1. 概要

西澤潤一(にしざわ じゅんいち、Jun-ichi Nishizawa英語、1926年9月12日 - 2018年10月21日)は、日本の工学者、発明家であり、東北大学名誉教授、日本学士院会員である。彼は1950年代からPINダイオード、静電誘導トランジスタ(SIT)、静電誘導サイリスタ(SITh)といった画期的な半導体素子を発明し、「日本マイクロエレクトロニクスの父」または「ミスター半導体」と称される。
西澤の専門は電子工学と通信工学であり、半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の分野で数々の独創的な業績を上げた。彼の発明は、後のインターネット技術や情報化時代の発展に大きく貢献した。特に、半導体レーザーの提案や光ファイバー通信の提唱、集束型光ファイバー(GI型光ファイバー)の開発は、現代の通信インフラの基盤を築いた。また、イオン注入法などの半導体製造プロセス技術も発明し、半導体産業の発展に不可欠な貢献を行った。
彼は生涯で1000件以上の特許を個人名義で登録し、その数は半導体関連の特許保有件数として世界最多とされる。学術界では東北大学総長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長、上智大学特任教授を歴任し、教育機関の運営にも尽力した。彼の独創的な思想と、既存の権威に挑戦する姿勢は、多くの研究者や技術者に影響を与えた。2002年には、彼の業績を称えて米国電気電子学会(IEEE)により「IEEE Jun-ichi Nishizawa Medal」が創設され、20世紀の天才の一人として認められている。
2. 生い立ち
西澤潤一は、宮城県仙台市で、東北帝国大学教授であった父・西澤恭助の第二子、長男として生まれた。幼少期から物事の本質を深く探求する傾向があり、例えば「1+1はなぜ2になるのか」といった問いに疑問を抱き、リンゴとミカンは異なる物体であるため単純に足し合わせることはできないと考えるなど、既存の概念に囚われない独創的な思考の萌芽が見られた。絵画を趣味とし、旧制宮城県仙台第二中学校では絵画部に所属していた。14歳から24歳の間に121枚の水彩画やペン画などを残しているが、その後は研究に没頭し、自ら筆を執る機会は少なくなった。
2.1. 出生と幼少期
西澤潤一は1926年9月12日に仙台市で誕生した。彼の父、西澤恭助は竹本油脂創業家である7代目竹本長三郎の次男として生まれ、後に東京牛込の地主であった西沢金次郎の養子となった人物である。金次郎は薬屋の丁稚から番頭に出世し、主家の娘と結婚して独立、土地を購入して大家業を成功させた。金次郎の旧姓は阿部であり、貧しい士族であった元金沢藩士・西沢家の戸籍を買い取り、西沢姓を名乗るようになった。潤一の母方の祖母であるやゑも、金次郎の妻の妹であり、邑田資生堂の娘であった。邑田資生堂は明治時代に元祖資生堂からのれん分けした店舗の一つである。
父・恭助は九州帝国大学工学部応用化学科を卒業し、1922年に同大学初の工学博士となった。九州帝国大学勤務の後、東北帝国大学助教授(後に教授)に就任し、油脂分解剤と硫酸化油に関する開拓的な研究を進め、1928年にその研究成果を発表した。1935年には実家である竹本油脂で界面活性剤製造の技術指導を行った。恭助は第10代工学部長を務め、1955年に退官し、103歳で逝去するまで潤一を子供扱いし、その言葉は絶対であったという。潤一の弟である西澤泰二は金属工学者であり、東北大学名誉教授である。
2.2. 学歴
西澤は1945年4月、内申書のみで東北帝国大学工学部電気工学科に入学した。本心では理学部で原子核研究や数学基礎論を志望していたが、父親の許可が得られなかったため、電気工学の道に進むことになった。
卒業研究で研究室を選ぶ際、父・恭助(工学部化学工学科教授)が電気工学科教授の抜山平一に相談し、抜山は渡辺寧の研究室を推薦した。この推薦が、西澤が半導体固体素子の研究の道に進むきっかけとなった。彼は渡辺寧に師事し、1948年に学士号、1960年に工学博士号を東北大学から取得した。渡辺は当時、国内の電子工学研究の指導的立場にあり、米軍関係者との接触を通じて、ベル研究所による点接触型トランジスタの発明(1947年)など、米国での半導体研究に関する情報を国内でいち早く入手することができた。西澤が研究者としての道を歩み始めた時期は、ちょうど渡辺が半導体の研究を開始した時期と重なっていた。
