1. 経歴
金子光晴の生涯は、養子縁組による複雑な生い立ちから始まり、度重なる学業の中退、ヨーロッパやアジアへの放浪、そして反戦・反権威主義の詩人としての確立、家族との関係、戦時下の抵抗、そして戦後の文学活動に至るまで、激動の時代を個人の尊厳を貫き生きた軌跡である。
1.1. 生い立ちと教育
金子光晴は、1895年(明治28年)12月25日、愛知県海東郡越治村(現津島市)に、酒類販売業を営む大鹿和吉・里やう夫妻の息子、安和として生まれた。2歳時の1897年(明治30年)に生家が経営破綻し、一家は名古屋市へ転居した。6歳時の1901年(明治34年)に、土建業の清水組名古屋出張所主任であった金子荘太郎の養子となった。養母の須美は当時16歳で、この養子縁組は金子光晴に経済的な安定をもたらしたものの、前近代的な家庭の雰囲気と幼い養母との関係の中で、精神的に不安定で憂鬱な少年時代を送ることになった。
1900年(明治33年)、養父・荘太郎が京都出張所主任に転任したため京都市上京区に転居し、金子保和として銅駝尋常高等小学校尋常科に入学した。1906年(明治39年)には荘太郎が東京本店に転任し、銀座の祖父宅に同居。泰明尋常高等小学校高等科に入学すると前後して、銀座竹川町(現・銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼志願式を受けた。また、この頃、浮世絵師の小林清親に日本画を習い始めた。翌1907年(明治40年)6月、一家は牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校に転校。同年11月には友人と渡米を企てて家出するが、やがて見つかり連れ戻された。この放浪中の不摂生が原因で体調を崩し、翌年3月まで病床に臥した。
1908年(明治41年)4月、暁星中学校に入学。漢文学への関心から老荘思想や江戸文学に惹かれ、中学2年の夏休みには徒歩で房総半島を横断旅行した。初年度は成績優秀であったものの、中学の校風に反発したことで成績が悪化し、200日近く欠席したため中学2年で留年となった。この頃から現代文学に関心を移し、小説家を志望して中学4年の時に同人誌を発行し級友に回覧した。
1914年(大正3年)4月、早稲田大学高等予科文科に入学するが、当時の自然主義文学の空気になじめず、オスカー・ワイルドやミハイル・アルツィバーシェフに影響を受けた。結局翌1915年(大正4年)2月に早大予科を中退し、東京美術学校日本画科に入学するが同年8月には退学。同年9月には慶應義塾大学文学部予科に入学した。この頃の生活の荒み振りを、後に「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と回想している。肺尖カタルにより3ヵ月ほど休学した後、1916年(大正5年)6月に慶大予科を中退した。この頃、保泉良弼・良親兄弟と知り合い、彼らから触発されて詩作を始めた。ボードレール、北原白秋、三木露風などの詩を読みふけり、同年7月には石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)。同年、丙種で徴兵検査に合格した。
1.2. ヨーロッパ遊学と影響
1916年(大正5年)10月に養父の荘太郎が死去したため、金子光晴は養母と財産を折半した。1917年(大正6年)に牛込区赤城元町に転居し、放蕩生活を送りながらも岐阜、関西、福江島などへ「目的のない」旅を続けた。この頃、中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)。さらにウォルト・ホイットマンやエドワード・カーペンターに影響を受け鉱山事業に着手するが失敗に終わった。
1917年(大正6年)12月、養父の友人とともにヨーロッパ遊学へと旅立った。その少し前の1919年(大正8年)1月には、川路柳虹に印刷会社を紹介してもらい、処女詩集『赤土の家』を麗文社から刊行した。
『赤土の家』公刊後まもなく、金子光晴はイギリスのリバプールに到着し、そこからロンドン、そしてベルギーのブリュッセルへと旅を続けた。同行者と別れ、一人でブリュッセル郊外に下宿し、親日家で日本の工芸品コレクターであったイヴァン・ルパージュから厚遇を受けた。この地で彼は西洋美術に触れ、落ち着いた読書の日々を送りながら、特にエミール・ヴェルハーレンの詩から強い影響を受けた。
1920年(大正9年)5月にブリュッセルを離れてパリへ移り、同年12月にロンドンで帰国の船に乗船し、1921年(大正10年)1月に日本へ戻った。この2年余りのヨーロッパ滞在は、彼の詩作と世界観形成に決定的な影響を与えた。
1.3. 結婚と家族
2年余りのヨーロッパ旅行から帰国後、金子光晴は同人誌『人間』『嵐』などに詩を発表し、大山広光、サトウハチロー、平野威馬雄らと詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わった。さらにベルギーで書きためた詩の推敲に着手し、1923年(大正12年)7月に詩集『こがね蟲』として公刊した。その出版記念会には西条八十、吉田一穂、石川淳、室生犀星、福士幸次郎らが出席した。
関東大震災に被災した後、名古屋の友人の実家から兵庫の実妹の嫁ぎ先へ身を寄せたが、1924年(大正13年)1月に東京に戻った。この頃、小説家志望の森三千代と交際を始め、同年7月には三千代が妊娠したため、室生犀星の仲人により結婚した。
