1. 概要

アリ・ダエイ(علی داییアリー・ダーイーペルシア語)は、1969年3月21日にイランのアルダビールで生まれた、イランの伝説的なサッカー選手であり指導者です。現役時代はストライカーとして活躍し、特にそのヘディング能力と空中での決定力で知られ、「ペルシアン・タワー」の異名を取りました。彼はイラン代表のキャプテンを2000年から2006年まで務め、国際Aマッチで109ゴールを記録し、この記録はクリスティアーノ・ロナウドに破られる2021年まで世界最多でした。2024年にはリオネル・メッシにも抜かれ、現在は歴代3位の記録となっています。
選手引退後、ダエイはサイパFCやペルセポリスFCといったイランの主要クラブを率い、さらにイラン代表監督も務めました。彼の指導者としてのキャリアもまた、数々のタイトル獲得に貢献しました。
サッカー界以外でも、彼は2001年にユニセフ親善大使に任命され、2007年から2013年までFIFAサッカー委員会の委員を務めるなど、慈善活動や国際的なサッカーイベントに積極的に関与してきました。また、彼はシャリフ工科大学で材料工学(冶金)の学士号を取得しており、Daei Sportという自身のスポーツ用品製造会社を経営する実業家でもあります。
私生活では、2012年に交通事故に遭うなどの出来事がありましたが、自身の社会的な立場を活かし、マフサ・アミニ抗議運動を支持するなど、民主主義と人権のための活動にも積極的です。これらの行動は、イラン国民の英雄としての彼の地位をさらに強固なものにしています。彼の功績は、2014年のアジアサッカー殿堂入りや、数多くの個人タイトル、チームタイトルに表れています。
2. 人物
アリ・ダエイはイランの国民的英雄であり、アジアを代表するストライカーとして知られています。恵まれた体格と優れた跳躍力から放たれる高い打点からのヘディングは、彼の最も脅威的な武器でした。
2.1. 幼少期と学業
アリ・ダエイは1969年3月21日にイランのアルダビールで、イラン・アゼルバイジャン人の家庭に生まれました。彼は幼少期からサッカーに情熱を傾けましたが、父親は彼が高校を卒業するまでサッカーをすることを望んでいませんでした。それでも彼は母親の協力を得て、こっそり練習に参加していました。
ダエイはシャリフ工科大学で材料工学(冶金)の学士号を取得しました。これは彼が単なるアスリートではなく、学問においても優れた才能を持っていたことを示しています。大学時代には、イスラム自由大学のサッカーチームのキャプテンとして、2007年の世界大学競技大会で金メダルを獲得しています。
2.2. 初期のクラブ経歴(イラン)
ダエイは19歳で故郷のクラブ、エステグラル・アルダビールでプロとしてのキャリアをスタートさせました。その後、テヘランのタキラニFCで1シーズンプレーした後、同じくテヘランを拠点とするバンク・テジャラトFCに移籍しました。バンク・テジャラトでは4年間で75試合に出場し、49ゴールを記録するなど、初期から高い得点能力を見せつけました。
1994年、バンク・テジャラトでの成功を経て、ダエイはテヘランの主要クラブの一つであるペルセポリスFCに加入しました。1994年から1996年までの2シーズンで38試合に出場し、28ゴールを挙げる活躍を見せ、その後のヨーロッパ移籍への道を切り開きました。
3. 選手経歴
アリ・ダエイの選手としてのキャリアは、イラン国内での基礎を築いた後、ヨーロッパのトップリーグでの挑戦、そして再びイランリーグに戻って引退を迎えるという、多岐にわたるものでした。
3.1. ヨーロッパでのクラブ経歴

1996年のAFCアジアカップ1996での印象的な活躍後、ダエイは1996-1997シーズンにカタールのアル・サッドに移籍しました。そして1997年には、イラン代表のチームメイトであるカリム・バゲリと共に、ドイツのブンデスリーガに所属するアルミニア・ビーレフェルトに加入し、ヨーロッパでのキャリアをスタートさせました。
バイエルン・ミュンヘンでは、チーム内での序列が低く、イラン代表の試合スケジュールも相まって、プレー時間が十分に確保できませんでした。この状況に不満を抱いたダエイは、バイエルンが1999年にブンデスリーガで優勝した後、3年契約満了前にヘルタ・ベルリンへの移籍を決断しました。
