1. 概要

坂口智隆(坂口 智隆さかぐち ともたか日本語)は、兵庫県神戸市生まれ、明石市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)であり、現在は野球解説者として活動している。右投左打。「グッチ」の愛称で親しまれた。
2003年に大阪近鉄バファローズからプロキャリアをスタートさせ、球団合併後はオリックス・バファローズ、そして東京ヤクルトスワローズで活躍した。特にオリックス・バファローズ時代にはゴールデングラブ賞を4年連続で受賞するなど、走攻守三拍子揃った選手としてその名を馳せた。長年のプロ生活を通じて、彼は近鉄バファローズでプレーした最後の現役NPB選手であった。2022年9月28日に現役引退を発表し、同年10月3日のシーズン最終戦で最後の安打を記録し、そのキャリアを締めくくった。引退後は野球解説者やコーチとして、野球界への貢献を続けている。
2. プロ入り前
坂口智隆はプロ野球選手となる以前から、その才能の片鱗を見せていた。
2.1. 幼少期とアマチュア野球
坂口は兵庫県神戸市に生まれ、明石市で育った。小学2年生の時に軟式野球チーム「鵯台ライオンズ」で野球を始め、当時は主に投手として4番打者を務めていた。明石市立望海中学校時代は硬式野球のヤングリーグ「神戸ドラゴンズ」でプレーし、1年先輩には後のプロ野球選手となる栗山巧、2年先輩には後に女子野球日本代表監督となる橘田恵がいた。
神戸国際大学附属高等学校に進学すると、1年秋から背番号1を背負いエースとしてチームを牽引。この年の秋季近畿大会ではベスト4に進出し、翌春には春夏通じて同校初となる第73回選抜高等学校野球大会にエース兼5番打者として出場した。3年時には背番号1のままであったが、外野手として出場することが多くなっていた。夏の全国高等学校野球選手権兵庫大会では、準決勝で金刃憲人を擁する尼崎市立尼崎高等学校に対し、9回裏二死から5点差をひっくり返すサヨナラ勝ちを収める劇的な試合を経験。決勝では尾崎匡哉や大谷智久らが所属する強豪報徳学園高校に敗れたものの、準優勝という成績を残した。高校通算では23本塁打を記録している。
2.2. ドラフトとプロ入り
2002年のプロ野球ドラフト会議において、大阪近鉄バファローズは高井雄平の交渉権獲得を逃した後、1巡目指名で坂口智隆を指名し、その入団が決定した。彼は神戸国際大学附属高等学校出身者として初のプロ野球選手となり、また、大阪近鉄バファローズにとって最後のドラフト1位指名選手となった。高校時代は4番打者を務めるほどの打撃センスに加え、俊足と強肩という高い身体能力が評価され、プロ入り後は外野手として転向することとなった。
3. プロ経歴
3.1. 大阪近鉄バファローズ時代 (2003-2004)
プロ入り1年目の2003年、坂口は二軍のウエスタン・リーグで打率.302という好成績を残した。そして、ドラフト指名を受けて入団した高卒の野手としては、球団史上8人目となる1年目での一軍初出場を果たすと共に、プロ初安打も記録した。翌2004年も、引き続き近鉄バファローズに所属してキャリアを積んだ。
3.2. オリックス・バファローズ時代 (2005-2015)
2005年から、球団合併に伴う入団2年以内の選手への措置により、坂口はオリックス・バファローズの一員としてプレーすることになった。この年、二軍では打率.285、13盗塁を記録した。
2006年も二軍で54試合に出場し、打率.328、12盗塁を記録。オフシーズンにはハワイ・ウィンターリーグへ派遣され、更なる経験を積んだ。
2007年のオープン戦で好結果を残すと、当時のテリー・コリンズ監督は、負傷離脱していた平野恵一の穴を埋める存在として「1番バッターは彼以外いない」と絶賛。坂口は自身初の開幕スタメンを1番中堅手として飾り、初回にはチームにとってその年最初の安打を放った。5月上旬には打撃不振で二軍降格となったが、シーズン終盤に再昇格するとレギュラーに定着し、9月以降は3割近い打率を残して猛打賞も記録した。二軍では48試合で打率.317、チームトップの10盗塁を記録している。
2008年も開幕1番打者に選ばれ、前半戦は好調を維持した。夏場以降は打率が低下し三振も増えたものの、主に1番・2番打者として、タフィ・ローズと並びチーム最多の142試合に出場し、初の規定打席に到達するなどレギュラーの座を確立した。6三塁打、13盗塁(後藤光尊と同数)はチームトップの成績で、安打数、犠牲バント数、犠牲フライ数はいずれもチーム2位を記録した。さらに満塁時には9打席で7打数6安打11打点と勝負強さを見せた。守備面では、外野手としてリーグ3位の7補殺を記録し、自身初のゴールデングラブ賞を受賞した。一方で、全打席の半分以上で3球目までに打つスタイルや、チーム4位の三振数から見られる追い込まれてからの脆さ、四死球の少なさによる低い出塁率、左投手に対する打率.232という課題も残った。
