1. 概要

斎藤実(齋藤 實さいとう まこと日本語、1858年 - 1936年)は、日本の海軍軍人および政治家である。海軍大将の階級を有し、後に内閣総理大臣(第30代)や朝鮮総督、内大臣などの要職を歴任した。没落した士族の家系に生まれたが、海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、米国留学も経験するなど、自らの実力で立身出世を遂げた人物として知られる。
海軍大臣として8年間在任し、海軍の拡張に尽力する一方で、シーメンス事件への関与を問われ辞任した経験を持つ。その後、二度にわたって朝鮮総督を務め、三・一運動後の朝鮮において「文化統治」を推進したが、これは日本の植民地支配をより巧妙な形で維持するための政策として、朝鮮独立運動家からの激しい抵抗に遭い、批判の対象となった。特に、総督就任直後には姜宇奎による爆弾での暗殺未遂事件に遭遇している。
五・一五事件後、混迷する政局の中で内閣総理大臣に就任し、満洲国の承認や国際連盟からの脱退といった、当時の日本の国際関係における重要な転換期を指揮した。しかし、帝人事件を巡る政府批判の高まりにより内閣総辞職に追い込まれる。晩年は内大臣として昭和天皇を補佐したが、1936年の二・二六事件において反乱部隊の標的となり、暗殺された。斎藤実は、その生涯を通じて明治から昭和初期にかけての激動する日本政治の中枢に身を置き、その決断と行動は日本の国内外に大きな影響を与えた。
2. 初期生い立ちと教育
斎藤実は、1858年12月2日(安政5年10月27日)に、陸奥国胆沢郡塩竈村(現在の岩手県奥州市水沢吉小路)で、仙台藩水沢伊達氏に仕える士族、斎藤高庸の長男として生まれた。幼名は富五郎といったが、海軍兵学校卒業後に斎藤実と改名している。斎藤家は、水沢伊達氏家臣団808家の中で15位に位置する「二番着坐」の家格を持つ家系であったが、父の高庸は明治維新後に岩手県警察官となるなど、家は没落していた。
斎藤は1873年(明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学し、1879年(明治12年)に第6期生として17名中3位の成績で卒業した。同期には「海軍の三秀才」と呼ばれた山内万寿治や坂本俊篤がいた。卒業後、1882年(明治15年)9月8日に海軍少尉に任官。
1884年(明治17年)9月19日からはアメリカへ留学し、同時に駐在武官も務めた。この留学は1888年(明治21年)10月26日まで続き、斎藤はこの期間に国際的な視野と流暢な英語能力を習得した。
3. 軍人としての経歴
斎藤はアメリカ留学を終え、1888年(明治21年)に帰国後、海軍参謀本部員に就任した。その後、巡洋艦「秋津洲」や「厳島」の艦長を歴任。1896年(明治29年)には戦艦「富士」の回航委員に任じられ、スエズ運河経由で1897年10月31日に横須賀へ到着させた。

3.1. 高速昇進と日露戦争
斎藤の海軍内での昇進は著しく速かった。1893年(明治26年)12月20日に海軍少佐、1897年(明治30年)12月1日には海軍中佐、同月27日には海軍大佐へと、1ヶ月で2階級昇進を果たすなど、異例のスピードで昇進していった。
1898年(明治31年)11月10日には、第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任。この職務は、日露戦争が始まる頃にも継続されていた。日露戦争において多くの海軍幹部が前線に派遣される中、斎藤は海軍省軍務局長や艦政本部長を兼務し、山本権兵衛海軍大臣を後方から支え、日本海軍がロシア海軍を撃破する上で大きな貢献を果たした。1900年(明治33年)5月には海軍少将、1904年(明治37年)6月には海軍中将へと昇進した。

3.2. 海軍大臣在任
日露戦争終結後の1906年(明治39年)1月7日、斎藤は山本権兵衛から引き継ぐ形で第1次西園寺内閣の海軍大臣に親補された。以後、第2次桂内閣、第2次西園寺内閣、第3次桂内閣、第1次山本内閣と、実に8年間にわたり海軍大臣を務め、その間、海軍の継続的な拡張に尽力した。この功績により、1907年(明治40年)9月21日には男爵の爵位を授与された。
しかし、1914年(大正3年)4月16日、斎藤は海軍が関与した大規模な汚職事件であるシーメンス事件への関与が問題となり、海軍大臣を辞任せざるを得なくなった。この事件の責任を取る形で、彼は同月11日をもって予備役に編入された。
4. 政治家としての経歴
海軍を退役した後も、斎藤実は日本の政治の中枢で重要な役割を担うこととなる。
4.1. 朝鮮総督在任
1919年(大正8年)9月、斎藤は武断政治が批判されていた陸軍大将長谷川好道の後任として、現役海軍大将に復帰し、第3代朝鮮総督に就任した。この時期は、三・一運動が最高潮に達し、朝鮮独立運動の機運が高まっていた直後であった。斎藤は、朝鮮における日本の植民地支配に対する抵抗を弱めるため、これまでの強圧的な「武断統治」から「文化統治」への転換を推し進めた。