2.3. 初期経歴と研究
大学院特別研究生の制度を利用して研究を続けた西澤は、この時期の1950年に独自のpin接合構造を考案し、半導体デバイスとしてPINダイオード、静電誘導トランジスタ、pnipトランジスタを発明した。また、半導体プロセスにおいて重要なイオン注入法も発明している。
新たな学説を発表した西澤であったが、学界では定説と異なるとされ、攻撃を受けることもあった。師である渡辺寧はこのような状況を考慮し、西澤が書き上げた論文を預かり、対外発表をしばらく控える時期もあった。大学院特別研究生を修了した後、1953年4月に東北大学電気通信研究所に助手として任用された。その後、1954年5月に助教授、1962年12月には教授に昇進し、定年退官まで同研究所で研究開発と教育に従事した。
西澤は1983年4月から1986年3月まで、そして1989年4月から1990年3月まで、東北大学電気通信研究所長を務めた。彼の指導した学生には、フラッシュメモリー発明者の舛岡富士雄、MEMS研究者の江刺正喜、メモリ研究の小柳光正、マーチングメモリの中村維男らがいる。また、西澤の研究室に所属した教員としては、半導体プロセスとクリーンルーム研究の大見忠弘がいる。
西澤と渡辺らが持つPINダイオードなどの特許権を基に、1961年に財団法人半導体研究振興会が設立された。この振興会は産業界からの寄付を得て、1963年には半導体研究所を設立し、大学の外部でも西澤が主導する形で研究が進められた。西澤は日本学士院賞受賞に際し、直接の面識や指導を受けたことのない八木秀次の推薦を受けている。
3. 主要な発明と業績
西澤潤一は、半導体電子工学の分野において、革新的な理論とデバイスを数多く発明し、現代の情報通信技術の基盤を築いた。彼の業績は、半導体素子、光通信技術、半導体プロセス技術の三つの主要な柱に分けられる。
3.1. 半導体素子の発明
西澤は、半導体から絶縁体へのホットエレクトロン注入理論を独自に考案し、これに基づいてpn接合に絶縁体(i:insulator)層を挟んだpin構造を持つ電子デバイスを開発した。
- PINダイオードの開発(1950年)**: 西澤が最初に考案したpin接合構造を持つダイオードで、高速応答性と高耐圧性を特徴とする。この技術は後にPINフォトダイオード(1953年)にも応用され、光検出器として重要な役割を果たした。
- 静電誘導トランジスタ(SIT)の開発(1950年)**: 西澤と渡辺寧によって発明されたこのトランジスタは、従来のバイポーラトランジスタや電界効果トランジスタとは異なる原理で動作し、高周波特性と高出力特性に優れる。pnipトランジスタ(1950年)やpnipドリフトトランジスタ(1954年)、走行時間負性抵抗トランジスタ(1954年)なども同時期に開発された。
- 電子なだれ電流増幅トランジスタ開発(1951年)**および**半導体中のなだれ現象の発見(1952年)**: これは、半導体デバイスにおける高利得増幅の可能性を示し、後のアバランシェフォトダイオード(1952年)の開発につながった。アバランシェフォトダイオードは、微弱な光信号を高感度で検出できるため、光通信において不可欠な素子となった。
- 静電誘導サイリスタ(SITh)の開発(1971年)**: SITの原理を応用したサイリスタであり、高耐圧・大電流特性を持つため、電力制御や高電圧スイッチング用途で利用される。MOSSITの提案(1971年)や両面ゲート静電誘導サイリスタ、理想型SITなども彼の研究成果である。
- その他の半導体素子**: 1955年には固体メーザーを発明し、1957年には半導体インダクタンス、1958年にはタンネットダイオード、1959年には可変容量ダイオード、1960年にはフォトカプラを開発した。また、1968年にはFETの飽和特性を解明するなど、半導体デバイスの基礎理論にも貢献した。
