1. 生涯と背景
釈宗演の生涯は、日本の伝統的な仏教修行と、西洋への禅の紹介という二つの大きな流れによって特徴づけられる。彼の幼少期から初期の修行は、後の国際的な活動の基盤を形成した。
1.1. 出生と幼少期
釈宗演は、安政6年1月10日(旧暦12月18日)に、若狭国(現在の福井県大飯郡高浜町)の農家、一瀬吾右衛門の二男として生まれた。幼名は常次郎(いちのせ つねじろう日本語)。幼い頃から峻烈豪放な性格で、人に従うことを好まなかったと伝えられている。
1870年、数え年12歳の時、一瀬家の親戚筋にあたる京都妙心寺天授院の越渓守謙が帰郷した際、兄の勧めにより、常次郎は僧侶となるべく越渓に預けられた。出家の動機は、高僧になれば天皇でさえも法の弟子にすることができるという兄からの話を聞き、児童の好奇心から決心したという。
1.2. 教育と初期の修行
常次郎は越渓守謙のもとで得度し、妙心寺山内に開かれた「般若林」という学林で漢籍や禅籍の素読などを学んだ。
1873年には建仁寺塔頭の両足院の千葉俊崖師に師事し、学問と修行に励んだ。ここで後に建仁寺派管長となる竹田黙雷と知り合い、生涯にわたる知友となった。しかし、1875年に俊崖師が遷化し、建仁寺での学林生活は終わった。
1876年、師匠の越渓の命令で愛媛県八幡浜市の大法寺に行き、越渓の法嗣弟子である西山禾山のもとで修行したが、わずかな日数で挫折した。その後、越渓の許可を得て滋賀県三井寺の中川大宝律師に就き、倶舎論を研究した。この三井寺での勉学中に、当時阪上真浄(後の臨済宗大学初代学長)が住職を務めていた大徳寺派の永雲寺に約1年間滞在した。この縁が、後に宗演が臨済宗大学(現在の花園大学)の第二代学長となるきっかけとなった。
1877年、再び越渓の命を受けて、備前国岡山市の名刹・曹源寺の儀山善来に就き修禅することとなった。儀山善来は、宗演の得度師である越渓守謙、そして後に師となる今北洪川の師でもあった。宗演が師事した頃、儀山善来は既に76歳の老境であったが、宗演は彼から提唱および参禅の指導を受けた。
2. 禅師としての経歴
釈宗演は、その生涯を通じて臨済宗の主要な寺院で住職を務め、指導者としての地位を確立した。彼の禅師としての経歴は、その後の国際的な活動の基盤となった。
2.1. 師匠と法系伝承
1878年の秋、宗演は鎌倉円覚寺の今北洪川に参じて修行を始めた。それから5年後の1883年、宗演が満23歳の時、洪川は宗演に「若の演禅士、力を参学に用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて、長時苦屈の情を伸暢す。老僧、祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈を送り、その禅の悟りを認めた。
釈宗演の法嗣(法系伝承者)には、以下の禅僧たちがいる。
- 古川尭道(堯道慧訓) - 第6代・第8代円覚寺派管長
- 棲梧寶嶽(寶嶽慈興) - 第9代円覚寺派管長
- 太田晦厳(晦厳常正) - 第7代円覚寺派管長、第8代大徳寺派管長
- 間宮英宗(英宗義雄) - 第2代方広寺派管長
- 釈大眉(大眉敬俊) - 第4代国泰寺派管長
- 釈宗活(輟翁宗活) - 弟子に後藤瑞巌がいる
- 円山慧勘(太嶺慧勘)
- 大亀宋達
2.2. 寺院住職および指導者としての役割
1884年、宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となった。この頃、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した。
1885年、宗演は慶應義塾に入学した。師である今北洪川は当初この進学に反対したが、鳥尾得庵らの助けもあり、入学が実現した。ここで宗演は福沢諭吉と出会い、生涯にわたる親交を結ぶこととなった。
1887年、慶應義塾別科で学んだ後、仏教の原典を学ぶためセイロン(現在のスリランカ)へ渡航することを決意した。当時のセイロン行きは命がけの旅であった。これにも洪川は猛反対したが、山岡鉄舟や福沢諭吉らが宗演を支援した。福沢諭吉は「汝道に志す、よろしくセイロンに渡航して源流を遡るべく、志や翻すべからず」と励まし、山岡鉄舟は「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかん」と助言した。宗演は1887年3月31日にコロンボに到着し、パーリ語を学び、僧院で修行を積んだ。同年5月7日には沙弥として出家し、パンニャーケートゥの法名を受け、セイロンの袈裟をまとった。1889年10月に日本へ帰国した。
