1. 生い立ちと背景
ケルビン・キプトゥムは、ケニアのリフトバレー州エルゲーヨ=マラクウェトにあるチェプコリオのチェプサモ村で、サムソン・チェルイヨット夫妻の一人息子として生まれた。この地域は標高約2600 mの高地に位置し、多くの著名な陸上競技選手を輩出している。
1.1. 幼少期と生育環境
幼少期、キプトゥムは家族の家畜の世話をしながら育った。その中で、森の小道を裸足で走る他のランナーたちの後を追いかけるようになった。これは彼の走ることへの最初の接触となった。なお、2024年にLetsRun.comは、キプトゥムがかつて自身は1996年生まれだと語っていたと報じており、彼の死の時点で7歳の子どもがいたことを指摘している。
1.2. 初期陸上競技への傾倒
キプトゥムは13歳頃の2013年に本格的なトレーニングを開始した。その年、彼はケニアのエルドレットで開催されたファミリーバンク・ハーフマラソンに初出場し、10位で完走した。翌2014年には12位に終わったが、2018年には当時まだ自己流でトレーニングを積んでいたにもかかわらず、この大会で初優勝を飾った。
2. 経歴
2.1. ハーフマラソンでのキャリア
2019年3月、キプトゥムは初の国際大会となるリスボン・ハーフマラソンに出場し、59分54秒の自己ベストを記録して5位に入賞した。同年はさらに北ヨーロッパと西ヨーロッパで6つのレースに出場し、11月には母国ケニアで開催されたカッス・ハーフマラソンでも優勝した。
2020年からは、ルワンダの3000メートル障害記録保持者であるジェルヴェ・ハキジマナがコーチを務め始めたと報じられているが、キプトゥムは2013年以降、ハキジマナのもとで他の若者たちと共に定期的にトレーニングを行っていたとされる。2020年頃には、すでにフルマラソン挑戦に向けて準備を進めていた。同年12月には、当時21歳だったキプトゥムがバレンシア・ハーフマラソンで58分42秒という大幅な自己ベストを記録し、6位に入賞した。2021年には、フランスのランスで開催されたハーフマラソンで59分35秒を記録して優勝し、再びバレンシアで走ったハーフマラソンでは59分02秒で8位となった。
2.2. マラソンデビューと画期的な成果
2022年12月、23歳で臨んだバレンシアマラソンでフルマラソンデビューを果たしたキプトゥムは、周囲の予想を覆す逆転劇を演じた。彼はネガティブスプリット(後半のペースが前半を上回る走り)でレースを進め、マラソン史上最速となる1時間0分15秒の後半タイムを記録し、2時間1分53秒で優勝した。これは当時の世界歴代4位の記録であり、史上3人目となる2時間2分切りを達成した選手となった。この時点でキプトゥムよりも速いタイムを持っていたのは、当時の世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲと、ケネニサ・ベケレのみであった。キプトゥムの優勝タイムは、大会記録を1分以上更新し、フルマラソンデビュー戦としては史上最速の記録となった。また、2位の選手に1分以上の大差をつけ、レース前の優勝候補であった2022年世界陸上マラソン王者であるタミラト・トラにも勝利した。
2.3. 世界マラソンメジャーズでの成功

2023年4月、キプトゥムはワールドマラソンメジャーズ初参戦となるロンドンマラソンで、2時間1分25秒の大会記録を樹立した。これは当時の世界記録までわずか16秒差という世界歴代2位のタイムであり、キプチョゲが保持していた大会記録(2時間2分37秒)を72秒も更新する快挙であった。雨天の中、バレンシアと同様に前半は1時間1分40秒と抑えて走り、30キロメートル地点で集団から抜け出すと、後半は自身の記録を更新する59分49秒で走り抜けた。同じ村の出身で、若い頃にその背中を追ったジェフリー・カムウォロルに3分近い大差をつけ、圧勝を飾った。

同年10月8日、23歳で臨んだ3レース目となるシカゴマラソンで、キプトゥムは大会記録を3分以上塗り替え、キプチョゲの世界記録を34秒更新する2時間0分35秒の世界新記録で優勝した。このレースでも前半は1時間0分48秒と抑えながらもロンドンよりも速いペースで走り、後半も失速せずに59分47秒と記録を伸ばした。これまでの2レースと同様に、シカゴでも約30 km地点からペースを上げた。特に32キロメートルから37キロメートルにかけては13分35秒という驚異的なスプリットを記録し、平均すると1キロメートルあたり2分51秒(時速20.995 km/h)のペースで全距離を走り切った。彼は15キロメートル地点で先頭に立ち、中間点以降はペースメーカーなしで、30キロメートル地点からは独走状態となり、最終的に2位の同胞ベンソン・キプルトにおよそ3分半の差をつける圧勝であった。
キプトゥムの世界記録 シカゴ、2023年10月8日 | キプチョゲの旧世界記録 ベルリン、2022年9月25日 | |||
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距離 | スプリット | タイム | スプリット | タイム |
