1. 人物
米原万里は、政治家の家庭に生まれ、幼少期をプラハで過ごし、ソ連運営の学校でロシア語教育を受けた。その後の学歴、日本共産党への入党と除名、ロシア語同時通訳者としての輝かしいキャリア、そして多岐にわたる作家活動を通じて、社会や文化に対する独自の視点を形成していった。
1.1. 生い立ち
米原万里は1950年4月29日、東京都中央区の聖路加病院で生まれた。父は日本共産党常任幹部会委員で衆議院議員を務めた米原昶(よねはら いたる)であり、父方の親類には立憲民主党衆議院議員の有田芳生がいる。祖父の米原章三は鳥取県議会議長、貴族院議員などを務めた。
1959年(昭和34年)、米原が大田区立馬込第三小学校3年生の時、父が日本共産党代表として各国共産党の理論情報誌『平和と社会主義の諸問題』編集委員に選任され、編集局のあるチェコスロバキアの首都プラハに一家で赴任することになった。9歳から14歳までの5年間、現地にあるソビエト連邦外務省が直接運営する、外国共産党幹部子弟専用の8年制ソビエト大使館付属学校に通い、ロシア語で授業を受けた。チェコ語ではなくロシア語の学校を選んだのは、帰国後もロシア語を続けられるという父の判断によるものだった。この学校はほぼ50カ国の子どもたちが通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムが組まれていた。クラスの人数が20人を超えると二つに分けるなど、きめ細かい教育が行われたが、米原自身は最初の約半年間、言葉が全く理解できず「地獄」だったと述懐している。ソビエト学校の教育は共産主義思想の教化が色濃く反映されていた。
1964年(昭和39年)11月、ソビエト大使館付属学校を第7学年で中退し日本に帰国。1965年1月、大田区立貝塚中学校第2学年に編入した。この時、日本の試験が○×式や選択式であることにカルチャーショックを受けたという(ソビエト学校は全て論述試験だった)。プラハの春(1968年)は、米原が日本に戻った後の18歳の時に起こった出来事である。
1.2. 学歴
日本に帰国後、1966年4月に明星学園高等学校に入学し、1969年3月に卒業した。同年4月には榊原舞踊学園民族舞踊科に入学したが、1971年3月に中退。同年4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科に入学した。1975年3月に同大学を卒業後、一時汐文社に勤務したが、1976年3月に退社し、同年4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程に進学。1978年3月に同修士課程を修了し、ロシア文学とロシア文化の修士号を取得した。
1.3. 政治的立場と活動
米原万里は東京外国語大学在学中に日本共産党に入党した。しかし、東京大学大学院在学中の1985年(昭和60年)、「東大大学院支部伊里一智事件」に連座して党から除籍処分を受けた。死亡時『しんぶん赤旗』訃報欄には党歴無記載ではあったが掲載された。この経験について、逮捕直前の佐藤優に対し、2002年5月13日に「私は共産党に査問されたことがある。あのときは殺されるんじゃないかとほんとうに怖かったわ。共産党も外務省も組織は一緒よ」と語っている。共産党を離れた後も、彼女は「今の社会の仕組みや矛盾を説明するのに、カール・マルクスほどぴったりな人はいないわよ。絶対的とは言わないけれど、今読むことのできる思想家の中では、あれほど普遍的に世の中の仕組みや矛盾をきちんと説明できる思想家は他にいない」と度々語り、マルクス主義の有効性を認め続けていた。
1.4. 通訳・翻訳家としての活動
米原万里は、大学院修了後、日ソ学院(現在の東京ロシア語学院)でロシア語講師を務め、1990年までは文化学院大学部の教員としてもロシア語を教えた。その傍ら、1978年頃から通訳・翻訳に従事し、1980年にはロシア語通訳協会の設立に参画し、初代事務局長に就任した。その後、1995年から1997年まで、そして2003年から死去する2006年まで、同協会の会長を務め、同時通訳者の待遇改善にも尽力した。