セイロン滞在中の1889年に、宗演は『西南之佛敎』を刊行した。この中で彼は、従来の北方仏教と南方仏教という二分法を、東北仏教と西南仏教、さらに小乗仏教と大乗仏教と言い換えた。彼はセイロン、シャム(現在のタイ)、ビルマ(現在のミャンマー)、カンボジアを小乗仏教、支那(現在の中国)、朝鮮、蒙古、満洲、韃靼、西蔵(現在のチベット)などを大乗仏教と分類した。
1889年の帰国後、宗演は永田寶林寺道場において、初めて師家として修禅者を指導した。
1892年1月16日に師匠である今北洪川が遷化すると、宗演は塔頭仏日庵住職を辞して円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長および円覚寺派専門道場師家に就任した。
1903年には、建長寺派全派の要請を受けて管長を兼務することとなった。
1905年、宗演は円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞し、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となった。この時、円覚寺派の管長には、宗演の円覚寺修行時代の兄弟子である宮路宗海(相国寺・荻野独園の法嗣)が就任した。
1914年、宗演は臨済宗大学(後の花園大学)の第二代学長に就任し、1917年までその職を務めた。
1916年には、再び円覚寺派管長に選ばれた。この時、彼は法嗣弟子の古川尭道を僧堂師家に任じ、自らは管長職のみを務めた。同年10月には、長年にわたり講義を行ってきた『碧巌録』の講了を記念して碧巌会を閉じた。
3. 西洋への禅紹介
釈宗演は、日本人の禅師として初めて西洋社会に禅仏教を本格的に紹介した人物であり、その活動は東西文化交流の歴史において画期的なものであった。
3.1. 1893年シカゴ世界宗教会議への参加
1893年、シカゴ万国博覧会 (1893年)の一環として開催された万国宗教会議に、臨済宗の代表として出席することになった。福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金を調達し、8月に横浜を出発。十数日の船旅を経てバンクーバーに到着した。会議は9月11日から17日間行われた。
宗演は会議で2回にわたり演説を行った。第1回の演説は「仏教の要旨並びに因果法」と題し、仏陀の教えの基本が因果の法であると説いた。この演説は日本で準備され、当時若く無名であった弟子鈴木大拙によって英語に翻訳され、会議ではジョン・ヘンリー・バローズによって代読された。その後、宗演は「戦争ではなく仲裁を(Arbitration Instead of War英語)」と題した演説も行った。
この会議で、宗演はイリノイ州ラサールのオープン・コート出版会社の出版者であるポール・ケーラスと出会った。ケーラスは宗演の演説に深く感銘を受け、宗演が日本に帰国する前に、禅仏教に詳しい英語話者をアメリカに派遣してほしいと依頼した。宗演は帰国後、修行していた居士である弟子鈴木大拙に渡米を要請した。大拙はその後、ケーラスのもとで翻訳などの仕事を手伝いながら、西洋における禅仏教研究の第一人者として知られるようになる。
3.2. 初めてのアメリカ訪問と活動
1902年、シカゴ万国宗教会議で通訳を務めた野村洋三の紹介により、サンフランシスコの実業家アレクサンダー・ラッセルの妻アイダと、その友人ら一行が円覚寺を訪ね、山内の正伝庵に滞在しながら宗演に参禅した。外国人が来日して参禅するのはこれが初とされている。一行は帰国するまでの間、熱心に参禅を続けた。
この縁により、1905年、宗演はアイダ・ラッセルの招きを受けて再び渡米した。6月に、通訳として鈴木大拙、侍者として千崎如幻を伴い、アメリカへ出発した。宗演はサンフランシスコのラッセル邸に約9ヶ月間滞在し、ラッセル家の人々に禅の指導を行った。アイダ・ラッセルは、公案を学んだ初めてのアメリカ人となった。この間、宗演はカリフォルニア州各地で、日本人移民向けや、鈴木大拙の通訳を介した英語圏の聴衆向けに講演を行った。
3.3. 二度目のアメリカ訪問と国際活動