ヘルタ・ベルリンでは、ダエイはUEFAチャンピオンズリーグに出場した初のアジア人選手となりました。1999年9月21日に行われたチェルシーFCとのグループステージの試合では2ゴールを挙げ、チームを2対1の勝利に導きました。また、ACミランとの試合でもサン・シーロでゴールを決め、1対1の引き分けに貢献しました。ヘルタ・ベルリンでは、ブンデスリーガとUEFAチャンピオンズリーグでのチームの夢を実現するための重要な選手の一人として活躍しました。
3.2. イランリーグ復帰後のクラブ経歴
2001年、ダエイは世界的な強豪チームとの親善試合には数多く出場していたものの、クラブでの安定した出場機会を得ることができずにいました。彼は34歳でアラブ首長国連邦リーグのアル・シャバーブ・アル・アラビークラブにフリーエージェントとして加入しました。
2003年、ダエイはUAEのチームを離れ、再び故郷テヘランのペルセポリスFCに復帰しました。ペルセポリスでの1シーズン後、彼はサバー・バッテリーにフリー移籍し、年間約30.00 万 USDという控えめな契約を結びました。サバー・バッテリーでは2年間で23ゴールを挙げ、ハズフィー・カップを獲得し、AFCチャンピオンズリーグにも出場しました。
2006 FIFAワールドカップ後、サバー・バッテリーに新監督ファルハド・カゼミが就任し、ダエイは戦力外と告げられ、契約は更新されませんでした。引退の噂が流れる中、彼は2006年8月1日にテヘランの別のクラブであるサイパFCと契約を結びました。
2007年3月6日、リーグ戦の試合中にシェイス・レザエイに頭突きをしたとして、イランサッカー連盟から2000 USDの罰金と4試合の出場停止処分を受けました。
2007年5月28日、メス・ケルマンFCとの試合でサイパがペルシアン・ガルフ・カップで優勝した後、ダエイは選手としてのクラブサッカーからの引退を正式に表明し、今後は監督としてのキャリアに集中すると発表しました。
3.3. 代表経歴
ダエイは1993年6月6日、テヘランで開催されたECOカップのパキスタン戦でイラン代表デビューを果たしました。彼は代表での出場を続け、1994 FIFAワールドカップ予選の最終アジアラウンドでは5試合で4ゴールを挙げ、得点王となりました。この予選の日本戦では、決勝点となる2点目を奪う活躍を見せました。
1996年にはAFCアジアカップ1996で韓国戦での有名な4ゴールを含む20ゴールを挙げ、IFFHSにより、公式国際大会における1996年の世界得点王に認定されました。1996年アジアカップ終了までに、彼はイラン代表として38試合に出場し29ゴールを記録しました。1998 FIFAワールドカップ予選でも再び得点ランキングのトップに立ち、イラン代表として17試合で9ゴールを挙げ、この時点で代表出場52試合で38ゴールを記録しました。1998年のワールドカップ本大会では得点はありませんでしたが、グループリーグのアメリカ戦ではメフディ・マハダビキアへのアシストを決めました。
2003年11月28日、テヘランで行われたAFCアジアカップ予選のレバノン戦で85ゴール目を記録し、フェレンツ・プスカシュを抜いて歴代国際Aマッチ最多得点者となりました。2004年11月17日には、ワールドカップ予選のラオス戦で4ゴールを挙げ、合計102ゴールに到達し、国際試合で100ゴール以上を記録した史上初の男子選手となりました。
ダエイはイラン代表として148試合に出場し、109ゴールを記録しました。この記録は2021年9月にクリスティアーノ・ロナウドに、2024年にリオネル・メッシに抜かれるまで、長らく男子サッカーの国際Aマッチ最多得点記録でした。ロナウドが記録を更新した際、ダエイは自身のInstagramで「この素晴らしい功績がロナウドのものとなることを光栄に思う」と投稿しました。
2006 FIFAワールドカップにも出場しましたが、メディアからは彼のフィットネスや若手選手の起用不足について批判がありました。しかし、ダエイは常に自身の代表チームでの立場を擁護し、自身が代表でプレーするには年を取りすぎているという批判を否定しました。
3.4. プレースタイル
