1. 概要
矢野博丈(矢野 博丈やの ひろたけ日本語、1943年 - 2024年)は、日本の実業家であり、世界的な100円ショップチェーンであるダイソーの創業者である。本名は栗原五郎。妻の姓である「矢野」を名乗り、「博丈」は姓名判断によって改名したものである。彼はトラックによる移動販売事業から出発し、偶然のきっかけから全品100円均一という革新的な価格政策を導入した。このビジネスモデルは、日本の小売業界に大きな影響を与え、「デフレ経済」の象徴的存在として「百均(ひゃっきん)」という新たな業態を確立した。矢野は、自身のことを「才能がない」「運がない」と語る謙虚な姿勢と、計画よりも直感と実行を重視する独自の経営哲学で知られている。晩年には脳卒中を患い、事業から退いて次男に社長職を譲った。彼の死去後、その功績は国内外のメディアで「1ドルショップのパイオニア」として高く評価され、日本経済および消費者文化に多大な遺産を残した。
2. 経歴
矢野博丈は、貧困と数々の事業の失敗を経験しながらも、最終的に世界的な小売チェーンを築き上げた。彼の波乱に満ちた人生は、その後の経営哲学の礎となった。
2.1. 生い立ち
矢野博丈は1943年、第二次世界大戦中の中国北京市で、医師である父と広島銀行の前身の一つである山岡銀行の娘である母のもとに、8人兄弟の末っ子として栗原五郎の名で生まれた。彼の父は戦時中、中国天津市の病院に勤務していた。戦後半年が経った頃、家族は父の故郷である広島県東広島市(旧賀茂郡久芳村)へ引き揚げた。父は広島市内の新川場通り(現在の並木通り)で医院を開業したが、一家は貧しい生活を送り、矢野自身も貧困の中で苦労したという。兄妹は医師になる者が多く、医者一家で育った。
2.2. 学歴と初期の活動
東広島市立久芳小学校を卒業後、広島市の新川場通りに転居し、広島市立国泰寺中学校を経て、広島県立広島国泰寺高等学校に進学した。高校時代は田舎言葉を級友に笑われ、陰湿な嫌がらせを受けたため、町のボクシング道場に通い、不良たちを打ちのめす腕力を身につけた。ボクシングに熱中し、1964年の東京オリンピック・バンタム級の強化選手にも選ばれた。しかし、大学に進学するには父から理系・工学系の分野を学ぶよう厳しく言われたため、スポーツ推薦で大学に進学することはできなかった。16もの大学の入試に落ちた後、中央大学の二部土木工学科に合格し、1967年3月に卒業した。大学時代にはワンダーフォーゲル部を創設し、初代「カニ族」とも呼ばれた。商売の初体験は新宿区淀橋市場でのアルバイトで、練馬区高野台にあった練馬青果地方卸売市場へバナナを運ぶ仕事をした。
2.3. 事業の失敗と再起
学生時代に遠い親戚の女性と結婚し、これを機に「栗原」から妻の姓である「矢野」に改姓し、姓名判断により「博丈」に改名した。彼は「クリハラ」よりも2音でシンプルな「ヤノ」の方が覚えてもらいやすく、親しみやすいと考えた。大学卒業後、就職が困難だったこともあり、尾道市の妻の実家が営むハマチ養殖業を継いだ。しかし、何の知識もないまま事業に乗り出したため、わずか3年で倒産し、兄から借りた700.00 万 JPYもの借金を抱えることになった(2024年の貨幣価値で約1.00 億 JPYに相当)。1970年末には妻子を連れて東京へ「夜逃げ」同然で移り住んだ。この時の借財は、後に東京でちり紙交換業で成功した際に完済している。
東京では様々な職を転々とした。高校時代の友人の誘いで百科事典の販売員となったが、口下手で一冊も売れず挫折。その後、客と話す必要のないちり紙交換業に転職し、当時高額収入を得られる仕事だったこともあり、ある程度の成功を収めた。しかし、アメリカからの古紙輸入が始まり、この商売は一気に廃れた。その後、広島に戻り、兄のお抱え運転手、義兄の経営するボウリング場、道路標識の設置、日雇いの肉体労働など、計9回の転職を経験した。
3. ダイソーの創業と成長
矢野博丈は、移動販売事業から出発し、偶然のひらめきから「100円均一」という画期的なビジネスモデルを確立。その後、数々の困難を乗り越えながら、世界的な小売チェーン「ダイソー」を築き上げた。
3.1. 移動販売事業
1970年代初頭、矢野は豊田郡川尻町(現呉市)で大阪の業者が行っていた移動販売、いわゆる「サーキット商売」に興味を持った。これは物流機能が未整備だった時代に、各地を移動しながら日用雑貨を売る需要の高い商売だった。彼はこの商売を徒弟制度で学び、商品の仕入れや売り方を独学で習得した。