3.2. 光通信技術の開発
西澤は、現代の光通信の基礎を築いた先駆者の一人である。彼は光通信を構成する「発光素子」「伝送路」「受光素子」の三要素すべてにおいて画期的な貢献を果たした。
- 半導体レーザーの発明提案(1957年)**: アーサー・シャウローとチャールズ・タウンズが光学メーザーに関する初の論文を発表する1年前に、西澤は半導体レーザー(半導体光学メーザー)の概念を提案し、日本で特許出願を行った。これは、光通信における光源の基礎を確立するものであった。また、レーザーディスクの原理も1957年に提案している。
- 光ファイバー通信の提唱(1963年)**: 西澤は、光ファイバーを光通信の伝送路として利用する「光ファイバー通信」の概念を世界に先駆けて提唱した。
- 集束型光ファイバー(GI型光ファイバー)の開発(1964年)**: 半導体レーザーからの光を効率的に伝送するための媒体として、西澤は屈折率が中心から周辺に向かって連続的に変化する集束型光ファイバー(Graded-index fiberGI型光ファイバー英語)を開発し、1964年に特許を取得した。この発明により、光信号の長距離・高速伝送が可能となり、光通信の実用化に大きく貢献した。
- テラヘルツ波発生の提案(1963年)**: 分子振動や格子振動(フォノン)を利用したテラヘルツ波発生の概念を提案した。これは、後のテラヘルツ波技術の発展の基礎となった。
- 超高速広帯域光変調器**や**半導体ラマンレーザー**の研究も行った。
3.3. 半導体プロセス技術
西澤は、半導体デバイスの製造に不可欠なプロセス技術の分野でも重要な貢献をした。
- イオン注入法の開発(1950年)**: 半導体に不純物を導入する手法として、西澤はイオン注入法を発明した。これは、半導体の電気的特性を精密に制御するための画期的な技術であり、現代の半導体製造において広く用いられている。
- エピタキシャル成長技術の開発**: 半導体の結晶成長において、エピタキシャル成長の様々な手法を開発した。
- 化学量論的組成制御法の開発(1951年)
- エレクトロエピタキシの発明(1954年)
- 温度差法によるシリコンのエピタキシャル成長(1963年)
- GaAs(ガリウムヒ素)の蒸気圧液相成長法(1971年)
- 蒸気圧制御温度差液相成長法の発明(1972年)
- ストイキオメトリ制御された結晶成長法(1973年)
- 光励起エピタキシャル成長法(1984年)
- 光励起分子層エピタキシャル成長法(PMLE)(1984年)
- GaAs完全結晶成長法
- 化合物結晶の分子層エピタキシャル成長およびドーピング
- 製造装置に関する技術**: これらのプロセス技術に使用する製造装置に関する特許も多数取得し、半導体産業の発展を多角的に支援した。
- 高輝度発光ダイオードの開発**: 半導体の結晶成長技術の成果として、高輝度発光ダイオード(赤色、緑色)を開発した(1976年)。
3.4. その他の発明と研究
西澤の多岐にわたる研究は、上記以外にも多くの重要な発明と提案を含んでいる。
- 固体メーザー(1955年)**: レーザーの前身となるメーザーの固体版を開発した。
- タンネットダイオード(1958年)**: 高周波発振に用いられるダイオード。
- 可変容量ダイオード(1959年)**: 電圧によって静電容量が変化するダイオードで、電圧制御発振器などに利用される。
- フォトカプラ(1960年)**: 光を利用して電気信号を伝送する素子で、電気的な絶縁が必要な回路に用いられる。
- テラヘルツ波による癌診断・治療の提案(2000年)**: 未開拓であったテラヘルツ波の医学応用について先駆的な提案を行った。
- THz帯ショットキ・ダイオード**や**準光学的共振器を用いたミリ波多素子発振器**、**光励起プロセスによる原子層オーダーのGaAsエッチング技術**、**極薄金属分子層堆積**など、基礎研究から応用研究まで幅広い分野で貢献した。
3.5. 特許と知的財産