2009年シーズン途中からは、元近鉄選手用の汎用応援歌に替わり、坂口専用の新たな応援歌が作られた。オープン戦では打率.349と好調だったが、開幕後は5月上旬まで打率1割台と打撃不振に陥り、同年から加入した近鉄時代のチームメイトである大村直之が1番打者を務めるようになった。その後徐々に調子を取り戻し、6月からは大村に代わって再び1番打者に定着。5月以降は7月を除いて毎月打率3割以上を記録し、8月には月間打率.386、イチロー以来球団史上2人目となる月間40安打を記録した。最終的にチームトップの137試合に出場し、チーム内で規定打席に到達した選手で唯一の打率3割となるリーグ2位の打率.317を記録。さらにリーグ2位の167安打、自己最多を更新するチームトップでリーグ10位の16盗塁を記録した。出塁率もリーグ6位の.381を記録し、左投手に対しても打率.297と前年の課題を克服した。守備では外野手としてリーグトップの14補殺、リーグ2位の守備率を記録し、2年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。この年は、パ・リーグの外野手で受賞した8人の選手のうち、唯一北海道日本ハムファイターズ以外のチームから選出された。同年オフには背番号を9に変更。12月21日には阪神・淡路大震災復興15年チャリティーマッチに参加し、地元選手やブルーウェーブOBらで構成された「がんばろう神戸ドリームズ」の選手として出場した。
2010年は、フルイニング出場を目標に1番打者として起用されたが、打撃不振によりわずか12試合で先発を外れた。しかし、セ・パ交流戦初戦となった5月12日の対東京ヤクルトスワローズ戦では、延長10回表に決勝適時三塁打を放ち、チームのヤクルト戦2年ぶりとなる勝利に貢献した。6月7日の対広島東洋カープ戦では、プロ野球新記録となる10者連続安打の先頭打者として口火を切り、1イニング2安打を放つなど、交流戦打率.389を記録しMVP候補にも挙がった。しかし7月には打率.213、OPS.539と再び不振に陥り、前半戦終了間際に3年ぶりの二軍降格を経験した。それでも、一軍昇格後は打率を再び3割に戻し、最終的に2年連続打率3割、3年連続ゴールデングラブ賞、3年連続150安打を達成。三塁打はリーグトップの10本を記録した。8月には10二塁打と6三塁打を放ち、8月度のJA全農Go・Go賞(表彰テーマ:最多二・三塁打賞)を受賞した。
2011年は、全144試合にフルイニング出場を果たし、パ・リーグ最多安打のタイトルを獲得した。シーズン序盤は不振だったが、交流戦では打率.412と一気に調子を上げ、打率を3割に乗せた。交流戦では首位打者、最多安打、最多得点を記録し、日本生命賞を受賞した。終盤まで打率3割を維持し、首位打者を狙える位置にいたものの、最後の17打席連続無安打など不振に陥り、最終的には打率.297でシーズンを終えた。しかし、最多安打、最多タイの三塁打、リーグ3位の得点、同5位の四球、同7位の打率、同8位の出塁率を記録するなど、一番打者としてチームを牽引した。守備でも無失策の守備率10割、守備機会リーグ3位、補殺同5位と、俊足・強肩ぶりを存分に発揮し、4年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。また、9月度のJA全農Go・Go賞(表彰テーマ:最多二・三塁打賞)にも2年連続で選ばれた。
2012年、シーズン前の3月10日に行われた東日本大震災復興支援ベースボールマッチの対台湾戦で初の日本代表に選出され、4回から途中出場し、2打数1安打1四球の活躍を見せた。開幕戦では1番・中堅手として先発出場したが、この年も春先から打撃不振に陥り、守備でも失策を喫するなど精彩を欠いた。このため、5月5日の日本ハム戦ではスタメンを外れ、2010年9月19日から続いていたフルイニング出場は179試合で途切れた。その後も調子が上がらないまま、5月17日の対巨人戦で、初回に坂本勇人の放った飛球をダイビングキャッチで好捕した際に右肩を地面に強打し負傷退場。検査の結果、右肩肩鎖関節の脱臼、さらに靭帯断裂と診断され、長期離脱を余儀なくされた。シーズン中の復帰は絶望的とされていたが、9月7日のウエスタン・リーグ・中日ドラゴンズ戦で戦線復帰を果たした。しかし、打撃は問題ないものの、守備で投げられるほどの万全な状態ではなかったため、専らDHまたは代打として二軍戦に出場を続けた。公式戦終了間際の10月5日に一軍登録され、同日の対ソフトバンク戦で7回裏に代打として復帰出場し、大隣憲司からダメ押しの適時打を放った。同月7日の対西武戦でも代打で安打を記録したが、一軍定着後最少となる40試合の出場に留まり、最下位に低迷したチームにとって坂口の戦線離脱は攻守両面で大きな痛手となった。この年のオフ、伊藤光と共にオリックスの副選手会長に就任したが、新選手会長の大引啓次がトレードで移籍したことに伴い、選手会長に就任した。
