1. 概要

ピエール・レオン・マリ・フルニエ(Pierre Léon Marie Fournierフランス語、1906年6月24日 - 1986年1月8日)は、フランスのチェリストである。その優雅な音楽性と荘厳な音色から「チェロの貴族」あるいは「チェロの王子」と称され、ソリストとしても室内楽奏者としても国際的に活躍した。また、フランスやスイスで教鞭を執り、後進の指導にも尽力した。
パリでフランス陸軍将軍の息子として生まれたフルニエは、幼少期に母親からピアノを学んだ。しかし、9歳の時に小児麻痺を患い、足の器用さを失ってピアノのペダル操作が困難になったため、チェロへと転向した。彼はパリ音楽院を17歳で卒業し、その卓越した技術と弓のテクニックで「未来のチェリスト」として高く評価された。幅広いレパートリーを持ち、特にバッハの無伴奏チェロ組曲の録音は今日でも最高の演奏の一つとされている。
2. 経歴
ピエール・フルニエの生涯は、幼少期の病による転機から始まり、国際的な演奏活動、教育への献身、そして晩年まで続いた音楽への情熱に彩られていた。
2.1. 幼少期と教育
フルニエは1906年6月24日にパリで生まれた。彼の祖父は彫刻家、父親はコルシカ島の総督を務めたこともある将軍であり、母親はピアニストであった。また、弟のジャンはヴァイオリニストとして活躍した。
フルニエは初め母親からピアノを学んだが、9歳の時に小児麻痺にかかり右足の自由を失った。このためピアノのペダル操作が困難となり、チェロへと転向した。12歳でパリ音楽院に入学し、ポール・バズレールとアンドレ・エッキングに師事した。彼はまた、偉大なチェリストであるパブロ・カザルスに助言を求めることもあった。5年後の1923年、17歳で一等賞を獲得してパリ音楽院を卒業。その後もバズレールのもとで研鑽を積み、1924年にパリでデビューを果たした。この時、彼はその卓越した技術と弓のテクニックから「未来のチェリスト」と称賛された。
2.2. 国際的な演奏活動
フルニエは1927年にコロンヌ管弦楽団のソリストとして迎えられ、フランス各地およびヨーロッパ各国での演奏活動を開始した。1934年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、大成功を収めた。第二次世界大戦後にはさらにそのキャリアを発展させ、1948年にアメリカデビューを果たしてからは、毎年のようにアメリカで演奏を行った。1950年代にはアルフレード・ロッシを伴って南米ツアーも行った。
フルニエはオーケストラとの共演だけでなく、室内楽にも並々ならぬ情熱を注いでいた。1928年にはヴァイオリニストのガブリエル・ブイヨン、ピアニストのヴラド・ペルルミュテールとトリオを結成した。また、ピアニストのアルフレッド・コルトーやヴァイオリニストのジャック・ティボーとも頻繁に共演した。
第二次世界大戦後には、ヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティ、ヴィオラ奏者のウィリアム・プリムローズ、ピアニストのアルトゥール・シュナーベルとともにカルテットを結成した。このカルテットは1947年の第1回エディンバラ音楽祭など、ヨーロッパ各地で演奏を行った。彼らはシューベルトとブラームスの室内楽作品をすべて演奏し、メンバーのシゲティはこの経験を「最高の音楽体験」だったと語っている。シュナーベルは、1948年のフルニエのアメリカデビューに際し、周囲に彼の演奏会を宣伝するなど、フルニエのキャリア発展を積極的に支援した。
デュオとしても、ピアニストのヴィルヘルム・ケンプ、ヴィルヘルム・バックハウス、アルトゥール・ルービンシュタイン、フリードリヒ・グルダらと共演した。特にケンプとは親交が深く、1954年の日本での演奏ツアーでは、フルニエとは別のツアーで来日していたケンプと合流し、当初の予定にはなかった特別演奏会を開催した。
フルニエの録音活動も特筆される。彼はBBCのためにブラームスとシューベルトの室内楽全曲を録音したが、アセテート盤であったため、より耐久性のある媒体に転写される前に劣化してしまった。しかし、1960年12月にハノーファーのベートーヴェンザールで録音されたバッハの無伴奏チェロ組曲は、現在でも最高の演奏の一つとして高く評価されており、ドイツ・グラモフォンの「アルヒーフ」レーベルからリリースされた。その他にも、ベートーヴェンのチェロソナタやエルガーのチェロ協奏曲のLP盤があり、これらは後にCD化されている。
2.3. 楽器
フルニエはキャリアを通じて複数の優れたチェロを使用した。彼は1863年製のジャン=バティスト・ヴュイヨーム、1722年製のマッテオ・ゴフリラー(現在はオーストリアのヴァレンティン・エルベンが使用)、そして希少な1849年製のシャルル・アドルフ・モーコテルの3つの主要な楽器を演奏した。特にモーコテルのチェロは、彼のキャリアの最後の18年間で使用され、彼の重要な録音の全てはこの楽器によって行われた。