しかし、朝鮮総督として朝鮮の南大門駅(現在のソウル駅)に到着した直後の同年9月2日には、独立運動家姜宇奎による爆弾での暗殺未遂事件に遭遇するなど、就任当初から激しい抵抗に直面した。斎藤は1919年から1927年までと、1929年から1931年までの二度にわたり朝鮮総督を務めた。
「文化統治」は、朝鮮人の一定の自由を認め、教育や地方自治の機会を増やすとされたが、その実態は、朝鮮人の日本への同化を促進し、反日感情を抑制しつつ植民地支配をより効率的に行うための巧妙な手段であったと批判されている。これは、朝鮮における日本の支配を恒久化しようとするものであり、朝鮮社会に与えた影響は大きく、根本的な民族差別の撤廃や独立には至らなかった。
1925年(大正14年)4月9日には子爵に陞爵。1927年(昭和2年)にはジュネーブ海軍軍縮会議に日本代表団の一員として参加し、その後枢密顧問官に就任している。
4.2. 内閣総理大臣在任


1932年(昭和7年)5月15日、犬養毅首相が五・一五事件で海軍将校らによって暗殺された後、元老西園寺公望は軍部による政府掌握の動きを食い止めるため、穏健派の斎藤実を後継首相に推薦した。斎藤は同年5月26日に第30代内閣総理大臣に就任し、同年7月6日まで外務大臣を兼任した。
斎藤内閣は立憲政友会と立憲民政党から閣僚を迎え、挙国一致内閣として発足した。斎藤は大蔵大臣高橋是清の積極財政を支持し、翌1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて昭和恐慌前の経済水準に回復させ、国内の安定に努めた。外交面では、1931年(昭和6年)9月に勃発した満洲事変後の混乱を収拾するため、1932年(昭和7年)9月15日に日満議定書を締結し満洲国を承認した。しかし、これに対し国際連盟総会が日本の主張を却下したため、1933年(昭和8年)3月27日、日本政府として国際連盟からの脱退を表明した。
斎藤内閣は戦間期としては比較的長期にわたる政権(2年1か月)を維持したが、1934年(昭和9年)7月、帝人事件と呼ばれる贈収賄スキャンダルが勃発。この事件は、検察内部の平沼騏一郎派や陸軍将校、立憲政友会右派らが斎藤内閣を倒すために仕組んだ陰謀であったと見られているが、斎藤内閣は綱紀上の責任を理由に同年7月8日に内閣総辞職した。後任には岡田啓介が就任した。
4.3. 内大臣在任
総理大臣辞任後も斎藤実は政界で重きをなし、1935年(昭和10年)12月26日には内大臣に就任し、昭和天皇を補佐する役割を担った。この職務が彼の最後の公職となった。
5. 人物と思想



斎藤実は、その優れた個人的な資質と独特な思想を持っていた。彼は非常に流暢な英語を話すことができ、要人との公式会談以外ではほとんど通訳なしで会話をこなし、英文で日記を書き綴るほどであったという。親英米派として知られる高橋是清とは個人的にも親しい友人であった。
青年期は痩身であったが、堂々たる体格への憧れから米国駐在時には毎日ビールを配達させていた。その努力の甲斐もあり、強靭な体力を得た。彼の勤勉さは、この体力に支えられており、朝鮮総督時代にも日本から到着したその日の午後には執務を開始するほどであった。
また、斎藤は若い頃からの酒豪であったが、日清戦争の際に広島大本営に海軍参謀本部参謀として勤務していた際、徹夜で一升酒を飲み、翌日、酔いがさめないまま明治天皇の前に出仕し、蹴鞠の相手を命じられた際に腰を抜かしてしまったという逸話がある。しかし、明治天皇は何も注意せず、穏やかに接したとされ、斎藤はこの経験から部下への寛容な態度を学んだという。
1914年(大正3年)、海軍大臣を辞任した後、千葉県一宮町に別荘を所有し、一年の大半をここで過ごした。古着に草履、手拭を腰にぶら下げて庭の手入れをする姿から、地元の警察署長が「爺やさん」と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てしたという逸話も残っている。彼は非常に筆まめで、贈り物には必ず礼状を出し、揮毫を頼まれることも多く、週末は別荘に籠もって筆を振るっていたという。自分宛の書簡や書類をきちんと保存し、選別も自ら行っていたため、個人の詳細を正確に把握しており、誤ることはほとんどなかった。斎藤が整理・保管した書簡類は、その多くが国立国会図書館に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている。
朝鮮総督時代の「文化統治」は、斎藤の植民地政策哲学を如実に示している。彼は、武力による抑圧では朝鮮人の抵抗を根本的に抑えられないと考え、より柔軟な政策で朝鮮社会を安定させ、日本への同化を促進しようとした。この政策は、一見すると寛容に見えるものの、その裏には日本の植民地支配体制を強化するという政治的信念があった。1926年にイギリスの植民地研究の専門家であるアレン・アイルランドは、斎藤について「総督は、公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた。そして、彼は卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、日本人と朝鮮人の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていたのである」と評している。