2013年は選手会長として試合に出場したものの、序盤から打撃不振に苦しんだ。夏場に入っても調子が上がらず、シーズン途中にはぎっくり腰に見舞われ8月に登録抹消。シーズン終盤に復帰したが、最終的には97試合の出場に留まり、規定打席にはあと6打席届かなかった。
2014年は8年ぶりに開幕スタメンを逃したが、一軍公式戦122試合に出場し、出場試合数が3年ぶりに100試合を超えた。しかし、8月以降は川端崇義にスタメンの座を奪われるなど、シーズン全体では前年に続いて不振だった。その一方で、前年を下回る打席数で40打点を記録するなど、随所で勝負強さを発揮した。シーズン中には国内FA権を取得したが、シーズン終了後に球団と2度交渉した結果、権利を行使せずオリックスへの残留を表明した。
2015年も一軍の公式戦に開幕から先発出場し、一時的には3番打者としても起用された。阪神・淡路大震災発生年(1995年)のオリックス・ブルーウェーブ復刻ユニフォームで臨んだ4月18日の対西武戦では、地元に近いほっともっとフィールド神戸で、この年唯一の本塁打を放った。しかし、5月11日に出場選手登録を抹消され、抹消直後に右肘を痛めた影響もあり、一軍への復帰は果たせなかった。さらに9月には、翌年の契約に関して、野球協約上の減額制限を超える大幅な減俸を球団から提示された。坂口はこの提示に同意せず自由契約を申し入れ、球団はシーズン終了直前の10月1日に坂口の退団を発表した。この発表を受け、東京ヤクルトスワローズが坂口の獲得調査に着手した。球団本部長の瀬戸山隆三は、坂口を「功労者」と認めつつも、「(野球界は)それだけでお金を払う世界ではない。(球団運営上)シビアに行くところは行かないと(いけない)」という見解を示している。坂口自身は、退団の理由を「肩を痛めた2012年以降は思うような結果を残せていないが、今年(2015年)は少しずつ手応えも出てきたので、バットとグラブだけ持って野球人として一から勝負したい」と語っていた。
3.3. 東京ヤクルトスワローズ時代 (2016-2022)
2015年11月13日、東京ヤクルトスワローズが坂口智隆の獲得に合意したことを発表した。推定年俸は3000.00 万 JPYで、オリックス在籍時の最終年俸(7500.00 万 JPY)から4500.00 万 JPYの減額となった。この移籍にあたり、坂口は自身の意向で背番号42を着用することを決めた。ヤクルト以外の複数球団からもオファーはあったが、坂口は「一番先に声をかけてくれたところにお世話になる」と決めていたため、迷いなくヤクルトへの入団に至った。彼は入団記者会見で、「(ヤクルトに)拾っていただいたことに感謝しかない。契約をさせていただいた以上は、『絶対にやってやろう』という気持ちがある」と意気込みを語った。
2016年は、オープン戦19試合に出場し、打率.415、6打点、2盗塁と好調ぶりを見せ、外野のレギュラーの座を奪取した。シーズンを通じて一軍に帯同し、主に1番や2番打者としてチームトップの141試合に出場。オリックス時代の2011年以来5年ぶりにセントラル・リーグの最終規定打席に到達した。また、6月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)では一軍公式戦通算1000試合出場、同月8日の対楽天戦(楽天Koboスタジアム宮城)1回表の第1打席では通算1000安打を相次いで達成した。シーズン全体では打率.295、自己最多の63四球を記録するなど出塁に徹し、リーグ7位の出塁率(.375)を記録した。一方で、この年のセ・リーグ規定打席到達者(27選手)の中で唯一、坂口自身が過去に一軍定着後に規定打席に到達したシーズンでは初めて、本塁打0本でシーズンを終えた。
2017年には、春季キャンプに入る前の1月にローリングスとの間で野球用具アドバイザリースタッフ契約を締結した。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦136試合に出場。3年ぶりのセ・リーグ最下位に沈んだチームにあって、規定打席到達選手の中でトップの打率.290、4本塁打、出塁率.364を記録するなど、シーズンを通じて活躍した。また、シーズン中に一軍公式戦での通算打数が4000に達し、NPBの通算打率ランキングに名を連ねた。シーズン終了後の契約交渉では、オリックス時代の2012年以来5年ぶりに1.00 億 JPYプレイヤーへと返り咲いた。