1906年、宗演はサンフランシスコで新年を迎えた後、鈴木大拙の通訳を介して大乗仏教に関する講演を行いながら、列車でアメリカを横断した。ワシントンD.C.では、代理公使日置益とともにセオドア・ルーズベルト大統領と会見した。この会見では、鈴木大拙の通訳を介して世界平和について語り合ったと伝えられている。
アメリカからの帰路では、足を延ばしてロンドンで大倉組の門野重九郎に会うなど、欧州各都市、スリランカ、インドなどアジア各地を歴訪し、香港にも立ち寄った後、翌年の1906年8月に日本へ帰国した。
帰国後も、宗演の国際的な活動は続いた。1911年には朝鮮を約1ヶ月巡錫し、翌1912年には満洲を、さらに1913年には台湾を巡錫した。1917年には中華民国を約3ヶ月にわたって巡錫するなど、アジア各地にも禅の教えを広めた。
4. 主要な活動と思想
釈宗演の活動は、禅仏教の普及にとどまらず、社会や文化、さらには国際関係にも影響を与えた。彼の思想は、当時の日本の状況と深く結びついていた。
4.1. 軍事布教と戦争観
1904年に日露戦争が勃発すると、宗演は建長寺派管長の資格をもって日本陸軍第一師団司令部に従属し、満洲で従軍布教を行った。彼は兵士たちに対し、不動心をもって自身の死に直面する方法を説き、外部の敵だけでなく、「心の悪魔(心魔しんま日本語)」と呼ぶ内なる敵をも打ち破る必要があると説いた。
1904年、ロシアの作家レフ・トルストイは、宗演に戦争を非難する共同声明への参加を呼びかけた。しかし宗演はこれを拒否し、「...時には、罪のない国、民族、あるいは個人の価値と調和を守るために、殺害や戦争が必要となることもある」と結論付けた。戦後、彼は日本の勝利を侍の文化に帰した。宗演のこのような戦争観は、仏教の不殺生の教えとの整合性において、後世の仏教学者や歴史家から批判的に検討される対象となっている。
4.2. 著作と講演
釈宗演は多岐にわたる著作を残し、その思想を広めた。彼の主要な著作には以下のようなものがある。
- 『西南之佛敎』(1889年)
- 『錫崘島志』(1890年)
- 『萬國宗敎大會一覧』(1893年)
- 『Sermons of a Buddhist Abbot: A Classic of American Buddhism英語』(1906年)
- 『欧米雲水記』(1907年)
- 『Zen for Americans英語』(1989年)
- 『碧巌録講話』(1915年 - 1916年)
- 『無門關講義』(1919年)
- 『釈宗演全集』(全10巻、1929年 - 1930年)
彼の講演活動も活発であり、特に1906年11月には、徳富蘇峰、野田大塊、早川雪堂らによって「碧巌会」が結成され、多くの名士が毎月、宗演の『碧巌録』の提唱に耳を傾けた。
4.3. 主要な弟子と交流人物
釈宗演は、多くの弟子を育成し、また当時の著名な知識人や政治家と深く交流した。
彼の法嗣(法系伝承者)については、「#師匠と法系伝承」の節に詳しい。
参禅した主な居士の弟子には、以下のような人物がいる。
- 鈴木大拙(1870年 - 1966年) - 仏教学者、哲学者。宗演によってアメリカに派遣され、西洋における禅仏教の普及に決定的な影響を与えた。
- 夏目漱石(1867年 - 1916年) - 小説家、英文学者。宗演は漱石の葬儀の導師を務め、戒名を授けた。
- 徳川慶久(1884年 - 1922年) - 政治家。
- 前田利為(1885年 - 1942年) - 陸軍大将。
- 松平直亮(1885年 - 1942年) - 農業経営者、政治家。
- 濱口雄幸(1870年 - 1931年) - 第27代内閣総理大臣。
- 野田卯太郎(1853年 - 1927年) - 実業家、衆議院議員、逓信大臣、商工大臣。
- 伊沢修二(1851年 - 1917年) - 教育者、吃音矯正の第一人者。
また、宗演は以下の人物とも交流があった。
- 福沢諭吉 - 慶應義塾での出会い以来、宗演のセイロン渡航やシカゴ万国宗教会議への参加を支援するなど、長きにわたり親交を結んだ。
- 山岡鉄舟 - 宗演のセイロン渡航を支援した。
- ポール・ケーラス - シカゴ万国宗教会議で宗演と出会い、鈴木大拙をアメリカに招くきっかけを作った。
- アイダ・ラッセル - 宗演をアメリカに招き、禅の指導を受けた最初のアメリカ人女性。
- 千崎如幻 - 宗演のアメリカ訪問に侍者として同行した弟子。