1925年(大正14年)3月に長男・乾が誕生したが、翻訳で生計を立てるものの困窮した生活が続いた。同年3月には『ブェルハレン詩集』訳(新潮社)、同年8月には『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、モーリス・ルブラン『虎の子』訳(紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)を刊行した。
1926年(大正15年)3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交を深めた。翌1927年(昭和2年)にも国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヵ月ほど滞在し、横光利一とも合流して交流を深めた。この間に妻の三千代は美術評論家の土方定一と恋愛関係に陥った。同年5月、詩集『鱶沈む』(有明社出版部)を森三千代との共著で刊行した。
1928年(昭和3年)、小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募し、横光利一が強く推したものの次点に終わり、これを機に小説から離れた。同年9月、三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅に出発した。当時の状況を「日本での生活は行き詰まり、自ら考えても非常に危険なこの旅に身を委ねるしかなかった」と回顧している。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に長崎から上海に渡った(上海にはこれより5ヶ月間滞在)。上海では風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港を経由してシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタ、ジャワ島へ旅行した。11月までに一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせ、自身は1930年(昭和5年)1月に渡欧してパリで三千代と再会した。パリでは額縁造り、旅客の荷箱作り、行商などで生計を繋ぎ、「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と後に回想した。
1931年(昭和6年)にブリュッセルのルパージュのもとへ身を寄せた。日本画の展覧会を開いて旅費を得、三千代を残してシンガポール、さらに4ヵ月ほどマレー半島を旅行した。三千代は1932年(昭和7年)4月に単身で帰国し、同年6月には光晴も帰国した。帰国後、実母の奨めもあって実妹・河野捨子が経営していた化粧品会社の宣伝部門に勤務し、製造販売していた洗顔料の商標としてモンココ(かわい子ちゃん)と名付けた。この頃から山之口貘との交友が始まった。
戦後、詩人志望の大河内令子と恋愛関係になった上に、三千代が関節リウマチに罹患した。そのため三千代との間で離婚・復縁を繰り返し、1949年(昭和24年)5月に詩集『女たちのエレジー』(創元社)、同年12月には詩集『鬼の児の唄』(十字屋書店)を刊行した。
1.4. 戦時下の抵抗
金子光晴は、日本の軍国主義が台頭する時代において、一貫して反戦・反権威主義の姿勢を貫いた詩人である。彼は自身の作品を通じて、社会体制や国家の暴力に抵抗し、個人の尊厳を守るための闘いを続けた。
1935年(昭和10年)9月、『文藝』に「鮫」を、同年12月には『中央公論』に「灯台」を発表し、日本の社会体制への批判を込めた詩を次第に世に出すようになった。この頃から喘息の発作に苦しむことが多くなった。
1937年(昭和12年)12月には妻の三千代を伴い中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する深い認識と懐疑の念を抱いた。同年8月には詩集『鮫』を刊行。この詩集の序文で彼は「非常に腹が立った時や、軽蔑したい時、誰かをからかってやりたい時以外は、今後詩を詠むつもりはありません」と記し、その後の作品に込める批判精神の強さを示唆した。
第二次世界大戦中、彼は国家の検閲や監視の目を欺くため、文学的技法を駆使して偽装した形で批判的な作品を発表し続けた。彼の詩は、表面上は戦争を肯定しているかのように見えながら、実際には戦争、天皇制、宗教、日本の封建的性格などを鋭く批判する内容を含んでいた。
代表作の一つである詩集『鮫』について、金子光晴自身は改定『詩人 金子光晴自伝』の中で、「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装を凝らしているので、ちょっと見ては、検閲官にもわからなかった」と解説している。彼は「鍵一つ与えれば、どの引き出しもすらすら開いて、内容がみんなわかってしまう」ように詩を構成したと述べている。「泡」は日本軍の暴状の暴露、「天使」は徴兵に対する否定と厭戦論、「紋」は日本の封建的性格の解剖であり、政府側から見れば抹殺に値する内容であったと明かしている。彼は強力な軍の干渉下でどれだけ生き延びられるかが「我ながら見ものであった」と語り、当時の彼の信念はいかなる力をもってしても曲げる余地のないものであったと強調している。また、多くの正直な詩人たちが沈黙を強いられる中で、彼の詩が難解であったこと、そして彼の意図を理解する人々が彼を外界から守ってくれたことが、彼に語り続けさせた要因であったと述べている。
