1. 概要
高田一美(高田 一美たかだ かずみ日本語、Kazumi Takadaカズミ・タカダ英語、1951年6月28日 - 2009年10月1日)は、静岡県出身の元サッカー選手である。ポジションはフォワード(ウイング)として活躍した。
1971年から1979年まで三菱重工業サッカー部に所属し、日本サッカーリーグで128試合に出場し25得点を記録した。また、1970年から1975年までサッカー日本代表の選手として国際Aマッチ16試合に出場している。引退後は「郡司一美(郡司 一美ぐんじ かずみ日本語)」と改名した。そのプレースタイルから、当時の日本代表選手であった杉山隆一になぞらえ、「杉山二世」というニックネームで呼ばれた。2009年10月1日、58歳で膵臓癌のため死去した。
2. 生涯
高田一美の生い立ちから学生時代にかけての歩みと、その間に見せたサッカーへの才能について概観する。
2.1. 誕生と幼少期
高田一美は1951年6月28日に静岡県で生まれた。
2.2. 学生時代
静岡県立清水東高等学校を卒業後、日本大学に進学した。学生時代からサッカーの才能を発揮し、10代でサッカー日本代表に選出されるなど、早くから注目を集めた。
3. クラブキャリア
高田一美が三菱重工業サッカー部でプロとしてのキャリアを築き、チームの主要な成功に貢献した功績について解説する。
3.1. 三菱重工業
高田は日本大学を中退し、1971年に日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部に入部した。入部後すぐにレギュラーの座を掴み、チームの主力選手として活躍した。
三菱重工業では、1971年の天皇杯優勝に貢献した。さらに、1973年には日本サッカーリーグで優勝し、同年には再び天皇杯も制覇した。特に1978年には、日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯の国内三大タイトルを全て獲得する「三冠」を達成したチームの中心選手であった。
高田は1979年に現役を引退するまで、三菱重工業の一員として日本サッカーリーグで通算128試合に出場し、25得点を挙げた。
4. 日本代表キャリア
高田一美のサッカー日本代表におけるA代表およびユース代表での活動と、国際舞台での活躍について記述する。
4.1. A代表
高田は1970年11月15日、スウェーデンのクラブチームであるユールゴーデンIFとの試合で日本代表としてのデビューを飾った。その後、同年12月にタイのバンコクで開催された1970年アジア競技大会のサッカー日本代表に選出され、12月12日のクメール代表戦で国際Aマッチに初出場した。この大会では、他にもビルマ代表、インド代表との試合に出場した。
国際Aマッチにおいては、1974年のFIFAワールドカップ予選や、1975年のアジアカップ予選など、主要な国際大会の予選にも出場した。1975年までに、高田は通算16試合の国際Aマッチに出場したが、得点は記録されなかった。
4.2. ユース代表
高田はU-20日本代表(日本ユース代表)にも選出された。1971年4月に日本で開催された第13回アジアユース選手権に出場し、奥寺康彦や永井良和らと共にプレーし、2得点を挙げた。
5. 個人成績と栄誉
高田一美がその選手キャリアで獲得した個人タイトルや、卓越したプレースタイルに与えられた評価とニックネームについて述べる。
5.1. 個人タイトル
高田一美はプロキャリアにおいて、以下の個人タイトルを獲得している。
- JSLアシスト王:1回(1974年)
- JSLベストイレブン:2回(1972年、1973年)
5.2. ニックネームと評価
高田一美は、その卓越したプレースタイルから、当時の日本サッカー界を代表する選手の一人であったメキシコ五輪銅メダリストの杉山隆一になぞらえ、「杉山二世」というニックネームで呼ばれた。これは、彼のプレースキルや影響力が杉山に匹敵するという高い評価を反映している。
6. 統計
高田一美のクラブチームおよび日本代表における詳細な出場記録と得点記録を以下の表にまとめる。
6.1. クラブ成績
三菱重工業における日本サッカーリーグの年ごとの出場試合数と得点数を示す。JSLカップおよび天皇杯の記録については、公式データが不足しているため、一部空欄となっている。