1972年3月、28歳の時、広島市で雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を夫婦で創業した。自宅兼倉庫でトラック1台から夫婦二人三脚で商売を始め、妻は後にダイソーの仕入れ責任者として、夫以上の手腕を発揮した。移動販売は「バッタ屋」と呼ばれる手法で、倒産した企業や資金繰りに苦しむ企業の在庫品を格安で買い取り、安値で販売した。商品は大阪の生野区鶴橋などにある露店専門問屋でトラックが満載になるほど仕入れ、広島で販売した。数百円で仕入れた商品を1000 JPYから2000 JPYで売ることもあった。
神社や農協、個人商店の店先、公民館前の空き地などで、ビールケースに渡したベニヤ板やブルーシートの上に商品を陳列し、バケツや工具箱をレジ代わりに会計を行った。これは露天商のようなビジネススタイルで、夜にはブルーシートを掛けて帰宅した。前日には出店エリアの各家庭にチラシを郵便ポストに投函し、翌日には集まった客にタワシやほうき、ざる、鍋などの生活必需品を販売した。販売期間は長くても1週間、短い時は1~2日間で、各地を移動しながらこれを続けた。同業者は2年サイクルで西日本を回ることが多かったが、矢野は妻子がいたため、日帰りできる範囲のほとんど広島県内を回り、同じ場所に年4回出店していた。創業当初から、忙しさから値札を付ける手間を省くため、一部の商品を100円均一で販売することもあった。倉庫が手狭になったため、自宅兼倉庫を郊外の佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)に移転した。
3.2. 100円均一価格政策
今日では当たり前となった「100円ショップ」という画期的なビジネスモデルは、綿密な計算から生まれたものではなく、全くの偶然から誕生した。1972年の矢野商店創業間もない頃、移動販売に出かけようとした矢野は、雨が降りそうな空模様に一度は開店を諦めた。しかし、予想に反して晴れ間が広がり、急いでトラックに商品を積み込み現地に到着すると、既に多くの客が待ち構えていた。彼らは「早くして!」と急かし、矢野は慌てて荷物を降ろし開店準備を始めた。その時、待ちきれない客が勝手に段ボールを開け、商品を手にして「これ、なんぼう?」と聞いてきた。膨大な商品数の中で伝票を探す時間もなく、追い詰められた矢野の口から思わず出た言葉が、その後の彼の運命を決定づける一言となった。「100円でええ!」。
この言葉を聞いた他の客も次々に値段を尋ね、確認が間に合わなくなった矢野は「もう全部100円でええ!」と叫んだ。その瞬間から客の目の色が変わったかのように商品が飛ぶように売れ始めた。「100円均一」にこれほどの引力があることは、矢野にとっても大きな発見だった。以降、矢野商店の商品はすべて100円となり、ここから大創産業の100円均一の歴史が始まった。
銀行や経営コンサルタントからは「こんな商売は長続きしない。やめなさい」と忠告されたが、矢野自身もそう思いながらも、「飯が食えるだけで感謝」と商売を続けた。彼は小売業の常道である「売れ筋に絞り、品種数や在庫量を減らす」という方針にもあえて背を向けた。創業当初から資金繰りには苦労し、倒産寸前になったこともあった。1999年には「安い商品では儲からないのに、多く出店するのはおかしい。ダイソーは潰れる」という噂が流れたこともある。
1970年代のオイルショックや田中内閣による日本列島改造論で物価が上昇し、インフレが発生した。原価がどんどん上昇し、車の燃料はもちろん、石油を原料とするプラスチックやステンレス製の商品の仕入れ値が10%も上がった。全品100円と決めた以上、値上げはできない。日本の小売業の変化も相まって、同業者は次々と廃業していったが、矢野は「運も実力もない自分には続ける以外に道はない」「その日を食べていければいい」「1円でも儲かればいい。100個売れば100円になる」という気持ちでこの商売にしがみついた。彼と親交のあった渡邉美樹は、これを「どん底を経験した人だけがたどりつく発想で、経営コンサルタントにはない発想」と評している。
客から「安物買いの銭失い」と言われることが最も堪え、1日に3回言われたこともあった。「ちくしょう!どうせ儲からんのなら、いいもん売っちゃる!」と、利益を度外視して原価を思い切り上げ、時には98 JPYで仕入れて100 JPYで売ることもあった。すると、たちまち客の目の色が変わって「わっ、これも100円!これも100円!」と言い出し、客が驚く姿が商売を続ける励みになったという。
