1. 生い立ちと背景
1.1. 幼少期と将棋との出会い
谷川浩司は1962年4月6日に兵庫県神戸市で生まれた。5歳年上の兄・俊昭との兄弟喧嘩が絶えなかったため、父親が喧嘩を止めさせる目的で将棋盤と駒を買い与えたことが、将棋との出会いとなった。ルールは百科事典で調べて覚えたという。将棋を指すうちにその面白さを感じるようになり、兵庫県の大会にも出場するようになった。しかし、将棋を始めても兄弟喧嘩はむしろ激しくなったという逸話があり、負けず嫌いだった谷川は、負けると駒を投げつけたり噛んだりすることもあったという。
小学生時代には、神戸・三宮で行われた将棋イベントで内藤國雄(当時八段)と対局した経験を持つ。この対局について、内藤は谷川の「中盤から終盤への感覚が優れていた」と評し、谷川自身も「大きな自信になった」と後に回顧している。
1.2. 奨励会時代とプロ入り
プロ棋士を目指すことを決意した谷川は、小学5年生の1973年4月に日本将棋連盟の奨励会に5級で入会した。若松政和八段の門下となり、順調に昇級・昇段を重ねていった。しかし、三級から二級への昇級には11ヶ月を要した時期もあり、苦手を克服するための努力も重ねた。
中学2年生だった1976年12月20日、谷川は四段に昇段し、正式にプロ棋士となった。これにより、加藤一二三以来、史上2人目の「中学生棋士」が誕生した。プロ将棋史上、中学2年生以下でプロ入りした棋士は谷川が初めてであった。
なお、兄の俊昭も将棋の才能に恵まれ、灘中学校・高等学校、東京大学の将棋部に在籍し、アマチュア強豪として知られるリコー将棋部でも活躍した。グランドチャンピオン2回、読売日本一、アマ王将3回など、数々のアマチュアタイトルを獲得している。四段時代の羽生善治や佐藤康光にも平手で勝利した記録を持つ。2016年時点ではネスレ日本の神戸本社に勤務している。
2. プロ棋士としてのキャリア
プロ入り後、谷川は輝かしいキャリアを築き、多くのタイトルを獲得し、将棋界に数々の記録を打ち立てた。特に中原誠十六世名人の後継者と目され、1991年度には四冠王を達成した。その後は羽生世代の棋士たちとの激しい戦いを繰り広げ、中でも羽生善治との150局を超える対局は「ゴールデンカード」と称される名勝負の数々を生み出した。
2.1. 昇段履歴
谷川浩司の昇段履歴は以下の通りである。
- 1973年:5級(奨励会入会)
- 1973年12月:4級
- 1974年4月:3級
- 1975年3月:2級
- 1975年7月:1級
- 1975年9月:初段
- 1976年2月:二段
- 1976年7月:三段
- 1976年12月20日:四段(プロ入り)
- 1979年4月1日:五段(順位戦C級1組昇級)
- 1980年4月1日:六段(順位戦B級2組昇級)
- 1981年4月1日:七段(順位戦B級1組昇級)
- 1982年4月1日:八段(順位戦A級昇級)
- 1984年4月1日:九段(前年度名人位獲得による)
- 2022年5月23日:十七世名人襲位(名人5期獲得による連盟推挙)
2.2. タイトル獲得と記録
谷川はプロ入り後、通算57回のタイトル戦に登場し、27期の主要タイトルを獲得している。これは歴代5位の記録である。また、主要タイトル以外にも22回の棋戦優勝を果たしている。
2.2.1. 主要タイトル獲得履歴
タイトル | 獲得年度 | 獲得期数 | 連覇 |
---|---|---|---|
竜王 | 1990-1991年、1996-1997年 | 4期 | 2連覇 |
名人 | 1983-1984年、1988-1989年、1997年 | 5期 | 2連覇 |
王位 | 1987年、1989-1991年、2002-2003年 | 6期 | 3連覇 |
棋王 | 1985年、1987年、2003年 | 3期 | - |
王将 | 1991-1994年 | 4期 | 4連覇 |
王座 | 1990年 | 1期 | - |
棋聖 | 1991年後期-1992年後期、1999年 | 4期 | 3連覇 |
- タイトル戦登場回数合計:57回
- 竜王戦:6回(第3期〈1990年度〉-5期、9期-11期)
- 名人戦:11回(第41期〈1983年〉-43期、46-48期、55-57期、59期、64期)
- 王位戦:11回(第28期〈1987年度〉-33期、40-41期、43-45期)
- 王座戦:6回(第33期〈1985年度〉、38-39期、41-42期、46期)
- 棋王戦:7回(第11期〈1985年度〉-14期、18期、29~30期)
- 王将戦:7回(第41期〈1991年度〉-46期、50期)
- 棋聖戦:9回(第44期〈1984年度前期〉、59-64期、70-71期)
2.2.2. その他の棋戦優勝
棋戦 | 獲得年度 | 優勝回数 |
---|---|---|
全日本プロトーナメント | 1983-1985年、1987年、1994年、1996年、1999年 | 7回 |
NHK杯戦 | 1985年 | 1回 |
銀河戦 | 2002年 | 1回 |
日本シリーズ | 1989-1990年、1992年、1996-1997年、2009年 | 6回 |
天王戦 | 1989年、1991年 | 2回 |
オールスター勝ち抜き戦 | 1982年、1984年、1986年 | 3回 |
名棋戦 | 1979年 | 1回 |
若獅子戦 | 1978年 | 1回 |
- 優勝回数合計:22回
- 非公式戦での優勝:富士通杯達人戦 5回(2004年-2007年、2013年)
- 優勝経験のない棋戦(プロデビュー以降に存在したもの):名将戦、早指し将棋選手権、大和証券杯ネット将棋・最強戦、叡王戦、達人戦立川立飛杯。
2.3. 棋士としての業績
谷川は将棋界において数々の顕著な業績を残している。
- 公式戦通算勝利数:
- 1000勝:2002年7月13日達成(史上7人目)
- 1100勝:2006年2月6日達成(史上5人目)
- 1200勝:2011年3月10日達成(史上4人目、当時最年少の48歳11か月)
- 1300勝:2018年10月1日達成(史上5人目)