詩の読み取り方における「鍵」の一例として、研究書『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では、作品「湾」の序文に引用されたヘーゲルの言葉「永遠の平和に安らふ民あらんか それはただ堕落の外なるべし」を挙げている。これは光晴が絶対に思わないであろう正反対の内容であり、読者にこの詩が通常の読み取りではなく、反語的・否定的な意図で読み取られるべきであるという「鍵」として意図的に置かれたと、光晴自身の自伝で解説されている。例えば、「勝たねばならぬ(という)信念の(スローガン)ため ひとそよぎの草も動員されねばならないのだ」という一節は、「勝つために動員すべき」という表面的な意味ではなく、「草までも動員するという馬鹿らしさ、強制への反抗」を意味し、「草」自体も自然に生きる自由な人間、もしくは光晴自身とも読め、どんなものにも強制する当時の現状への思いが込められていると分析されている。
また、同研究書では、命の危険を感じながらも自身の作品を描き続けた光晴が、突如戦争賛美詩を書くのは不自然であり、戦中も反戦や抵抗詩を書いていたことから、得意の隠喩、伏字、アイロニー(反語、風刺、あてこすり、皮肉など)を込めた詩で検閲や特高警察の監視の目を逸らしながら発表したものであると分析している。アイロニーの表現の例として、光晴の作品『戦争』の一部が引用されている。
「子どもよ。まことにうれしいじゃないか。たがいにこの戦争に生まれあわせたことは。十九の子どもも五十の父親もおなじおしきせをきておなじ軍歌をうたって。」
櫻本富雄が『湾』『洪水』を戦争賛美詩であると主張したことに対し、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』は、光晴の詩法と意図を読み取らずにレッテルを貼った詩の実像を歪める行為であると反論している。同書は、各詩の改編や指摘箇所、発表当時の雑誌の状況(同じ雑誌のある詩は反戦的内容で、片方は戦争賛美詩という指摘の矛盾など)を例に出し、各詩を詳細に分析して櫻本の意見に異を唱えている。
さらに、金子光晴は個人的な抵抗も行った。1944年(昭和19年)11月、長男・乾に徴集令状が届いた際、彼は息子を戦地に送らせないため、日頃から気管支カタルを患っていた乾を雨の中に立たせて病状を悪化させ、徴集を免れさせた。翌1945年(昭和20年)にも再度乾に徴集令状が届いたが、診断書を携えて係官と掛け合い、徴集を延期させ、終戦を迎えることができた。これは国家への不服従を貫き、個人の意思を貫徹した彼の強い姿勢を示す具体的な行動である。
1.5. 戦後から晩年
戦局の悪化に伴い、金子光晴は山梨県の山中湖畔に疎開し、この頃、後に詩集『落下傘』で発表する作品群を制作した。
1946年(昭和21年)3月には吉祥寺に戻り、詩誌『コスモス』の同人となった。
1954年(昭和29年)1月、詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞した。
1957年(昭和32年)8月には自伝『詩人』(平凡社)を、1959年(昭和34年)10月には『日本人について』(春秋社)、同年12月には『日本の芸術について』(春秋社)をそれぞれ刊行した。
1960年(昭和35年)7月には書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』の第1巻が刊行された。
1964年(昭和39年)6月には桜井滋人や新谷行などと同人雑誌『あいなめ』に参加した。
1969年(昭和44年)5月には軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど河北病院に入院した。
1972年(昭和47年)3月には『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
1974年(昭和49年)7月から雑誌『面白半分』の編集長を半年間務め、金子の特異なキャラクターが若者に知られ、「エロじいさん」という愛称で若者の間で教祖的な存在となった。
1975年(昭和50年)2月より『金子光晴全集』(全15巻、中央公論社)の刊行が開始された(1977年1月まで)。
1.6. 死
1975年(昭和50年)4月、金子光晴は遺書をしたためた。
同年6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全のため、武蔵野市吉祥寺本町の自宅で死去した。
同年7月5日には、千日谷会堂にて告別式が執り行われた。
2. 著作
金子光晴の著作は、鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の精神を特徴とし、多岐にわたるジャンルでその思想と人生経験が表現されている。特に戦時中には、検閲を潜り抜けるための文学的技法を駆使して、戦争に傾く時流に抵抗する作品を発表し続けた。
2.1. 詩
金子光晴の詩集には、『Kohro』(1916年、私家版)、『Sekido no ie』(1919年、私家版)、『こがね蟲』(1923年、新潮社)、『Dai-furan shoh』(1923年、未発表)、『Mizu no ruroh』(1926年、新潮社)、『鱶沈む』(1927年、森三千代との共著、新潮社)、『鮫』(1937年、人文社)、『落下傘』(1948年、日本未来派発行所)、『蛾』(1948年、北斗書院)、『女たちへのエレジー』(1949年、創元社)、『鬼の児の唄』(1949年、十字屋書店)、『人間の悲劇』(1952年、創元社)、『非情』(1955年、新潮社)、『金子光晴全集』(全5巻、1960年-1971年、書肆ユリイカ/書信社)、『屁のような歌』(1962年、新潮社)、『IL』(1965年、勁草書房)、『若葉のうた』(1967年、勁草書房)、『金子光晴全詩集』(1967年、筑摩書房)、『愛情69』(1968年、筑摩書房)、『花と空き瓶』(1973年、青雅書房)などがある。