クラブ成績 | リーグ戦 | JSLカップ | 天皇杯 | 期間通算 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
日本 | リーグ | JSLカップ | 天皇杯 | 期間通算 | ||||||
1971 | 三菱 | JSL1部 | 9 | 2 | - | - | 9 | 2 | ||
1972 | JSL1部 | 14 | 2 | - | - | 14 | 2 | |||
1973 | JSL1部 | 18 | 4 | - | - | 18 | 4 | |||
1974 | JSL1部 | 18 | 3 | - | - | 18 | 3 | |||
1975 | JSL1部 | 17 | 5 | - | - | 17 | 5 | |||
1976 | JSL1部 | 18 | 2 | - | - | 18 | 2 | |||
1977 | JSL1部 | 17 | 4 | - | - | 17 | 4 | |||
1978 | JSL1部 | 8 | 3 | - | - | 8 | 3 | |||
1979 | JSL1部 | 9 | 0 | - | - | 9 | 0 | |||
通算 | 128 | 25 | - | - | 128 | 25 |
6.2. 日本代表成績
サッカー日本代表として出場した国際Aマッチの年ごとの出場試合数と得点数を示す。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1970 | 4 | 0 |
1971 | 0 | 0 |
1972 | 5 | 0 |
1973 | 3 | 0 |
1974 | 0 | 0 |
1975 | 4 | 0 |
総計 | 16 | 0 |
6.2.1. 日本代表Aマッチ出場詳細
高田一美がサッカー日本代表として出場した国際Aマッチの具体的な試合記録を詳細に記述する。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1970年12月12日 | バンコク | クメール | ○1-0 | 岡野俊一郎 | アジア競技大会 | |
2. | 1970年12月14日 | バンコク | ビルマ | ○2-1 | アジア競技大会 | ||
3. | 1970年12月17日 | バンコク | インド代表 | ○1-0 | アジア競技大会 | ||
4. | 1970年12月19日 | バンコク | インド代表 | ●0-1 | アジア競技大会 | ||
5. | 1972年7月12日 | クアラルンプール | クメール | ○4-1 | 長沼健 | ムルデカ大会 | |
6. | 1972年7月16日 | イポー | スリランカ | ○5-0 | ムルデカ大会 | ||
7. | 1972年7月26日 | クアラルンプール | 韓国 | ●0-3 | ムルデカ大会 | ||
8. | 1972年8月6日 | シンガポール | インドネシア | ●0-1 | ペスタスカン大会 | ||
9. | 1972年9月14日 | 東京都 | 国立競技場 | 韓国 | △2-2 | 日韓定期戦 | |
10. | 1973年5月16日 | ソウル | イスラエル | ●1-2 | ワールドカップ予選 | ||
11. | 1973年5月20日 | ソウル | 南ベトナム | ○4-0 | ワールドカップ予選 | ||
12. | 1973年5月22日 | ソウル | 香港 | ●0-1 | ワールドカップ予選 | ||
13. | 1975年6月17日 | 香港 | 北朝鮮 | ●0-1 | アジアカップ予選 | ||
14. | 1975年6月21日 | 香港 | シンガポール | ○2-1 | アジアカップ予選 | ||
15. | 1975年6月23日 | 香港 | 中国 | ●1-2 | アジアカップ予選 | ||
16. | 1975年9月8日 | ソウル | 韓国 | ●0-3 | 日韓定期戦 |
7. 引退後と死
高田一美のサッカー選手引退後の新たな人生、改名、そしてその死に至る経緯について記述する。
7.1. 引退後
高田一美は1979年に現役サッカー選手としてのキャリアを引退した。引退後、彼は「郡司一美(郡司 一美ぐんじ かずみ日本語)」と改名して新たな人生を歩んだ。
7.2. 死去
2009年10月1日、高田一美は膵臓癌のため58歳で死去した。死没地は東京都杉並区であった。