1. Overview
謝長廷(Frank Hsieh英語、謝長廷しゃ ちょうてい中国語、1946年5月18日生まれ)は、台湾の政治家、弁護士。民主進歩党の共同設立者の一人であり、同党の要職を歴任し、台湾の民主化と社会発展に大きく貢献した。
1980年の美麗島事件では被告人の弁護を担当し、その後の政治活動の道を歩む。台北市議会議員、立法委員を経て、1998年から2期にわたり高雄市長を務め、愛河の水質改善や高雄捷運の建設など、都市の発展と環境改善に多大な功績を挙げた。2005年には行政院長に就任し、統治の中心を担った。2008年の総統選挙では民主進歩党の候補として出馬したが、落選した。
その後、2012年には中国大陸を訪問し、「九二共識」に代わる「憲法各表」を提唱するなど、両岸関係の新たな対話モデルを模索した。2016年から2024年まで駐日代表を務め、日本との関係強化に尽力し、福島県産食品の輸入制限解除に関する議論に取り組むなど、外交面でもその手腕を発揮した。彼は「和解と共生」の政治哲学を掲げ、同性婚支持など社会問題にも積極的に関わり、台湾の多元的な価値観の推進に貢献している。
2. Early life and education
謝長廷の生い立ちから初期の学業、そして弁護士としてのキャリアは、後の政治活動の基盤を築いた。
2.1. Childhood and academic background
謝長廷は1946年5月18日、台北市の大同区(旧延平区)の打鉄街で、漢方医の五人兄弟の次男として生まれた。幼少期は食料品販売の仕事も手伝っていた。中学時代から器械体操に打ち込み、高校時代には台湾省運動会(日本の国体に相当)の吊り輪競技で優勝を果たすなど、運動能力に秀でていた。
彼は国立台湾大学法学部で法学士号を取得し、その後、予備士官教育を経て国立台湾大学大学院法学研究科に1年間在学した。1972年には日本の文部省(当時)奨学生として京都大学大学院法学研究科に留学し、法哲学を専攻した(指導教官は加藤新平)。京都大学では法学修士号を取得し、さらに博士課程に進学したが、単位取得退学している。
2.2. Early legal career
1976年11月、父親の体調不良を理由に台湾に帰国した謝長廷は弁護士としての活動を開始した。彼は姚嘉文らが設立した「中国比較法学会」(現在の台湾法学会)に入会し、ここで後に政治の道を共に歩む陳水扁や蘇貞昌と出会った。
彼の弁護士としてのキャリアにおいて特に重要な転機となったのは、1979年に発生した美麗島事件である。この事件は、戒厳令下の台湾で発生した民主化運動への弾圧事件であり、謝長廷は民主活動家であった姚嘉文を含む被告人たちの弁護を法廷で行った。この経験が、彼が政治家としての道を歩む大きなきっかけとなった。
3. Political career
謝長廷は台湾政界において、民主進歩党の創設から要職の歴任に至るまで、その政治キャリアを大きく発展させた。
3.1. Founding of the Democratic Progressive Party
中華民国では中国国民党による戒厳令が長く敷かれており、新たな政党の結成は禁止されていた。しかし、1986年の民主進歩党設立以前から、謝長廷は陳水扁、林正傑と共に「党外運動」における「三剣客」の一人として知られ、野党勢力の中核を担っていた。彼は「党外編輯作家聯誼會」(編聯会)や「党外公共政策研究会」(公政会)といった「党外」団体の創立に深く関わった。
そして1986年9月28日、これら党外の2団体が結集して民主進歩党が結成された際には、謝長廷が党名の提案者となり、党の綱領草案作成においても中心的な役割を果たした。彼は党の設立に大きく貢献し、その後2000年から2002年までと、2008年に陳水扁の後任として党主席を二度にわたり歴任した。
3.2. Early political activities
謝長廷の初期の政治活動は、台北市議会議員としての職務から始まった。彼は1981年の台北市議選で初当選を果たし、1981年12月25日から1989年12月25日まで二期にわたり台北市議を務めた。その後、1989年の選挙で立法委員に初当選し、1990年2月1日から1996年2月29日まで二期にわたり立法委員として活動した。
1995年の立法委員選挙には再出馬せず、1994年の台北市長選挙の党内予備選に出馬したが、最終的な候補者となった陳水扁に敗れた。しかし、彼は1996年中華民国総統選挙において、彭明敏総統候補と共に副総統候補として出馬した。この選挙では、李登輝と連戦のペアに次ぐ2,274,586票(得票率21.1%)を獲得したが、当選には至らなかった。