2018年には、ヤクルトを経てMLBで活躍した青木宣親(前ニューヨーク・メッツ外野手)が、春季キャンプ中にチームへ復帰した。青木を復帰前と同じ正中堅手に据えるチーム構想の下、監督の小川淳司は雄平の一塁転向を提案したが、この年にヘッドコーチに就任した宮本慎也が雄平の身長の低さを不安視したことから、坂口の身長(181cm)に目を付けたことを機に、中学生時代を最後に遠ざかっていた一塁の守備練習を始めた。レギュラーシーズンでは、3月30日の横浜DeNAベイスターズとの開幕戦(横浜スタジアム)で「6番・一塁手」としてスタメン起用されたことを皮切りに、一軍公式戦98試合で一塁の守備に就いた。打撃面ではサヨナラ打を放つなど、シーズンを通じて安打を量産した。前半戦は下位打線に組み込まれることが多かったが、7月頃から1番打者に定着すると、2番打者・青木とのコンビで強力打線を牽引した。一軍公式戦全体では139試合に出場。打率はセ・リーグ9位の.317で、オリックス時代の2010年以来8年ぶりに3割を超えた。また、自己最高の出塁率.406を記録した。シーズン終了後には、推定年俸1.40 億 JPYをベースに年俸が変動するという条件で、2019年からの3年契約を結んだ。
2019年は、守備中に脇腹へ送球を受けたり、打席で自打球が目に当たったりするなど、オープン戦からアクシデントが相次いだ。阪神とのレギュラーシーズン開幕カード(京セラドーム大阪)には「1番・一塁手」としてスタメン起用されたものの、3月31日の第3戦8回裏の第4打席で、島本浩也から左手に死球を受けて途中交代。後に左手親指の骨折が判明したため、翌4月1日に出場選手登録を抹消された。5月17日に一軍へ復帰したが、骨折の影響で繊細な感覚を取り戻すことができなかったため、前年ほどには調子が上がらず、6月9日に再び登録抹消されてからは二軍生活に終始した。一軍公式戦全体では22試合に出場。10試合で一塁、9試合で外野の守備に就いた一方で、打撃面では打率.125、0本塁打、2打点と精彩を欠いた。この年で3年契約の1年目を満了したが、成績などに応じて年俸が変動する条件に沿って、シーズン終了後の12月5日には推定年俸1.15 億 JPY(前年から2500.00 万 JPY減)という条件で2年目の契約に合意した。
2020年には、10月19日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で、史上129人目の通算1500安打に到達した。114試合に出場して2年ぶりに規定打席に到達し、自己最多の9本塁打を記録した。
2021年には、開幕から先発出場していたが、3月28日の3試合目で負傷離脱。二軍調整後、オリンピックの中断期間に行われたエキシビションマッチで打率.438の結果を残し、8月14日からのリーグ戦再開時に一軍に合流した。後半も9月に死球で負傷するなど、レギュラーシーズン出場は25試合に留まったが、プロ入り19年目にして自身初のリーグ優勝を経験した。オリックスを相手にした日本シリーズは、第2戦に先発9番右翼手で初出場し、宮城大弥から左前安打を放つなど計4試合に出場し、チームの20年ぶりの日本一に貢献した。
2022年には、春季キャンプから二軍で調整していたが、6月9日のオリックス戦で初めて一軍に昇格し、6番左翼手でスタメン出場し、1四球と二塁打を記録した。6月は打率.350、出塁率.458と存在感を見せ、村上宗隆の後を打つ5番で出場した試合もあったが、7月以降は徐々に成績を落とし、8月8日に一軍登録を抹消された。その後は二軍調整を続けていたが、9月29日に現役引退を表明した。彼はNPB最後の近鉄戦士だった。10月3日、レギュラーシーズン最終戦のDeNA戦に2番右翼手で先発出場し、第1打席に現役最後の安打となる左前安打を記録した。試合後の引退セレモニーでは、共に2022年限りで引退する内川聖一、嶋基宏と合同で開催され、家族およびサプライズゲストとして登場した近藤一樹から花束が贈呈された。
4. 引退後の活動
現役引退後の坂口智隆は、野球界との関わりを続けている。2023年からはフジテレビ・BS-TBS・TBSチャンネル・J SPORTSの野球解説者を務めている。同年1月24日には、独立リーグ・九州アジアリーグに所属する火の国サラマンダーズの臨時コーチに就任したことが発表された。2月の春季キャンプから打撃・守備を含めた指導を開始し、シーズン開始後も月に数回の指導を行った。また、それと並行して小中学生などへの指導も行う予定とし、2月16日からは関メディベースボール学院中等部の臨時コーチとしての指導も行っている。火の国サラマンダーズの臨時コーチはシーズン終了後の10月30日に退任が発表された。