1983年(昭和58年)頃からは第一級の通訳者として、ロシア語圏要人の同時通訳などで活躍した。特にペレストロイカ以降は、ソ連崩壊後の激動期において、ニュースを中心に旧ソ連・ロシア関係の報道や会議の同時通訳に数多く従事した。1989年から1990年にかけては、TBSの「宇宙プロジェクト」で通訳グループの中心となり、ソ連側との交渉にあたった。また、TBSの特別番組『日本人初!宇宙へ』ではロシア語の同時通訳を担当し、その活躍は同時通訳、ひいては米原の存在を一般に広く知らしめることになった。
1990年1月には、ソビエト連邦最高会議のボリス・エリツィン議員(当時)が来日した際、随行通訳を務め、エリツィンからは「マリ」と呼ばれ、大変可愛がられていたという。1992年(平成4年)には、同時通訳による報道の速報性への貢献が評価され、日本女性放送者懇談会賞(SJ賞)を受賞した。1997年(平成9年)4月から翌年3月まで、NHK教育テレビの『ロシア語会話』で講師を務めた。
1.5. 作家としての活動
米原万里は、1994年に『不実な美女か貞淑な醜女か』を、1996年に『魔女の1ダース』を出版するなど、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家として多岐にわたる文学活動を展開した。彼女の作品は、特有のウィット、言葉遊び、そして文化、社会、人間関係に対する鋭い観察眼が特徴である。
1980年代後半以降、東欧革命やベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊といった歴史的変動を同時通訳の現場で肌で感じた米原は、プラハのソビエト学校時代の友人たちの消息を案じていた。親しかったギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ボスニア・ヘルツェゴビナのボシュニャク人のヤースナの級友3人を探し歩き、その消息を確かめた記録が『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)である。この作品で2002年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。選考委員の西木正明は、「恐ろしい作品。書き飛ばしているのに、それが弊害になっていない。人間デッサンを一瞬に通り過ぎながら、人物が行間からくっきり立ち上がってくる。嫉妬に駆られるような見事な描写力だ」と高く評価した。
2003年には、長編小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年)で、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した。選考委員の池澤夏樹は、この作品が若い夢とイノセンスの喪失を語りながら、暗い社会の中、老女オリガ・モリソヴナの躍動感で「子供たちはその光を受けて輝」いていると述べ、「ある天才的な踊り子の数奇な運命を辿ると同時に、ソ連という実に奇妙な国の実態を描く小説であって、この二重性が実におもしろい」と評価している。晩年は、肉体的にも精神的にも負担の多い同時通訳からは身を引き、作家業に専念した。
1.6. 受賞歴
米原万里の主要な受賞歴は以下の通りである。
- 1992年:日本女性放送者懇談会賞(SJ賞) - 1991年度の功績に対して。
- 1995年:読売文学賞随筆・紀行賞 - 『不実な美女か貞淑な醜女か』に対して(1994年度第46回)。
- 1997年:講談社エッセイ賞 - 『魔女の1ダース』に対して(1997年度第13回)。
- 2002年:大宅壮一ノンフィクション賞 - 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に対して(2002年度第33回)。
- 2003年:Bunkamuraドゥマゴ文学賞 - 『オリガ・モリソヴナの反語法』に対して(2003年度第13回)。
1.7. 私生活と趣味
米原万里は生涯未婚であった。彼女は下ネタをこよなく愛することで知られ、『徹子の部屋』に出演した際には、黒柳徹子が米原の著書から瞳孔に関する性的なジョークを紹介し、視聴者に衝撃を与えた。その他の趣味は駄洒落、そしてイヌやネコと暮らすことであった。親しい友人でイタリア語同時通訳者の田丸公美子も駄洒落と下ネタが得意であり、米原は田丸に「シモネッタ・ドッジ」という渾名を贈り、田丸は米原を「え勝手リーナ」(エカテリーナ)と呼んでいたという。