アリ・ダエイは「ペルシアン・タワー」の異名を持つ身長1.89 mの長身フォワードでした。彼のプレースタイルは、特にその優れたヘディング能力と空中戦での強さに特徴がありました。ペナルティエリア内でのポジショニングのセンスも抜群で、クロスボールやセットプレーから次々とゴールを量産する生粋のストライカーでした。身体能力の高さに加え、常にゴールを狙う嗅覚と冷静なフィニッシュワークが、彼を世界トップクラスの点取り屋へと押し上げました。
3.5. 選手としての引退
アリ・ダエイは、2007年5月28日、自身が選手兼任監督を務めていたサイパFCがイラン・プロリーグで優勝を決めた試合後に、選手としての現役引退を正式に表明しました。この引退は、彼が今後、指導者としてのキャリアに完全に集中するための決断でした。
4. 監督経歴
アリ・ダエイは選手引退後、イラン国内のクラブや代表チームを率い、成功と挑戦の入り混じった監督キャリアを築きました。
4.1. 初期の監督経歴

2006年10月8日、サイパFCのドイツ人監督ヴェルナー・ローアントが突然退任したことを受け、ダエイはサイパの暫定監督に就任しました。その後、正式に常任監督に任命され、サイパはダエイの指揮下で最初のシーズンにペルシアン・ガルフ・カップで優勝を果たしました。監督としての2シーズン目には選手としての役割を辞し、完全にベンチに専念しましたが、サイパはリーグ戦で18チーム中11位と振るいませんでした。しかし、ダエイはサイパをAFCチャンピオンズリーグの準々決勝に導いた後、イラン代表監督に就任するためチームを去りました。
また、ダエイは2007年の世界大学競技大会ではイラン学生代表チームのヘッドコーチを務め、2009年の同大会ではイスラム自由大学チームのテクニカルマネージャーを務めています。
4.2. イラン代表監督
2008年3月2日、IRIFFはアリ・ダエイをイラン代表の新しいヘッドコーチとして正式に任命しました。ダエイ自身はこの任命を「驚き」と認めましたが、当時兼任していたサイパFCでの監督職をすぐに離れることはせず、サイパがAFCチャンピオンズリーグの準々決勝に進出するまで両方の職務を兼任しました。その後、双方の合意によりサイパを退任し、イラン代表監督に専念しました。
ダエイはイラン代表を16勝6分け3敗というまずまずの成績に導きましたが、2009年3月28日にサウジアラビアにホームで1対0で敗れたことが最後の引き金となりました。彼の在任中、イラン代表はワールドカップ予選で5試合中1勝しかできず、最も成績が低迷しました。この2010年ワールドカップ予選での敗戦後、ダエイは試合を終えた直後に解任されました。彼はゴラムレザ・レザエイやエフサン・ハジサフィなど多くの若手選手を代表に招集しましたが、しばしば選手選考が流動的であると批判されました。多くの批評家は、ダエイのチームが得点力不足であったことや、守備の弱点が未解決であったことも彼の失脚の原因として指摘しました。
4.3. クラブ監督経歴(イラン)


2009年、ダエイはラーフ・アーハンFCからの監督就任オファーを一度断りました。ペルセポリスFCの次期監督になると広く信じられていましたが、クラブはズラトコ・クランチャルを選びました。しかし、2009年12月28日、ダエイはペルセポリスの監督に就任しました。
2009-10シーズン終了時、ペルセポリスはリーグで4位に終わりましたが、ハズフィー・カップで優勝し、2011年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得しました。2010-11シーズンもリーグで4位に終わり、AFCチャンピオンズリーグではグループステージで敗退しましたが、シーズン終了時にはライバルのセパハンFC、フーラードFC、マラヴァーンFCを破り、2010-11ハズフィー・カップで再び優勝しました。ダエイはペルセポリス時代、ハビブ・カーシャニ会長を含む多くの反対勢力に直面しましたが、彼は「もうカーシャニとは一緒に働かない」と公言するほどでした。
2011年6月20日、ペルセポリスの技術委員会はダエイをペルセポリスのヘッドコーチに再任しましたが、彼は翌21日に辞任しました。技術委員会は同日、ハミド・エスティリをダエイの後任に選びました。ペルセポリスでの在任中、ダエイはハミドレザ・アリ・アスガリやサマン・アガザマニといった多くの若手選手を育成し、ハディ・ノロウジやマズィヤル・ザレといった選手はダエイのおかげで代表チームに選ばれるようになりました。多くの困難や課題があったにもかかわらず、ペルセポリスは13シーズンぶりにハズフィー・カップを2年連続で獲得しました。
