由紀さおり、芹洋子、倍賞千恵子、アイ・ジョージらがいる。藤山は彼らを「ただクルーンするだけでなく、シングもできる両刀使いだから」という理由で高く評価していた。
シンガーソングライターの矢野顕子がNHKの軽音楽オーディションで藤山の『丘を越えて』を歌唱した際、審査員の一人であった藤山は、「素晴らしいピアノにのせて思い切った表現で歌われた。これにはビックリした。弾き語りと簡単に言うけどね、できるもんじゃないですよ」と評価した上で、「もっともっとチャレンジして、若さはチャレンジだ。ぶつかっていって新しい形をこしらえて。あれでなけりゃいけないってことは無いと思うな」と助言し、若き才能に期待と激励を送った。
4. 人物像とエピソード
藤山一郎は、その音楽的才能だけでなく、独特の人物像や様々なエピソードでも知られている。
- 短気な性格と意外な特技**: 幼少期から短気で手が早かった。この性格が原因で幼稚園を転園させられ、慶應義塾普通部時代には3週間寄宿舎暮らしを命じられた。この時、寂しさから身につけた編み物が、後に藤山の特技の一つとなった。しかし、晩年までその気性の激しさは変わらず、タクシーの運転手と喧嘩して血だらけでスタジオに入ったこともあるという。
- 自動車への深い愛着**: 無類の車好きとしても知られ、幼少期から自動車に親しんで育った。小学校4、5年生の頃には生家のモスリン問屋にあった配達用の貨物自動車の車庫入れをこなし、オートバイの運転もマスターした。東京音楽学校在学中に自動車運転免許を取得し、流行歌手となってからも舞台への移動の際は自ら自動車を運転することが多かった。戦前にドイツ大使の前で歌った際、みすぼらしいフランス車に乗っていたことを大使夫人に指摘され、後にドイツ車を特別価格で提供されたという逸話もある。所有車は終戦直後に乗ったダットサンを除き、すべて輸入車であった。運転マナーは良好で、優良運転者として1972年に緑十字交通栄誉賞銅賞、1982年には緑十字交通栄誉賞銀賞を受賞している。一方で、他人の運転マナーには厳しく、割り込みした車を怒鳴りつけることもあった。1949年7月に肝臓膿瘍を患い入院した際、将来への不安から、妻を社長にして「ミッキー・モータース」という洗車・整備・給油の店を副業としてオープンさせている。
- 楽譜への厳しさ**: 藤山が音大生だった時代は楽譜が貴重であり、学生は図書館から借りて写譜するのが一般的であった。そのため、藤山は楽譜を乱暴に扱う者に対して非常に厳しかった。
- 山田耕筰との靴のエピソード**: 戦争中、南方慰問から帰国した藤山が作曲家山田耕筰邸へ挨拶に行くと、山田が藤山の履いている南方で入手した靴を気に入って「僕にくれよ」と譲り受けたという。藤山も断りきれず山田の靴と交換することで決着した。この話を聞いた音楽評論家の森一也が「あの靴はいつか見た靴」ですねと歌うと、藤山も「ああ、そうだよ」と歌い返したという。
5. 社会活動
藤山一郎は、慶應義塾在籍中に福沢諭吉が説いた奉仕の精神に深く影響を受け、1950年代半ばから様々な社会活動に積極的に参加した。
5.1. ボーイスカウト活動
藤山は奉仕を重んじるボーイスカウトの精神に共鳴し、ボーイスカウト日本連盟の参与を務めた。1971年(昭和46年)、第13回世界ジャンボリーが日本(静岡県富士宮市)で開かれた際には、テーマソング『明るい道を』の作曲を行った。1988年(昭和63年)にスカウトソングを収録したカセットテープが制作された際には録音に立ち会い、自ら連盟歌『花は薫るよ』や、『光の路』など7曲を歌った。1992年(平成4年)には、永年にわたる功績を称えられ、連盟から最高功労章である「きじ章」を贈呈された。藤山の葬儀の際には、ボーイスカウトのブレザーと、きじ章を身につけた写真が遺影に選ばれた。
5.2. ロータリークラブ活動
1958年(昭和33年)6月、藤山はロータリークラブ(東京西ロータリークラブ)に入会した。藤山は会員として精力的に活動し、例会に欠席したことがなかった。死の前日の1993年8月19日にも杖を持ち車椅子に乗って出席を果たしている。会の運営にも熱心で、1986年から1987年まで東京西ロータリークラブの会長を務めた。『東京西ロータリークラブの歌』をはじめ、ロータリークラブにまつわる歌の作曲や会員への歌唱指導も行った。