3.3. Mayoralty of Kaohsiung
1997年、謝長廷はアレクサンダー一家人質事件における銃撃犯の投降交渉を成功させ、その名が全国的に知られるようになった。この注目度を背景に、彼は1998年12月の高雄市長選挙に出馬し、中国国民党現職の呉敦義を4,565票差で破り、多くの観測を覆して当選を果たした。彼は2002年の市長選挙でも親民党の宋楚瑜が国民党候補の黄俊英を公に支持したにもかかわらず、386,384票(得票率50.04%)を獲得して24,838票差で再選を果たし、2期目を務めた。
高雄市長在任中(1998年12月25日~2005年1月31日)、謝長廷は都市の発展と環境改善に注力し、数々の重要な業績を挙げた。特に顕著なのは、かつて「ゴミの川」と揶揄された愛河の浄化プロジェクトである。1999年に始まった水質改善と河川整備は2002年に完了し、愛河は高雄の象徴として再生された。また、彼は下水道整備による河川や水道の水質改善にも貢献した。
交通インフラの整備にも力を入れ、高雄捷運の建設を主導した。これは高雄の公共交通システムを大幅に強化する事業であり、彼のリーダーシップの下で推進された。さらに、高雄港の管轄権を中央政府から高雄市に移管するよう主張し、港湾都市としての高雄の自立的な発展を支援した。これらの実績により、謝長廷は高雄市民から高い支持を得ており、2004年12月の高雄市による調査では支持率82.6%、聯合報の調査では満足度74%・不満度16%を記録した。
3.4. Premiership
2005年1月、謝長廷は陳水扁政権下で4人目の行政院長に任命された。この人事に伴い、彼は任期途中で高雄市長を辞任した。行政院長としての在任期間は2005年2月1日から2006年1月25日までと短く、その間、彼は「和解と共生」の政治理念を掲げ、野党である国民党や中国大陸との対話を呼びかけたが、大きな成果を上げるには至らなかった。
行政院長就任後、高雄捷運外国人労働者スキャンダルが浮上し、国民党の政治家から辞任要求が出された。そして、2005年12月の統一地方選挙(三合一選挙)で民主進歩党が記録的な惨敗を喫したことを受け、謝長廷は党の敗北の責任を取る形で、わずか1年足らずで行政院長を辞任した。
その後、2006年12月には台北市長選挙に出馬し、「2020年台北オリンピック誘致」などの公約を掲げたが、中国国民党公認候補の郝龍斌に166,216票差(得票率12.92%)で敗れ、落選した。台北は国民党の牙城と見なされており、この敗北は政治生命の危機とも報じられた。
3.5. 2008 Presidential Campaign
2008年中華民国総統選挙において、謝長廷は民主進歩党の有力候補と目されており、2007年2月16日に正式に出馬を表明した。彼は国民党の馬英九候補に続いて二人目の正式表明者であった。2007年5月、民主進歩党の党内予備選挙では、蘇貞昌、呂秀蓮、游錫堃といった有力候補との激しい争いを制し、党員投票で45%の得票を得てトップに立ち、最終的に民主進歩党の総統候補に指名された。副総統候補には蘇貞昌が指名された。
同年7月には「愛と信頼の旅」と銘打ちアメリカ合衆国を訪問した。また、9月には「台湾国」の総統候補として立候補すると公言し、「我々台湾人をまず一つの国家として認識し、それから他国との交渉で望むものを勝ち取ることが重要だ」と述べた。この発言は、馬英九候補から攻撃の対象となった。
選挙戦中、馬英九候補に対するグリーンカード保有疑惑を提起し、馬英九がその放棄を証明すれば出馬を辞退すると述べた。一方、馬英九陣営からの汚職疑惑(後に不起訴)や陳水扁政権下の汚職スキャンダルが逆風となる中、謝長廷は「明治維新」に重ねて「台湾維新」をスローガンに掲げ、落選したら政界を引退すると背水の陣で選挙に臨んだ。
しかし、2008年3月22日に投開票された総統選挙では、中国国民党の馬英九候補に5,444,949票(得票率41.55%)対7,659,014票(得票率58.45%)で敗北し、予想以上の大差(約220万票差)で落選した。選挙の敗北を受け、彼は民主進歩党の党主席を辞任し、その責任を取った。しかし、2010年7月には「政界引退の誓いを破って申し訳ない」と述べつつ、民主進歩党中央常務委員選挙で当選し、政界に復帰した。
3.6. Representative to Japan