3.3. ダイソー産業の拡大
1977年12月、「大きな会社を創りたい、せめて社名だけでも立派なものに」という思いから、のれん分けの形で「大創産業」として法人化された。従業員を雇い、トラックも増やしたが、当時は典型的な3K労働であり、創業当初の100円ショップは「安物売り」と見なされ、ダイソーには大学卒の新人社員は入社してくれなかった。売れる場所の奪い合いが同業者との間で激しくなり、トラックの駐車場の確保にも困るようになった。
スーパーの軒先での商売が最も売れるため(スーパーは売上げの20%から25%のマージンを取った)、矢野は意を決して、広島を地盤とするスーパー「イズミ」の本社を訪ね、店頭販売をさせてほしいと直談判した。これが実現し、1日で100.00 万 JPYを売り上げるようになった。この予想外の売上高にイズミも驚き、「ウチの専属になれ」と誘われた。
なんとか商売が軌道に乗りかけた時、広島の自宅兼商品倉庫が放火に遭い丸焼けとなり、一度は廃業を考えたこともあったが、兄弟の支援を受けて商売を再開した。1980年には全国展開を見据え、東京を皮切りに各地に営業所を設立した。東京初進出は「イトーヨーカ堂北千住店」で、店長からは「そんなもの売れるわけないだろ、荷物を持って帰れ!」と怒鳴られた。しかし、この北千住店で1日130.00 万 JPYを売り上げ、イトーヨーカ堂本社にまで噂が届いたという。矢野は自身のお店が成功した理由について、「私は口下手なので、たくさんの商品を置くことで商品にしゃべってもらおうと考えた。店中に商品が溢れていれば、客に話しかけなくても勝手に商品を探して動いてくれる。私が話しかけて売り込む必要もないし、お客さんも喜んでくれるから都合がいい」と述べている。移動販売時代から、矢野がトラックに積み込む商品は他業者の2倍から3倍も多かった。
その後、ニチイ(現イオン)やダイエー、ユニーなどの全国的チェーンストアでも店頭販売で次々と実績を挙げ、大手小売りチェーン経営者の間で、ダイソーと矢野博丈の名が知られていくようになった。この頃のエピソードとして、スーパーの売り場を借りて商品を並べる際、手伝ってくれたスーパーの店員が、何度説明しても「これ100円じゃないでしょ?」と聞いてきたというものがある。東京や大阪の移動販売では原価20 JPYから30 JPYの商品を100円均一の中に混ぜていたため、商品を見慣れていた店員や常連客にはその違いがすぐに分かったという。また、愛知県のユニー江南店では「4階の催事場にお宅の商品だけ置いて帰ってくれ。会計は他の店と一緒にウチでする」と言われた。4階まで客が上がってくるはずもなく、丁寧に断ったが、「ウチとの取引を全部止める」と脅されたため、止むを得ず商品だけ置いて帰った。しかし3ヶ月ぶりに同店を訪れると、店長から「お宅の100円均一目当てでお客が4階まで上がってくれる。お宅の商品、やっぱりいいわ」と感謝された。こうして各地のスーパーの売り場や催事場でも商売ができるようになった。
まもなく大きな転機が訪れた。この頃、大創産業はダイエーに6割の商品を卸していた。ところが、あるとき中内㓛オーナーから呼び出され、「これからの新時代にはふさわしくない。催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と直接言われた。そこで矢野は会社が潰れないためにどうすべきか考えた結果、ダイエーの客が流れるところに100円ショップを作った。これが常設店舗による今日の形態の100円ショップの始まりである。こうした新しい商売は、儲かることが分かると必ず大手資本が参入してきて潰れたり、買収されたりすることが多いが、100円均一は利益を出しにくい商売だったことから、大手は参入してこなかった。ダイエーも後に88円ショップを展開したが、うまくいかなかった。
1987年7月、本社を広島市の自宅から現在地の東広島市に移転。「100円SHOPダイソー」の展開に着手し、1991年4月、最初の直営店を香川県高松市丸亀町商店街に出店し、チェーン展開を本格化させた。賃料の安い居抜き物件を見つけて借りる手法で店舗を拡大させた。ダイソーは商品数が多いため、店が狭かろうが広かろうが臨機応変に対応できた。健全だった会社や業界トップにあった会社が傾いていく様を嫌というほど見てきたため、「会社とは潰れるもの」という考えを持って経営に当たった。慢心を嫌い、手を抜くことを戒めてきたという。
