1. 生涯と背景
アリナ・ドゥミトルは1982年8月30日にルーマニアのブカレストで生まれた。彼女は14歳の時に柔道を始め、その才能を開花させた。身長は1.58 m。ニックネームはPitzi英語。選手時代はCSAステアウア・ブカレストに所属し、フロリン・ベルチェアンの指導を受けていた。柔道五段の段位を持つ。
2. 選手キャリア
アリナ・ドゥミトルは、そのキャリアを通じて数々の国際大会で輝かしい成績を収めた。特にヨーロッパ選手権では圧倒的な強さを見せ、オリンピックではルーマニア柔道界に初の金メダルをもたらした。
2.1. ヨーロッパ柔道選手権大会
ドゥミトルはヨーロッパ柔道選手権大会で特に優れた成績を残している。2002年にスロベニアのマリボルで開催された大会の女子52kg級で銅メダルを獲得し、国際舞台でのキャリアをスタートさせた。その後、2004年から2008年まで女子48kg級で5連覇を達成。この間、2005年と2008年の決勝では、アテネオリンピック銀メダリストであるフランスのフレデリク・ジョシネを破っている。
2009年の大会では銅メダルに終わったものの、2010年から2012年にかけて再び3連覇を果たし、合計8回の優勝という偉業を成し遂げた。これはヨーロッパ柔道選手権大会における最多優勝記録である。
2.2. 世界柔道選手権大会
ドゥミトルは世界柔道選手権大会でもメダルを獲得している。2005年のカイロ大会、2007年のリオデジャネイロ大会、そして2010年の東京大会でそれぞれ銅メダルを獲得した。
しかし、2009年の世界選手権では準決勝で日本の福見友子に小外刈で一本負けを喫し、この際に脚の靭帯を損傷する怪我を負ったため、3位決定戦を棄権し5位となった。また、2010年の世界選手権では準決勝で浅見八瑠奈に敗れ、再び銅メダルに終わっている。
2.3. オリンピック
ドゥミトルは3度のオリンピックに出場し、その全てでメダル争いに絡む活躍を見せた。特に2008年北京オリンピックでの金メダル獲得は、彼女のキャリアの頂点となった。
2.3.1. 2004年アテネオリンピック
2004年アテネオリンピックの女子48kg級に出場したドゥミトルは、準決勝で日本の柔道界の伝説的存在である谷亮子と対戦したが、敗れた。その後行われた3位決定戦でも中国の高峰に敗れ、惜しくもメダルを逃し5位入賞となった。
2.3.2. 2008年北京オリンピック
2008年北京オリンピックの女子48kg級では、ドゥミトルはアテネでの雪辱を果たすべく奮闘した。準決勝で再び谷亮子と対戦し、谷に指導が1つ与えられた差で優勢勝ちを収めた。これは、谷が主要な国際大会で12年間無敗であった記録を破る、柔道界に衝撃を与えた番狂わせであった。ヨーロッパの選手が谷から勝利を挙げたのは、1992年バルセロナオリンピックでのフランスのセシル・ノバック以来16年ぶりの快挙であった。
決勝ではキューバのヤネト・ベルモイと対戦し、大外刈による一本勝ちで勝利し、見事金メダルを獲得した。これはルーマニアの柔道選手として史上初のオリンピック金メダルであり、歴史的な快挙として称えられた。
2.3.3. 2012年ロンドンオリンピック
2012年ロンドンオリンピックの女子48kg級に出場したドゥミトルは、オリンピック連覇を目指した。準決勝では、過去5戦全敗を喫していた日本の福見友子と対戦し、技ありで下して決勝に進出した。
しかし、決勝ではブラジルのサラ・メネゼスに技ありで敗れ、銀メダルに終わった。惜しくも連覇は逃したものの、2大会連続でのメダル獲得という素晴らしい成績を収めた。
2.4. その他の主な大会結果とキャリア詳細
ドゥミトルはオリンピック、世界選手権、ヨーロッパ選手権以外にも、数多くの国際大会で好成績を残している。
年 | 大会名 | 成績 |
---|---|---|
2000 | ブルガリア国際 | 3位 |
2000 | 世界ジュニア柔道選手権大会 | 優勝 |
2001 | ブルガリア国際 | 3位 |
2001 | フランス国際 | 3位 |
2001 | ドイツ国際 | 優勝 |
2001 | ヨーロッパジュニア柔道選手権大会 | 2位 |
2002 | ハンガリー国際 | 3位 |
2002 | ヨーロッパ選手権 | 3位 (52kg級) |
2003 | ロシア国際 | 3位 |
2003 | オーストリア国際 | 2位 |
2003 | 世界選手権 | 7位 |
2003 | ミリタリーワールドゲームズ | 3位 |
2004 | オーストリア国際 | 3位 |
2004 | ドイツ国際 | 優勝 |
2004 | ポーランド国際 | 優勝 |
2004 | イタリア国際 | 優勝 |