西澤潤一は、その生涯で1000件以上の特許を個人名義で登録しており、これは半導体関連の特許保有件数として世界最多であるとされている。彼の特許は、半導体デバイス、製造プロセス、光通信技術など、多岐にわたる分野をカバーしている。
彼は弁理士に依頼せず、自ら出願書類を執筆していた。しかし、このことが原因で困難に直面することもあった。例えば、光ファイバーの特許出願は、書類不備のために特許庁に差し戻され、ようやく特許出願公告が出た後も異議申立てを受け、最終的に拒絶査定となり、長期にわたる裁判係争の末、期限切れとなってしまった。
西澤は、日本企業が日本人研究者の業績を軽視することに強い不満を抱いていた。彼自身の経験として、PINダイオードの特許は、米国で特許を持つゼネラル・エレクトリック(GE)よりも先に日本で出願され成立していたにもかかわらず、日本企業は特許調査を怠り、GEに特許料を支払っていたという。さらに、西澤の特許が日本で有効であることが知れ渡ってからも、ほとんど特許料が支払われることはなかった。このため、前述の半導体研究振興会の設立時に、この特許を基に企業から総額7000.00 万 JPYの出資を得たものの、西澤は「向こう(GE)に払っていた分と比べたら随分ディスカウントさせられた」と語っている。この経験から、彼は日本の技術開発の問題点として「日本人に独創性がないのではない。同胞の成果を評価しないし工業化もしないのが問題」であると批判していた。
4. 学術活動と経歴
西澤潤一は、研究者としての卓越した業績に加え、教育者および大学経営者としても多大な貢献を果たした。彼は東北大学をはじめとする複数の大学で要職を歴任し、学術研究の振興と次世代の育成に尽力した。
4.1. 教授職と研究活動
西澤は1953年4月に東北大学電気通信研究所の助手としてキャリアをスタートさせ、1954年5月に助教授、1962年12月には教授に昇進した。その後、1983年4月から1986年3月まで、そして1989年4月から1990年3月まで、東北大学電気通信研究所長を務め、研究所の研究活動を主導した。
また、1968年5月には財団法人半導体研究振興会が設立した半導体研究所の所長に就任し、大学の枠を超えた研究活動を推進した。彼の研究室からは、フラッシュメモリー発明者の舛岡富士雄、MEMS研究者の江刺正喜、メモリ研究の小柳光正、マーチングメモリの中村維男など、多くの著名な研究者や技術者が育った。
4.2. 大学総長および学長歴任
東北大学を定年退官した後も、西澤は日本の高等教育機関の発展に深く関与した。
- 東北大学総長(1990年11月 - 1996年)**: 大谷茂盛総長の在職死去に伴い、第17代総長に就任。大学の運営と改革に尽力した。
- 岩手県立大学学長(1998年4月 - 2005年4月)**: 1998年に新設された岩手県立大学の初代学長を務め、その礎を築いた。2005年8月には岩手県立大学名誉学長の称号を授与された。
- 首都大学東京学長(2005年4月 - 2009年)**: 2005年に東京都立大学、東京都立科学技術大学、東京都立保健科学大学、東京都立短期大学の4大学を統合して設立された首都大学東京の初代学長に就任し、新大学の立ち上げと発展に貢献した。
- 上智大学特任教授(2005年8月 - )**: 首都大学東京学長と並行して、上智大学の特任教授も務め、教育活動を継続した。
4.3. 研究振興活動
西澤は、学術研究および産業発展を促進するための個人的な活動や、様々な組織での役職を通じて、日本の科学技術振興に貢献した。
- 財団法人半導体研究振興会の設立を主導し、産業界からの寄付を得て半導体研究所を設立した。
- 日本学術振興会21世紀COEプログラムプログラム委員会委員(2006年度)を務めた。