彼は1918年以降、イギリス、ベルギー、フランス、上海など海外を渡り歩き、その旅の風景や人物描写は彼の詩の世界に深く影響を与えている。特に1928年には妻三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパへの旅に出発し、その中で欧州の植民地となったアジアの国々を目の当たりにした。この旅は裕福なものではなく、各地の日本人を訪ね、多少習っていた絵を描いて資金援助を申し出るなど、困窮しながらの旅であった。旅の末にたどり着いたパリでは、一時期安定した収入もなく、生活のために彼曰く「売春以外のことは何でもした」と自伝『ねむれ巴里』で詳細に描かれている。
彼の詩は、江戸時代から明治時代、大正時代、昭和時代、そして戦中と敗戦後の移り変わりを描写し、歴史の変遷に対する鋭い視点を示している。また、『愛情69』などエロスを描いた作品も高く評価されている。
戦時中、彼は戦争に対し自身の経験からも反対の立場を取り、作品を発表するにあたり、国の検閲をすり抜けるよう文学的技法を使い、偽装した形で発表し続けた。戦争・天皇・宗教・日本の封建的性格などについての作品も多く残している。
表面上は一見、戦争肯定とも見える詩「湾」「落下傘」なども書いているが、本人が自著、改定『詩人 金子光晴自伝』で解説しているように、監視や検閲をすり抜け作品を届けるために、一見戦争批判ではないようにも見える表現を用いた。
代表作の一つ、詩集『鮫』について、彼は自伝で「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装を凝らしているので、ちょっと見ては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの引き出しもすらすら開いて、内容がみんなわかってしまうのだが」と述べ、その内容が「泡」(日本軍の暴状の暴露)、「天使」(徴兵に対する否定と厭戦論)、「紋」(日本の封建的性格の解剖)であり、政府側から見れば抹殺に値するものであったと明かしている。彼は、当時の厳しい言論弾圧下で「強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生き延びれるかが、我ながら見ものであった」と語り、自身の信念を曲げることはなかったと強調している。また、御用作家が続々と海を渡って報道陣に加わり、非協力作家のリストを作る文士もいる中で、彼が駆け出しであったことや、詩が難解であったことが有利に働き、さらに彼の詩の「鍵」を握った人々が彼を外界から守ってくれたことで、多くの正直な詩人が沈黙を強いられる中、彼に語らせようという暗黙の理解が彼を見守っていたと述べている。
読み取り方の「鍵」の一例として、『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では作品「湾」の序文に引用されたヘーゲルの言葉「永遠の平和に安らふ民あらんか それはただ堕落の外なるべし」を挙げている。これは光晴が絶対に思わないであろう正反対の内容であり、読者にこの詩が通常の読み取りではなく、反語的・否定的な意図で読み取られるべきであるという「鍵」として意図的に置かれたと、光晴自身の自伝で解説されている。例えば、「勝たねばならぬ(という)信念の(スローガン)ため ひとそよぎの草も動員されねばならないのだ」という一節は、「勝つために動員すべき」という表面的な意味ではなく、「草までも動員するという馬鹿らしさ、強制への反抗」を意味し、「草」自体も自然に生きる自由な人間、もしくは光晴自身とも読め、どんなものにも強制する当時の現状への思いが込められていると分析されている。
また、同研究書では、命の危険を感じながらも自身の作品を描き続けた光晴が、突如戦争賛美詩を書くのは不自然であり、戦中も反戦や抵抗詩を書いていたことから、得意の隠喩、伏字、アイロニー(反語、風刺、あてこすり、皮肉など)を込めた詩で検閲や特高警察の監視の目を逸らしながら発表したものであると分析している。アイロニーの表現の例として、光晴の作品『戦争』の一部が引用されている。
「子どもよ。まことにうれしいじゃないか。たがいにこの戦争に生まれあわせたことは。十九の子どもも五十の父親もおなじおしきせをきておなじ軍歌をうたって。」
櫻本富雄が『湾』『洪水』を戦争賛美詩であると主張したことに対し、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』は、光晴の詩法と意図を読み取らずにレッテルを貼った詩の実像を歪める行為であると反論している。同書は、各詩の改編や指摘箇所、発表当時の雑誌の状況(同じ雑誌のある詩は反戦的内容で、片方は戦争賛美詩という指摘の矛盾など)を例に出し、各詩を詳細に分析して櫻本の意見に異を唱えている。