佐藤優は外務省勤務時代から米原と面識があり、佐藤が逮捕される直前には「組織が人を切る時には本当にひどい。こんなことで人生を降りちゃダメ」と電話で励まし、拘留後は自宅に招くなどして、佐藤が作家へ転身するきっかけを作ったという。また佐藤は、『文藝春秋』2008年9月特別号において、米原から橋本龍太郎元首相(当時内閣総理大臣)がモスクワ外遊時に通訳を務めた米原に関係を迫ったと聞いたとする記事を掲載している。米原は「ロシア語通訳の米原万里は大きな瞳で筆者を見つめ「私橋龍に襲われそうになったことがあるの」と言った。橋本龍太郎・元首相はエリツィンとの会談で通訳してもらう内容について相談したいと米原万里を3部屋続きのプレジデント・スイートに呼び出し暫く打ち合わせたが途中から様子が変わり米原万里に迫ってきたということだ。「ほんと怖かった。やっとの思いで部屋から逃げ出したわ。仕事にかこつけて呼び出しておいて迫るのは男として最低だわ」と米原万里は続けた。」と語ったとされるが、掲載時には両者とも故人であったため、コメントは得られていない。米原は日本ペンクラブの常務理事も務めるなど、活発な活動を行っていた。
1.8. 死没
米原万里は2003年10月、卵巣嚢腫と診断され内視鏡による摘出手術を受けた。しかし、嚢腫と思われたものは卵巣癌であり、転移の疑いがあると診断された。彼女は近藤誠の思想に影響を受けていたため、開腹手術による摘出、抗癌剤投与、放射線治療を拒否し、いわゆる民間療法によって免疫賦活などを行った。しかし、1年4か月後には左鼠径部リンパ節への転移が判明し、手術を提案されたがこれも拒否し、温熱療法などを試みた。闘病の経緯は、米原の著書『打ちのめされるようなすごい本』に掲載されている。
2006年(平成18年)5月25日、神奈川県鎌倉市の自宅で卵巣癌のため死去した。56歳没。この事実は同年5月29日に報道された。墓所は浄光明寺にあり、戒名は「浄慈院露香妙薫大姉」である。死去時には、週刊誌『サンデー毎日』で「発明マニア」を、『週刊文春』で「私の読書日記」をそれぞれ連載中であった。生前最後の著作は『必笑小咄のテクニック』(2005年)となった。
死後となる同年7月7日には、日本記者クラブにて「米原万里さんを送る会(送る集い)」が開催され、親交のあった佐藤優らが弔辞を読んだ。佐藤の弔辞は後に文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』(文春新書、2011年)に所収されている。
2. 著作と文学的貢献
米原万里は、その生涯において多岐にわたる著作活動を展開し、エッセイ、ノンフィクション、小説、翻訳、そして共著や寄稿を通じて、独自の文学世界を築き上げた。
2.1. 主要著作
米原万里の主要著作は以下の通りである。
- 『不実な美女か貞淑な醜女か』(-ブスか) - 1994年、徳間書店。新潮文庫版あり。
- 『魔女の1ダース - 正義と常識に冷や水を浴びせる13章』 - 1996年、読売新聞社。新潮文庫版あり。
- 『ロシアは今日も荒れ模様』 - 1998年、日本経済新聞社出版局。講談社文庫版あり。
- 『ガセネッタ&シモネッタ』 - 2000年、文藝春秋。文春文庫版あり。
- 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』 - 2001年、角川書店。角川文庫版あり。プラハのソビエト学校時代の友人たちを探し歩いた記録。
- 『真夜中の太陽』 - 2001年、中央公論新社。中公文庫版あり。
- 『ヒトのオスは飼わないの?』 - 2001年、講談社。文春文庫版あり。
- 『旅行者の朝食』 - 2002年、文藝春秋。文春文庫版あり。ロシアの缶詰「Завтрак туристаザフトラク・トゥリスタロシア語」をはじめ、ハルヴァ、ウォッカ、ちびくろサンボなど食べ物のエッセイ。
- 『オリガ・モリソヴナの反語法』 - 2002年、集英社。集英社文庫版あり。ソ連時代を生きた老女ダンサーを描いた長編小説。
