1. 概要
エンリケ・フィゲロラ・カムエ(Enrique Figuerola Camueスペイン語、1938年7月15日生まれ)は、キューバ出身の元スプリント選手である。彼はオリンピックに3度出場し、2つの銀メダルを獲得したことで知られる。特に、1964年東京オリンピックの男子100mと、1968年メキシコシティーオリンピックの男子4×100mリレーでそれぞれ銀メダルに輝いた。また、パンアメリカン競技大会やユニバーシアード、中央アメリカ・カリブ海競技大会といった主要な国際大会でも金メダルを獲得し、キューバの陸上競技界に多大な貢献を果たした。

2. 幼少期と競技の始まり
エンリケ・フィゲロラは1938年7月15日にキューバのサンティアゴ・デ・クーバで生まれた。彼はスプリント競技を専門とする陸上選手として、そのキャリアの初期から注目を集めた。フィゲロラが初めて主要な国際大会に出場したのは、1959年にアメリカ合衆国のシカゴで開催された1959年パンアメリカン競技大会であり、この大会の男子100mで銅メダルを獲得し、自身の才能を世界に示した。
彼の最初のオリンピック出場は、1960年にイタリアのローマで開催された1960年ローマオリンピックであった。この大会でフィゲロラは男子100mに出場し、決勝まで進出。惜しくもメダルには届かなかったものの、4位という成績を収め、その後の活躍を期待させた。
3. 主要な競技実績
フィゲロラは、数多くの国際大会で優れた成績を収め、陸上競技選手としての輝かしいキャリアを築いた。彼のキャリアの頂点は、オリンピックでのメダル獲得と、主要な国際大会での複数の金メダル獲得である。
3.1. オリンピック
フィゲロラは、1960年ローマオリンピックに加えて、さらに2度のオリンピックに出場し、計3度のオリンピック参加を果たした。
彼の最も著名な業績の一つは、1964年に日本の東京で開催された1964年東京オリンピックでの活躍である。この大会の男子100mにおいて、フィゲロラは10秒2の記録で銀メダルを獲得した。彼はこのレースで、アメリカ合衆国のボブ・ヘイズに次いで2位となり、カナダのハリー・ジェロームを抑えて表彰台に上がった。


4年後の1968年、メキシコのメキシコシティで開催された1968年メキシコシティーオリンピックで、フィゲロラは再び銀メダルを獲得した。この大会では男子4×100mリレーに出場し、チームメイトのエルメス・ラミレス、ファン・モラレス、そしてパブロ・モンテスとともに、38秒40の記録で2位に入った。このレースではアメリカ合衆国チームが金メダルを獲得し、フランスが銅メダルであった。
3.2. その他の国際大会
オリンピック以外にも、フィゲロラは様々な国際大会でその実力を発揮した。
1959年のパンアメリカン競技大会(シカゴ)での100m銅メダルに続き、彼は1961年にブルガリアのソフィアで開催されたユニバーシアードの100mで10秒38の記録で金メダルを獲得した。
1963年には、ブラジルのサンパウロで開催された1963年パンアメリカン競技大会の100mで10秒46の記録で金メダルを獲得し、同年にブラジルのポルトアレグレで開催されたユニバーシアードでも100mで10秒34を記録し、再び金メダルを獲得した。
さらに、1966年にはプエルトリコのサンフアンで開催された中央アメリカ・カリブ海競技大会の100mでも金メダルを獲得し、地域レベルでもその支配力を示した。
4. 競技成績と記録
以下は、エンリケ・フィゲロラの主要な競技大会における成績と記録の一覧である。
5. 功績
エンリケ・フィゲロラは、キューバが独立後のスポーツ界で頭角を現す上で重要な役割を果たした選手の一人である。彼は、オリンピックで複数のメダルを獲得した初のキューバ人スプリンターの一人として、後進の陸上選手たちに大きな影響を与えた。彼の卓越した成績は、キューバ国内における陸上競技の人気向上と、スポーツ全体の発展に貢献した。特に、当時のキューバが直面していた政治的・経済的な困難にもかかわらず、国際舞台で輝かしい結果を残したことは、国民の誇りとなり、スポーツを通じて国の存在感を世界に示した。フィゲロラのキャリアは、キューバのスポーツの歴史における重要な一章として記憶され、その功績は今もなお称えられている。