さらに、金子光晴は個人的な抵抗も行った。1944年(昭和19年)11月、長男・乾に徴集令状が届いた際、彼は息子を戦地に送らせないため、日頃から気管支カタルを患っていた乾を雨の中に立たせて病状を悪化させ、徴集を免れさせた。翌1945年(昭和20年)にも再度乾に徴集令状が届いたが、診断書を携えて係官と掛け合い、徴集を延期させ、終戦を迎えることができた。これは国家への不服従を貫き、個人の意思を貫徹した彼の強い姿勢を示す具体的な行動である。
2.2. 戦後から晩年
戦局の悪化に伴い、金子光晴は山梨県の山中湖畔に疎開し、この頃、後に詩集『落下傘』で発表する作品群を制作した。
1946年(昭和21年)3月には吉祥寺に戻り、詩誌『コスモス』の同人となった。
1954年(昭和29年)1月、詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞した。
1957年(昭和32年)8月には自伝『詩人』(平凡社)を、1959年(昭和34年)10月には『日本人について』(春秋社)、同年12月には『日本の芸術について』(春秋社)をそれぞれ刊行した。
1960年(昭和35年)7月には書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』の第1巻が刊行された。
1964年(昭和39年)6月には桜井滋人や新谷行などと同人雑誌『あいなめ』に参加した。
1969年(昭和44年)5月には軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど河北病院に入院した。
1972年(昭和47年)3月には『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
1974年(昭和49年)7月から雑誌『面白半分』の編集長を半年間務め、金子の特異なキャラクターが若者に知られ、「エロじいさん」という愛称で若者の間で教祖的な存在となった。
1975年(昭和50年)2月より『金子光晴全集』(全15巻、中央公論社)の刊行が開始された(1977年1月まで)。
2.3. 死
1975年(昭和50年)4月、金子光晴は遺書をしたためた。
同年6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全のため、武蔵野市吉祥寺本町の自宅で死去した。
同年7月5日には、千日谷会堂にて告別式が執り行われた。
3. 著作
金子光晴の著作は、鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の精神を特徴とし、多岐にわたるジャンルでその思想と人生経験が表現されている。特に戦時中には、検閲を潜り抜けるための文学的技法を駆使して、戦争に傾く時流に抵抗する作品を発表し続けた。
3.1. 詩
金子光晴の詩集には、『Kohro』(1916年、私家版)、『Sekido no ie』(1919年、私家版)、『こがね蟲』(1923年、新潮社)、『Dai-furan shoh』(1923年、未発表)、『Mizu no ruroh』(1926年、新潮社)、『鱶沈む』(1927年、森三千代との共著、新潮社)、『鮫』(1937年、人文社)、『落下傘』(1948年、日本未来派発行所)、『蛾』(1948年、北斗書院)、『女たちへのエレジー』(1949年、創元社)、『鬼の児の唄』(1949年、十字屋書店)、『人間の悲劇』(1952年、創元社)、『非情』(1955年、新潮社)、『金子光晴全集』(全5巻、1960年-1971年、書肆ユリイカ/書信社)、『屁のような歌』(1962年、新潮社)、『IL』(1965年、勁草書房)、『若葉のうた』(1967年、勁草書房)、『金子光晴全詩集』(1967年、筑摩書房)、『愛情69』(1968年、筑摩書房)、『花と空き瓶』(1973年、青雅書房)などがある。
彼は1918年以降、イギリス、ベルギー、フランス、上海など海外を渡り歩き、その旅の風景や人物描写は彼の詩の世界に深く影響を与えている。特に1928年には妻三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパへの旅に出発し、その中で欧州の植民地となったアジアの国々を目の当たりにした。この旅は裕福なものではなく、各地の日本人を訪ね、多少習っていた絵を描いて資金援助を申し出るなど、困窮しながらの旅であった。旅の末にたどり着いたパリでは、一時期安定した収入もなく、生活のために彼曰く「売春以外のことは何でもした」と自伝『ねむれ巴里』で詳細に描かれている。
彼の詩は、江戸時代から明治時代、大正時代、昭和時代、そして戦中と敗戦後の移り変わりを描写し、歴史の変遷に対する鋭い視点を示している。また、『愛情69』などエロスを描いた作品も高く評価されている。
戦時中、彼は戦争に対し自身の経験からも反対の立場を取り、作品を発表するにあたり、国の検閲をすり抜けるよう文学的技法を使い、偽装した形で発表し続けた。戦争・天皇・宗教・日本の封建的性格などについての作品も多く残している。
表面上は一見、戦争肯定とも見える詩「湾」「落下傘」なども書いているが、本人が自著、改定『詩人 金子光晴自伝』で解説しているように、監視や検閲をすり抜け作品を届けるために、一見戦争批判ではないようにも見える表現を用いた。