2.4. 晩年と死
1956年以降、フルニエはスイスに居を構え、そこを演奏活動の拠点としたが、フランス国籍は手放さなかった。彼はボフスラフ・マルティヌーのチェロ協奏曲第1番(1930年作曲、1939年および1955年改訂)とフランシス・プーランクのチェロソナタ(1948年作曲)の献呈を受けている。
彼は1963年にレジオン・ドヌール勲章を受章した。79歳で亡くなる2年前まで公の場で演奏活動を続け、晩年もジュネーヴの自宅で個人レッスンを行っていた。彼の教え子には、チェリストのジュリアン・ロイド・ウェバーやロッコ・フィリッピーニらがいる。
フルニエは1986年1月8日に現役のまま急逝した。同年には日本での最後のリサイタルを行う予定であったが、彼の死去により中止となった。
3. 私生活
フルニエはチェリストのグレゴール・ピアティゴルスキーの前夫人であるリディア・アンティクと結婚した。また、晩年には日本人の女性と結婚している。
彼の息子であるジャン・ピエールは、「ジャン・フォンダ」という芸名でピアニストとして活躍し、しばしば父親と共演した。
弟子のリチャード・マークソンは、フルニエの性格について「とても内気で、引っ込みがちの人で、自負心は十分にあってもそれを過度に示すことは決してありませんでした」と述べつつ、「さりげないユーモアの持ち主」でもあったと回想している。例えば、レッスン中にフルニエがドヴォルザークのチェロ協奏曲の緩徐楽章を弾いていたのを聴いて、フルニエの妻が「とても感動的だった」と述べたところ、フルニエは「みんな僕のテンポの遅い楽章をとても好きだって言うんだがね。ほかの楽章には何かまずいことでもあるのかなあ」と答えたという逸話がある。
彼はピアニストのヴィルヘルム・ケンプや、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ラファエル・クーベリックと親しく交流した。また、各種国際コンクールでともに審査員を務めたチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチとも親交を深め、ロストロポーヴィチの指揮でフルニエがリヒャルト・シュトラウスの『ドン・キホーテ』の独奏チェロを演奏することもあった。同じフランス出身のチェリストであるポール・トルトゥリエとは仲の良いライバルであったと言われており、トルトゥリエの演奏会の後でフルニエが「ポール、君の左手が僕にあったらなあ」と述べたところ、トルトゥリエは「ピエール、君の右手が僕にあったらなあ」と返したという逸話も残っている。
4. レパートリーと録音
フルニエは非常に幅広いレパートリーを誇った。古典派やロマン派の作品だけでなく、同時代の作品も積極的に手掛け、ボフスラフ・マルティヌー、オットマール・シェック、フランシス・プーランク、ジャン・マルティノン、アルベール・ルーセル、エドガード・フェッダーらの作品を演奏した。
ヴィラ=ロボスはフルニエ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ガスパール・カサドのために『3台のチェロのための協奏曲』を作曲すると約束していたが、これは実現しなかった。また、アラン・シュルマンが作曲した『エレジー フェリックス・サモンドの思い出』は、1986年5月にニューヨークで開かれたチェロ協会創立30周年記念コンサートで初演されたが、この曲はその少し前に亡くなったフォルテュナート・アリコ、ヤッシャ・バーンスタイン、ハリー・フックス、フランク・ミラー、レナード・ローズ、ミッシャ・シュナイダー、そしてピエール・フルニエに捧げられている。
1972年には、フルニエ自らがバッハの『無伴奏チェロ組曲』全曲の演奏譜を校訂し、アメリカのインターナショナル・ミュージック社より出版した。彼の録音は、特にバッハの無伴奏チェロ組曲(1960年)が今日でも高く評価されているほか、ベートーヴェンのチェロソナタやエルガーのチェロ協奏曲なども知られている。
5. 教育活動
フルニエは演奏活動と並行して、後進の指導にも情熱を注いだ。
5.1. 教育理念
フルニエは1937年から3年間エコール・ノルマル音楽院でチェロと室内楽を教え、1941年にはパリ音楽院に招聘された。しかし、多忙な演奏活動のため、1949年にパリでの教育活動を断念した。その後、1956年以降はジュネーヴに住み、ジュネーヴとチューリヒで毎夏講習会を開き、ピアニストである息子のジャン・フォンダとともに、世界各国から集まる学生を指導した。
フルニエは生徒たちに「ベルベットのように柔らかい流れるような音」と「弓の腕より肘を高くすること」を求めたとされる。また、弓をしっかり持ちつつ、手や腕をいつでも自由に動かせる状態にしておくのが良いと語り、シェフチークのヴァイオリン練習曲がボーイングのテクニックを完全にするのに適していると主張した。弟子のマーガレット・モンクリーフは、フルニエが一人一人を異なる方法で指導し、リズムの重要性を指摘するとともに、ルバートの多用を戒めたと回想している。