2016年3月、謝長廷は蔡英文総統の政権下で駐日代表(事実上の駐日大使)に就任することが報じられ、同年4月27日に自身が声明で正式にこれを認めた。2016年6月3日に総統府から任命の総統府令が公布され、6月9日に着任した。この人事は、過去の中央政府が両岸関係や対米関係を重視してきたのに対し、蔡英文総統が提唱する「新南向政策」の一環として、日本との関係強化を重視する姿勢の表れと評価された。
駐日代表としての外交活動において、彼は東日本大震災後の福島第一原子力発電所事故を受けて課された福島県産食品の輸入制限解除について日本の関係者と議論した。また、2019年4月30日から5月1日にかけて行われた平成から令和への御代替わりと、同年10月22日に皇居で執り行われた即位礼正殿の儀に、日本政府からの正式な招待はなかったものの、参列して来賓として接遇された。
謝長廷は、日本との関係を「困った時に助け合える誠実な関係」と表現し、2016年熊本地震の際には高雄市長らと共に義援金を携えて被災地を訪問した。彼は日本統治時代にインフラ建設が進み、日本の教育を受けた自身の父親の影響を受けたと述べ、日本と相互に利益のある関係を築けると考えている。2024年8月中旬に駐日代表を退任し、李逸洋が後任となった。
4. Political philosophy and cross-strait relations
謝長廷の政治思想は、和解と共生を軸とし、両岸関係においても対話と相互尊重の姿勢を重視する。
4.1. Core political ideology
謝長廷の政治哲学の核心は、「和解と共生」という理念である。彼はこの理念を行政院長在任中に主張し、国内外の様々な問題、特に与野党間や中国大陸との関係において、対話と協調を通じて解決を目指す姿勢を示した。
彼はまた、2000年に「民主進歩党台日友好協会」を結成し、初代団長に就任するなど、日本との関係強化にも積極的である。「知日派の重鎮」と評され、日本統治時代に台湾のインフラが整備され、日本の教育を受けた自身の父親の影響もあって、日本との間に相互に利益ある関係を築くことができると信じている。2007年12月には総統候補として訪日し、母校の京都大学で「日台関係強化の道」と題して講演し、日本版「台湾関係法」の制定を主張した。
4.2. Views on cross-strait relations
謝長廷は、中国大陸との関係において「憲法各表」という独自の提案を行っている。これは、「九二共識」に代わる新たな両岸関係の共通認識を模索するもので、台湾と中国大陸がそれぞれ異なる憲法を持つことを認め、相互の憲法的正当性を尊重することで対話を促進できるという考えである。
2012年10月には、中国共産党とのパイプを民主進歩党にも築くことを目的として、中華人民共和国を5日間にわたり訪問した。これは民主進歩党の最高位級の人物による訪問であったが、彼は私的な立場で訪問したと強調した。彼は福建省の廈門や東山島、そして北京市を訪れ、当時の国務委員である戴秉国や海峡両岸関係協会の陳雲林会長、国務院台湾事務弁公室の王毅主任と相次いで会談した。この訪中では、双方とも「一つの中国」原則を認識しているものの、謝長廷は「憲法各表」の重要性を繰り返し訴えた。
2013年4月には、アメリカ合衆国訪問中に再び「憲法各表」を提唱し、中国大陸に対し、対話のために台湾海峡両岸の相違を受け入れるよう促した。同年6月下旬には香港で開催された「両岸関係の発展と革新」と題するフォーラムに出席し、民主進歩党と中国大陸間の相互信頼の重要性、そして両岸の交流が市民に利益をもたらし、そのニーズに応えるべきであると述べた。
尖閣諸島問題については、中華民国としての立場から「釣魚台(尖閣諸島)は台湾の一部である」との認識を示す一方、「主権と漁業権の問題は分けなければならない」とし、「主権についての協議を暫定的に棚上げする」という現実的な解決策を主張している。
5. Personal life
謝長廷の個人的な側面は、彼の家族、趣味、そして自身のルーツに対する考え方など、多岐にわたる。
彼は游芳枝(游芳枝ヨウ・ファンジー中国語)と結婚しており、二人の間には娘と息子がいる。息子は東引島で兵役に就いた経験があり、2014年からは台北市議会議員を務めている。謝長廷の母親は2007年に亡くなった。
趣味としては、2000年に他の9人の民主進歩党の政治家と共にアルバム『Oh! Formosa』の再リリースで伝統的な台湾の歌を披露したことがある。また、2005年にはオカリナを習得し、自身のアルバムをリリースした。
彼のルーツに関しては、2005年に初めて台湾原住民の血を引いていると主張し、特にブヌン族の音楽を好むと述べた。また、彼は漢民族(ホクロ系)で、七世代にわたる台湾本省人(土生土長の台湾人)である。彼の祖先である謝光玉は福建省の漳州にある東山県(旧詔安県)の村から移住してきたとされる。