2011年7月14日、ダエイはラーフ・アーハンFCのヘッドコーチとして1年契約を結びました。ラーフ・アーハンでの初戦はゾブ・アーハンFCとの2対2の引き分けでした。ラーフ・アーハンでの最初のシーズンでは、クラブを11位に導きました。2012-13シーズンには、モジタバ・シリやオミド・アリシャなど多くの若手選手を起用しました。ラーフ・アーハンはシーズンを8位で終え、これはクラブにとって1937年以来最高のリーグ順位でした。ダエイの人気により、ラーフ・アーハンの試合を見に来る観客が増え、彼は2年連続で古巣のペルセポリスFCに勝利しました。
ダエイはペルセポリスやトラクターといった他のクラブに移籍するという多くの噂があったにもかかわらず、「AFCチャンピオンズリーグに出場できるチームを築く」ためにラーフ・アーハンに留まることを決意しました。しかし、2013年5月20日に契約が解除され、彼がペルセポリスFCのヘッドコーチに就任する道が開かれました。
2013年5月20日、長期にわたる交渉の末、ダエイはペルセポリスFCのヘッドコーチとして3年契約を結びました。彼が古巣ペルセポリスに戻るのは2シーズンぶり2度目でした。2013年6月1日に正式にペルセポリスでの職務を開始し、最初の試合はトラクター戦で、メフディ・セイエド・サレヒのゴールにより1対0で勝利しました。ペルセポリスでの最初のシーズン終了時、チームは優勝したフーラードFCに2ポイント差で及ばず、準優勝に終わりました。しかし、2014-15シーズンの出だしが振るわなかったため、2014年9月10日に解任されました。
2015年7月1日、ダエイはサバー・ゴムのヘッドコーチに就任し、2年契約を結びました。サバー・ゴムでの2シーズンで、彼はペルシアン・ガルフ・プロリーグで9位と7位の成績を収めました。2016-17シーズンを数週間後に控えた時期に、サバーのオーナーシップ問題が不透明であったため、クラブを去りました。
2016年7月5日、ダエイはナフト・テヘランFCの監督に就任し、2年契約を結び、アリレザ・マンスーリアンの後任となりました。彼はナフトをハズフィー・カップ優勝に導きましたが、シーズン終了時にクラブを去りました。
2017年5月14日、ダエイは2006年に監督キャリアをスタートさせ、2007年にはリーグタイトルに導いた古巣のサイパFCの監督に復帰しました。彼は2シーズンにわたってチームを率いましたが、2018-19シーズン終了時に解任されました。
5. その他の専門活動
アリ・ダエイはサッカー選手および監督業以外にも、国際的な組織やイベントに積極的に関与し、その影響力を発揮してきました。
5.1. FIFAおよび親善大使としての活動
ダエイは2001年にユニセフ親善大使に任命されました。彼はデビッド・ベッカムやマデレーン・オルブライトとのユニセフのコマーシャルに出演したほか、定期的に同組織の活動に協力している姿が見られます。
選手引退後、ダエイは2007年から2013年までFIFAサッカー委員会の委員を務めました。この役職を通じて、彼は国際サッカーの発展に貢献しました。
5.2. 国際サッカーイベントへの関与
2007年7月18日、ダエイはネルソン・マンデラの誕生日を祝うために開催された「90ミニッツ・フォー・マンデラ」という試合に出場しました。この試合ではロベルト・バッジョらと共に「世界選抜」の一員として「アフリカ選抜」と対戦し、約10分間プレーしました。試合は3対3で終了しました。
2022年4月1日にはカタールで行われた2022 FIFAワールドカップの組み合わせ抽選会にも参加し、国際サッカー界の重要なイベントにおける彼の存在感を示しました。
6. 私生活
アリ・ダエイは、サッカー界での輝かしいキャリアだけでなく、実業家としての顔や社会貢献活動、個人的な信念、そして社会的な出来事への関与といった多角的な側面を持っています。
6.1. 家族と人間関係
イランのジャーナリスト、カメリア・エンテハビファルドは自身の回顧録の中で、1997年にダエイと結婚したが、後に二人は離別したと記しています。
6.2. ビジネスと慈善活動
ダエイは、自身のサッカー用品製造会社「Daei Sport」を所有しています。この会社は、イランの様々な分野のスポーツクラブや世界のリーグクラブにスポーツウェアを供給しており、イラン代表のユニフォームも彼の会社のブランドでした。