6. 最期
斎藤実は、1936年(昭和11年)2月26日に発生した二・二六事件において、反乱軍の標的となり暗殺された。事件の数日前、警視庁は斎藤に対し、「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰宅しないか、警備を大幅に強化してはどうか」と警告していた。しかし、斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。
事件前夜の2月25日、斎藤は親日家であったジョセフ・グルー駐日アメリカ大使の招きで大使公邸にて夕食をとり、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は途中で別荘へ向かう予定であったが、グルーとの会話が弾み、結局最後まで映画を観て夜遅くに帰邸したため、別荘行きは翌日に延期された。もし予定通り東京を離れていれば、難を逃れることができた可能性もあった。
1936年2月26日未明、坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた約150名の兵士が、重機関銃や軽機関銃、小銃、ピストルなどを持ち、斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗のまま、兵士らによって銃撃され虐殺された。斎藤の養子である斎藤斉の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊しており、斎藤の妻斎藤春子から直接話を聞いている。春子夫人は銃撃された際、斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」と叫び、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷したという。春子夫人はその後長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件の記憶を鮮明に語り継いでいた。
斎藤の遺体には47箇所の弾痕と数十の刀傷が残されていた。享年79歳であった。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。斎藤は多磨霊園と故郷の小山崎斎藤墓地に埋葬された。葬儀・告別式は同年3月22日に築地本願寺で営まれ、木戸幸一は「国民葬の如き観」と日記に記している。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を贈っている。生前の書簡や執務資料は、岩手県奥州市水沢の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
7. 事後評価と批判
斎藤実に対する歴史的評価は、その多岐にわたる経歴と激動の時代背景から、肯定的な側面と批判的な側面の両方が存在する。
7.1. 肯定的評価
斎藤は、海軍大臣として8年間の長期にわたり在任し、日本海軍の拡張と近代化に大きく貢献した。また、日露戦争における海軍次官としての職務は、日本の勝利に不可欠な後方支援を担ったとして高く評価されている。
朝鮮総督としての「文化統治」は、その限界や植民地支配の枠内でのものであったとはいえ、当時の軍事的な武断統治と比較して、朝鮮人の教育や地方自治の機会を増やすなど、一定の柔軟性をもたらしたと評価されることがある。イギリスの植民地研究専門家アレン・アイルランドは、1926年の著作『THE NEW KOREA』の中で、斎藤を「公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた」と肯定的に評価している。また、彼の流暢な英語能力や国際感覚は、当時の日本の外交において重要な役割を果たしたと見なされている。
7.2. 批判と論争
一方で、斎藤実の経歴には複数の批判点と論争が伴う。
まず、海軍大臣辞任の原因となったシーメンス事件は、軍が関わる大規模な汚職事件であり、彼の清廉潔白なイメージに大きな傷をつけた。彼は事件の責任を取って辞任したが、その関与の深さについては議論が残る。
朝鮮総督としての「文化統治」は、最も激しい批判の対象となっている。この政策は、三・一運動後の激しい反日感情を和らげ、朝鮮人の抵抗を無力化するために導入されたものであり、朝鮮民族の独立と自決を妨げる巧妙な植民地支配の手段であったと、多くの歴史家や朝鮮独立運動家から批判されている。教育機会の拡大や地方自治の導入は、日本の植民地支配をより円滑に進めるためのものであり、朝鮮人に対する差別構造の根本的な解決には繋がらなかった。例えば、朝鮮語教育の制限や、日本人と朝鮮人の教育格差は維持され、政治的自由は厳しく制限されたままであった。