6. Legacy and evaluation
謝長廷の政治的キャリアは、台湾社会と政治に多大な影響を与え、その業績は高く評価される一方で、一部には批判や論争も存在する。
6.1. Achievements and positive evaluation
謝長廷の主要な業績と政治的貢献は、台湾の民主化と都市発展に大きく貢献した点にある。彼は美麗島事件の弁護人として、戒厳令下の人権擁護に尽力し、後の民主進歩党の共同設立者として、台湾の多党制民主主義の確立に不可欠な役割を果たした。
特に高雄市長としての功績は顕著である。彼は愛河の浄化プロジェクトや高雄捷運の建設など、大規模な都市開発と環境改善を成功させ、高雄をより住みやすい現代都市へと変革した。これらの取り組みは市民からの高い評価を得ており、彼のリーダーシップと実行力は確固たるものである。
また、行政院長や駐日代表としての役割を通じて、「和解と共生」の政治哲学を国内外に訴え、台湾の国際的地位向上と地域間の対話促進に努めた。同性婚支持など、社会の進歩的価値観を擁護する姿勢は、人権と多様性を重んじる彼の政治的志向を明確に示している。彼の政治家としての歩みは、台湾の民主化と社会の発展に不可欠なものであり、その多くは肯定的に評価されている。
6.2. Criticism and controversies
謝長廷の政治キャリアには、批判や論争も伴った。最も注目されたのは、陳水扁元総統一家の汚職疑惑に関連して提起された議論である。2008年、陳水扁が退任後に汚職スキャンダルに直面した際、彼の娘である陳幸妤は「蘇貞昌と謝長廷、陳菊も父から金銭を受け取った」と公に主張した。これに対し、謝長廷は陳水扁が自身の選挙を支援してくれたことには感謝しつつも、「彼の金銭を受け取ったことはない」とこの疑惑を強く否定した。この問題は彼の清廉潔白さに疑問を投げかけるものとして、一時期、大きな論争を巻き起こした。
また、行政院長在任中の高雄捷運外国人労働者スキャンダルや、2005年統一地方選挙での民主進歩党の惨敗を受けての辞任など、政策運営や選挙結果に対する責任を問われる場面もあった。しかし、これらの批判は、彼の長年にわたる政治活動全体のごく一部に過ぎない。
7. Election Records
年度 | 選挙 | 選挙区 | 所属政党 | 得票数 | 得票率 | 結果 | 当落 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 第4回台北市議員選挙 | 第三選挙区 | 無所属 | 17,823 | 15.03% | 3位 | 当選 |
1985 | 第5回台北市議員選挙 | 19,906 | 15.97% | 4位 | 当選 | ||
1986 | 第1回立法委員第5次増額選挙 | 台北市選挙区 | 民主進歩党 | 23,191 | 11.36% | 5位 | 落選 |
1989 | 第1回立法委員第6次増額選挙 | 台北市第一選挙区 | 107,218 | 19.92% | 1位 | 当選 | |
1992 | 第2回立法委員選挙 | 83,264 | 13.79% | 3位 | 当選 | ||
1996 | 第9期総統・副総統選挙 | 2,274,586 | 21.10% | 2位 | 落選 | ||
1998 | 第2回高雄市長選挙 | 高雄市 | 387,797 | 48.71% | 1位 | 当選 | |
2002 | 第3回高雄市長選挙 | 386,384 | 50.04% | 1位 | 当選 | ||
2006 | 第4回台北市長選挙 | 台北市 | 525,869 | 40.89% | 2位 | 落選 | |
2008 | 第12期総統・副総統選挙 | 5,444,949 | 41.55% | 2位 | 落選 |
8. External links
- [https://web.archive.org/web/20080212140922/http://www.frankhsieh.com/ 謝長廷公式サイト(アーカイブ)]
- [https://www.ly.gov.tw/Pages/List.aspx?nodeid=835 立法院全球資訊網 - 謝長廷委員]
- [https://www.facebook.com/frankcthsiehfans 謝長廷 Facebook]
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