- 『真昼の星空』 - 2003年、中央公論新社。中公文庫版あり。
- 『パンツの面目ふんどしの沽券』(-こけん) - 2005年、筑摩書房。ちくま文庫版あり。
- 『必笑小咄のテクニック』 - 2005年、集英社新書。
- 『他諺の空似 - ことわざ人類学』(たげんのそらに-) - 2006年、光文社。光文社文庫、中公文庫版あり。
- 『打ちのめされるようなすごい本』 - 2006年、文藝春秋。文春文庫版あり。書評集であり、自身の闘病記も含む。
- 『発明マニア』 - 2007年、毎日新聞社。文春文庫版あり。『サンデー毎日』連載を書籍化。
- 『終生ヒトのオスは飼わず』(しゅうせい-) - 2007年、文藝春秋。文春文庫版あり。
- 『米原万里の「愛の法則」』 - 2007年、集英社新書。講演記録。
- 『心臓に毛が生えている理由』(-わけ) - 2008年、角川学芸出版。角川文庫版あり。
- 『米原万里ベストエッセイ 1・2』 - 2016年、角川文庫。初のベスト集。
- 『偉くない「私」が一番自由』 - 2016年、文春文庫。佐藤優による編・解説。
- 『人と物6『米原万里』』 - 2017年、MUJI BOOKS文庫。エッセイ8編と初公開の「くらしの形見」を収録。
2.2. 翻訳作品
米原万里は、以下の著名な翻訳作品を手がけている。
- 『わたしの外国語学習法 - 独学で外国語を身につけようとしている人々のために』 - ロンブ・カトー(Lomb Katóロンブ・カトーハンガリー語)著、1981年、創樹社。ちくま学芸文庫版あり。
2.3. 共著・寄稿・連載
米原万里は、単独著作の他にも、多くの共著、寄稿、連載を通じて幅広い執筆活動を行った。
- 『言葉を育てる 米原万里対談集』 - ちくま文庫、2008年。
- 『マイナス50℃の世界 - 寒極の生活』 - 文:米原万里、絵:関口たか広、編:毎日小学生新聞、1986年、現代書館。2007年に改稿・写真追加版が清流出版から、2012年に角川文庫版が出版された。
- 『日本の名随筆 別巻66 方言』 - 作品社、1996年。「方言まで訳すか、訛りまで訳すか」を収録。
- 『司馬サンの大阪弁 - '97年版ベスト・エッセイ集』 - 日本エッセイストクラブ編、文藝春秋、1997年。「音楽の音を言葉で表す達人」を収録。
- 『木炭日和 - '99年版ベスト・エッセイ集』 - 日本エッセイストクラブ編、文藝春秋、1999年。「漢字かな混じり文は日本の宝」を収録。
- 『私たちが生きた20世紀 - 下』 - 文藝春秋編、文藝春秋、2000年。「夢を描いて駆け抜けた祖父と父」を収録。
- 『二十一世紀に希望を持つための読書案内』 - 筑摩書房編集部編、筑摩書房、2000年。
- 『17歳のための読書案内』 - 筑摩書房編集部編、筑摩書房、2007年。「本気で惚れた相手を口説くのは難しい」を収録。
- 『酒は老人のミルクである - 玉村サロン絶好調!』 - 玉村豊男編、TaKaRa酒生活文化研究所、2001年。対談「愛すべきロシア蒸留社会の真実」を収録。
- 『母のキャラメル - 2001年版ベスト・エッセイ集』 - 日本エッセイストクラブ編、文藝春秋、2001年。「愛の代用品」を収録。
- 『読書のたのしみ』 - 岩波文庫編集部編、岩波書店、2002年。「最も苦痛の少ない外国語学習法」を収録。
- 『話せばわかる! - 養老孟司対談集 身体がものをいう』 - 養老孟司著、清流出版、2003年。対談「論理の耳に羅列の目」を収録。
- 『ああ、恥ずかし』 - 阿川佐和子ほか著、新潮文庫、2003年。「自分の舌が恐くなる」を収録。
- 『君今この寂しい夜に目覚めている灯よ - 佐高信対談集』 - 佐高信編著、七つ森書館、2003年。対談「国から離れて生きるのが賢い」を収録。
- 『座談会昭和文学史 第4巻』 - 井上ひさし・小森陽一編著、集英社、2003年。「小林秀雄 - その伝説と魔力」を収録。
- 『それでも私は戦争に反対します。』 - 日本ペンクラブ編、平凡社、2004年。「バグダッドの靴磨き」を収録。
- 『わたし、猫語がわかるのよ』 - 日本ペンクラブ編、光文社、2004年。「白ネクタイのノワ」を収録。