5.2. 国際コンクールの審査員

フルニエは国際コンクールの審査員も務めた。1957年にパリで開催された第1回パブロ・カザルス国際チェロコンクールでは、審査委員長ポール・バズレールのもと、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、エンリコ・マイナルディ、モーリス・アイゼンバーグ、ガスパール・カサド、ミロシュ・サードロ、ジョン・バルビローリらとともに審査員を務めた。なお、カザルス自身は審査員を辞退していたが、会場で全ての演奏を聴いていた。また、1962年のチャイコフスキー国際コンクールでは、審査委員長ロストロポーヴィチのもと、グレゴール・ピアティゴルスキー、モーリス・マレシャル、ガスパール・カサド、スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー、ダニイル・シャフランらとともに審査員を務めた。
5.3. 弟子
フルニエの教え子からは多くの優れたチェリストが育った。主な弟子には、ジュリアン・ロイド・ウェバー、ロッコ・フィリッピーニ、マーガレット・モンクリーフ、リチャード・マークソン、安田謙一郎、菅野博文、山崎伸子、ジョーン・ディクソン、アマリリス・フレミングらがいる。
6. 論争と批判
フルニエのキャリアには、第二次世界大戦中の行動に関連する論争と、晩年の演奏に対する一部の批判が存在する。
1949年、フルニエがフランス占領中にナチスに協力した疑惑が浮上し、アメリカでの彼の公演に影響を与えた。彼はドイツの放送局「ラジオ・パリ」で82回演奏し、総額19.24 万 FRFの支払いを受けていたことが明らかになった。フランスの「国家浄化委員会の演劇・叙情芸術家および演奏家専門部会」は彼を協力者と認定し、6ヶ月間の演奏禁止処分を科した。
また、彼の演奏キャリアの後半、特に1960年代以降については、音程やボーイングに衰えが見られたという指摘も一部の批評家からなされている。
7. 評価と名声

ピエール・フルニエは、その卓越した音楽性と演奏スタイルから、「チェロのプリンス」「チェリストの貴族」「チェロの紳士」といった数々の敬称で称えられた。
チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団でチェロ奏者を務めたユリウス・ベッキは、「ジャン=ルイ・デュポールに源を発するフランスのチェロ芸術は、ピエール・フルニエによって、完全な名人芸の域に高められた」と彼の功績を高く評価している。
一方で、ヴァイオリニストのナタン・ミルシテインは「素晴らしいチェリストであるが、ピアティゴルスキーに匹敵するほどにというわけではない」と評している。しかし、全体的には、その優雅で洗練された演奏スタイルと、温かく豊かな音色が高く評価されており、幅広いレパートリーをこなす能力も特筆される。
8. 受賞と栄誉
ピエール・フルニエは生前に数々の賞と栄誉を受けた。
賞の名称 | 年 | 受賞作品 / 備考 |
---|---|---|
グランプリ・デュ・ディスク | 1955年リリース録音 | ドヴォルザーク: チェロ協奏曲 変ロ短調 Op.104 |
グラミー賞 最優秀室内楽演奏賞 | 1976年 | シューベルト: 三重奏曲 第1番 変ロ長調 Op.99 および 第2番 変ホ長調 Op.100 |
グラミー賞 最優秀室内楽演奏賞 | 1975年 | ブラームス: 三重奏曲集 (全曲) / シューマン: 三重奏曲 第1番 ニ短調 |
レジオン・ドヌール勲章 | 1953年授与、1963年メンバー任命 | フランス政府より |
9. 遺産と影響
ピエール・フルニエの音楽は、後世のチェリストたちに多大な影響を与え、チェロ音楽の歴史に重要な貢献を残した。彼の「チェロの貴族」と称された優雅で洗練された演奏スタイルは、多くの演奏家にとって規範となった。
彼がパリの音楽院やジュネーヴでのマスタークラスで指導した多くの弟子たちは、フルニエの教育哲学と技術を受け継ぎ、国際的な舞台で活躍した。特に「ベルベットのように柔らかい流れるような音」や、弓の技術に関する彼の教えは、チェロ演奏の基礎として今日でも価値を持つ。
また、彼が校訂したバッハの無伴奏チェロ組曲の演奏譜は、後進のチェリストたちにとって貴重な資料となっている。フルニエの録音、特にバッハの組曲は、その解釈の深さと技術的な完成度から、現在もなお多くのチェリストや音楽愛好家によって聴き継がれ、研究の対象となっている。彼の幅広いレパートリーと、古典から現代作品までを網羅する姿勢は、チェロの可能性を広げる上で重要な役割を果たした。