1. 概要
キンバリー・ポー(Kimberly Po英語)は、アメリカ合衆国の元女子プロテニス選手である。女子ダブルスで5つのWTAツアータイトルを獲得し、混合ダブルスでは2000年のウィンブルドン選手権で優勝を飾った。シングルスではWTAツアーでの優勝はなかったものの、自己最高世界ランキング14位を記録し、1997年の全豪オープンで準々決勝に進出している。ダブルスでは自己最高世界ランキング6位に達し、2001年の全米オープン女子ダブルスで準優勝を果たした。彼女は日本で開催された多くのトーナメントにも出場し、日本人選手との対戦も多かったことで知られる。
2. 生い立ちと背景
キンバリー・ポーは1971年10月20日にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。現役時代はカリフォルニア州ローリングヒルズに居住していた。身長は160 cm、体重は54kg。利き手は右で、バックハンドは両手打ちであった。
q=Los Angeles, California|position=right
3. ジュニアキャリア
プロ転向前のジュニア時代、キンバリー・ポーは顕著な成績を収めた。特に、メレディス・マグラスとペアを組み、1987年と1988年の全米オープンジュニア女子ダブルスで2年連続優勝を達成している。
4. プロフェッショナルキャリア
キンバリー・ポーは1990年にプロテニス選手としてのキャリアを開始し、2002年に引退するまで第一線で活躍した。
4.1. デビューと初期のキャリア
キンバリー・ポーは1990年にプロに転向し、1991年の全米オープンで4大大会にデビューした。この大会では、当時ソビエト連邦の選手であったナターシャ・ズベレワとの3回戦まで進出した。1993年には、ウィンブルドン選手権を除く他の3つの4大大会(全豪オープン、全仏オープン、全米オープン)でいずれも3回戦に進出するなど、キャリア初期から安定した成績を残した。
4.2. シングルスキャリア
キンバリー・ポーはシングルスでWTAツアータイトルを獲得することはなかったが、キャリアを通じて200勝180敗の成績を残した。自己最高世界ランキングは1997年6月9日に記録した14位である。グランドスラム大会におけるシングルスの最高成績は、1997年の全豪オープンでの準々決勝進出である。その他のグランドスラムでは、全仏オープンで1993年と1997年に3回戦進出、ウィンブルドンでは1992年、1994年、1996年、1998年に2回戦進出、全米オープンでは1998年に4回戦進出を果たしている。
4.3. ダブルスキャリア
キンバリー・ポーはダブルスで特に優れた成績を残し、WTAツアーで5つのタイトルを獲得した。キャリア通算成績は250勝216敗で、自己最高世界ランキングは2001年9月10日に記録した6位である。グランドスラム大会でのダブルスの主な戦績は以下の通りである。
- 全豪オープン: 2001年に3回戦進出
- 全仏オープン: 2001年に準々決勝進出
- ウィンブルドン選手権: 2001年に準決勝進出
- 全米オープン: 2001年に準優勝
彼女が獲得した5つのWTAダブルスタイトルは以下の通りである。
優勝回数 | 日付 | トーナメント | サーフェス | パートナー | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1998年9月 | ケベック・シティー | ハード (室内) | ロリ・マクニール | チャンダ・ルービン / サンドリーヌ・テステュー | 6-7(3-7), 7-5, 6-4 |
2. | 1999年4月 | 東京 | ハード | コリーナ・モラリュー | ケリー=アン・グース / キャサリン・バークレー | 6-3, 6-2 |
3. | 2000年2月 | オクラホマシティ | ハード (室内) | コリーナ・モラリュー | タマリネ・タナスガーン / エレーナ・タタルコワ | 6-4, 4-6, 6-2 |
4. | 2001年8月 | ロサンゼルス | ハード | ナタリー・トージア | ニコール・アレント / キャロライン・ヴィス | 6-3, 7-5 |
5. | 2001年8月 | トロント | ハード | ニコール・プラット | ティナ・クリザン / カタリナ・スレボトニク | 6-3, 6-1 |