100円ショップはバブルが弾け、長期不況に突入した1990年代後半から急速に売上を伸ばした。100円ショップは半ばブームとなり、香具師や詐欺師まがいも入り乱れ、商売敵も増えた。しかし、先行するライバルが「100円の粗悪品」を扱う中、ダイソーは「100円の高級品」を追求した。この差が消費者の心をつかんだ。量販店で不振の売り場があれば、その代替としてまず候補に上がるようになり、数多くの量販店からの出店要請が相次いだ。
売上高は1995年に233.00 億 JPY、1998年には818.00 億 JPYに達した。店舗数は1994年の300店舗から1998年には1000店舗を突破し、月に68店舗を出店した時期もあった。1999年には年商1000.00 億 JPYを突破し、翌2000年には年商2000.00 億 JPYを突破した。同年、「'99ベンチャー・オブ・ザ・イヤー(株式未公開部門)」を受賞。また、同業他社の参入もあり業界が活性化し、店舗網が全国に広がり、新しい小売業として認知された。均一価格という会計の明朗さと生活雑貨中心の幅広い品揃えが支持を集め、「百均」というデフレ経済を象徴する小売業の新たな業態を築き、日本に100円ショップを根付かせた。
矢野と親交のあった渡邉美樹は、2024年2月の矢野の逝去を受け、「矢野さんは、値段を気にせず買い物ができるという文化を創った。和民創業時も家族で来店し、お父さんが『何でも食べていいぞ』という世界を作りたかった。大きなことを創造する『大創』。経営者として一番大事なことを社名に刻んだ名経営者だった」と語った。2001年3月30日にはNHK-BS1で「100円の男ー流通の革命児・矢野博丈ー」というタイトルで特集されるなど、マスメディアで度々取り上げられたこともあって大創産業も急成長した。『日経ビジネス』は矢野を「100円ショップのイノベーター」と評価した。また、直木賞作家で経済評論家でもある邱永漢が毎月のように本社がある広島へ来て「故郷の台湾でも100円ショップは人気を博するに違いない。ぜひやりたい」と売り込んできたため、2001年台湾桃園市に海外初出店した。
2017年には国内3150店舗、海外1800店舗、2023年には国内4360店、海外25の国と地域で990店を持つ業界最大手に成長した。2023年2月期の売上高は5891.00 億 JPYに達し、取り扱い商品は約7万6000アイテムに及ぶ。創業当初「死ぬまでに年商1.00 億 JPYに」と願った矢野の夢は、今日ダイソー全店合計で1時間で達成されている。
4. 経営哲学と発言録
矢野博丈は、成功した企業の社長とは思えないほど謙虚で、時にネガティブとも取れる発言を前面に出す独自の経営哲学で知られ、そのユニークな姿勢は度々話題となった。彼の好きな言葉は「恵まれない幸せ」「しかたない」「分相応」「自己否定」であり、特に「自己否定」を好み、掌に「ワシはダメだよ」と書いたこともあるという。記者がつけた渾名は「不幸という服が体に張り付いた億万長者」であった。
4.1. 経営スタイル
矢野は自身の経営スタイルについて、明確なビジョンや戦略を持たず、予算やノルマも設定しない「行き当たりばったり」な経営を公言していた。彼は「自分は頭も顔も悪い。次に生まれ変わるとしても、もう自分には生まれたくない」と語るなど、極めて謙虚な姿勢を貫いた。また、「私はインターネットも分からないし、時代遅れな人間ですから」と述べ、最先端の技術や理論に頼らず、自身の直感と経験に基づいて意思決定を行うことを好んだ。
彼の経営は、計画よりも実行を重視するスタイルであった。自らの失敗経験から「失敗するしか成功はない」という教訓を得ており、常に「会社は潰れるもの」という危機感を持ち、慢心を嫌い、手を抜くことを戒めてきた。彼は「才能も運もない人間だから、神様が一生懸命働く以外に人生の選択権をくれなかった。それで、ここまでこれた」と語り、努力と継続が成功の鍵であると考えていた。
4.2. 主要な発言録
矢野博丈の経営哲学と人生観は、その独特な発言に集約されている。
- 自身について**
- 「自分は才能も運もない人間だから、神様が一生懸命働く以外に人生の選択権をくれなかった。それで、ここまでこれたけえ」
- 「自分は頭は悪いし、顔も悪い。次に生まれ変わるとしても、もう自分には生まれたくない」