- 1309勝:2019年1月22日達成(中原誠十六世名人の記録を抜き歴代単独4位)
- 1325勝:2019年9月12日達成(加藤一二三九段の記録を抜き歴代単独3位)
- 1400勝:2025年1月15日達成(大山康晴十五世名人、羽生善治九段に続く史上3人目)
- 獲得賞金・対局料ランキング:1993年から2007年まで毎年、そして2013年に「トップ10」入りを果たしている。特に1997年には1.18 億 JPYを獲得し、年間1位となった。これは1993年から2018年の間に羽生善治以外の棋士が1位になった唯一の記録である(2013年と2017年は渡辺明が1位)。
2.4. 棋風と戦法
谷川の棋風は、他の棋士が思いつきにくい手順で瞬く間に相手の玉を詰みに追い込むことから、「光速の寄せ」や「光速流」という異名で知られている。森内俊之九段は、谷川が「終盤にスピード感覚を将棋に持ち込んだ」元祖であり、寄せの概念を変えたと評している。
しかし、2009年頃からは「光速の寄せなくなっちゃったんで」と冗談めかして語るように、必ずしも「光速」にこだわらない棋風へと変化しつつある。また、有力な指し手が複数見えた場合に、駒が前に進む手を優先して選ぶことから、「谷川前進流」とも呼ばれる。
谷川が色紙などに揮毫する際には、「光速」、「前進」、「飛翔」、「危所遊」(松尾芭蕉の「名人危所に遊ぶ」より)といった言葉を好んで書く。これらは谷川自身の将棋観や特徴をよく表している。谷川は達筆でありながら、一目で谷川の書いた字とわかる独特の書体を持つ。
基本的には居飛車党だが、プロデビュー直後の四段時代は振り飛車党であった。その後、居飛車党に転向し、特に昭和から平成への移行期には先手番の角換わりを最も得意とし、他の居飛車党棋士から恐れられた。2000年頃からは、相矢倉において後手番が不利という定説が広まったため、後手番では矢倉を指すことが減り、四間飛車を多用するようになった。その後は横歩取り8五飛、相振り飛車、ゴキゲン中飛車など、当時の流行戦法を積極的に取り入れ、指し手が多様化した。
谷川の「光速の寄せ」を相手が過信したために、自ら不利になるケースも時折見られた。例えば、谷川が永世名人の資格を獲得した第55期名人戦第1局の終盤、羽生は谷川の玉に迫る馬と自玉を守る金の両取りをかけた。それに対し谷川はほとんど時間を使わずに、羽生玉の近くに▲4一銀と打ったが、これは詰めろではなかった。しかし、羽生は谷川を信用してその手が詰めろだと錯覚し、金を取って必至をかければ勝ちとなる局面で、自陣を攻めている馬の方を取ってしまい、結果的に谷川の逆転勝利となった。
また、デビュー直後にはハメ手として古くから知られていた横歩取り4五角戦法を再発見し、これを連採して森安秀光や東和男をわずか36手で破り、将棋界にブームを巻き起こした。
2.5. 主要な対局とライバル
谷川のプロ棋士としてのキャリアは、数々の歴史的な対局とライバルとの激闘によって彩られている。
1983年、谷川は第41期名人戦で加藤一二三名人に挑戦し、4勝2敗で勝利して初タイトルとなる名人位を獲得した。この時、21歳2か月という史上最年少での名人獲得記録を樹立し、会見では「1年間、名人位を預からせていただきます」と語った。この名人獲得により、翌年4月1日付けで九段に昇段し、当時の最年少九段記録も更新した。
同年7月19日の王位リーグでの大山康晴十五世名人戦では、大山の玉を詰ます手順の中で「打ち歩詰め回避の角不成」(99手目▲4三角引不成)という、まるで詰将棋のような妙手を指して勝利した。
1983年度の全日本プロトーナメントでは、同期の田中寅彦と決勝三番勝負を戦い、2勝1敗で制して全棋士参加のトーナメント棋戦で初優勝を飾った。この棋戦とは相性が良く、19回の歴史の中で通算7回の優勝、3回の準優勝を記録している。
1984年、初のタイトル防衛戦となる第42期名人戦では、粘り強い棋風から「だるま流」と呼ばれた森安秀光を4勝1敗で下し、名人位を防衛した。この際、「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います」と述べている。同年、第44期棋聖戦では米長邦雄棋聖に挑戦したが、0勝3敗でストレート負けを喫し、自身初のタイトル戦敗北となった。
1985年度、第43期名人戦で中原誠に敗れて名人位を失冠し、第33期王座戦でも中原に敗れて奪取に失敗した。しかし、全日本プロトーナメントで3連覇を達成し、第11期棋王戦では桐山清澄から棋王位を奪取した。さらに、NHK杯戦優勝、初の最多勝利(56勝)などの活躍により、将棋大賞の最優秀棋士賞を初受賞した。
1986年から1987年にかけては、55年組の一人である高橋道雄とのタイトル戦が3つ続いた。1986年度の第12期棋王戦で高橋に敗れて無冠となったが、翌1987年度の第28期王位戦で高橋から王位を奪取し、第13期棋王戦では棋王位を奪還して自身初の二冠(王位・棋王)となり、2度目の最優秀棋士賞を受賞した。
1988年度の第46期名人戦では中原誠に挑戦し、4勝2敗で勝利して名人位に復位、自身初の三冠(名人・王位・棋王)となった。しかし、第29期王位戦で森雞二に、第14期棋王戦で南芳一に敗れ、名人のみの一冠に後退した。
1989年度、第47期名人戦で名人位を防衛し、第30期王位戦で森雞二から王位を奪還して二冠(名人・王位)に復帰した。
1990年度、第48期名人戦で再び中原誠に名人位を奪われたものの、第38期王座戦で中原誠から王座を奪取し、すぐに二冠(王位・王座)に復帰した。その間、第31期王位戦ではタイトル戦初登場の佐藤康光五段にフルセットに持ち込まれたが、辛くも防衛に成功した。
同年、第3期竜王戦で羽生善治と初めてタイトル戦の舞台で戦い、羽生から竜王を奪取した。自身2度目の三冠(竜王・王位・王座)となり、3度目の最優秀棋士賞を受賞した。この竜王戦の第4局で、入玉模様ではない203手の名局で羽生に1勝を返されたことについて、谷川は「4-0か4-1かというのは(その後のことを考えれば)大きかったかもしれない」と述べている。
