1. 概要
エウロヒオ・ラミーロ・マルティネス(Eulogio Ramiro Martínezエウロヒオ・ラミーロ・マルティネススペイン語、1935年6月11日 - 1984年9月30日)は、パラグアイ出身の元プロサッカー選手であり、後にスペインに帰化してスペイン代表としてプレーしたストライカーです。彼は主に1950年代から1960年代にかけてFCバルセロナで活躍し、その卓越した得点能力と決定力で知られています。
マルティネスは、後年ヨハン・クライフによって世界的に有名になった「クライフ・ターン」と酷似した、ボールを回転させながら相手をかわす独自の技術を開発したとされています。この技は「マルティネス・ターン」と呼ばれ、1959-60シーズンのヨーロピアン・カップ準々決勝でウルヴァーハンプトン・ワンダラーズとの試合で披露された映像が残っています。しかし、クライフが1974年のワールドカップでこの技を披露したことで広く認知されたのに対し、マルティネスはそれよりも少なくとも14年前に使用していたにもかかわらず、その功績が十分に認められることはありませんでした。この点において、彼の革新性とその後の評価の間に大きな隔たりが存在します。
2. 生い立ちと初期キャリア
エウロヒオ・ラミーロ・マルティネスは、1935年6月11日にパラグアイのアスンシオンで生まれました。若くしてサッカーの才能を開花させ、ユース時代はアトランティダSCに所属していました。
プロキャリアの初期は、パラグアイの強豪クラブであるクルブ・リベルタでプレーしました。リベルタ時代には、1955年のパラグアイリーグでチームを優勝に導くなど、その得点能力で大きな注目を集めました。この活躍が、彼のその後のキャリアを大きく左右することになります。
3. クラブキャリア
マルティネスのクラブキャリアは、パラグアイでの成功後、スペインの強豪クラブでの輝かしい時代と、その後の挑戦的な期間に分かれます。
3.1. FCバルセロナ時代

クルブ・リベルタでの活躍により、マルティネスはFCバルセロナの注目を集め、1956年に同クラブへ移籍しました。バルセロナでの6シーズンにわたる在籍中、彼は公式戦225試合に出場し、168得点を記録しました。別の情報源では、公式戦162試合で111得点を記録したともされています。彼は3シーズン(1956-57、1957-58、1959-60)にわたりチームの最多得点者となり、2度のラ・リーガ、2度のコパ・デル・レイ、そして2度のインターシティーズ・フェアーズカップのタイトル獲得に貢献しました。
マルティネスは、FCバルセロナの歴史に名を刻む数々の功績を残しました。1957年9月24日には、現在も使用されているクラブのホームスタジアムであるカンプ・ノウで史上初のゴールを記録しました。このゴールは、スタジアムのこけら落としを祝うポーランドのチームとの親善試合で、開始11分に生まれました。この試合はバルセロナが4-2で勝利しています。
また、1957年5月1日に開催されたコパ・デル・レイのアトレティコ・マドリード戦では、1試合で7ゴールを挙げ、チームの8-1での大勝に貢献するという驚異的な記録を達成しました。さらに、1957年のヨーロピアン・カップ準決勝のレアル・マドリードとの「エル・クラシコ」では、途中出場からわずか15分でハットトリックを達成し、チームの決勝進出に貢献しました。彼のプレースタイル、特に相手の守備を切り裂いて得点を奪う姿から、バルセロナのサポーターは彼を親しみを込めて「Abrelatasアブレラタススペイン語」(「缶切り」の意)と呼びました。
3.2. その後のクラブキャリア
FCバルセロナを退団した後、マルティネスはキャリアの晩年を他のクラブで過ごしました。体重の増加に悩まされ、1962年にバルセロナを離れました。その後はエルチェCF、アトレティコ・マドリード、そしてCEエウロパで短期間プレーしましたが、バルセロナ時代のような目立った功績を残すことはできませんでした。
4. 代表キャリア
マルティネスは、パラグアイ代表とスペイン代表の両方で国際試合に出場するという珍しいキャリアを持っています。
まず、彼はパラグアイ代表として9試合に出場し、4ゴールを記録しました。その後、1959年にスペインに帰化し、スペイン代表としての道を選びました。スペイン代表では8試合に出場し、6ゴールを挙げました。
スペイン代表の一員として、マルティネスは1962 FIFAワールドカップに参加しました。しかし、チェコスロバキア代表とのグループリーグ初戦に0-1で敗れた後、彼はチームから外され、その後の試合には出場できませんでした。
国家代表以外では、スペインB代表として1試合に出場(無得点)、またサッカーカタルーニャ代表としても1試合に出場しています(無得点)。
4.1. 代表での得点記録
エウロヒオ・マルティネスがスペイン代表として記録したゴールは以下の通りです。
| # | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1959年11月22日 | メスタージャバレンシア、スペイン | オーストリア代表 | 4-1 | 6-3 | 親善試合 |