- 『小説50 - あなたへの「著者からのメッセージ」』 - 森恵子・高橋誠著、生活情報センター、2005年。『オリガ・モリソヴナの反語法』についてのインタビューを収録。
- 『父と娘の肖像』 - 江川紹子著、小学館文庫、2006年。「大好きな父のあの言葉」を収録。
- 『懐かしい日々の対話 -- 多田富雄対談集』 - 多田富雄著、大和書房、2006年。対談「脳はウソをつくようにできている」を収録。
- 『あの日、あの味 - 「食の記憶」でたどる昭和史』 - 月刊『望星』編集部編、東海教育研究所、2007年。「冷凍白身魚の鉋屑」を収録。
- 『テレビニュースは終わらない』 - 金平茂紀著、集英社新書、2007年。対談「イラク邦人人質事件で露呈したもの」を収録。
- 「叔母の陰謀」 - 2004年9月14日付読売新聞(大阪本社)に掲載された短編小説。
- 『センセイの書斎 - イラストルポ「本」のある仕事場』 - 内澤旬子著、幻戯書房、2006年。米原万里の「ファイルと箱の情報整理術」を紹介。
- 『一字一会 - いま、何か一つだけ、字を書くとしたら?』 - 株式会社金曜日、2006年。『週刊金曜日』連載の単行本化。
2.4. 回想・作家論集
米原万里の死後、彼女の生涯と業績を偲び、その功績を記念するための多くの書籍や特集が組まれた。
- 『ユリイカ』 - 特集 米原万里、2009年1月号、青土社。ニコライ・ネクラーソフの詩や、沼野充義との対談、略年譜などが収録された。
- 『米原万里、そしてロシア』 - 伊藤玄二郎編、かまくら春秋社、2009年4月。亀山郁夫、小林和男、川端香男里ら16名による回想や対談を収録。
- 『米原万里を語る』 - 井上ユリ・小森陽一編、かもがわ出版、2009年5月。井上ひさし、吉岡忍、金平茂紀ら5名が執筆。
- 『姉・米原万里 思い出は食欲と共に』 - 井上ユリ著、文藝春秋、2016年5月。実妹による回想録で、秘蔵写真も多数収録。2019年1月には文春文庫版も出版された。
- 『米原万里 真夜中の太陽は輝き続ける』 - 河出書房新社〈文藝別冊 夢ムック〉、2017年8月。沼野充義、亀山郁夫、斎藤美奈子、井上ユリらが執筆。
2.5. 著書の他言語版
米原万里の著作は、日本語以外にも翻訳され出版されている。
- 『プラハの少女時代』(프라하의 소녀시대プラハの少女時代韓国語) - 原本著書題名:『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』
- 著:米原万里(요네하라 마리ヨネハラ マリ韓国語)、訳:イ・ヒョンジン(이현진イ ヒョンジン韓国語)
- 刊:マウムサンチェク(마음산책マウムサンチェク韓国語) - 2006年11月
- 『魔女の1ダース』(마녀의 한 다스マニョエ ハン タス韓国語)
- 著:米原万里(요네하라 마리ヨネハラ マリ韓国語)、訳:イ・ヒョンジン(이현진イ ヒョンジン韓国語)
- 刊:マウムサンチェク(마음산책マウムサンチェク韓国語) - 2007年3月
- 『ことわざ人類学 - ことわざで読み解く地球の365日』(속담인류학 -- 속담으로 풀어 본 지구촌 365일ソクタムインリュハク -- ソクタムウロ プロ ボン チグチョン 365イル韓国語) - 原本著書題名:『他諺の空似 - ことわざ人類学』
- 著:米原万里(요네하라 마리ヨネハラ マリ韓国語)、訳:イ・ヒョンジン(이현진イ ヒョンジン韓国語)
- 刊:中央日報時事メディア・週刊『エコノミスト』誌編集部(중앙일보시사미디어・이코노미스트チュンアンイルボ シサメディア・エコノミスト韓国語) - 2007年7月
- 『パンツ人文学』(팬티 인문학ペンティ インムンハク韓国語) - 原本著書題名:『パンツの面目ふんどしの沽券』
- 著:米原万里(요네하라 마리ヨネハラ マリ韓国語)、訳:ノ・ジェミョン(노재명ノ ジェミョン韓国語)
- 刊:マウムサンチェク(마음산책マウムサンチェク韓国語) - 2010年10月
- 『米原萬里的口譯現場』(米原萬里的口譯現場ミーユエン ワンリー ダ コウイー シェンチャン中国語) - 原本著書題名:『不実な美女か貞淑な醜女か』
- 著:米原万里(米原萬里ミーユエン ワンリー中国語)、訳:張明敏(張明敏ジャン ミンミン中国語)