5. 選手としての特徴とプレースタイル
坂口智隆は、自身のプレースタイルについて、守備が好きで打撃は苦手、アマチュア時代に投手を務めるのも嫌だったと語っている。高校時代の監督である青木尚龍は、彼のことを「運動能力は高いが投手としてはハラハラする投球が多かった」とし、「粘りがないが明るい目立ちたがり」な性格とコメントしている。
打撃面では、一塁到達3.71秒の俊足を活かし、2008年から2010年までの内野安打率は14.7%であった。また、巧打者として追い込まれた時にはファウルで粘ることも多かった。イチローに似たバッティングフォームから広角に打ち分ける技術を持ち、速球に対しては2010年に打率.379を記録し、特に150 km/h以上のボールには打率6割を記録するなど得意としていた。しかし、盗塁の試行数が少なく年間20盗塁に達したことはなく、通算の盗塁成功率も約68%と低い傾向にあった。
外野の守備では、2010年にUZR6.5を記録するほど守備範囲が広く、オリックス時代には2008年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。高校時代に投手として140 km/h台のストレートを投げていたほどの肩の強さがあり、正確な送球への評価も高かった。ヤクルト移籍後の2018年には、外野手登録のまま事実上一塁手へ転向している。
非常に練習熱心な選手としても知られており、ヤクルトの監督である高津臣吾は、現役最後の試合となった2022年10月3日のセレモニーで、坂口に対し「痛くても痛いと言わない男」「しんどくても歯を食いしばってプレーする姿は、我々が若手に指導するよりも何よりも若い選手の刺激になった」と賛辞を贈った。
6. 人物とパブリックイメージ
坂口智隆は、その野球に対する情熱だけでなく、多面的な人物像と、ファンや社会に与えた影響でも知られている。
6.1. 興味・関心と性格
坂口は野球を始めた時から新庄剛志を尊敬しており、自宅には新庄のポスターを貼っていたという。プロ入り後に公言して着用していた赤いリストバンドも新庄の影響である。2004年には新庄本人と対面し、譲り受けたバットを自宅に飾っている。新庄からの影響や、プロ野球再編問題の中でファンの大切さを再認識したことから、ファンサービスに非常に積極的である。
同期入団の大西宏明を兄貴分と慕っており、大西が横浜ベイスターズへ移籍する際に、TV番組「せやねん!」(毎日放送)の"せやねん!専属広報部長"を大西から"2代目せやねん!専属広報部長"に指名された。2008年12月13日放送回では、2人揃ってスタジオに生出演した。大西は坂口について「やんちゃな悪ガキという感じだが野球には人一倍熱心」と語っている。
オリックス時代には、ブルーウェーブのレギュラー外野手だった田口壮(2016年から二軍監督)がMLBのセントルイス・カージナルスに所属していた2006年に、田口へ弟子入りを直訴した。これを機に、田口が現役を引退する2012年まで、オフシーズンに合同で自主トレーニングを敢行していた。田口がオリックスに復帰(2010年)してから退団(2011年)までは、チームメイトとして共にプレーした。
一番好きな映画はスタジオジブリ作品の「耳をすませば」で、子供が生まれたら家にジブリルームを作りたいと述べている。好きな女性のタイプは家庭的で料理ができて、のほほんとした人。芸能人では鈴木紗理奈を挙げている。
高校時代はストリートミュージシャンでもあった。プロ入り後も2度ストリートライブを行った経験があるが、天王寺駅前でライブをしていたところをたまたま通りかかった岩隈久志に見られて以降は行っていないというエピソードがある。
6.2. パブリックイメージと象徴的な背番号
オリックスの主力選手時代には、髪を金色に染め、口髭を生やしていたことから、「球界を代表するおしゃれ番長」との評価を受けていた。2011年10月には、オリジナル写真集の編集サイトを通じて、自身初の公式写真集をリリース(現在は販売終了)。2015年には、交通タイムス社発行のヘアーファッション季刊誌『カジカジH(ヘア)』2015年春号(同年3月24日発売)で、ファッションモデルとしてのデビューを果たした。しかし、同年シーズン終了後のヤクルトへの移籍を機にイメージを一変。2015年11月30日には、髪を真っ黒に染めると共に、髭を剃り落として入団記者会見に臨み、「金髪の(オリックス)時代は忘れた。ヤクルトにはさわやかなイメージがあるので、当分はこのスタイルを続ける」と宣言した。