- 社団法人日本工学アカデミー名誉会長(2002年 - 2006年)、社団法人先端技術産業戦略推進機構会長、財団法人松前国際友好財団理事、財団法人斎藤報恩会理事、財団法人警察協会理事、財団法人東北大学研究教育振興財団理事長、社団法人学術・文化・産業ネットワーク多摩理事、財団法人カシオ科学振興財団理事、國語問題協議會評議員、社団法人日中科学技術文化センター名誉会長、財団法人2007年ユニバーサル技能五輪国際大会日本組織委員会副会長、財団法人尾崎行雄記念財団評議員、財団法人東北開発記念財団理事、日本ヒートアイランド学会最高顧問、財団法人科学技術交流財団顧問、財団法人全日本地域研究交流協会顧問、社団法人原子燃料政策研究会会長、財団法人七十七ビジネス振興財団理事、財団法人半導体研究振興会理事、財団法人地球環境戦略研究機関顧問、財団法人マツダ財団評議員、特定非営利活動法人全日本自動車リサイクル事業連合名誉顧問、文理シナジー学会顧問、特定非営利活動法人ITSSユーザー協会会長、財団法人インテリジェント・コスモス学術振興財団理事長、財団法人世界平和研究所顧問など、数多くの要職を歴任した。
5. 思想と哲学
西澤潤一は、その生涯を通じて「独創」の重要性を説き、既存の権威や定説に挑戦する姿勢を貫いた。彼の思想は、技術開発の方向性や産業界の役割、そして日本社会のあり方に対する批判的な視点にまで及んだ。
5.1. 独創性と革新論
西澤は、他者の追随ではなく、自ら未開の境地を開拓する「独創」こそが真の研究であると主張した。彼は「独創を成すには異端であらねばならない」と語り、学界の定説や既成概念に囚われず、自らの信念に基づいて研究を進めることの重要性を強調した。
若い頃、半導体研究の初期に文献にあった黄鉄鉱による固体増幅素子(トランジスタ)の実験に失敗した経験がある。また、明るい発光ダイオードの実現は不可能であるという当時の定説を覆し、高輝度赤色発光ダイオードを開発した。さらに、ガラス(誘電体)中に光波を通す光通信を提唱した際には、学界の権威から論難された経験も持つ。こうした経験が、彼の「独創」を重んじる哲学を形成した。彼はまた、常に物事を疑い、本質を追求する懐疑主義を推奨していた。
5.2. 技術開発への視点
西澤は、日本の技術開発のあり方に対して、時に厳しい批判的な見解を示した。彼は、日本企業が日本人研究者の業績を軽視する傾向にあることに不満を露わにしていた。彼自身のPINダイオードの特許に関する経験は、この批判の根拠となっている。彼は「日本人に独創性がないのではない。同胞の成果を評価しないし工業化もしないのが問題」だと語り、日本が自国の技術と研究者を正当に評価し、それを産業化する能力に欠けていると指摘した。
また、西澤は国際的な視点から技術開発の未来を予測していた。1970年代中期には、韓国のサムスン会長イ・ビョンチョルが、日本訪問の際に西澤が教授として在籍する東北大学を何度も訪れ、教えを求めた。1990年には、西澤は半導体産業を主導する国家が日本から韓国に移り、中国を経てベトナムへと移行すると発言した。2018年には朝鮮日報がこれを「一種予言のような言葉」だと評価している。
6. 私生活と家族
西澤潤一は、多忙な研究生活の傍ら、家族との関係を大切にし、また個人的な趣味や芸術への深い関心を持っていた。
6.1. 家族関係
西澤の妻は竹子といい、早川種三の次女である。竹子の母方従妹の子には盛田昭夫がいる。長女は高橋恵子といい、外交官の高橋恒一の妻である。西澤は、半導体の主流がゲルマニウム(Ge)からシリコン(Si)に変わりつつあったことにちなみ、娘を「珪子」と命名したかったが、当時の常用漢字の使用制限により叶わなかったという。高橋恵子は2024年に『ミスター半導体 西澤潤一を父として』を上梓し、父の生涯と業績を振り返っている。
また、西澤のはとこには、作曲家・編曲家・シンセサイザー奏者の冨田勲がいる。
6.2. 趣味と関心事
西澤は、幼少期から絵画を描くことを趣味としていた。旧制宮城県仙台第二中学校では絵画部に入部し、後年、14歳から24歳の間に121枚もの水彩画やペン画などを残していたことが発見されている。しかし、それ以降は研究に忙殺され、自ら筆を執る機会はほとんどなかった。
彼はクロード・モネの熱心な愛好家でもあった。1971年にパリのマルモット美術館を訪れた際、モネの代表作である『睡蓮』の絵が、水面に空が映っている部分が上下逆さまに展示されていることに気づいた。翌年もそのままであったため、彼はこの件を指摘し、フランスの著名な新聞であるル・モンド紙に取り上げられたことがある。