そして、四冠王となる1991年度を迎えた。第32期王位戦では三冠のうちの一冠を防衛した。第39期王座戦では穴熊の名手である福崎文吾に敗れ、王座を失冠した(二冠に後退)。最終局は千日手指し直しとなったが、その終盤、喉が渇いて苦しそうにしている福崎に、谷川は自分の茶を差し出した。福崎はそれを飲み干した後、自らを勝ちに導く妙手を発見したというエピソードがある。
しかし、第4期竜王戦では矢倉の「森下システム」で知られる森下卓の挑戦を退けて防衛に成功した。次に、第59期棋聖戦で南芳一を破り、初めて棋聖位に就いた。さらに、第41期王将戦でも南を破り、初の王将位を獲得した(1992年2月28日)。
これにより、谷川は全7タイトルを各1回以上獲得したことになり(7タイトル生涯グランドスラム)、また、大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王(竜王・棋聖・王位・王将)となり、4度目の最優秀棋士賞を受賞した。この四冠達成までのスケジュールは非常に過密であった。
1992年度は、6度のタイトル戦で「羽生世代」の3人(郷田真隆、羽生善治、村山聖)と対決した。第60期棋聖戦と第61期棋聖戦では郷田真隆を相手に2度防衛したが、第33期王位戦では郷田に敗れて三冠(竜王・棋聖・王将)に後退し、郷田の四段(史上最低段)でのタイトル獲得を許してしまった。第5期竜王戦では羽生に奪取され、二冠(棋聖・王将)に後退した。第42期王将戦では防衛に成功したものの、第18期棋王戦ではフルセットの末、羽生に敗れて奪取に失敗した。
翌1993年度からは、タイトル戦のほとんどを羽生と戦うことになる。1993年度前期の第62期棋聖戦で失冠し、王将のみの一冠となった。羽生にタイトル戦で3連続敗退し、この頃から羽生に対して苦手意識を持ったという。第41期王座戦では奪取に失敗した。
羽生へのリターンマッチとなった第63期棋聖戦(1993年度後期)は、二連敗の出だしとなった。第2局(1993年12月24日)での羽生の指し方は、従来の常識からかけ離れたものであった。売られた喧嘩を谷川が買う乱戦となったが、最後は羽生の勝ちとなった。しかし、この二連敗の後、千日手2回による日程繰り延べを経て、二連勝という粘りを見せた。第4局(1994年1月31日)は、タイトル戦としては非常に珍しい49手という短手数で羽生を投了に追い込んだものである。しかし、最終局の矢倉戦で敗れて奪取に失敗した。
第43期王将戦では中原誠を相手に王将の一冠を死守した。一方、羽生はこの年度に四冠を堅持し、全冠制覇への道を歩んでいた。
1994年度は、第64期棋聖戦と第42期王座戦で羽生に挑戦するが、いずれも敗退した。一方、羽生は名人、竜王をそれぞれ米長邦雄、佐藤康光から奪取して史上初の六冠王となり、残るタイトルは谷川が持つ王将位だけという状況になった。そして、羽生は第44期王将リーグで5勝1敗を挙げ、郷田とのプレーオフを制し、全七冠制覇をかけて谷川王将への挑戦を決めた。
迎えた第44期王将戦(1995年)は、第1局(1995年1月12-13日)の谷川の先勝で始まった。ところが、第2局(1月23-24日)の前の1月17日、谷川は阪神・淡路大震災で被災した。1月20日には米長邦雄とのA級順位戦があり、19日に妻の運転で神戸から大阪に脱出したが、13時間もかかったという。それでも谷川は、対・米長戦で勝ち、羽生との王将戦第2局も勝利した。しかし、羽生も粘って3勝3敗とし、フルセットに持ち込んだ。
そして、青森県・奥入瀬で行われた最終第7局(1995年3月23-24日)は相矢倉の将棋となったが、2日目に76手で千日手が成立し、その日のうちに指し直しとなった。指し直し局は、先手・後手が逆であるにもかかわらず、40手目まで千日手局と全く同じ手順で進み、「お互いの意思がピッタリ合った」。41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。結果、111手で先手・谷川の勝ちとなり、4勝3敗で王将を防衛、最後の砦として羽生の七冠独占を阻止した。この日は、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。後に谷川は、「震災がなかったら獲られていたかもしれない」と語っている。また、後年、インタビューにて「一度、七冠のチャンスは作れても、二度は無理だろうと思っていた」とも語っている。
1995年度、羽生は開幕から名人、棋聖、王位、王座、竜王と全て防衛に成功し、さらに王将リーグも再び制覇して2年連続で谷川王将の挑戦者となった。この第45期王将戦七番勝負では、羽生が開幕から3連勝し、あっという間に谷川を追い詰めた。
山口県のマリンピアくろいで行われた第4局(1996年2月13日-14日)の戦形は、勝っても負けても大差の内容になりやすい「横歩取り」となり、谷川は先手番で中原囲いを組むという新構想を見せた。2日目の模様は、NHKの衛星テレビで放送され、時間枠は午前9時から終局までという異例の長さであった。その中継会場(大盤解説)は大入りで、その熱気で解説役の森下卓、山田久美は汗だくだったという。谷川にとっては、37手目が悔やまれる一手であった。2日目の15時半頃にはすでに羽生が勝勢になり、自玉に受けがなくなった谷川は、77、79手目の形作りの手で、首を差し出した。以下は易しい詰みとなり、羽生が82手目△7八金と引いて王手をかけた手を見て、17時6分、谷川は投了した。谷川にとっては屈辱の、七冠王誕生であった。終局直後のインタビューでは「せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ない」と述べた。
羽生に奪取された後、1996年、第9期竜王戦の挑戦者決定三番勝負で佐藤康光を2勝0敗で破り、羽生竜王へのリベンジの機会をつかみ取った。そして第9期竜王戦七番勝負で羽生から竜王位を奪取した。この七番勝負第2局の終盤80手目で、谷川が一見ただのところに△7七桂と打った手は、まさに「光速の寄せ」と言われた。この手を境に羽生の玉はたちどころに寄り形となり、谷川の勝ちとなった。谷川自身は当時を回顧し、「このような手が浮かぶのは理屈ではない。7七の地点が光って見えたと書いて、信じてもらえるだろうか」と語っている。