2004 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2004 | アテネオリンピック | 5位 |
2004 | 福岡国際 | 3位 |
2005 | ブルガリア国際 | 優勝 |
2005 | オランダ国際 | 2位 |
2005 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2005 | 世界選手権 | 3位 |
2006 | ハンガリー国際 | 2位 |
2006 | ルーマニア国際 | 優勝 |
2006 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2006 | 世界軍人柔道選手権大会 | 優勝 |
2006 | 青島国際 | 優勝 |
2007 | チェコ国際 | 2位 |
2007 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2007 | ロシア国際 | 優勝 |
2007 | ポルトガル国際 | 3位 |
2007 | 世界選手権 | 3位 |
2008 | ハンガリー国際 | 2位 |
2008 | ポーランド国際 | 2位 |
2008 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2008 | 北京オリンピック | 優勝 |
2009 | グランプリ・ハンブルク | 2位 |
2009 | ヨーロッパ選手権 | 3位 |
2009 | 世界選手権 | 5位 |
2010 | ワールドカップ・ソフィア | 3位 |
2010 | ワールドカップ・ブダペスト | 3位 |
2010 | グランプリ・デュッセルドルフ | 3位 |
2010 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2010 | グランプリ・チュニス | 優勝 |
2010 | ワールドカップ・ブカレスト | 優勝 |
2010 | 世界選手権 | 3位 |
2010 | グランプリ・ロッテルダム | 2位 |
2010 | グランプリ・アブダビ | 優勝 |
2011 | グランドスラム・パリ | 5位 |
2011 | グランプリ・デュッセルドルフ | 3位 |
2011 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2011 | ワールドカップ・サンパウロ | 2位 |
2011 | ミリタリーワールドゲームズ | 3位 |
2011 | 世界選手権 | 7位 |
2011 | グランプリ・アムステルダム | 3位 |
2012 | グランドスラム・パリ | 3位 |
2012 | ヨーロッパ選手権 | 優勝 |
2012 | グランドスラム・モスクワ | 2位 |
2012 | ロンドンオリンピック | 2位 |
選手生活においては、2009年の世界選手権での靭帯損傷や、2010年のグランプリ・デュッセルドルフでの浅見八瑠奈の腕緘による一本負けで腕を負傷するなど、度重なる怪我にも見舞われたが、その都度復帰し、トップレベルでの活躍を続けた。
3. 受賞歴と栄誉
アリナ・ドゥミトルは、その輝かしい功績に対し、ルーマニア政府から数々の栄誉を受けている。2008年8月27日には、当時のルーマニア大統領トライアン・バセスクからメダリア「メリトゥル・スポルティヴ」(「スポーツ功労」メダル)第3級を授与された。
また、2008年には彼女の故郷であるプレオイェシュティ市の「名誉市民」の称号を授与されている。
4. 引退とその後
アリナ・ドゥミトルは2012年ロンドンオリンピック後に現役を引退した。引退後も柔道界との繋がりを保ちつつ、個人的な生活にも変化があった。彼女はルーマニア軍に所属しており、引退後は大尉(キャプテン)として勤務している。2014年7月には婚約を発表し、新たな人生の段階へと進んだ。
5. 功績と影響力
アリナ・ドゥミトルは、ルーマニア柔道界において比類なき功績を残した選手である。彼女の2008年北京オリンピックでの金メダル獲得は、ルーマニア柔道史上初の快挙であり、国内のスポーツ界に大きな活気と希望をもたらした。また、ヨーロッパ選手権での8回優勝という記録は、彼女が長年にわたりその階級で絶対的な強さを誇っていたことを示している。
彼女の粘り強い戦いぶり、特に強敵である谷亮子を破ったことや、度重なる怪我から復帰してトップレベルを維持した姿勢は、多くの人々に勇気を与えた。ドゥミトルは、その功績と人間性を通じて、ルーマニアのスポーツ界に多大な影響を与え、後進の選手たちにとっての模範となっている。