代表作の一つ、詩集『鮫』について、彼は自伝で「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装を凝らしているので、ちょっと見ては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの引き出しもすらすら開いて、内容がみんなわかってしまうのだが」と述べ、その内容が「泡」(日本軍の暴状の暴露)、「天使」(徴兵に対する否定と厭戦論)、「紋」(日本の封建的性格の解剖)であり、政府側から見れば抹殺に値するものであったと明かしている。彼は、当時の厳しい言論弾圧下で「強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生き延びれるかが、我ながら見ものであった」と語り、自身の信念を曲げることはなかったと強調している。また、御用作家が続々と海を渡って報道陣に加わり、非協力作家のリストを作る文士もいる中で、彼が駆け出しであったことや、詩が難解であったことが有利に働き、さらに彼の詩の「鍵」を握った人々が彼を外界から守ってくれたことで、多くの正直な詩人が沈黙を強いられる中、彼に語らせようという暗黙の理解が彼を見守っていたと述べている。
読み取り方の「鍵」の一例として、『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では作品「湾」の序文に引用されたヘーゲルの言葉「永遠の平和に安らふ民あらんか それはただ堕落の外なるべし」を挙げている。これは光晴が絶対に思わないであろう正反対の内容であり、読者にこの詩が通常の読み取りではなく、反語的・否定的な意図で読み取られるべきであるという「鍵」として意図的に置かれたと、光晴自身の自伝で解説されている。例えば、「勝たねばならぬ(という)信念の(スローガン)ため ひとそよぎの草も動員されねばならないのだ」。
意味として「勝つために動員すべき」ではなく、「草までも動員するという馬鹿、馬鹿しさ、強制への反抗」また「草」自体も自然に生えている自由なはずの人間、もしくは光晴自身とも読め、どんなものにも強制する現状への思いを書いているとも読み取れる。
また、同研究書では、命の危険を感じながらも自身の作品を描き続けた光晴が、突如戦争賛美詩を書くのは不自然であり、戦中も反戦や抵抗詩も書いている事から、得意の隠喩、伏字、アイロニー(反語、風刺、あてこすり、皮肉など)を込めた詩で検閲や特高警察の監視の目を逸らしながら発表したものであると分析している。アイロニーの表現の例として光晴の作品『戦争』を挙げる。
「子どもよ。まことにうれしいじゃないか。たがいにこの戦争に生まれあわせたことは。十九の子どもも五十の父親もおなじおしきせをきておなじ軍歌をうたって。」
また櫻本富雄が戦争賛美詩とした『湾』『洪水』は戦争協力詩であるとの主張に対し、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では、光晴の詩法と意図を読み取らずに、レッテルを貼った詩の実像を歪める行為であると、各詩の改編や指摘箇所、発表当時の雑誌の状況(同じ雑誌のある詩は反戦的内容で、片方は戦争賛美詩という指摘の矛盾など)を例に出し各詩を詳細に分析し、櫻本の意見に反論している。
3.2. 評論・自伝的著作
金子光晴は詩作の傍ら、エッセイ、紀行文、自伝的著作も多数発表し、その人生経験と社会に対する批判的視点を明らかにした。
主要な自伝的著作には、『マレー蘭印紀行』(1940年)、『詩人』(1957年、平凡社)、『どくろ杯』(1971年、中央公論社)、『ねむれ巴里』(1973年、中央公論社)、『西ひがし』(1974年、中央公論社)などがある。
特に『詩人』は彼の自伝であり、その波乱に満ちた生涯と思想形成の過程を詳細に記している。『ねむれ巴里』では、ヨーロッパ放浪時代の困窮した生活が赤裸々に描かれ、彼の反骨精神の源泉が垣間見える。
戦後の著作としては、日本の終戦後の状況と自身の内面を描いた『人間の悲劇』(1952年、創元社)や、古今東西の絶望した人々について考察した『絶望の精神史』がある。後者は特に明治維新以降の日本の近代化路線に対する彼の批判的な見解が示されている。
彼のエッセイには、例えば『反骨』や『じぶんというもの』に収録されている『天邪鬼のうさばらし』のように、当時の反戦運動の中に、熱に浮かされた戦争時と共通するものを感じなくもないと書くなど、常に多角的で批判的な視点を保っていたことがうかがえる。
晩年にはテレビ出演や対談も多く行い、その一部は『金子光晴下駄ばき対談』としてまとめられている。また、堀木正路による回想『金子光晴とすごした時間』(現代書館)も刊行されている。
翻訳としては、山川浩の『京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記』(平凡社東洋文庫)を手掛けるなど、多岐にわたる活動を行った。
3.3. 翻訳
金子光晴は外国文学、特に詩の翻訳活動にも積極的に取り組み、西洋文学を日本に紹介する上で重要な役割を果たした。
彼の翻訳作品には、エミール・ヴェルハーレンの『ブェルハレン詩集』(1925年、新潮社)、『近代仏蘭西詩集』(1925年、紅玉堂書店)、モーリス・ルブランの『虎の子』(1925年、紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)などがある。
また、アンリ・フォコニエの『馬来』や『エムデン最期の日』の翻訳も手掛けた。
戦後には、アルチュール・ランボーの『ランボオ詩集』(1951年、角川文庫)、『イリュミナシオン ランボオ詩集』(1999年/2020年、角川文庫/土曜社)、ルイ・アラゴンの『アラゴン詩集』(1951年、創元社)、ボードレエールの『全訳 悪の華』(1952年、宝文館)、ポール・ヴェルレーヌの『フランドル遊記』(1994年、平凡社)などを翻訳した。