5 km | 14:26 | 14:26 | 14:14 | 14:14 |
10 km | 14:16 | 28:42 | 14:09 | 28:23 |
15 km | 14:27 | 43:09 | 14:10 | 42:33 |
20 km | 14:30 | 57:39 | 14:12 | 56:45 |
ハーフ | (3:09) | 1:00:48 | (3:06) | 59:51 |
25 km | 14:25 | 1:12:04 | 14:23 | 1:11:08 |
30 km | 14:27 | 1:26:31 | 14:32 | 1:25:40 |
35 km | 13:51 | 1:40:22 | 14:30 | 1:40:10 |
40 km | 14:01 | 1:54:23 | 14:43 | 1:54:53 |
マラソン | (6:12) | 2:00:35 | (6:16) | 2:01:09 |
3. トレーニング方法
2023年10月にキプトゥムが世界記録を更新した後、コーチのジェルヴェ・ハキジマナは彼のトレーニング方法について詳細を語った。ハキジマナによると、キプトゥムは4月のロンドンマラソンに向けて、週に250 kmから280 kmを走り込んでいたという。彼のルーティンは、毎朝25 kmから28 kmのランニング、火曜日と土曜日にはトラックやファルトレクでのワークアウト、そして木曜日と日曜日にはマラソンペースに近い30 kmから40 kmの強度の高いロングランを定期的に行っていた。シカゴマラソンに向けては、地元の高地であるチェプコリオと、標高800 mから1200 mの近くのケリオ渓谷で交互にトレーニングを行っていた。
4. 人物
キプトゥムはアセナス・チェルト・ロティッチと結婚しており、2人の子どもがいた。
5. 死去と追悼
5.1. 事故の状況
2024年2月11日午後11時頃、キプトゥムはコーチのジェルヴェ・ハキジマナと共にカプタガット近郊の高速道路で交通事故に遭い、死亡した。地元警察の発表によると、キプトゥムは自身が運転する車両のコントロールを失い、道路を逸れて溝に入り、木に衝突したという。この事故により、キプトゥムは重度の頭部損傷を負い、コーチのハキジマナも現場で死亡した。後に、事故の数日前にキプトゥムを訪れ、ランニングシューズの契約について話し合っていた4人の男性が、彼の死に関して事情聴取のために拘束された。
5.2. 各界からの反応と追悼
キプトゥムの突然の死に対し、世界中の陸上関係者や政府関係者から多くの追悼の意が表明された。
ワールドアスレティックスのセバスチャン・コー会長は、「ワールドアスレティックスを代表して、彼らの家族、友人、チームメイト、そしてケニア国民に心からの哀悼の意を表します。つい今週、ケルビンが驚異的なマラソン世界記録を樹立したシカゴで、彼の歴史的なタイムを正式に承認することができました。信じられないようなアスリートが信じられないようなレガシーを残しました。私たちは彼を深く惜しむでしょう」と述べた。
元マラソン世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲは、「マラソン世界記録保持者であり、新星であったケルビン・キプトゥムの悲劇的な死に深く悲しんでいます。彼は信じられないほどの偉業を成し遂げるための人生を全て持っていたアスリートでした。彼の若い家族に心からの哀悼の意を表します。この困難な時期に神があなた方を慰めてくださいますように」と語った。
ケニアのウィリアム・ルト大統領は、「ケルビン・キプトゥムはスターでした。マラソン記録を打ち破り、世界で最も優れたスポーツ選手の一人であったと言えるでしょう」と述べた。ルト大統領は後に、キプトゥムの家族のために家を建てるよう命じ、40日間の喪期間内に完成させるよう指示した。
キプトゥムの葬儀は、2024年2月23日にチェプコリオで行われ、セバスチャン・コー会長やウィリアム・ルト大統領も参列した。その後、彼はナイベリにある自身の農場に埋葬された。
6. レガシー
キプトゥムは、わずか3度のマラソン出場で世界記録を樹立し、人類史上初の2時間切りを期待されるなど、マラソン界に計り知れない影響を与えた。彼の突然の死は、マラソン界全体に大きな衝撃を与え、その将来的な業績への可能性が失われたことを惜しむ声が多数上がった。
2024年シカゴマラソンでは、女子マラソンで世界記録を樹立したルース・チェプンゲティッチが、その記録をキプトゥムに捧げた。彼の記憶は、今後もマラソン界に語り継がれていくだろう。
7. 実績
7.1. 自己ベスト
7.2. マラソン記録
7.3. 世界マラソンメジャーズ
ワールドマラソンメジャーズ | 2023年 (シリーズXV) |
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東京マラソン | - |
ボストンマラソン | - |
ロンドンマラソン | 1位 2:01:25 |
ベルリンマラソン | - |
シカゴマラソン | 1位 2:00:35 |
ニューヨークシティマラソン | - |
シリーズ順位 | 優勝 50点 |