- 刊:大家出版 - 2016年4月
- 『旅行者の朝食』(旅行者的早餐リュイシンジャ ダ オウツァン中国語)
- 著:米原万里、訳:王遵艶(王遵艶ワン ジュンイエン中国語)
- 刊:南海出版公司 - 2017年3月
- 『米原万里』(米原万里ミーユエン ワンリー中国語) - 原本著書題名:『人と物6『米原万里』』
- 著:米原万里、訳:王玥(王玥ワン ユエ中国語)
- 刊:新星出版社 - 2018年12月
3. 思想と哲学
米原万里の思想は、幼少期を共産主義体制下のプラハで過ごした経験と、その後の日本共産党への入党と除名という特異な経緯に深く根ざしている。彼女は、日本共産党を離れた後もカール・マルクスの思想の有効性を認め続けていた。彼女は「今の社会の仕組みや矛盾を説明するのに、マルクスほどぴったりな人はいないわよ。絶対的とは言わないけれど、今読むことのできる思想家の中では、あれほど普遍的に世の中の仕組みや矛盾をきちんと説明できる思想家は他にいない」と度々語り、マルクス主義が社会の構造や矛盾を説明する上で依然として重要な枠組みであると考えていた。
また、彼女は組織というものに対して批判的な視点を持っていた。日本共産党から査問を受けた経験から、「共産党も外務省も組織は一緒よ」と述べ、組織が個人を抑圧する側面を指摘している。このような経験は、彼女の著作における社会批評や、既成概念に対する懐疑主義的な姿勢に影響を与えている。
言語と異文化理解についても深い洞察を示した。複数の言語と文化に触れて育った経験から、言葉の持つ多様性や、文化間の誤解が生じるメカニズムを鋭く分析した。その作品には、言葉遊びや駄洒落、下ネタといった表現を通じて、言語の持つ多義性や、文化的な差異から生まれるユーモア、あるいは不条理を浮き彫りにする特徴が見られる。彼女の文学的貢献は、単なる異文化紹介に留まらず、言語と文化が人間の思考や社会構造に与える影響を深く探求する哲学的な側面を持っていた。
4. 影響と評価
米原万里は、その独自の視点と文体、そして多岐にわたる活動を通じて、日本の文学界および公論に大きな影響を与えた。彼女の作品は、単なるエッセイやノンフィクションに留まらず、社会や文化、人間関係に対する鋭い洞察と、ユーモアに満ちた表現で読者を魅了した。
特に、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、選考委員の西木正明から「恐ろしい作品」「嫉妬に駆られるような見事な描写力」と絶賛され、東欧革命後の社会の変化と個人の記憶の絡み合いを描き出した点で高く評価された。また、『オリガ・モリソヴナの反語法』は、池澤夏樹によって「ある天才的な踊り子の数奇な運命を辿ると同時に、ソ連という実に奇妙な国の実態を描く小説であって、この二重性が実におもしろい」と評され、その文学的深さと社会批評性が注目された。
彼女の作品は、異文化理解の重要性を説きながらも、安易な相互理解に陥らず、文化間の差異や誤解の面白さ、時には残酷さをも浮き彫りにした。駄洒落や下ネタを巧みに用いた独自の文体は、読者に親しみやすさを与えつつも、その奥には社会や人間の本質を問う深い哲学が隠されていた。米原万里の作品は、当時の社会・文化的な問題、特にソビエト連邦や共産主義の歴史的評価、冷戦後の国際関係といったテーマと深く相互作用し、読者や批評家に対して新たな視点を提供し続けた。
5. メディア出演
米原万里は、その専門知識と個性的な語り口で、テレビ番組にも多数出演した。
- NHK教育テレビ『ロシア語会話』 - 1997年4月から翌年3月まで講師を務めた。
- TBS『シベリア大紀行』 - 厳寒期の平均気温がマイナス60 °Cになるヤクーツクを取材し、厳冬期のシベリアを1.00 万 kmにわたり横断する番組に出演。この経験は児童向けの著書『マイナス50℃の世界 寒極の生活』(1986年)にも繋がった。
- TBS「宇宙プロジェクト」および特別番組『日本人初!宇宙へ』 - 1989年から1990年にかけて、ソビエト連邦との交渉にあたる通訳グループの中心となり、宇宙飛行士の訓練や打ち上げに関する同時通訳を担当した。
- TBS『ブロードキャスター』 - 2003年からレギュラーコメンテーターとして出演し、時事問題について独自の視点からコメントした。