なお、直後の第46期王将戦でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、敗退した。しかし、第55期順位戦A級では1敗後の8連勝で、羽生名人への挑戦を決めた。
そして、年度が明けての1997年の第55期名人戦で勝利を収め、二大タイトル(竜王・名人)を独占した。また、通算5期の規定により永世名人(十七世名人)の資格を得た。翌朝NHK総合テレビのニュースに出演した谷川は、「内容が良くなかった」「まだ'谷川時代'を作っていない」と語った。
名人戦と日程が並行した1997年4月-5月(棋戦としての年度は1996年度)の第15回全日本プロトーナメント決勝五番勝負では、森下卓を下して6度目の優勝をした。この決勝五番勝負では、谷川が後手番の2局において、先手・森下卓の相矢倉への誘いに谷川が応じず、後手急戦棒銀(原始棒銀)を見せて話題となった。
同年度は、第10期竜王戦で竜王防衛も果たし、2つのビッグタイトルを独占した。これが評価され、タイトル数は羽生の四冠より少ないものの、最優秀棋士賞(5度目)を受賞した。また、1997年(1月-12月)の獲得賞金・対局料ランキングで1位(1.18 億 JPY)となった。
1998年度以降のタイトル戦は、羽生善治、佐藤康光、藤井猛、郷田真隆、丸山忠久、森内俊之といった羽生世代の棋士達ばかりを相手にしての戦いとなった。1998年度、第56期名人戦七番勝負は、第6局まですべて先手が勝ちの展開でフルセットとなった。谷川が先手で勝った3局はすべて、谷川が得意とする角換わりを佐藤が受けて立ったものであった。しかし最終第7局は、振り駒で谷川が先手を引き当てたものの矢倉を選択した。結果は佐藤が勝ち「佐藤新名人」を誕生させてしまった。
同年度、第11期竜王戦は、4組からの挑戦者として勢いに乗る藤井猛との戦いとなった。谷川はストレート負けで「藤井新竜王」を誕生させてしまい、自身は無冠となった。名人と竜王を失冠した谷川には、次期まで「前竜王・前名人」の肩書きを名乗る権利があったが、本人の意向により、連盟から発表されたのは通常の「九段」の肩書きであった。
1998年度のA級順位戦は、村山聖の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となった。谷川は7戦全勝で迎えた最終第8回戦で島朗に敗れる。これにより島はA級に残留となり、代わりに弟弟子で仲もよい井上慶太がA級から陥落した。7勝1敗同士の森内俊之とのプレーオフを制して佐藤康光名人へのリターンマッチの権利を得たものの、「井上君には申し訳なかった」と語った。
そして迎えた1999年度の佐藤康光との第57期名人戦は、最初の2局で連敗した。しかし、第3局と第5局で前年と同様、谷川得意の角換わりを佐藤が受けて立って谷川が勝つなど3連勝し、奪還まであと1勝とした。次の第6局では佐藤が居飛車穴熊を用い、2日目の深夜まで続く長手数の将棋を制した。最終局も佐藤が勝ち、谷川は名人を取り返すことができなかった。なお、このシリーズで谷川は、後手番の2局で、当時本格的に流行し始めた戦法・「横歩取り8五飛」を採用している。
この名人戦の直後、第70期棋聖戦で郷田真隆から棋聖位を奪取し、「無冠」を返上した。このとき、テレビのインタビューで、「1つぐらいは...(タイトルを持っていないと)」と苦笑しながら語り、依然、第一人者となるべき身の自覚と向上心を示唆した。
2000年度は、王位戦で2年連続挑戦するなどして、第71期棋聖戦、第41期王位戦、第50期王将戦という3つのタイトル戦で羽生善治と対決した。特に棋聖戦と王位戦は日程が重なり、また、どちらも最終局までもつれ込んだため、'十二番勝負'と言われた。結果は、3つとも敗退し無冠となった。しかし、この年度の第59期順位戦A級では最終9回戦で佐藤康光との同星決戦(6勝2敗同士)を制し、丸山忠久名人への挑戦権を得た。
そして、2001年度の第59期名人戦は、3年前の佐藤との名人戦と同様、第6局まですべて先手が勝ち、最終局だけ後手が勝つという展開(千日手指し直しがあった点は異なる)で、丸山の防衛となった。この名人戦は、後手の谷川の四間飛車に対して丸山が「ミレニアム囲い」を2度用いたり、横歩取り8五飛が3度現れたりするなど、当時の流行を象徴する戦いとなった。なお、当年度の第51期王将戦では、挑戦者決定リーグにて史上初となる「2勝4敗と負け越したが残留決定戦をせずにリーグ残留」という珍記録を成功させている。
2002年度、第43期王位戦七番勝負で羽生善治から王位を奪取した。およそ2年ぶりにタイトル保持者となった。このシリーズの全6局(第5局の千日手指し直しも含む)は、全て異なる戦形であった。なお、この王位戦の第1局で、ちょうど公式戦通算1000勝(特別将棋栄誉賞、史上7人目)を記録した。
翌2003年度の第44期王位戦は、羽生に奪還を許さず2連覇した。羽生を相手に、同一タイトル戦で2年連続勝利したのは谷川が初めてである。また、同年度、第29期棋王戦では、丸山忠久得意の、先手・角換わり、後手・横歩取り8五飛を打ち破って棋王位を奪取。1998年の名人失冠以来、約6年振りに二冠(王位・棋王)となった。
しかし、これら2つのタイトルは、次年度(2004年度)に、第45期王位戦と第30期棋王戦で、いずれも羽生に奪取されてしまい、またも無冠に追い込まれた。
2003年12月19日、A級順位戦の対・島朗戦において、棒銀の銀をタダ捨てした名手を指した。出だし、島が自分から角交換をして「先後逆の角換わり」の将棋となり、その53手目、谷川の棒銀による銀交換を先手の島が拒否して、7七にいた銀を▲8八銀と引いた局面で、「△7七銀成」(54手目)が炸裂。以下、たちまち寄り形となり、この54手目△7七銀成で将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。同賞では、戦法でも囲いでもない特定の一手に対する初の授与であった。