オリックスからの退団を決意したことについては、「肩を痛めた2012年以降は思うような結果を残せていないが、今年(2015年)は少しずつ手応えも出てきたので、バットとグラブだけ持って野球人として一から勝負したい」とコメントしていた。一方で、オリックス球団本部長の瀬戸山隆三は、退団発表の際に「坂口を『功労者』と認識しているが、(野球界は)それだけでお金を払う世界ではない。(球団を運営する立場上)シビアに行くところは行かないと(いけない)」という見解を示している。坂口はヤクルトでの入団記者会見で、「(同球団に)拾っていただいたことに感謝するしかない。契約をさせていただいた以上は、『絶対にやってやろう』という気持ちがある」と意気込みを語った。
ヤクルトでは、(アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとされる)ジャッキー・ロビンソンに倣い、「ロビンソンのように、現役を引退しても他の選手が『背番号を引き継ぎたい』と思えるように活躍したい」との意向から、ロビンソンの現役時代と同じ背番号42(MLB全球団の永久欠番)を着用している。かつて坂口と同じマネジメント会社と契約していた石川雄洋(DeNA内野手)も、2010年以来1桁(7番)だった背番号を、「尊敬する先輩(坂口)と同じ番号」という理由で2020年シーズンから42番に変更している。
オリックス時代の応援歌については「歌詞もメロディーも好き」と気に入っていた。この応援歌は2023年10月から、同じ背番号9で名前も似ている野口智哉(オリックス)に継承されている。
7. 受賞と栄誉
坂口智隆がプロ野球選手として獲得した主な個人タイトルと受賞歴は以下の通りである。
- 最多安打:1回(2011年)
- ゴールデングラブ賞:4回(外野手部門:2008年 - 2011年)
- 月間MVP:1回(野手部門:2011年6月)
- JA全農Go・Go賞:3回(強肩賞:2009年9月、最多二・三塁打賞:2010年8月、2011年9月)
- セ・パ交流戦 日本生命賞:1回(2011年)
- 燕市年間ヒーロー賞:1回(2017年、贈呈されたボードに名前が「坂口智降」と誤記された)
8. 記録と節目
坂口智隆のプロ野球キャリアにおける主な記録と節目は以下の通りである。
- 初出場・初先発出場:2003年10月7日、対オリックス・ブルーウェーブ28回戦(Yahoo!BBスタジアム)、1番・中堅手で先発出場
- 初打席・初安打:同上、1回表にマック鈴木から二塁内野安打
- 初盗塁:2006年3月25日、対西武ライオンズ1回戦(インボイスSEIBUドーム)、9回表に二盗(投手:田﨑昌弘、捕手:炭谷銀仁朗)
- 初本塁打・初打点:2006年7月15日、対東北楽天ゴールデンイーグルス10回戦(フルキャストスタジアム宮城)、8回表に山村宏樹から右越2ラン
- 1000試合出場:2016年6月2日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、2番・左翼手で先発出場 ※史上477人目
- 1000安打:2016年6月8日、対東北楽天ゴールデンイーグルス2回戦(楽天Koboスタジアム宮城)、1回表にラダメス・リズから右前安打 ※史上283人目
- 1500安打:2020年10月19日、対阪神タイガース21回戦(阪神甲子園球場)、4回表にジョー・ガンケルから左前適時打 ※史上129人目
- 1500試合出場:2021年8月15日、対横浜DeNAベイスターズ13回戦(HARD OFF ECOスタジアム新潟)、9回表に清水昇の代打で出場 ※史上197人目
- オールスターゲーム出場:2回(2011年、2018年)
9. 背番号
坂口智隆がプロ経歴中に使用した背番号の変遷は以下の通りである。
- 27(2003年 - 2004年)
- 52(2005年 - 2009年)
- 9(2010年 - 2015年)
- 42(2016年 - 2022年)
10. 通算成績
10.1. 打撃成績
年 度 | 所 属 | 試 合 | タ 席 | タ 数 | 得 点 | 安 打 | 2 ル 打 | 3 ル 打 | 本 塁 | ル 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 牲 バ | 犠 牲 飛 | ボ ル | 故 四 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2003 | 近鉄 | 1 | 6 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .200 | .333 | .200 | .533 |