- 「取材でもあまり話さないようにしている」
- 「私はインターネットも分からないし、時代遅れな人間ですから」
- 商売について**
- 「仕入れは格闘技だ」
- 「お客様はよう分からん」
- 「店舗が増えるのが怖くて『出すな、出すな』と言うてきた」
- 「6年ぐらい前まで『ダイソーはつぶれる』という確信を持っていました」
- 「やってきたことがいいか悪いかは、ダイソーが潰れる時にならんとわかりません」
- 「朝礼は年3回。創業から25年間会議ゼロ、目標、予算、ノルマを立てたことがない。経営計画もない。行き当たりばったり」
- 「見よう見真似で成功したのはホームセンター、コンビニまで。100円ショップで成功したのも単なる偶然なんじゃけ。偶然はそう何回も起きるもんじゃない」
- 「人間には将来を見通す力なんてないから、ウチには経営計画も戦略も何もありません。予算やノルマもないし、朝礼さえウチはやってない」
- 「会社が潰れたら自殺しようと思っていましたから。30代の頃は会社が潰れたら、秋田か北海道のひなびた温泉に妻と子どもを連れて行って、妻が仲居頭で僕が風呂掃除とお客さんの背中を流す係をやろうなんて思っていたんですが、45歳くらいになってくると扱う額が大きくなりすぎて、もう死ぬしかないなと。ゴルフに行っても『あの松の木、首を吊りやすそうだな』って思うほどでした」
- 「今は潰れても会社再生法がありますが、我々の時代は会社が潰れたら社長は死んで、借金を生命保険で払うしか選択肢がなかったので、当時は僕のような考えが当たり前でした」
- 「夢は畳の上で死にたいです。どうせ自殺でしょうけど、できれば畳の上で死にたい。それが夢です」
- 他社について**
- 「セリアには店でも商品でも負けた」
- 「この前みずほ銀行の頭取とメシを御一緒した時、『これからうちもどうなるかわかりません。御迷惑をかけるかもしれません』と伝えた」
- 店作りについて**
- 「新しい店舗は社員たちが決めて作り上げました。私にはとても、こんな店作りはできません」
- 「急成長してきたセリアや、キャンドゥのおかげで『潰れるかもしれない』と思えた。その危機感があったから持ち直すことが出来た」
5. 晩年と評価
矢野博丈は晩年、健康問題に見舞われながらも、事業の継承を進め、その功績は国内外で高く評価された。彼の死去は、彼が築き上げた小売の新たな形と消費者文化への貢献を改めて認識させる機会となった。
5.1. 健康問題と後継
矢野は多忙な生活を送っていたが、2018年に脳卒中を発症した。これを受け、同年、彼は次男の矢野靖二を大創産業の社長に指名し、自身は事業から退いた。この時、彼は「自分はもう年を取りすぎたし、時代と自分とが合わない」と述べ、特に小売業界で技術やコンピューティングの活用が進む中で、自身にそのスキルがないことを理由に挙げた。
5.2. 受賞歴と功績
矢野博丈は、その事業的成果を認められ、数々の賞を受賞している。2000年には「年間優秀企業家賞」(企業家ネットワーク・企業家倶楽部主催)を受賞し、2019年には「EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の日本代表に選ばれた。
彼は「100円ショップ」という新たな小売業態を日本に定着させ、「百均」という言葉がデフレ経済を象徴するまでにした功績は大きい。渡邉美樹は、矢野が「値段を気にせず買い物ができるという文化を創った」と述べ、その創造性を高く評価した。また、『日経ビジネス』は彼を「100円ショップのイノベーター」と評している。
5.3. 死去と遺産
矢野博丈は2024年2月12日、心不全のため80歳で死去した。彼の訃報は同年2月19日に公表された。死没日付で正五位に叙され、旭日中綬章を追贈された。
彼が築き上げた大創産業は世界展開しており、海外メディアからは「1ドルショップのパイオニア」と評されている。CNN(アメリカ)、BBC(イギリス)、朝鮮日報(韓国)などの主要海外メディアも彼の訃報を報じ、その影響力の大きさを物語っている。矢野博丈は、そのユニークな経営哲学と、消費者の生活に深く根差した100円ショップというビジネスモデルを通じて、日本および世界の小売産業と消費者文化に計り知れない影響と遺産を残した。
6. 家族
矢野博丈には二人の息子がいる。長男の寿一は奈良県立医科大学教授で微生物感染症学を専門としている。次男の靖二は、2018年3月から大創産業の社長を務めている。