内閣総理大臣としての在任中に発生した帝人事件は、斎藤内閣の総辞職につながった贈収賄スキャンダルである。この事件は、後に検察内部の権力争いや軍部、右派勢力による倒閣工作であったと見られているが、結果的に斎藤内閣の信頼性を大きく損ね、政治的混乱の一因となった。彼の内閣が満洲国を承認し、国際連盟から脱退したことも、後の日本の孤立化と軍国主義化を助長した一因として批判的に評価されることがある。
8. 栄誉
斎藤実が受けた国内外の爵位、勲章、記念章は以下の通りである。
爵位 | 授与日 | 備考 |
---|---|---|
男爵 | 1907年9月21日 | |
子爵 | 1925年4月9日 | 陞爵 |
位階 | 授与日 | |
---|---|---|
正八位 | 1882年10月31日 | |
従七位 | 1884年3月29日 | |
正七位 | 1890年1月17日 | |
従六位 | 1894年2月28日 | |
従五位 | 1898年3月21日 | |
正五位 | 1898年12月22日 | |
従四位 | 1902年3月10日 | |
正四位 | 1906年1月20日 | |
従三位 | 1908年2月21日 | |
正三位 | 1911年3月10日 | |
従二位 | 1915年12月28日 | |
正二位 | 1926年9月15日 | |
従一位 | 1936年2月26日 | 薨去により |
勲章 | 授与日 | 備考 |
---|---|---|
勲六等瑞宝章 | 1893年5月26日 | |
功四級金鵄勲章 | 1896年5月23日 | |
単光旭日章 | 1896年5月23日 | |
勲五等瑞宝章 | 1896年11月25日 | |
勲四等瑞宝章 | 1899年6月20日 | |
勲二等旭日重光章 | 1901年12月27日 | |
勲一等旭日大綬章 | 1906年4月1日 | |
功二級金鵄勲章 | 1906年4月1日 | |
旭日桐花大綬章 | 1924年2月11日 | |
大勲位菊花大綬章 | 1936年2月26日 | 薨去により |
記念章 | 授与日 | |
---|---|---|
明治二十七八年従軍記章 | 1895年11月18日 | |
明治三十三年従軍記章 | 1902年5月10日 | |
明治三十七八年従軍記章 | 1906年4月1日 | |
韓国併合記念章 | 1912年8月1日 | |
大礼記念章(大正) | 1915年11月10日 | |
大礼記念章(昭和) | 1928年11月10日 | |
帝都復興記念章 | 1931年3月30日 | |
建国功労章 | 1934年3月1日 | 満洲国 |
国名 | 勲章名 | 授与日 |
---|---|---|
フランス | ダカデミー記章オフィシェー | 1893年6月19日 |
イギリス | 銀製ジュビリー記念章 | 1897年12月6日 |
フランス | レジオンドヌール勲章コマンドール | 1901年4月4日 |
イギリス | バス勲章グランドクロス | 1906年6月19日 |
プロイセン王国 | 赤鷲勲章第一等勲章 | 1907年2月26日 |
イタリア王国 | 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章第一等勲章 | 1907年7月1日 |
フランス | レジオンドヌール勲章グラントフィシエ | 1907年12月17日 |
大韓帝国 | 李花大勲章 | 1908年3月3日 |
ロシア帝国 | 白鷲勲章 | 1908年5月1日 |
大韓帝国 | 韓国皇帝陛下南西巡幸記念章 | 1910年4月1日 |
オランダ王国 | オラニエ=ナッサウ勲章第一等勲章 | 1911年5月31日 |
チリ | メリット勲章第一等記章 | 1913年3月22日 |
ローマ教皇庁 | 聖シルベストロ勲章グランクロア | 1922年5月1日 |
ローマ教皇庁 | ピウス9世勲章グランクロア | 1932年7月7日 |
9. 親族
- 妻 斎藤春子(仁礼景範長女)
- 養嗣子 斎藤斉(通信技師、貴族院子爵議員、豊川良平五男)
- 従兄弟 入間野武雄(大蔵官僚、帝国銀行頭取)
10. 大衆文化における斎藤実
斎藤実の生涯は、日本の歴史的な事件と深く関わるため、多くの映画やテレビドラマで描かれている。
- 映画
- 『天皇・皇后と日清戦争』(1958年、演:細川俊夫)
- 『宴』(1967年、演:青野平義)
- 『動乱』(1980年、演:山本武)※役名は内大臣
- 『226』(1989年、演:高桐真)
- テレビドラマ
- 『大風呂敷』(1970年、NHK、演:田辺靖雄)
- 『妻たちの二・二六事件』(1976年、NHK、演:嵯峨善兵)
- 『海は甦える』(1977年、TBS、演:草薙幸二郎)
- 『山河燃ゆ』(1984年、NHK大河ドラマ、演:山本武)
- 『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機』(2008年、TBS、演:森下明)
- 『落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日、演:織本順吉)
- 『野人時代』(2002年、SBSドラマ、演:全茂松)
齋藤實記念館 1932年に水沢町に建てられた齋藤實旧宅