2004 | 7 | 5 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .200 | .000 | .200 | |
2005 | オリックス | 6 | 6 | 6 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .167 | .167 | .333 | .500 |
2006 | 28 | 26 | 22 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 3 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 6 | 1 | .091 | .200 | .227 | .427 | |
2007 | 46 | 149 | 137 | 13 | 33 | 6 | 1 | 0 | 41 | 8 | 4 | 1 | 6 | 0 | 5 | 0 | 1 | 21 | 0 | .241 | .273 | .299 | .572 | |
2008 | 142 | 588 | 540 | 68 | 150 | 15 | 6 | 2 | 183 | 32 | 13 | 3 | 17 | 4 | 23 | 0 | 4 | 77 | 9 | .278 | .310 | .339 | .649 | |
2009 | 137 | 594 | 526 | 82 | 167 | 23 | 7 | 5 | 219 | 50 | 16 | 4 | 8 | 4 | 52 | 0 | 4 | 81 | 8 | .317 | .381 | .416 | .797 | |
2010 | 138 | 622 | 558 | 84 | 172 | 31 | 10 | 5 | 238 | 50 | 12 | 6 | 7 | 1 | 52 | 0 | 4 | 77 | 13 | .308 | .371 | .427 | .798 | |
2011 | 144 | 651 | 590 | 84 | 175 | 20 | 7 | 3 | 218 | 45 | 5 | 5 | 2 | 1 | 54 | 2 | 4 | 77 | 11 | .297 | .359 | .369 | .729 | |
2012 | 40 | 165 | 158 | 7 | 36 | 2 | 1 | 0 | 40 | 8 | 2 | 2 | 2 | 0 | 5 | 0 | 0 | 13 | 0 | .228 | .252 | .253 | .505 | |
2013 | 97 | 440 | 383 | 47 | 88 | 13 | 5 | 3 | 120 | 24 | 2 | 2 | 10 | 2 | 44 | 0 | 1 | 48 | 4 | .230 | .309 | .313 | .623 | |
2014 | 122 | 382 | 323 | 33 | 76 | 5 | 5 | 2 | 97 | 40 | 3 | 2 | 10 | 0 | 47 | 0 | 2 | 45 | 4 | .235 | .336 | .300 | .636 | |
2015 | 36 | 121 | 107 | 8 | 28 | 7 | 0 | 1 | 38 | 5 | 1 | 0 | 1 | 1 | 12 | 0 | 0 | 18 | 1 | .262 | .333 | .355 | .688 | |
2016 | ヤクルト | 141 | 607 | 526 | 74 | 155 | 14 | 5 | 0 | 179 | 39 | 7 | 4 | 5 | 5 | 63 | 0 | 8 | 66 | 5 | .295 | .375 | .340 | .716 |
2017 | 136 | 607 | 535 | 51 | 155 | 16 | 2 | 4 | 187 | 38 | 4 | 3 | 5 | 3 | 59 | 2 | 5 | 76 | 6 | .290 | .364 | .350 | .713 | |
2018 | 139 | 595 | 508 | 64 | 161 | 22 | 4 | 3 | 200 | 37 | 9 | 7 | 7 | 2 | 75 | 5 | 3 | 60 | 15 | .317 | .406 | .394 | .800 | |
2019 | 22 | 77 | 64 | 2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 10 | 0 | 2 | 13 | 2 | .125 | .263 | .141 | .404 | |