これらの翻訳活動は、彼自身の詩作に影響を与えただけでなく、日本の読者に多様な西洋文学、特に詩の世界を紹介し、その社会的・哲学的メッセージを伝える上で大きな意義を持った。
4. 絵画活動
金子光晴は詩人としてだけでなく、画家としても活動し、その視覚芸術分野での取り組みは彼の多面的な創造性を表している。彼の絵画は、詩と同様に、社会的なメッセージを伝える手段ともなった。
4.1. 画業
幼少期に浮世絵師の小林清親に日本画を習うなど、早くから絵画に親しんでいた。
彼の絵画作品には、「蛾」(紙本墨絵 色紙)、「燻蠟(人力車の図)」(紙本墨絵 色紙)、「花(仮題)」(紙本水彩 色紙)などがある。
海外放浪中には、旅費を稼ぐ手段として絵画を積極的に活用した。例えば、上海では風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、シンガポールでも風景小品画展を開いて生計を繋いだ。これは彼の芸術が、単なる表現活動に留まらず、厳しい現実を生き抜くための手段でもあったことを示している。
4.2. 画集・共同制作
金子光晴は詩と絵画を融合させた画集や共同制作も発表し、彼の創造的な表現の統合を示した。
主な画集には、『金子光晴自選詩画集』(1974年、五月書房)、中林忠良の版画と金子光晴の詩による詩画集『大腐爛頌』(1975年、ギャルリー・ワタリ)がある。この『大腐爛頌』に収められた「アルコール」「草刈り」という詩について、詩人の飯島耕一はブリューゲルやボッシュの反映があるとし、特に「草刈り」は後の詩集『鮫』(1935年)以降の詩へと繋がる重要な作品であると述べている。
その他にも、『金子光晴 画帖』(1981年、河邨文一郎編、三樹書房)、『金子光晴旅の形象:アジア・ヨーロッパ放浪の画集』(1997年、今橋映子編、平凡社)、『金子光晴 新潮日本文学アルバム45』(1994年、新潮社)、写真と文による『金子光晴 散歩帖』(2002年、峠彩三写真と文、アワ・プランニング)、『金子光晴の旅 かへらないことが最善だよ。』(2011年、横山良一写真、平凡社コロナ・ブックス)、『まばゆい残像 そこに金子光晴がいた』(2019年、小林紀晴写真、わたしの旅ブックス)など、詩と絵画、あるいは旅の記録を組み合わせた著作が多数刊行されている。
5. 思想と社会批判
金子光晴の思想の核は、個人の自由と尊厳を何よりも重んじ、あらゆる権威や抑圧に抵抗する反骨精神にあった。彼の社会批判は、単なる不平不満に留まらず、日本の近代化の過程で失われたもの、あるいは歪められたものへの深い洞察に基づいていた。
5.1. 反戦・反権威主義
金子光晴は、生涯を通じて戦争、権威主義、そして社会的抑圧に対して一貫して反対の立場を取り続けた。彼は日本の軍国主義が台頭する時代において、その思想を詩作や行動で明確に示した。
彼の詩は、直接的な表現が困難な検閲下で、隠喩やアイロニーといった高度な文学的技法を駆使して、反戦のメッセージを込めた。例えば、詩集『鮫』は、表面的な意味とは裏腹に、日本軍の残虐行為や徴兵制への否定、日本の封建的性格を解剖する内容を含んでいた。彼は自伝で、これらの詩が「禁制の書」でありながら検閲官に気づかれなかったのは、その「厚い偽装」によるものだと語っている。
また、彼は国家の強制に屈しない個人の意思を貫いた。1944年と1945年には、長男が徴兵されるのを防ぐため、彼の持病である気管支カタルを意図的に悪化させることで徴兵を免れさせた。この行動は、国家権力に対する彼の徹底した不服従の姿勢を象徴している。
彼は、多くの詩人が沈黙を強いられる中で、自身の詩が難解であったことや、彼の意図を理解する「鍵」を共有する人々が彼を守ってくれたことで、危険を冒しながらも語り続けることができたと述べている。このことは、彼の抵抗が孤立したものではなく、共感する人々との間に密かな連帯があったことを示唆している。
彼の反戦・反権威主義の姿勢は、人間の尊厳と自由の追求に根ざしており、民主主義の価値を擁護する彼の貢献は、激動の時代における個人の抵抗の象徴として評価される。
5.2. 近代化と社会への批判
金子光晴は、日本の近代化プロセス、特に明治維新以降の急速な西欧化とそれに伴う軍国主義化、そして社会構造の変容に対して、鋭い批判的な見解を持っていた。彼の批判は、単に政治体制に留まらず、人間の精神性や社会のあり方全体に向けられていた。
彼は、海外放浪中に欧州列強の植民地となったアジアの国々を目の当たりにし、日本の大陸進出に対する深い懐疑と批判的な認識を抱くようになった。彼の著作『絶望の精神史』では、明治百年(明治維新から約100年)の日本の悲惨と残酷さを体験した者として、近代化路線への批判を展開している。
彼の批判の根底には、幼少期の複雑な家庭環境や貧困、養子縁組という経験があり、これが彼の反骨精神や既存の権威に対する不信感を培ったと考えられる。彼は、社会的弱者や少数者に対する視点を作品に込め、画一的な社会や国家の論理によって抑圧される個人への共感を表現した。
また、彼は戦後の反戦運動についても、時に「熱に浮かされた戦争時と共通するものを感じなくもない」と述べるなど、常に冷静かつ批判的な視点を保っていた。これは、彼が特定のイデオロギーに盲従することなく、個人の自由と批判的精神を最優先していたことを示している。
6. 評価と影響
金子光晴は、その生涯と作品を通じて、日本の文学界と社会に多大な影響を与えた。彼の反骨精神と独自の詩的世界は、後世の芸術家や思想家たちに大きな示唆を与え続けている。