彼は多額の慈善寄付を行っており、ロベルト・バッジョらとともに「ワールドvsボスニア」の試合に出演するなど、世界各地の慈善サッカー試合にも参加しています。また、ユニセフの活動にも定期的に関与し、デビッド・ベッカムやマデレーン・オルブライトとのコマーシャルにも出演しています。
6.3. 宗教的・個人的信条
ダエイはシーア派イスラム教徒であり、その信仰は彼の公衆の場での行動にも影響を与えています。例えば、バイエルン・ミュンヘンでプレーしていた際、彼は自身の宗教で禁じられているアルコール飲料であるため、エルディンガーの広告でビールジョッキを持つことを拒否しました。
2008年4月、ダエイは自伝の執筆を開始したことを発表し、2010年3月に発売予定だとされました。彼は「甘くて苦い思い出」を振り返りつつも、「いくつかの秘密は永遠に心の中にしまっておく」と述べていましたが、この本はまだ出版されていません。
6.4. 主な個人的な出来事と社会活動
2012年3月17日、ダエイはエスファハーンからテヘランへ弟と車で戻る途中、自身の車が横転する交通事故に遭いました。事故直前には、彼が監督を務めるラーフ・アーハンFCがセパハンFCに敗れていました。ダエイはその後、カーシャーン近郊の病院に搬送されました。ラーフ・アーハンのメディア担当者ホセイン・ガドゥーシは、「ダエイはバイタルサインが安定しており、事故による急性的な危険はない」と発表しました。彼は翌日、テヘランのラレ病院に転院しました。
この事故を受け、AFCは声明で「AFCは、土曜日に交通事故に巻き込まれたイランのレジェンド、アリ・ダエイの迅速かつ完全な回復を願っています。我々はアジアサッカーの真の象徴であるダエイを支援する準備ができています。私たちの思いと祈りは彼と共にあります」と述べました。FIFA会長のゼップ・ブラッターも自身のTwitterで、ダエイが負傷したことに衝撃を受けたと述べ、彼の回復を祈る言葉を寄せました。
2020年11月には、テヘランで彼の金のネックレスを盗もうとした2人の泥棒に襲われる事件がありました。警察は、ダエイを襲撃した2人の泥棒を数日後に逮捕したと発表しました。
2022年12月26日、ダエイは反政府抗議運動を支持したことによって、妻のモナ・ファッロハザリと娘を乗せたドバイ行きの国際便がキーシュ島へ引き返すことを余儀なくされたと述べました。この出来事は、彼がイランにおける民主主義と人権のために声を上げ続けていることを示すものです。彼のような国民的英雄が公然と政府の政策に異議を唱えることは、国内の多くの人々にとって勇気づけられる行動であり、社会変革を求める運動に大きな影響を与えています。
7. 栄誉と功績
アリ・ダエイは選手としても監督としても、国内外で数多くの栄誉と功績を達成してきました。
7.1. 選手としての主要タイトル
- ペルセポリスFC**
- アーザーデガーン・リーグ: 1995-96
- バイエルン・ミュンヘン**
- ブンデスリーガ: 1998-99
- DFLリーガポカール: 1998
- UEFAチャンピオンズリーグ準優勝: 1998-99
- サバー・バッテリー**
- ハズフィー・カップ: 2004-05
- イラン・スーパーカップ: 2005
- サイパFC**
- ペルシアン・ガルフ・カップ: 2006-07
- イランU23代表**
- アジア競技大会金メダル: 2002
- イラン代表**
- ECOカップ: 1993
- LGカップ: 2001, 2002年3月, 2002年9月 (3位: 2000, 2003年5月, 2003年8月)
- アジア競技大会金メダル: 1998
- AFC/OFCチャレンジカップ: 2003
- 西アジアサッカー選手権: 2004
7.2. 監督としての主要タイトル
- サイパFC**
- イラン・プロリーグ: 2006-07
- イラン代表**
- 西アジアサッカー選手権: 2008
- ペルセポリスFC**
- ハズフィー・カップ: 2009-10, 2010-11
- ナフト・テヘランFC**
- ハズフィー・カップ: 2016-17
7.3. 個人タイトル
- AFCアジアカップトーナメントチーム: 1996
