1. 生い立ち
中村一義は1955年4月8日に静岡県藤枝市で生まれた。身長は170 cm、体重は60 kgであった。幼少期からサッカーに親しみ、学生時代を通じてその才能を開花させた。
1.1. 学生時代
西益津中学校の3年次には、チームの全国中学校サッカー大会優勝に大きく貢献し、その活躍が注目を集めた。
高校はサッカーの名門として知られる藤枝東高校に進学。すぐにレギュラーの座を掴み、当時同校が採用していた4-2-4システムにおいて左ウイングとして活躍した。第51回大会(1973年)と第52回大会(1974年)の全国高校サッカー選手権大会では、2年連続で準優勝に貢献した。特に主将として臨んだ3年次の高校選手権決勝の北陽高校戦では、自身が決めた得点がオフサイドと判定されるという不運に見舞われた。同期には後に早稲田大学や三菱重工でDFとして活躍した内藤洋介がおり、1学年下には元藤枝東高校サッカー部監督の服部康雄がいた。
高校2年次には日本ユース代表に選出され、1973年にイランで開催されたAFCユース選手権では準優勝に貢献した。また、1974年1月には高校生としては初めて日本選抜に選出され、三国対抗に出場するなど、早くから将来を嘱望される存在であった。
1.2. 大学時代
高校卒業後、法政大学に進学。大学でもサッカーを続け、4年次には関東大学サッカーリーグで優勝するなど、学生サッカー界で引き続き活躍を見せた。
2. 選手経歴
大学卒業後、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせ、日本代表としても国際舞台でプレーした。
2.1. クラブ経歴
1978年に日本サッカーリーグ1部の富士通サッカー部に加入した。しかし、加入した1978年シーズンにクラブはJSL2部へ降格。これにより、中村が脚光を浴びる機会は少なくなってしまった。富士通は中村在籍当時、常に昇格争いを繰り広げるJSL2部の強豪であったが、中村の現役引退を境に中堅クラスのクラブへと変化していった。彼は1981年シーズンを最後に現役を引退した。引退の理由としては、度重なる怪我があったとされている。
2.2. 代表経歴
クラブでの活動と並行して、1974年には日本B代表にも選出された。
1979年3月4日に国立競技場で行われた日韓定期戦で日本代表デビューを果たした。この試合では、高校時代の先輩である碓井博行とコンビを組み、前半26分に決勝ゴールを決め、日本を2-1の勝利に導いた。同年6月にはマレーシアで開催されたムルデカ大会にも出場したが、1979年が中村にとって最後の日本代表参加となった。日本代表としては、国際Aマッチ5試合に出場し、1得点を記録した。
3. 所属クラブ
- 1968年 - 1970年 藤枝市立西益津中学校
- 1971年 - 1973年 藤枝東高校
- 1974年 - 1977年 法政大学
- 1978年 - 1981年 富士通
4. 選手時代の評価
中村一義は、その技巧的なドリブルと、100mを11秒台で走る駿足、そして高い得点能力を併せ持つ左利きのウインガーとして評価されていた。特に個人技に優れており、1970年代には西野朗らと共に、将来の日本サッカー界を担う人材として大いに嘱望された選手であった。
5. 個人成績
中村一義のクラブおよび日本代表での個人成績は以下の通りである。
5.1. クラブ成績
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年 | クラブ | リーグ | カテゴリ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1978 | 富士通 | JSL1部 | 1部 | 11 | 3 | ||||||
1979 | JSL2部 | 2部 | - | ||||||||
1980 | 4 | 1 | 0 | ||||||||
1981 | 1 | 0 | 1 | 0 | |||||||
総通算 | 15 | 4 | 1 | 0 | 1 | 0 | 17 | 4 |
5.2. 代表統計
中村一義は1979年に日本代表として国際Aマッチ5試合に出場し、1得点を記録した。
- 日本代表初出場:1979年3月4日 対韓国戦(国立競技場)
- 日本代表初得点:1979年3月4日 対韓国戦(国立競技場)
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1979 | 5 | 1 |
合計 | 5 | 1 |
5.3. 出場試合
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1979年3月4日 | 東京都 | 国立競技場 | 대한민국韓国韓国語 | ○2-1 | 下村幸男 | 日韓定期戦 |
2. | 1979年6月16日 | ソウル | 대한민국韓国韓国語 | ●1-4 | 日韓定期戦 | ||
3. | 1979年6月27日 | クアラルンプール | Malaysiaマレーシアマレー語 | △1-1 | ムルデカ大会 | ||
4. | 1979年6月29日 | クアラルンプール | ประเทศไทยタイタイ語 | ○2-1 | ムルデカ大会 | ||
5. | 1979年7月1日 | クアラルンプール | မြန်မာビルマビルマ語 | ○1-0 | ムルデカ大会 |
5.4. 得点記録
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1979年3月4日 | 日本、東京 | 대한민국韓国韓国語 | 2-1 | 勝利 | 日韓定期戦 |
6. 影響
中村一義は、その高い個人技とスピード、得点能力から、1970年代の日本サッカー界において将来を担う逸材として大きな期待が寄せられていた。しかし、プロ入り後に所属した富士通サッカー部が日本サッカーリーグ1部から2部へ降格したことで、彼の活躍が全国的な脚光を浴びる機会が限られてしまった。怪我による早期引退も相まって、その潜在能力を十分に発揮し、より大きな影響を与える機会が制約された側面もある。それでも、学生時代から日本ユース代表や日本選抜に選ばれるなど、当時の日本サッカーにおける有望な若手選手の一人として、その存在感を示した。