また、彼女はダブルスで14度の準優勝を経験している。その中には、2001年全米オープン女子ダブルス決勝でのナタリー・トージア(フランス)とのペアでの準優勝が含まれる。この決勝では、第1シードのリサ・レイモンド(アメリカ合衆国)とレネ・スタブス(オーストラリア)組に2-6, 7-5, 5-7で敗れた。
4.4. 混合ダブルスキャリア
キンバリー・ポーは混合ダブルスでも輝かしい成績を残した。2000年のウィンブルドン選手権混合ダブルスでは、同じアメリカ合衆国のドナルド・ジョンソンとペアを組み、決勝でレイトン・ヒューイット(オーストラリア)とキム・クライシュテルス(ベルギー)組を6-4, 7-6で破り、キャリア最大のタイトルを獲得した。
また、1999年の全米オープン混合ダブルスでもドナルド・ジョンソンとペアを組み、決勝に進出した。しかし、この決勝ではマヘシュ・ブパシ(インド)と杉山愛(日本)組に4-6, 4-6で敗れ、準優勝に終わった。
4.5. 主要トーナメントと試合
キンバリー・ポーは、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント、ジャパン・オープン・テニス選手権、トヨタ・プリンセス・カップなど、日本で開催された数多くのトーナメントに出場し、日本人女子選手たちとの対戦も多かった。
彼女のキャリアにおける特筆すべき試合の一つに、1995年8月のカナディアン・オープンでのモニカ・セレシュとの対戦がある。セレシュは1993年4月30日の刺傷事件を乗り越え、この大会で約2年ぶりにツアー復帰を果たした。その復帰戦の最初の対戦相手がポーであり、セレシュはポーに6-0, 6-3で快勝し、再出発を飾った。
1996年には日本でポーの名前が広く知られるようになった一連の出来事があった。4月のジャパン・オープン女子ダブルス決勝で、ポーとエイミー・フレージャーのペアは伊達公子と杉山愛組に6-7、7-6、3-6で敗れ、準優勝となった。その4ヶ月後の1996年全米オープンでは、ポーは1回戦で第10シードの伊達を6-2, 7-5のストレートで破る番狂わせを演じた。全米オープン終了後、彼女は「ニチレイ・レディース」(現在のトヨタ・プリンセス・カップ)にも来日し、シングルス・ダブルスともに準決勝まで勝ち進んだ。ニチレイ・レディースの終了後、伊達公子は9月25日に突然の引退表明を行い、ポーに敗れた全米オープン1回戦が伊達の最後の4大大会出場となった。
1997年全豪オープンでは、ポーは4大大会シングルス自己最高成績となる初のベスト8に進出した。この大会では、2回戦で杉山愛、3回戦で平木理化と日本人選手を連破し、4回戦では第7シードのリンゼイ・ダベンポートを破る金星を挙げた。しかし、準々決勝でアマンダ・クッツァーに敗退した。同年4月のジャパン・オープンでは、シングルス準決勝で杉山に敗れている。
4.6. 怪我と困難
キンバリー・ポーはキャリア中に怪我にも見舞われた。1997年11月には右肩の手術を受け、その影響で1998年5月までツアーからの戦線離脱を余儀なくされた。この期間は彼女のキャリアにおける困難な時期であった。
4.7. 引退
キンバリー・ポーは2002年を最後にプロテニス選手としてのキャリアを終えた。現役最後の年となった2002年には、ウィンブルドン選手権と全米オープンで女子ダブルスのベスト8に入った。ウィンブルドンではナタリー・トージアと、全米オープンでは白血病を克服したコリーナ・モラリューとペアを組んだ。
また、2002年のウィンブルドン混合ダブルスでは、ドナルド・ジョンソンとのペアで2年ぶりの準決勝に進出した。しかし、準決勝でマヘシュ・ブパシとエレーナ・リホフツェワ組に4-6, 6-1, 3-6で敗れ、2年ぶりの決勝進出はならなかった。
彼女は9月末の「トヨタ・プリンセス・カップ」にも出場したが、このトーナメントは2002年の第13回大会を最後に廃止された。同年10月下旬の「チューリッヒ・オープン」女子ダブルス準々決勝で、ポーとナターシャ・ズベレワはエレナ・ドキッチとナディア・ペトロワ組に4-6, 3-6で敗れた。この試合を最後に、キンバリー・ポー・メッセーリとナターシャ・ズベレワの二人の選手が同時に女子プロテニス界を引退した。彼女の生涯獲得賞金は192.66 万 USDであった。
5. 私生活
キンバリー・ポーは2001年にオリバー・メッセーリ(Oliver Messerli英語)と結婚した。結婚後は、二つの姓を併用して「キンバリー・ポー・メッセーリ(Kimberly Po-Messerli英語)」と名乗るようになった。