- AFCアジアカップ得点王: 1996 (8ゴール)
- AFCアジア年間最優秀選手(月間): 1997年8月
- アジア年間最優秀選手賞: 1999
- IFFHS世界最多得点者: 2000 (20ゴール)
- 勇気の勲章: 2005
- アジアサッカー殿堂: 2014
- IFFHSレジェンド: 2016
- AFCアジアカップファン選出歴代ベストイレブン: 2018
- IFFHSアジア男子20世紀チーム: 1901-2000
- イラン年間最優秀監督: 2006
- FIFA年間最優秀選手: 1997, 2001 (ノミネート)
- AFCアジアカップ歴代ベストイレブン: 2023
8. 遺産とパブリックイメージ
アリ・ダエイは、イランサッカー界だけでなく、社会全体において多大な影響を与え、国民的英雄として深く尊敬されています。
8.1. 全体的な評価と影響
ダエイは、イランおよびアジアサッカー史上最高の選手の一人として広く評価されています。彼の国際Aマッチ最多得点記録(当時)は、イランのサッカー史に不滅の足跡を刻み、アジアのサッカー選手が世界の舞台で活躍できる可能性を示しました。選手としての引退後も、監督として多くのクラブを指導し、イラン代表監督も務めるなど、後進の育成にも尽力しました。
彼は単なるスポーツ選手に留まらず、ユニセフ親善大使としての活動や、自身の会社「Daei Sport」を通じた社会貢献、さらにはイラン国内のマフサ・アミニ抗議運動への明確な支持など、社会問題にも積極的に関わっています。これらの行動は、彼が単なる「ゴールスコアラー」ではなく、社会的な責任を果たす「市民」としても尊敬されていることを示しています。彼の影響力はサッカー界を超え、イラン社会全体に及んでいます。
8.2. エピソードと文化的影響
ダエイの個人的なエピソードの中でも、特に日本との深い親交はよく知られています。1994年の広島アジア大会で負傷し入院した際、医師や看護師をはじめとする多くの日本人からの親切な対応に深く感動して以来、彼は大の親日家となりました。好きな映画として七人の侍を挙げるなど、日本の文化にも関心を持っています。2005年6月8日にイランがアジア最終予選を突破した際にも、「私は初めからイランと日本が(予選を)突破することを信じていた」とコメントするなど、その親日家ぶりがうかがえます。
彼のスポーツ用品店「Daei Sport」は、イラン代表のユニフォームも手がけるなど、イランのスポーツ産業にも大きな影響を与えました。これらの活動や個人的な姿勢が、彼の国民的英雄としてのパブリックイメージを形成し、イラン国民からの絶大な支持を集めています。彼は、イランサッカーの象徴であり、国民の誇りとして記憶され続けるでしょう。
9. キャリア統計
9.1. クラブキャリア統計
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | 大陸大会 | その他 | 合計 | 備考 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
ペルセポリス | 1994-95 | アーザーデガーン・リーグ | 25 | 15 | 0 | 0 | - | - | 25 | 15 | |||
1995-96 | 13 | 8 | - | 4 | 2 | 2 | 1 | 19 | 11 | AFCチャンピオンズリーグ(アジアクラブ選手権)およびナクシュ・エ・ジャハンカップでの出場 | |||
合計 | 38 | 23 | 0 | 0 | 4 | 2 | 2 | 1 | 44 | 26 | |||
アル・サッド | 1996-97 | QSL | 16 | 10 | 2 | 0 | - | - | 18 | 10 | |||
アルミニア・ビーレフェルト | 1997-98 | ブンデスリーガ | 25 | 7 | 1 | 0 | - | - | 26 | 7 | |||
バイエルン・ミュンヘン | 1998-99 | 23 | 6 | 4 | 0 | 5 | 0 | - | 32 | 6 | UEFAチャンピオンズリーグでの出場 | ||
ヘルタ・ベルリン | 1999-2000 | 28 | 3 | 2 | 0 | 13 | 4 | 1 | 0 | 44 | 7 | UEFAチャンピオンズリーグおよびDFLリーガポカールでの出場 | |