竜王戦で、第1期(1988年度)から第18期(2005年度)まで18期連続で1組に在籍(竜王在位を含む)。第1期からの連続記録としては最長である。
2005年度の第64期順位戦A級では8勝1敗で羽生と並び、二者によるプレーオフは2006年3月16日に行われ、流行の、後手番一手損角換わりの戦形となった。最終盤で羽生は127手目に▲3一角と打ち捨ててから谷川の玉を猛然と詰ましにかかったが、谷川は巧みに詰みを逃れて156手で勝利。この一局の内容は高く評価され、将棋大賞で新設されたばかりの「名局賞」を受賞した。
そして、11度目の名人戦登場となる第64期名人戦を迎えた。第1局では、終盤に森内が自陣の7二と8二に銀を並べ打つという珍形の強い受けを見せて勝ち、また、第2局では、一転してゴキゲン中飛車・超急戦での一方的な内容で居飛車側の森内が勝つという出だしとなった。その後は、先手番に自信を持つ森内に着実に2勝を上積みされて敗退。9年ぶりの名人復位はならなかった。
第67期順位戦A級は、最終局を残した時点で降級の可能性があるという、谷川にとっては初めての危機を迎え、このことは地方紙にも取り上げられた。そして迎えた最終局(2009年3月3日)の対・鈴木大介戦は、「勝った方が残留、負けた方が降級」という決戦となった。先手番の谷川は相振り飛車に誘導して勝利し、A級残留に成功した。
2007年度・2008年度と、タイトル戦登場も棋戦優勝もない年度が続いたが、2009年度はJT将棋日本シリーズで優勝し、同棋戦での最多優勝記録を6に更新した。なお、前年度獲得賞金・対局料ランキング13位で元々出場権がなかった谷川は、渡辺明が近親者から新型インフルエンザを感染している可能性があって欠場したため、繰り上げ出場した。優勝後のインタビューでは、「本来、出場できる立場ではなかった」とし、優勝賞金(500.00 万 JPY)は主催者や連盟と相談の上、小学生への普及のために使ってほしいとの旨を語った。そして、翌年の9月に3000セット(東京都に2000セット、大阪市に1000セット)の将棋盤と駒を寄付した。
第69期順位戦A級で残留したため、第70期でA級在籍の連続記録を30期(名人在位を含む)に伸ばして中原誠の記録を抜き、歴代単独3位となった。
2011年3月10日、第24期竜王戦2組昇級者決定戦1回戦で中川大輔に勝ち、史上4人目の公式戦通算1200勝(1901局・698敗・3持将棋、勝率0.632)を当時最年少(48歳11か月)で達成。四段昇段後34年2か月での達成は、33年8か月の中原誠十六世名人に次ぐ記録であった。
2012年度、第71期A級順位戦では、2勝6敗で谷川(4位)・高橋道雄(8位)・橋本崇載(9位)の3人が並び、降級の可能性を残して最終局(2013年3月1日)に臨んだ。勝てば自力で残留を決められる対局であったが、屋敷伸之に敗れ、残留は他の対局の結果へ委ねられることになった。しかし高橋と橋本が揃って敗れたため、辛くもA級残留を果たした。
2013年度、第72期A級順位戦に参加し、連続A級在籍記録は升田幸三を抜き歴代単独2位となったが、2014年1月7日に渡辺明に敗れ1勝6敗となった後、10日の他の対局でB級1組への降級が決定し、連続在籍記録は32期で途絶えた(最終成績は2勝7敗)。永世名人資格保持者がB級1組所属となるのは第59期(2000年度)の中原誠十六世名人以来となる。
2018年10月1日、第68回NHK杯2回戦で稲葉陽に勝ち、史上5人目の公式戦通算1300勝(2135局・832敗・3持将棋、勝率0.610)を達成した。2019年1月22日には、第32期竜王戦4組ランキング戦で船江恒平に勝ち、中原誠を超え歴代4位の1309勝を、同年9月12日には、第78期順位戦B級1組で松尾歩に勝利し、加藤一二三を超え歴代3位の1325勝をそれぞれ達成した。
しかし、松尾戦以降は順位戦で連敗し、2020年1月23日の千田翔太戦で敗れたことにより、最終局を待たずB級2組への降級が決まった(最終結果は3勝9敗の12位)。名人経験者のB級2組降級は加藤一二三・丸山忠久に次いで3人目、永世名人資格者のB級2組降級は谷川が初となる。
2022年、日本将棋連盟の理事会が谷川の実績や将棋界への貢献を考慮し永世名人襲位を推薦。本人および名人戦主催者の合意が得られたため、第81期順位戦の開幕を前に、5月23日付で永世名人(十七世名人)を襲位した。6月9日に佐藤康光会長から推戴状を授与された。
2023年6月1日、第81期名人戦第5局にて藤井聡太が自身の最年少名人記録を40年ぶりに更新した際に、「40年前の言葉をもう一度使わせて頂くと、中原十六世名人からお預かりした最年少名人の記録を、無事、藤井新名人にお渡しできた、という心境です」とコメントを残している。
2024年6月13日に当時現役最古参棋士であった青野照市が引退し、この日以降は代わって谷川が現役最古参棋士となった。
2025年1月15日、第83期順位戦B級2組8回戦にて郷田真隆を破り、大山康晴、羽生善治に続く史上3人目の通算1400勝(945敗、3持将棋)を達成した。
2.6. 受賞歴
谷川は、将棋界での功績や社会貢献に対して、生涯にわたり数多くの賞や栄誉を受けている。
- 将棋大賞:
- 第6回(1978年度):新人賞
- 第7回(1979年度):技能賞
- 第9回(1981年度):技能賞
- 第10回(1982年度):殊勲賞
- 第11回(1983年度):特別賞
- 第13回(1985年度):最優秀棋士賞、最多勝利賞、最多対局賞
- 第14回(1986年度):最多勝利賞、最多対局賞
- 第15回(1987年度):最優秀棋士賞
- 第18回(1990年度):最優秀棋士賞
- 第19回(1991年度):最優秀棋士賞
- 第22回(1994年度):特別賞
- 第24回(1996年度):最多対局賞
- 第25回(1997年度):最優秀棋士賞
- 第26回(1998年度):最多対局賞
- 第27回(1999年度):最多対局賞
- 第30回(2002年度):特別賞