- NHK衛星第2『世界・わが心の旅 - プラハ 4つの国の同級生』 - 1996年2月3日放送(2006年6月13日再放送)。旅人として、プラハのソビエト学校時代の同級生を訪ねる旅が描かれた。
- NHK総合『ゆるやかナビゲーション ゆるナビ』第18回 - 2006年9月20日放送の「忘れられない女性たち『さようならの風景』~ 作家・ロシア語通訳 米原万里」のコーナーで、しまおまほが米原の鎌倉の自宅などを紹介した。
6. 追悼と関連作品
米原万里の死後、彼女の生涯と業績を偲び、その功績を記念するための様々な追悼イベントや関連書籍が出版された。
2006年7月7日には、日本記者クラブにて「米原万里さんを送る会(送る集い)」が開催され、親交のあった佐藤優らが弔辞を読んだ。佐藤の弔辞は後に文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』(文春新書、2011年)に所収されている。
また、彼女の死後に出版された回想録や作家論集には、以下のようなものがある。
- 『ユリイカ』 - 特集 米原万里、2009年1月号。
- 『米原万里、そしてロシア』 - 伊藤玄二郎編、2009年4月。
- 『米原万里を語る』 - 井上ユリ・小森陽一編、2009年5月。
- 『姉・米原万里 思い出は食欲と共に』 - 井上ユリ著、2016年5月。
- 『米原万里 真夜中の太陽は輝き続ける』 - 河出書房新社〈文藝別冊 夢ムック〉、2017年8月。
これらの書籍や特集は、米原万里の多面的な魅力と、彼女が残した文学的・思想的遺産を後世に伝える役割を果たしている。
7. 外部リンク
- [http://www.yoneharamari.jp/ 米原万里公式サイト]
- [https://web.archive.org/web/20040825113735/http://www.yomiuri.co.jp/katsuji/news/20030528_01.htm 基調講演「本は理想的な日本語と外国語の教師」米原万里さん(ロシア語通訳、エッセイスト)] - 21世紀活字文化プロジェクト 活字文化公開講座(2003年5月28日)
- [https://web.archive.org/web/20070225093725/http://www.bunshun.co.jp/jicho/simonetta/simonetta01.htm 対談・田丸公美子×米原万里「イタリアの男と日本の男、ここが違う!?」] - 『本の話』2005年9月号
- [https://www.1101.com/webshinsho/01/yonehara/index.html 言葉の戦争と平和。米原万里さんとの時間] - ほぼ日刊イトイ新聞
- [https://web.archive.org/web/20070828170256/http://ch-k.kyodo.co.jp/17kyodo/backnumber/backnumber2001/job/job29.html 現代のお仕事 様々な大人たち]
- [http://rus-interpreters.jp/1980/yonehara-tsuitoushuu1.html 追悼集 米原万里さんを偲ぶ] - ロシア語通訳協会
- [http://tsuhon.jp/interview_yonehara.html 特別追悼記事 米原万里さんのご冥福をお祈りします。] - 『通訳・翻訳ジャーナル』編集部
- [http://blog.canpan.info/fukiura/archive/541 米原万里さん逝く 2006年05月29日(月)] - 吹浦忠正(東京財団 研究推進担当 常務理事)の新・徒然草
- [http://www.gfighter.com/0002/20060531000251.php 追悼 米原万里さん] - 日垣隆公式サイト ガッキィファイター
- [http://www.news.janjan.jp/culture/0606/0606210469/1.php 米原万里さんのお父さん、そしてエスペラントのこと] - 執筆・熊木秀夫(2006年6月23日)