- セオドア・ルーズベルト - アメリカ大統領。宗演と会見し、世界平和について語り合った。
- レフ・トルストイ - ロシアの作家。日露戦争中に宗演に戦争非難を呼びかけたが、宗演はこれを拒否した。
5. 後期と遷化
釈宗演の晩年は、国内外での巡錫や教育活動、そして禅師としての最後の奉仕に捧げられた。
5.1. 後期の活動
1905年に円覚寺派管長職と建長寺派管長職を辞任した後も、宗演は精力的に活動を続けた。鎌倉の東慶寺の住職として、また臨済宗大学(後の花園大学)の第二代学長(1914年から1917年まで)として、禅の普及と教育に尽力した。
国内外の巡錫も彼の晩年の重要な足跡である。1911年には朝鮮を約1ヶ月、翌1912年には満洲を、さらに1913年には台湾を巡錫した。さらに1917年には中華民国を約3ヶ月にわたって巡錫し、アジア各地での禅の教えの普及に努めた。
1916年には再び円覚寺派管長に選ばれ、法嗣弟子の古川尭道を僧堂師家に任じて、管長職を務めた。同年10月には、長年にわたり講義を行ってきた『碧巌録』の講了を記念して碧巌会を閉じた。12月9日には、弟子である夏目漱石の葬儀の導師を務め、戒名を授けた。
5.2. 逝去
釈宗演は1919年10月29日(旧暦大正8年11月1日)、肺炎のため神奈川県鎌倉市で遷化(死去)した。世寿61歳であった。
6. 遺産と評価
釈宗演は、日本の禅仏教を世界に広めた先駆者として、また明治・大正期の日本の精神的指導者の一人として、多大な遺産を残した。しかし、その活動の一部は後世に批判の対象ともなっている。
6.1. 西洋禅仏教の先駆者
釈宗演は、日本人の禅師として初めて「禅」を「Zen英語」として欧米に伝えた人物として、極めて重要な役割を果たした。1893年のシカゴ万国宗教会議での演説は、西洋における禅仏教への関心を引き起こす決定的な契機となった。彼の弟子である鈴木大拙をアメリカに派遣したことは、その後の西洋禅仏教の発展に不可欠な基盤を築いた。鈴木大拙は、宗演の教えと自身の学識を通じて、西洋における禅の理解を深め、その普及に多大な貢献をした。
宗演自身も1905年にアメリカに渡り、サンフランシスコで約9ヶ月間の禅指導を行った。この期間にアイダ・ラッセルが公案を学んだ初めてのアメリカ人となるなど、具体的な禅の実践が西洋にもたらされた。彼の著作、特に英語で出版された『Sermons of a Buddhist Abbot英語』や『Zen for Americans英語』は、西洋の読者にとって禅の教えに触れる貴重な機会を提供した。宗演の活動は、アメリカをはじめとする西洋の仏教界に大きな影響を与え、今日の西洋禅仏教の礎を築いたと評価されている。
6.2. 文化的な貢献
釈宗演は、東西文化交流の架け橋として多大な貢献をした。彼の国際的な活動は、日本の精神文化、特に禅の思想を西洋に紹介する上で先駆的な役割を果たした。彼は単に仏教を伝えただけでなく、西洋の思想家や知識人との対話を通じて、相互理解を深める努力をした。
また、日本国内においても、彼は慶應義塾での学びや福沢諭吉との親交、臨済宗大学学長としての教育活動を通じて、当時の知識人層に大きな影響を与えた。夏目漱石や濱口雄幸といった著名な人物が彼の弟子であったことは、彼が当時の日本社会において精神的指導者として広く認められていたことを示している。彼の思想は、多くの人々に禅の智慧と実践の重要性を伝え、日本の近代化が進む中で、精神的な支柱としての役割を果たした。
6.3. 批判と論争
釈宗演の生涯と業績は高く評価される一方で、特に彼の戦争観については、後世において批判的な見解や論争の対象となっている。日露戦争中に従軍布教を行い、兵士に死を恐れぬよう説いたこと、そしてレフ・トルストイからの戦争非難の呼びかけを拒否し、「罪のない国、民族、あるいは個人の価値と調和を守るために、殺害や戦争が必要となることもある」と述べたことは、仏教の不殺生の教えや平和主義の観点から、その正当性が問われることがある。
彼のこうした立場は、当時の国家主義的な風潮や大日本帝国の対外政策との関連で解釈されることがあり、一部の学者は、彼の言動が「戦時下の禅」という文脈の中で、戦争への協力を正当化する役割を果たしたと指摘している。この論争は、宗教と国家、倫理と現実の間の複雑な関係を示すものとして、現代においても議論の対象となっている。