また、若い頃から8ミリフィルムで映像を撮影するのが趣味だった。古いものでは、昭和30年(1955年頃)の研究室の様子を撮影した映像なども残されており、これらのフィルムは西澤の研究室に資料として保管されている。
7. 受賞歴と栄誉
西澤潤一は、その独創的な研究と技術開発における多大な貢献により、国内外から数多くの学術賞、技術賞、そして栄誉を授与された。
7.1. 主要な学術賞
- 科学技術庁長官奨励賞**(1965年10月19日): 「不純物不均一半導体」に対して。
- 恩賜発明賞**(1966年4月22日): 「不純物不均一半導体」に対して。
- 松永賞**(1969年12月1日): 「半導体デバイスの研究」に対して。
- 科学技術庁長官奨励賞**(1970年11月2日): 「半導体メーサー」に対して。
- 大河内記念技術賞**(1971年4月13日): 「合金拡散法によるシリコン可変容量ダイオードの開発」に対して。
- 日本学士院賞**(1974年6月10日): 「半導体及びトランジスタの研究」に対して。
- 科学技術功労賞**(1975年4月15日): 「静電誘導電界効果トランジスタの開発」に対して。
- 電子情報通信学会業績賞**(1975年5月10日): 「新しい三極管特性を有する高性能トランジスタ」に対して。
- 東北地方発明賞宮城県支部長賞**(1975年10月1日): 「位置の制御装置」に対して。
- 大河内記念技術賞**(1980年3月10日): 「高輝度発光ダイオードの連続成長技術の開発について」に対して。
- 特許庁長官奨励賞**(1980年10月3日): 「連続液相成長による半導体デバイスの製造方法及び製造装置」に対して。
- 井上春成賞**(1982年7月7日): 「高輝度発光ダイオードの連続製造技術」に対して。
- IEEEジャック・A・モートン賞**(1983年12月6日): 「SIT(静電誘導トランジスタ)の開発と光通信の基本3要素」に対して。
- 朝日賞**(1984年): 「光通信と半導体の研究」に対して。
- 本田賞**(1986年): 「PINダイオード、静電誘導トランジスタなどを発明したほか光通信技術の応用発展に寄与」に対して。
- IOCGローディス賞**(1989年)。
- 大川賞**(1996年): 「材料科学の独創的研究と半導体工学の発展および光通信の先駆的業績と多大な貢献」に対して。
- IEEEエジソンメダル**(2000年)。
7.2. 国内および国際的な顕彰
- 紫綬褒章**(1975年10月29日): 「完全結晶と静電誘導トランジスタ」に対して。
- 文化功労者**(1983年11月3日): 半導体工学の分野で。
- 文化勲章**(1989年11月3日): 電子工学の分野で。
- 宮城県名誉県民**(1990年)。
- 勲一等瑞宝章**(2002年)。
- 米国電気電子学会(IEEE)終身フェロー**。
- 日本物理学会、ロシア科学アカデミー、ポーランド科学アカデミーのフェロー**。
8. 影響と評価
西澤潤一の発明と研究は、現代の科学技術、社会、そして産業に計り知れない影響を与えた。彼の先見の明と独創性は高く評価される一方で、その先進性ゆえに理解を得られず、困難に直面することもあった。
8.1. 科学技術への影響
西澤の発明は、マイクロエレクトロニクスの発展に不可欠な基盤を築いた。彼の開発したPINダイオード、静電誘導トランジスタ、静電誘導サイリスタといった半導体素子は、現代の電子機器の小型化、高性能化、省エネルギー化に大きく貢献した。
特に、半導体レーザーの提案、光ファイバー通信の提唱、集束型光ファイバーの開発といった光通信分野での業績は、情報化時代の到来とインターネット技術の発展に決定的な役割を果たした。これらの技術は、高速大容量通信を可能にし、現代社会における情報アクセスとグローバルなコミュニケーションの基盤となっている。彼の研究は、テラヘルツ波発生の提案など、新たな科学技術分野の開拓にもつながった。チャールズ・カオが2009年にノーベル物理学賞を受賞した光ファイバーの研究は、西澤の研究と密接に関連しており、彼の業績の重要性を示唆している。
8.2. 社会および産業への影響