- 第31回(2003年度):升田幸三賞(対象は第62期順位戦A級、対島朗戦での54手目△7七銀成)
- 第34回(2006年度):名局賞(対象は第64期順位戦A級プレーオフ、対羽生善治戦)
- その他の表彰:
- 1983年9月:神戸市文化特別賞
- 1988年:神戸市特別表彰
- 1989年:神戸市政功労者表彰
- 1991年12月31日:将棋栄誉賞(公式戦通算600勝達成、史上17人目、初の20代受賞)
- 1992年:神戸市特別表彰
- 1997年3月3日:将棋栄誉敢闘賞(公式戦通算800勝達成、史上8人目)
- 1997年6月:兵庫県「誉」賞、神戸文化栄誉賞
- 1999年12月11日:公式戦通算900勝達成
- 2001年11月:現役勤続25年
- 2002年:神戸市特別表彰、特別将棋栄誉賞(公式戦通算1000勝達成)
- 2006年2月6日:公式戦通算1100勝達成
- 2007年:兵庫県文化賞
- 2011年3月10日:特別将棋栄誉賞(公式戦通算1200勝達成)
- 2014年11月:紫綬褒章(将棋界12人目の受賞)
- 2016年11月:現役勤続40年
- 2018年10月1日:公式戦通算1300勝達成
- 2019年9月12日:公式戦通算1325勝達成(歴代通算勝数単独3位)
- 2025年1月15日:公式戦通算1400勝達成
3. 日本将棋連盟での役職
谷川は、プロ棋士としての活動と並行して、日本将棋連盟の運営にも深く関与し、重要な役職を歴任した。
3.1. 会長としての活動
2011年5月、谷川は日本将棋連盟の理事選挙に出馬し当選、専務理事として渉外部を担当した。
2012年12月18日に米長邦雄会長が逝去したことを受け、同年12月25日の臨時会員総会で、戦後15人目となる日本将棋連盟会長に選出された。関西出身者としては初の会長就任であった。現任理事の任期満了となる2013年5月まで務めた後、翌月に行われた総会と理事会を経て会長に再任され、2015年6月にも再任された。
会長在任中の主な出来事として、新規Webメディア「シンクロ」との業務提携が挙げられる。2016年7月11日、将棋会館で調印式が実施された。
同年10月11日、谷川ら理事たちは、常務会において三浦弘行九段に「将棋ソフト不正使用」の疑惑があるとし、説明を求めた。三浦はこの常務会で不正を否定したものの、翌12日に、三浦を年内12月31日までの公式戦出場停止処分とし、竜王戦の挑戦者を丸山忠久九段に変更する決定が発表された(将棋ソフト不正使用疑惑)。
同年12月26日、日本将棋連盟が調査を委嘱した第三者委員会は、三浦九段の疑惑について、処分の根拠とされていた電子機器を使用した形跡、離席の事実ともになく、一致率は根拠となり得ず、不正行為に及んでいた証拠はないとの発表を行った。谷川は連盟会長として、三浦九段への疑惑のきっかけは「7月の関西の報告会での久保利明九段の発言」が発端だったことを公表し、27日に記者会見で謝罪した。
2017年1月18日、谷川は将棋ソフトの不正使用疑惑での第三者委員会からの報告を熟慮し、三浦九段や関係各位に対し誠意を伝えるには会長職を辞するのが一番であると結論付け、辞任を発表した。谷川は後任が選出される2017年2月6日まで会長職を務めた。三浦九段は後に「谷川会長にはとても感謝しています」と述べている。
4. 将棋文化への貢献
谷川は、プロ棋士としての活動だけでなく、将棋の普及や発展のために多岐にわたる貢献をしている。
4.1. 書籍・著作
谷川は将棋に関する多くの書籍を執筆しており、その著作は将棋ファンや研究者にとって貴重な資料となっている。
- 『光速の寄せ 戦型別終盤の手筋』(全5巻、日本将棋連盟)
- 『谷川浩司の戦いの絶対感覚』(2003年4月、河出書房新社)
- 『無為の力 マイナスがプラスに変わる考え方』(河合隼雄との共著・2004年11月、PHP研究所)
- 『復活』(毎日新聞社)
- 『構想力』(2007年10月、角川書店)
その他多数。
また、毎日コミュニケーションズからは、谷川の「年度別の全棋譜」を集めた『谷川浩司全集』が順次刊行されていた(引退後ではなく現役中に順次刊行されるという、将棋界唯一の企画)が、2005年刊行の『平成15年度版』(『新・谷川浩司全集4』)を最後に刊行が途絶えている。
4.2. 詰将棋作家として
谷川はプロ棋士としての実戦だけでなく、詰将棋の創作活動においても高い評価を得ている。
- 詰将棋専門誌『詰将棋パラダイス』が主催する「看寿賞」の1997年度特別賞を受賞した。
- 詰将棋作家の若島正が主催する「詰将棋解答選手権」には2007年から参加し、40代でありながら果敢に挑戦している。
- 2008年には、初の詰将棋作品集『光速の詰将棋』を刊行した。
- 2011年には、永世名人としては225年ぶりの図式集百番となる『月下推敲』を刊行した。2012年、本作が第24回将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞した。
5. 弟子
谷川は門下からプロ棋士を輩出している。
名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
都成竜馬 | 2016年4月1日 | 七段、一般棋戦優勝1回 |
6. 個人的側面
6.1. 神戸市との関わり
谷川は出身地である神戸市との関わりが深く、地域への貢献活動も行っている。
- 実家は浄土真宗本願寺派高松寺であり、阪神・淡路大震震災で被災し再建された。現在は親戚が継いでいる。
- 本願寺出版社が発行する門徒向けの雑誌『大乗』に「将棋道場」という記事を連載している。
- 私立滝川高校(神戸市)を卒業している。
- 坂田三吉の曾孫弟子にあたる。坂田の弟子・藤内金吾一門の流れを汲む一人であり、内藤國雄、森安兄弟(正幸、秀光)、若松政和(谷川の師匠)ら藤内一門は「神戸組」とも呼ばれ、将棋界に一大勢力を築いた。
- 2005年6月18日、神戸市の神戸大使を委嘱された。
- 1997年6月17日、神戸市から「神戸文化栄誉賞」を授与された。