6. 主な受賞歴
藤山一郎は、国民栄誉賞以外にも、その多大な功績に対して数々の栄誉ある賞を受章・受賞している。
- 日本赤十字社特別有功章**(1952年): 社会福祉への貢献が認められた。
- NHK放送文化賞**(1958年): 放送文化への貢献に対して授与された。
- 社会教育功労章**(1959年): 社会教育分野での長年の功績が評価された。
- 紫綬褒章**(1973年): 学術、芸術、スポーツ分野における功労者に贈られる褒章。
- 日本レコード大賞特別賞**(1974年): 日本の音楽文化への顕著な貢献が評価された。
- 勲三等瑞宝章**(1982年春): 公務等に長年にわたり従事し、功績を挙げた者に贈られる勲章。
- 日本ボーイスカウト連盟 きじ章**(1992年): ボーイスカウト運動への献身的な貢献が評価され、最高功労章が贈られた。
- 国民栄誉賞**(1992年5月28日): 流行歌を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した功績による。
- 従四位**(1993年8月21日、追贈)
7. 主要作品
7.1. 代表曲
藤山一郎が発表し、多くの人々に愛された主要な流行歌や歌謡曲は以下の通りである。
- 『春の野・山の祭』(1921年)
- 『はんどん・何して遊ぼ』(1921年)
- 『はね橋』(1921年)
- 『日本アルプスの唄』(1930年)
- 『美しきスパニョール』(1930年)
- 『幼稚舎の歌』(1930年)
- 『慶應普通部の歌』(1930年)
- 『北太平洋横断飛行行進曲』(1931年)
- 『キャンプ小唄』(1931年)
- 『丘を越えて』(1931年)
- 『酒は涙か溜息か』(1931年)
- 『エンコの六』(1931年)
- 『スキーの唄』(1932年)
- 『影を慕いて』(1932年)
- 『鳩笛を吹く女の唄』(1932年)
- 『赤い花』(1933年)
- 『僕の青春』(1933年)
- 『燃える御神火』(1933年)
- 『想い出のギター』(1933年) 共唱 徳山璉
- 『名古屋まつり』(1933年)
- 『皇太子殿下御誕生奉祝歌』(1934年) 共唱 徳山璉
- 『チェリオ!』(1934年) 共唱 小林千代子
- 『オシャカサン』(1934年) 作曲も担当
- 『川原鳩なら』(1934年)
- 『いつも朗らか』(1934年) 共唱 市丸
- 『蒼い月(ペールムーン)』(1934年)
- 『古戦場の秋』(1934年)
- 『躍る太陽』(1935年) 作曲も担当
- 『恋の花束』(1935年)
- 『谷間の小屋』(1935年)
- 『永遠の誓い』(1935年)
- 『夜風』(1935年)
- 『二人の青春』(1936年)共唱 渡辺はま子
- 『慶應音頭』(1936年) 作曲も担当 共唱 徳山璉
- 『東京ラプソディ』(1936年)
- 『東京娘』(1936年)
- 『男の純情』(1936年)
- 『青春の謝肉祭』(1936年)
- 『回想譜』(1937年)
- 『青い背広で』(1937年)
- 『青春日記』(1937年)
- 『白虎隊』(1937年) 共唱(詩吟)鈴木吟亮
- 『愛国行進曲』(1937年)
- 『山内中尉の母』(1937年)
- 『上海夜曲』(1939年)
- 『懐かしのボレロ』(1939年)
- 『紀元二千六百年』(1940年) 共唱 松平晃、伊藤久男、霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子、香取みほ子
- 『なつかしの歌声』(1940年) 共唱 二葉あき子
- 『春よいづこ』(1940年) 共唱 二葉あき子
- 『空の勇士』(1940年) 共唱 霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子
- 『燃ゆる大空』(1940年) 共唱 霧島昇
- 『三色旗の下に』(1940年) 作曲も担当
- 『興亜行進曲』(1940年) 共唱 伊藤久男、二葉あき子
- 『懸賞当選歌:海の歌』(1940年)