西澤の技術は、現代社会の通信、情報アクセス、産業構造に実質的な影響を与えた。彼の発明がなければ、現在のブロードバンドインターネットや携帯電話、光回線といった通信インフラの普及は遅れたであろう。
彼は日本の産業界に対して、厳しい批判的な見解を持っていた。特に、日本企業が日本人研究者の独創的な成果を正当に評価せず、産業化に繋げない傾向があることを問題視した。彼自身の特許が軽視され、海外企業に特許料が支払われる一方で、国内ではほとんど評価されなかった経験は、この批判の根拠となっている。西澤は、「日本人に独創性がないのではない。同胞の成果を評価しないし工業化もしないのが問題」だと語り、日本の技術開発における内向きな姿勢を指摘した。
一方で、彼の先見の明は海外の産業界に影響を与えた。1970年代中期には、当時日本の半導体技術に注目していた韓国のサムスン会長イ・ビョンチョルが、西澤が教授として在籍していた東北大学を何度も訪れ、半導体産業に関する教えを求めた。西澤は1990年に、半導体産業を主導する国家が日本から韓国に移り、中国を経てベトナムへと移行するという予測を立てており、これは「一種予言のような言葉」として後に評価された。
8.3. 評価と批判
西澤潤一は、その独創的な着想が時代を先取りしすぎていたため、若い頃は学界で理解者に恵まれず、同業の研究者からの攻撃や研究資金獲得の困難に見舞われることが度々あった。彼のアイデアが、海外、特にアメリカによって先に開発されてしまうことも少なくなかった。
しかし、彼の業績は国際的に高く評価されている。米国電気電子学会(IEEE)は、西澤を「20世紀の天才の一人」と称賛しており、2000年にはIEEEエジソンメダルを授与した。彼の独創性、革新性、そして科学技術と社会への貢献は、現代のデジタル社会を形成する上で不可欠なものであったと広く認識されている。
9. 記念と追悼
西澤潤一の類稀なる業績を記念し、彼の名を冠した国際的な賞が創設されている。
9.1. IEEE 潤一西澤メダル
米国電気電子学会(IEEE)は、西澤潤一の半導体および電子デバイス分野における顕著な貢献を称え、2002年に「IEEE Jun-ichi Nishizawa Medal」を創設した。このメダルは、電気事業連合会の後援によって設立され、電子デバイスとその材料科学の分野で顕著な貢献をした個人や団体を顕彰することを目的としている。この賞は、西澤が20世紀の科学技術発展に与えた影響の大きさと、彼が国際的に認められた天才であることを示している。
西澤は2018年10月21日に仙台市で92歳で逝去した。彼の死は、日本の科学技術界に大きな喪失感を与えたが、その業績と哲学は後世に多大な影響を与え続けている。
10. その他の情報
10.1. 著書
西澤潤一は、自身の研究成果や哲学、社会に対する見解などを多数の著書を通じて発表している。
- 『闘う独創技術』(日刊工業新聞社)1981年5月
- 『愚直一徹 - 私の履歴書 -』(日本経済新聞社)1985年10月
- 『独創は闘いにあり』(プレジデント社)1986年2月、のち新潮社(新潮文庫)1989年2月
- 『西澤潤一の独創開発論』(工業調査会)1986年3月
- 『「技術大国・日本」の未来を読む』(PHP研究所)1989年9月
- 『私のロマンと科学』(中央公論社、中公新書)1990年3月
- 『独創教育が日本を救う』(PHP研究所)1991年8月
- 『人類は滅亡に向かっている』(潮出版社)1993年12月
- 『東北の時代 - もはや一極集中の時代ではない』(潮出版社)1995年4月
- 『教育の目的再考』(岩波書店)1996年4月
- 『新学問のすすめ - 21世紀をどう生きるか』(本の森)1997年9月
- 『背筋を伸ばせ日本人』(PHP研究所)1999年6月
- 『人類は80年で滅亡する』(東洋経済新報社)2000年2月
- 『教育亡国を救う』(本の森)2000年8月
- 『赤の発見 青の発見』(白日社)2001年5月
- 『日本人よロマンを』(本の森)2002年10月
- 『戦略的独創開発』(工業調査会)2006年4月
- 『生み出す力』(PHP研究所、PHP新書)2010年8月
- 『わたしが探究について語るなら』(ポプラ社)2010年12月