6.1. 受賞歴と評価
金子光晴は、その文学的功績が公式にも認められている。1954年(昭和29年)1月には、詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞した。また、1972年(昭和47年)3月には『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞している。
批評家や学者からは、一般的に「鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の詩人」として知られている。特に、戦時下において検閲を潜り抜けるための文学的技法を駆使し、反戦・反権威主義のメッセージを伝え続けたその姿勢は高く評価されている。彼の詩は難解であるとされる一方で、その深遠な思想と時代精神の鋭い解釈が、多くの読者や研究者を惹きつけている。
また、『愛情69』などエロスを描いた作品も、その文学的価値において高い評価を得ている。彼の詩法と意図を巡っては議論も存在し、櫻本富雄による戦争協力詩との主張に対しては、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』が詳細な分析をもって反論するなど、彼の作品は今日に至るまで活発な批評的議論の対象となっている。
6.2. 死後刊行物
金子光晴の死後も、彼の作品世界を再照明し、新たな読者に届けるための多くの著作が刊行されている。
主な詩集や選集には、『金子光晴詩集』(2008年、思潮社 現代詩文庫)、清岡卓行編『金子光晴詩集』(1991年、岩波文庫)、『女たちへのいたみうた 金子光晴詩集』(1992年、集英社文庫)、『女たちへのエレジー』(1998年、講談社文芸文庫)などがある。
自伝的著作や評論も再版され、新たに編集されたものが多数ある。例えば、『風流尸解記』(1990年、講談社文芸文庫)、『詩人 金子光晴自伝』(1994年、講談社文芸文庫)、『絶望の精神史』(1996年、講談社文芸文庫)、『人間の悲劇』(1997年、講談社文芸文庫)、『どくろ杯』(2004年、中公文庫)、『マレー蘭印紀行』(2004年、中公文庫)、『這えば立て』(2004年、中公文庫)、『ねむれ巴里』(2005年、中公文庫)などがある。
エッセイ・コレクションとして『流浪 金子光晴エッセイ・コレクション 全3巻』(『異端』、『反骨』、2006年、ちくま文庫)が刊行されたほか、『人よ、寛かなれ』(2003年、中公文庫)、『西ひがし』(2007年、中公文庫)、『世界見世物づくし』(2008年、中公文庫)、『自由について 金子光晴老境随想』(2016年、中公文庫)、『じぶんというもの 金子光晴老境随想』(2016年、中公文庫)、『マレーの感傷 金子光晴初期紀行拾遺』(2017年、中公文庫)など、多岐にわたる著作が再評価されている。
家族との共著も死後刊行されており、森三千代、森乾との共著『詩集「三人」』(2008年、講談社/2019年、講談社文芸文庫)、森三千代との共著『相棒』(2021年、中公文庫)などがある。
また、彼の生涯と作品に関する研究資料も多数出版されており、桜井滋人聞き書き『金花黒薔薇艸紙』(1975年、集英社/2002年、小学館文庫)、森乾『父・金子光晴伝 夜の果てへの旅』(2002年、書肆山田)、柏倉康夫『今宵はなんという夢見る夜 金子光晴と森三千代』(2018年、左右社)、『金子光晴を旅する』(2021年、中公文庫)などが挙げられる。
6.3. 音楽と文化への影響
金子光晴の作品と彼の特異なキャラクターは、後世の芸術家、特にフォーク音楽家や文化全般に大きな影響を与えた。彼の詩に込められた社会批判的なメッセージや、権威に屈しない反骨精神は、多くの表現者にとってインスピレーションの源となった。
フォークシンガーの高田渡は、金子光晴の詩「69」を歌い、彼の詩を音楽を通じて広めた。他にも、ひがしのひとしが「うまれてはじめてのことを女はされる」を、友部正人が「絵はがき」を歌うなど、彼の詩はフォーク音楽の歌詞として活用され、社会批判的なメッセージを伝える手段となった。
晩年、金子光晴が雑誌『面白半分』の編集長を務めた際には、そのユニークな人柄が「エロじいさん」という愛称で若者の間で教祖的な存在となり、文学の枠を超えた文化的な影響力を持った。
彼の私生活もまた、文化作品の題材となっている。江森陽弘のノンフィクション作品『金子光晴のラブレター』は、金子光晴と34歳年下の女性との30年にも及ぶ愛人生活を題材としており、1981年には日活ロマンポルノ映画『ラブレター』として映像化された。
7. 関連項目
- アナキズム
- ラブレター (1981年の映画) - 金子光晴と34歳年下の女性の、30年にも及んだ愛人生活を題材にした江森陽弘のノンフィクション作品『金子光晴のラブレター』が原作の日活ロマンポルノ映画。
8. 外部リンク
- [https://web.archive.org/web/20011230133523/http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/2226/poem_01.html 日本の詩人たちの森 金子光晴集]
- [https://www.nhk.or.jp/archives/nhk-interviews/detail/D0009072202_00000.html NHK人物録 金子光晴]