2000-01 | 23 | 3 | 2 | 0 | 5 | 2 | 2 | 0 | 32 | 5 | UEFAカップおよびDFLリーガポカールでの出場 | ||
2001-02 | 8 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | - | 12 | 0 | UEFAカップでの出場 | |||
合計 | 59 | 6 | 7 | 0 | 19 | 6 | 3 | 0 | 88 | 12 | |||
アル・シャバブ | 2002-03 | UPL | 21 | 11 | 0 | 0 | - | - | 21 | 11 | |||
ペルセポリス | 2003-04 | イラン・プロリーグ | 28 | 16 | 2 | 1 | - | - | 30 | 17 | |||
サバー・バッテリー | 2004-05 | 25 | 12 | 5 | 3 | - | - | 30 | 15 | ||||
2005-06 | 26 | 11 | 2 | 2 | 6 | 5 | 1 | 2 | 35 | 20 | |||
合計 | 51 | 23 | 7 | 5 | 6 | 5 | 1 | 2 | 65 | 35 | |||
サイパ | 2006-07 | イラン・プロリーグ | 26 | 10 | 1 | 0 | - | - | 27 | 10 | |||
キャリア通算 | 287 | 112 | 24 | 6 | 34 | 13 | 6 | 3 | 351 | 134 |
9.2. 代表キャリア統計
代表チーム | 年度 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
イラン | 1993 | 16 | 7 |
1994 | 1 | 0 | |
1995 | 0 | 0 | |
1996 | 18 | 22 | |
1997 | 17 | 9 | |
1998 | 13 | 9 | |
1999 | 5 | 2 | |
2000 | 18 | 19 | |
2001 | 16 | 10 | |
2002 | 4 | 2 | |
2003 | 9 | 5 | |
2004 | 16 | 17 | |
2005 | 9 | 4 | |
2006 | 6 | 2 | |
合計 | 148 | 109 |
10. 監督統計
アリ・ダエイの監督としてのキャリア統計を以下に示します。
チーム | 就任 | 退任 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗戦 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 | |||
サイパ | 2006年10月1日 | 2008年6月1日 | 67 | 27 | 21 | 19 | 77 | 69 | +8 | 40.3% |
イラン | 2008年3月1日 | 2009年3月30日 | 25 | 16 | 6 | 3 | 42 | 15 | +27 | 64.0% |
ペルセポリス | 2009年12月28日 | 2011年6月22日 | 64 | 33 | 14 | 17 | 94 | 71 | +23 | 51.6% |
ラーフ・アーハン | 2011年7月14日 | 2013年5月31日 | 69 | 21 | 25 | 23 | 80 | 79 | +1 | 30.4% |
ペルセポリス | 2013年6月1日 | 2014年9月10日 | 40 | 20 | 11 | 9 | 49 | 26 | +23 | 50.0% |
サバー・ゴム | 2015年7月1日 | 2016年7月3日 | 31 | 10 | 15 | 6 | 32 | 25 | +7 | 32.3% |
ナフト・テヘラン | 2016年7月5日 | 2017年5月13日 | 36 | 15 | 11 | 10 | 46 | 36 | +10 | 41.7% |
サイパ | 2017年5月14日 | 2019年5月1日 | 51 | 24 | 17 | 10 | 68 | 62 | +6 | 47.1% |
合計 | 380 | 161 | 119 | 100 | 484 | 377 | +107 | 42.4% |