- 『出せ一億の底力』(1941年) 共唱 二葉あき子
- 『崑崙越えて』(1941年)
- 『英国東洋艦隊潰滅』(1941年)
- 『海の進軍』(1941年) 共唱 伊藤久男、二葉あき子
- 『大東亜決戦の歌』(1942年)
- 『翼の凱歌』(1942年) 共唱 霧島昇
- 『青い牧場』(1943年) 共唱 奈良光枝
- 『決戦の大空へ』(1943年)
- 『東京ルンバ』(1946年) 共唱 並木路子
- 『ふるさとの馬車』(1946年)
- 『銀座セレナーデ』(1946年)
- 『赤き実』(1947年) 共唱 渡辺はま子
- 『三日月娘』(1947年)
- 『夢淡き東京』(1947年)
- 『白鳥の歌』(1947年) 共唱 松田トシ
- 『バラ咲く小径』(1947年)
- 『見たり聞いたりためしたり』(1947年) 共唱 並木路子
- 『浅草の唄』(1947年)
- 『若人の歌』(1947年)
- 『みどりの歌』(1948年) 共唱 安西愛子
- 『青い月の夜は』(1948年)
- 『ゆらりろの唄』(1948年)
- 『青い山脈』(1949年) 共唱 奈良光枝
- 『長崎の鐘』(1949年)
- 『花の素顔』(1949年) 共唱 安藤まり子
- 『山のかなたに』(1950年)
- 『福澤諭吉先生を讃える歌』(1951年)
- 『若人の歌』(1951年) 東宝映画「若人の歌」主題歌
- 『長崎の雨』(1951年)
- 『東京の雨』(1951年)
- 『ラジオ体操の歌(2代目)』(1951年)
- 『ニコライの鐘』(1952年)
- 『夜の湖』(1957年)
- 『霜夜の時計』(1952年) 作曲も担当
- 『星かげのワルツ』(1952年) 作曲も担当 共唱 加藤礼子
- 『海は生きている(海の歌)』(1952年)
- 『丘は花ざかり』(1952年)
- 『遠い花火』(1952年) 作曲も担当
- 『オリンピックの歌』(1952年) 共唱 荒井恵子
- 『ばら色の月』(1953年)
- 『みどりの雨』(1953年)
- 『ラジオ体操の歌(3代目)』(1956年) レコード発売は1958年。作曲も担当
- 『波』(1959年) 作曲も担当
- 『海をこえて友よきたれ』(1963年)
- 『娘が嫁に行くと云う』(1972年)
- 『わかい東京』(1974年)
- 『追憶』(1974年)
- 『郷愁』(1974年)
- 『若人の街』(1974年)
- 『さつきの歌』/作曲も担当『城愁』(1981年) 作曲も担当
- 『ふるさとに歌う津軽岬』作曲も担当/『ギターが私の胸で』(1981年)
- 『ブンガワン・ソロ』(1981年) 訳詩も担当/『ふるさとの雲』(1981年)
- 『爽やかに熱く』/『ブライダルベール』(1982年)
- 『飛鳥は逝ける』/『こけしの歌』(1983年) 作曲も担当
- 『鎌倉抒情』/『鎌倉ソング』(1988年)
- 『故郷よ心も姿も美しく』(1990年) 作曲も担当
- 『お婆さんのお母さんの歌』(1990年) 作曲も担当
- 『走れ跳べ投げよ』(1990年) 作曲も担当
- 『心のとびら』(1992年)
- 『赤坂宵待草』作曲も担当/『歓喜の歌』訳詩も担当 - (1992年)
- 『今日も幸せありがとう』(1993年) 作曲も担当
7.2. 主な作曲作品
藤山一郎が自ら作曲した作品には、多岐にわたる分野の楽曲がある。
- 『ラジオ体操の歌(3代目)』
- 『シンガポール日本人学校校歌』
- 『川越市立霞ヶ関小学校校歌』
- 『川越市立霞ヶ関西小学校校歌』
- 『川越市立霞ヶ関西中学校校歌』
- 『朝霞市立朝霞第一小学校校歌』
- 『朝霞市立朝霞第六小学校校歌』
- 『新座市立新座中学校校歌』
- 『志摩市立和具中学校校歌』
- 『浜松市立蜆塚中学校校歌』
- 『諏訪市立諏訪南中学校校歌』
- 『新座音頭』
- 『慶應義塾女子高等学校校歌』
- 『駿台甲府高等学校校歌』
- 『穎明館中学高等学校校歌』
- 『阪急ブレーブス応援歌』
- 『西鉄ライオンズの歌』
- 『お誕生日の歌』(パルナス製菓CMソング)
- 『名鉄運輸株式会社社歌』
- 『大日本印刷株式会社社歌』
- 『東洋陶器株式会社社歌』