| 2. | 1959年12月17日 | パルク・デ・プランスパリ、フランス | フランス代表 | 4-2 | 4-3 | 親善試合 |
| 3. | 1960年3月13日 | カンプ・ノウバルセロナ、スペイン | イタリア代表 | 3-1 | 3-1 | 親善試合 |
| 4. | 1960年5月15日 | エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウマドリード、スペイン | イングランド代表 | 2-0 | 3-0 | 親善試合 |
| 5. | 1960年5月15日 | エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ、マドリード、スペイン | イングランド代表 | 3-0 | 3-0 | 親善試合 |
| 6. | 1960年7月14日 | ナシオナルサンティアゴ、チリ | チリ代表 | 0-4 | 0-4 | 親善試合 |
5. プレースタイルと革新
マルティネスは、得点能力と決定力に優れるストライカーとして知られていましたが、彼のプレースタイルには独特の革新性がありました。特に注目すべきは、「マルティネス・ターン」として知られる彼の独特のボールコントロール技術です。この技は、ボールを保持しながら素早く回転し、相手ディフェンダーをかわすものでした。
「マルティネス・ターン」が記録として残されているのは、1959-60シーズンのヨーロピアン・カップ準々決勝、FCバルセロナ対ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ戦のムービートーンの映像です。この映像は、彼がヨハン・クライフが「クライフ・ターン」として世界的に有名にするよりも、少なくとも14年前に同様の動きを披露していたことを示しています。クライフが1974年のFIFAワールドカップでこの技を披露し、広く認知されたのに対し、マルティネスはその先駆者であったにもかかわらず、その功績が十分に評価されることはありませんでした。この事実は、サッカー史における技術革新の認識とその記録の課題を示唆しています。
6. 獲得タイトル
エウロヒオ・マルティネスがクラブキャリアを通じて獲得した主なタイトルは以下の通りです。
;クルブ・リベルタ
- パラグアイリーグ: 1955
;FCバルセロナ
- インターシティーズ・フェアーズカップ: 1955-58, 1958-60
- スペインリーグ: 1958-59, 1959-60
- スペインカップ: 1956-57, 1958-59
;アトレティコ・マドリード
- スペインカップ: 1964-65
7. キャリア統計
エウロヒオ・マルティネスのプロクラブにおけるリーグ戦の統計は以下の通りです。
| クラブ成績 | リーグ | |||
|---|---|---|---|---|
| シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | ゴール |
| スペイン | リーグ | |||
| 1956-57 | バルセロナ | ラ・リーガ | 23 | 9 |
| 1957-58 | 19 | 10 | ||
| 1958-59 | 16 | 7 | ||
| 1959-60 | 24 | 23 | ||
| 1960-61 | 13 | 4 | ||
| 1961-62 | 16 | 9 | ||
| 合計 | 111 | 62 | ||
8. 引退後の人生と死
マルティネスは1966年にプロサッカー選手としてのキャリアを引退しました。引退後は、カタルーニャ州のカレリャという町に居を構え、そこで人生を過ごしました。
1984年、彼は車のタイヤ交換中に車にはねられるという悲劇的な事故に遭いました。この事故により重体となり、23日間昏睡状態に陥った後、1984年9月30日に49歳でこの世を去りました。
9. 評価と影響
エウロヒオ・ラミーロ・マルティネスは、そのキャリアを通じて優れた得点能力と決定力を発揮した、非常に多産なストライカーとして評価されています。特にFCバルセロナ時代には、クラブの歴史における重要な瞬間に立ち会い、初代カンプ・ノウでのゴールや、1試合7ゴールという偉業を達成するなど、その名を強く刻みました。サポーターから「Abrelatas缶切りスペイン語」と親しまれた愛称は、彼のプレースタイルが相手の守備を切り裂く能力を象徴しています。
しかし、彼の最も革新的な貢献である「マルティネス・ターン」については、その評価と認知に関して大きな議論があります。この技は、ヨハン・クライフが世界的に有名にした「クライフ・ターン」と本質的に同じものであり、マルティネスがクライフよりもはるか以前にこの技を披露していたことが映像記録によって裏付けられています。にもかかわらず、その功績が十分に認められず、長らく歴史の陰に隠れてきた事実は、サッカー技術の起源と普及における歴史的評価の不公平性を示唆しています。このことは、彼の功績を再評価し、正当な位置づけを与えるべきだという声を生んでいます。マルティネスは、単なる偉大なストライカーとしてだけでなく、サッカー戦術における知られざる革新者としても記憶されるべき存在です。