2020 | 114 | 458 | 398 | 55 | 98 | 14 | 1 | 9 | 141 | 36 | 4 | 5 | 3 | 3 | 47 | 1 | 7 | 60 | 8 | .246 | .334 | .354 | .688 | |
2021 | 25 | 57 | 50 | 7 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | 2 | 12 | 0 | .160 | .250 | .180 | .430 | |
2022 | 24 | 47 | 43 | 2 | 12 | 3 | 0 | 0 | 15 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 13 | 0 | .279 | .340 | .349 | .689 | |
通算:20年 | 1545 | 6203 | 5483 | 686 | 1526 | 194 | 54 | 38 | 1942 | 418 | 85 | 49 | 86 | 26 | 560 | 10 | 48 | 766 | 87 | .278 | .349 | .354 | .703 |
- 各年度の太字はリーグ最高
10.2. 守備成績
年 度 | 球 団 | 一塁 | 外野 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2003 | 近鉄 | - | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2004 | - | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2005 | オリックス | - | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2006 | - | 17 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2007 | - | 43 | 84 | 2 | 1 | 0 | .989 | ||||||
2008 | - | 139 | 283 | 7 | 2 | 0 | .993 | ||||||
2009 | - | 137 | 247 | 14 | 2 | 1 | .992 | ||||||
2010 | - | 136 | 266 | 7 | 1 | 1 | .996 | ||||||
2011 | - | 144 | 289 | 7 | 0 | 3 | 1.000 | ||||||
2012 | - | 38 | 70 | 2 | 1 | 1 | .986 | ||||||
2013 | - | 97 | 169 | 4 | 3 | 1 | .983 | ||||||
2014 | - | 116 | 194 | 2 | 1 | 1 | .995 | ||||||
2015 | - | 34 | 68 | 1 | 0 | 0 | .995 | ||||||
2016 | ヤクルト | - | 133 | 286 | 9 | 0 | 3 | 1.000 | |||||
2017 | - | 136 | 259 | 7 | 1 | 1 | .996 | ||||||
2018 | 98 | 783 | 49 | 5 | 58 | .994 | 71 | 70 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
2019 | 10 | 72 | 9 | 1 | 5 | .988 | 9 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2020 | 47 | 363 | 17 | 1 | 37 | .997 | 68 | 91 | 2 | 2 | 0 | .979 | |
2021 | - | 14 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2022 | - | 10 | 11 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
通算 | 155 | 1218 | 75 | 7 | 100 | .995 | 1344 | 2431 | 66 | 14 | 12 | .994 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年