- 1997年6月23日、兵庫県「誉」賞を受賞した(十七世名人資格獲得による)。
- 2007年11月7日、平成19年度の「兵庫県文化賞」を受賞した。
6.2. 人となりとエピソード
谷川の将棋以外の趣味や人柄、対局中のエピソードなども多く知られている。
- 血液型はO型である。
- 1972年5月5日、NHK教育テレビで将棋界初のカラー放送が行われ、この中で女流アマ準名人で中学2年の兼田睦美と小学4年生の谷川が対局した。
- 羽生善治が優勝、森内俊之が3位となった第7回小学生将棋名人戦(1982年度)で、谷川は解説役を務めた。当時、谷川はA級八段で20歳を迎える頃であり、羽生と森内は小学校6年生での出場であった。優勝した羽生に対し谷川は「これから勉強していけばプロも夢じゃない」と話しており、その映像も残っている。
- 対局中の姿勢・所作について、原田泰夫九段はこれを評して「礼儀作法も実力のうちといいますが、谷川君の立ち居振る舞いは実にきちっとしている。ノブレス・オブリージュ(高い地位に伴う義務)を具現していますよ」と語っている。
- 初めて名人在位していた1984年の第23期十段戦挑戦者決定リーグで、対戦相手の加藤一二三前名人が先に入室して上座に座っていた。谷川は頭に血が上ったが、手洗いに行って頭を冷やした後、黙って下座に就き、さらに対局開始から初手を指すまで10分を使って冷静さを取り戻した結果、勝利を収めた。後に『将棋世界』誌の自戦記や自著『中学生棋士』で遠回しに加藤を非難した。一方、加藤は上座に座った理由として「読売新聞社主催の十段戦の対局ということを重視し、私はこれまで十段戦に縁が深く、現在谷川さんよりもリーグの順位が上だったことを考慮した」と述べている。
- 幼い頃から将棋に没頭してきたため、自転車に乗れない。
- 藤井猛は1998年度の竜王戦七番勝負で谷川と対決する直前に囲碁・将棋ジャーナルに出演したが、番組の司会であり、同じ西村一義門の姉弟子でもある山田久美女流から、「谷川竜王はカニが苦手だそうです」とのことで、カニの絵が描かれた扇子をプレゼントされた。
- 食べ物ではカニ以外にエビも苦手である。本人によれば「体質的に子どもの頃、小学生の時に食べて当たったことがある」ことが原因で、現在は「食べても大丈夫だが、対局時は万が一を考えて避けている」とのことである。
- 2006年、NHK将棋講座『谷川浩司の本筋を見極める』の中の「将棋ワンポイントクリニック」のコーナーで、谷川が医師の扮装、アシスタントの島井咲緒里女流が看護婦姿、というコスプレで登場したことが1度だけある。
- 名人戦で、加藤一二三、中原誠、羽生善治、佐藤康光、丸山忠久、森内俊之が名人在位時に挑戦者として対局した。谷川の名人在位時に挑戦者となった米長邦雄も含めると、7人の名人経験者と名人戦の舞台で戦ったことになる。
- 熱心な阪神タイガースファンであり、2008年1月にはタイガースの練習場に足を運び将棋盤と駒をプレゼントし、さらに岡田彰布監督にアマチュア三段の免状を授与している(ただし免状の署名は、米長邦雄会長・森内俊之名人・渡辺明竜王・内藤國雄九段で、谷川の署名はない)。また、今岡誠(2004年アマ二段)とも交流がある。NHK-BS2で2000年1月に放送された『羽生善治の新春 大逆転五番勝負』で、藪恵壹(当時・阪神タイガース)を応援するために、法被姿でビデオ出演した。弟弟子(飲み仲間でもある)の井上慶太は谷川以上に熱烈なタイガースファンであり「その思いは井上には負ける」と谷川を特集した『情熱大陸』(毎日放送)で語っている。他球団では、兵庫県出身で元東京ヤクルトスワローズの古田敦也(アマ三段)とも親交があり共著も出している。
- 2023年度末(2024年3月31日)時点での通算成績(2324対局、1391勝930敗)で、現役最多対局数、現役最多負け数の記録を保持している。
7. 評価と影響
谷川浩司は、その革新的な棋風と数々の実績により、将棋界に多大な影響を与えてきた。
8. 年表
谷川浩司の生涯における主要な出来事を時系列で整理する。
- 1962年4月6日:兵庫県神戸市で誕生。
- 1973年4月:奨励会に5級で入会。
- 1976年12月20日:四段に昇段し、プロ入り(史上2人目の中学生棋士、史上初の中学2年生プロ棋士)。
- 1978年度:若獅子戦で棋戦初優勝。
- 1979年4月1日:五段昇段。
- 1980年4月1日:六段昇段。
- 1981年4月1日:七段昇段。
- 1982年4月1日:八段昇段。
- 1983年6月15日:第41期名人戦で加藤一二三名人を破り、名人位を獲得(史上最年少21歳2か月での名人獲得)。
- 1983年度:第2回全日本プロトーナメントで優勝(全棋士参加棋戦初優勝)。
- 1984年4月1日:九段昇段(当時の最年少九段記録)。
- 1984年:第42期名人戦で森安秀光を破り、名人位を防衛。
- 1985年:第11期棋王戦で棋王位を獲得。将棋大賞最優秀棋士賞を初受賞。
- 1987年:第28期王位戦で王位位を獲得。第13期棋王戦で棋王位を奪還し、自身初の二冠達成。
- 1988年:第46期名人戦で中原誠を破り、名人位に復位。自身初の三冠達成(名人・王位・棋王)。
- 1989年:第30期王位戦で王位位を奪還。
- 1990年:第38期王座戦で王座位を獲得。第3期竜王戦で羽生善治を破り、竜王位を獲得。自身2度目の三冠達成(竜王・王位・王座)。
- 1991年:第59期棋聖戦で棋聖位を獲得。
- 1992年2月28日:第41期王将戦で王将位を獲得。これにより、全7タイトルを各1回以上獲得し(7タイトル生涯グランドスラム)、史上4人目の四冠王達成(竜王・棋聖・王位・王将)。
- 1995年3月24日:第44期王将戦で羽生善治の七冠独占を阻止し、王将位を防衛。
- 1996年2月14日:第45期王将戦で羽生善治に敗れ、王将位を失冠(羽生善治の七冠独占が達成される)。
- 1996年11月29日:第9期竜王戦で羽生善治から竜王位を奪還。
- 1997年6月11日:第55期名人戦で羽生善治を破り、名人位を獲得。通算5期の名人位獲得により、十七世名人の資格を得る。