- 『三越社歌』
- 『松下電工株式会社社歌』(「パナソニック電工」へ社名変更された際、社歌は他曲に変更された)
- 『めぐろ・みんなの歌』(目黒区歌)
- 『鐘紡われら』(カネボウ社歌)
- 『お母さんのお顔』
- 『広島県立広高等学校 生徒歌』
- 『帯広大谷高等学校校歌』
- 『全日本軟式野球連盟 連盟歌』
- 『北海道鹿追高等学校校歌』
- 『Kラインの歌』
- 『甲斐市立敷島南小学校校歌』
- 『甲斐市立竜王北小学校校歌』
- 『新座市立第五中学校校歌』
8. 死去と追悼

藤山一郎は晩年も精力的に活動を続けた。1993年(平成5年)5月20日には、赤坂御苑で開かれた園遊会に出席。7月22日にはNHKホールで公開収録された『第25回思い出のメロディー』に出演し『青い山脈』を歌唱した。この番組は同年8月14日にNHK総合で放送された。7月28日には、東京都内のスタジオでのレコーディングに参加し、自身が作曲した『今日も幸せありがとう』を歌唱した。翌7月29日には自宅でテレビ東京のインタビュー収録を行った。
しかし、その数週間後の8月21日、急性心不全のため死去した。82歳であった。3日後の8月24日に葬儀が執り行われ、その功績から従四位に叙せられた。
藤山の遺品は遺族からNHKに寄贈され、NHK放送博物館の「藤山一郎作曲ルーム」に展示されている。NHK以外にも、埼玉県与野市の市歌「与野市民歌」を歌唱した縁で与野市にも遺族から遺品が寄贈され、その一部は与野市図書館(現在のさいたま市立与野図書館)とさいたま市与野郷土資料館に展示されている。
藤山の墓は静岡県の冨士霊園にあり、墓碑には富士山の絵と漢字の「一」、ひらがなの「ろ」が刻まれており、合わせて「藤山一郎」と読むことができる。また、藤山が作曲した『ラジオ体操の歌』の楽譜(2小節分)と歌詞も刻まれている。
9. 年譜
藤山一郎の生涯における主要な出来事を年代順に整理すると以下の通りである。
- 1911年(明治44年)4月8日:東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)に生まれる。
- 1929年(昭和4年)4月:東京音楽学校予科声楽部に入学。
- 1931年(昭和6年)7月:藤山一郎として音楽学校在学中にコロムビアからデビュー。
- 1933年(昭和8年)3月:東京音楽学校本科声楽部を首席で卒業、ビクターの専属歌手となる。
- 1936年(昭和11年):テイチクの専属歌手となる。
- 1939年(昭和14年):コロムビアの専属歌手となる。
- 1940年(昭和15年)4月:結婚。
- 1943年(昭和18年)2月 - 7月:南方への慰問団に参加。
- 1943年(昭和18年)11月 - 1945年8月:再び南方への慰問団に参加。
- 1945年(昭和20年)8月 - 1946年7月:インドネシアで捕虜生活を送る。
- 1946年(昭和21年)7月25日:日本へ帰国。
- 1952年(昭和27年):日本赤十字社特別有功章を受章。
- 1954年(昭和29年):コロムビア専属契約を終え、NHKの嘱託となる。
- 1958年(昭和33年):NHK放送文化賞を受賞。
- 1959年(昭和34年):社会教育功労章を受章。
- 1973年(昭和48年):紫綬褒章を受章。
- 1974年(昭和49年):日本レコード大賞特別賞を受賞。
- 1982年(昭和57年):春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。
- 1992年(平成4年)5月28日:国民栄誉賞を受賞。
- 1993年(平成5年)8月21日:死去。従四位に叙位された。
10. 大衆文化における描写
藤山一郎は、その生涯と功績が日本の大衆文化において様々な形で描かれてきた。
- 柿澤勇人**:2020年(令和2年)にNHK総合で放送された連続テレビ小説『エール』では、藤山一郎をモデルとした「山藤太郎」の役を柿澤勇人が演じた。
- NYC Boys**:2009年の第60回NHK紅白歌合戦では、NYC Boysが「紅白60回記念NYCスペシャル」のメドレーの一部として、『青い山脈』を歌唱した。