- 1997年:年間獲得賞金・対局料ランキングで1位となる(1.18 億 JPY)。
- 1998年:名人位と竜王位を失冠し、無冠となる。
- 1999年7月7日:第70期棋聖戦で棋聖位を獲得し、無冠を返上。
- 2002年7月13日:公式戦通算1000勝達成。
- 2002年8月29日:第43期王位戦で羽生善治から王位位を奪取。
- 2003年:第29期棋王戦で棋王位を獲得し、二冠達成(王位・棋王)。
- 2003年12月19日:第62期順位戦A級、対島朗戦での54手目△7七銀成が升田幸三賞を受賞。
- 2004年:王位位と棋王位を失冠し、再び無冠となる。
- 2006年3月16日:第64期順位戦A級プレーオフ、対羽生善治戦が将棋大賞名局賞を受賞。
- 2009年:JT将棋日本シリーズで優勝。
- 2011年3月10日:公式戦通算1200勝達成。
- 2011年5月:日本将棋連盟専務理事に就任。
- 2012年12月25日:日本将棋連盟会長に就任。
- 2014年1月:第72期順位戦A級で降級が決定し、連続A級在籍記録が32期で途絶える。
- 2014年11月:紫綬褒章を受章。
- 2017年1月18日:将棋ソフト不正使用疑惑事件の責任を取り、日本将棋連盟会長を辞任。
- 2018年10月1日:公式戦通算1300勝達成。
- 2020年1月:第78期順位戦B級1組で降級が決定し、B級2組へ降級。
- 2022年5月23日:十七世名人を襲位。
- 2023年6月1日:藤井聡太が最年少名人記録を更新した際、「中原誠十六世名人からお預かりした最年少名人の記録を、無事、藤井新名人にお渡しできた」とコメント。
- 2024年6月14日:現役最古参棋士となる。
- 2025年1月15日:公式戦通算1400勝達成。
9. その他
9.1. ゲーム監修
谷川は将棋のコンピュータゲームの監修も務めている。
- 『谷川浩司の将棋指南』(MSX用ソフト、1986年発売、ポニカ)
- 『谷川浩司の将棋指南2<名人への道>』(ファミリーコンピュータ・ディスクシステム用ソフト、1988年3月発売、ポニーキャニオン)
- 『谷川浩司の将棋指南3』(ファミリーコンピュータ用ソフト、1989年9月発売、ポニーキャニオン)
- 『将棋風林火山』(スーパーファミコン用ソフト、1993年10月発売、ポニーキャニオン)5名の連名で監修、題字も担当。
- 『激指デラックス 名人戦道場』(2013年7月19日、マイナビ)※パソコン用ソフト
9.2. 肩書き
谷川浩司の昇段およびタイトルの獲得・失冠による肩書きの遍歴を記す。
日付 | 肩書き | 保持タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
1976年12月20日 | 四段 | - | プロ入り |
1979年4月1日 | 五段 | - | 順位戦C級1組昇級 |
1980年4月1日 | 六段 | - | 順位戦B級2組昇級 |
1981年4月1日 | 七段 | - | 順位戦B級1組昇級 |
1982年4月1日 | 八段 | - | 順位戦A級昇級 |
1983年6月15日 | 名人 | 名人 | 名人獲得(第41期名人戦) |
1985年6月4日 | 前名人 | - | 名人失冠(第43期名人戦) |
1986年3月7日 | 棋王 | 棋王 | 棋王獲得(第11期棋王戦) |
1987年3月23日 | 九段 | - | 棋王失冠(第12期棋王戦) |
1987年8月28日 | 王位 | 王位 | 王位獲得(第28期王位戦) |
1988年4月5日 | 二冠 | 王位・棋王 | 棋王獲得(第13期棋王戦) |
1988年6月14日 | 名人 | 名人・王位・棋王 | 名人獲得(第46期名人戦) |
1988年9月22日 | 名人 | 名人・棋王 | 王位失冠(第29期王位戦) |
1989年3月28日 | 名人 | 名人 | 棋王失冠(第14期棋王戦) |
1989年8月29日 | 名人 | 名人・王位 | 王位獲得(第30期王位戦) |
1990年6月12日 | 王位 | 王位 | 名人失冠(第48期名人戦) |
1990年10月2日 | 二冠 | 王位・王座 | 王座獲得(第38期王座戦) |
1990年11月27日 | 竜王 | 竜王・王位・王座 | 竜王獲得(第3期竜王戦) |
1991年10月14日 | 竜王 | 竜王・王位 | 王座失冠(第39期王座戦) |
1992年1月10日 | 竜王 | 竜王・王位・棋聖 | 棋聖獲得(第59期棋聖戦) |
1992年2月28日 | 竜王 | 竜王・王位・王将・棋聖 | 王将獲得(第41期王将戦) |
1992年9月9日 | 竜王 | 竜王・王将・棋聖 | 王位失冠(第33期王位戦) |
1993年1月6日 | 二冠 | 王将・棋聖 | 竜王失冠(第5期竜王戦) |
1993年7月19日 | 王将 | 王将 | 棋聖失冠(第62期棋聖戦) |
1996年2月14日 | 九段 | - | 王将失冠(第45期王将戦) |
1996年11月29日 | 竜王 | 竜王 | 竜王獲得(第9期竜王戦) |
1997年6月11日 | 竜王・名人 | 竜王・名人 | 名人獲得(第55期名人戦) |
1998年6月18日 | 竜王 | 竜王 | 名人失冠(第56期名人戦) |
1998年11月19日 | 九段 | - | 竜王失冠(第11期竜王戦) |
1999年7月7日 | 棋聖 | 棋聖 | 棋聖獲得(第70期棋聖戦) |
2000年7月31日 | 九段 | - | 棋聖失冠(第71期棋聖戦) |
2002年8月29日 | 王位 | 王位 | 王位獲得(第43期王位戦) |
2004年3月20日 | 二冠 | 王位・棋王 | 棋王獲得(第29期棋王戦) |
2004年9月8日 | 棋王 | 棋王 | 王位失冠(第45期王位戦) |
2005年2月25日 | 九段 | - | 棋王失冠(第30期棋王戦) |
2022年5月23日 | 十七世名人 | - | 十七世名人襲名 |