1. 生涯
アルバート・ヒルは、その競技人生を通じて長距離走から中距離走へと転向し、第一次世界大戦を経験しながらも輝かしい功績を残した。
1.1. 出生と初期の背景
アルバート・ジョージ・ヒルは、1889年3月24日にロンドンのトゥーティングで生まれた。身長は1.78 m、体重は72 kgであった。彼は幼い頃から長距離走に興味を持ち、陸上競技選手としてのキャリアをスタートさせた。
1.2. 長距離走選手としての初期のキャリア
ヒルは当初、ロンドンのポリテクニック・ハリアーズに所属する長距離走選手として活動しており、その才能は早くから認められていた。1910年には、全英陸上競技選手権大会の4マイル競走で優勝を飾るなど、初期の陸上競技で顕著な成果を上げた。
1.3. 第一次世界大戦参戦と転向
第一次世界大戦が勃発すると、ヒルはイギリス陸軍航空隊(Royal Flying Corpsロイヤル・フライング・コープス英語)に所属し、フランスの西部戦線で軍務に就いた。戦争が競技活動を困難にする中で、彼のキャリアは一時中断された。戦後、彼は長距離走から中距離走へと転向することを決意した。この転向は、100メートル競走のオリンピック金メダリストであるレジー・ウォーカーやハロルド・エイブラハムスを指導したことで知られるサム・マサビーニ(Sam Mussabiniサム・マサビーニ英語)のコーチングによるものであった。
1.4. 戦後の成果と記録
中距離走への転向後、ヒルはすぐにその才能を開花させた。1919年の全英選手権では、880ヤード(約804 m)と1マイル競走(約1609 m)の両種目で国内タイトルを獲得した。特に1マイル競走では4分16秒8のイギリス記録を樹立した。また、1920年には1000ヤードで2分15秒0の自己ベストを記録した。翌年のオリンピック選考では、31歳という年齢から選考委員に「高齢すぎる」と判断され、一度は代表から落選しかける。しかし、最終的には出場が認められ、ベルギーのアントワープで開催される1920年アントワープオリンピックへの参加が決定した。
2. 1920年アントワープオリンピック
1920年アントワープオリンピックは、アルバート・ヒルにとってキャリアの頂点となる大会であった。彼はこの大会で2つの金メダルと1つの銀メダルを獲得し、その名を歴史に刻んだ。

2.1. 800m
アントワープオリンピックでヒルが最初に出場した800メートル競走の決勝は、非常に接戦となった。31歳のヒルは、アメリカのアール・エビー(Earl Ebyアール・エビー英語)を打ち破り、金メダルを獲得した。この時、彼は1分53秒4のイギリス新記録を樹立した。これは、当時のトラックの状態が決して良くなかったにもかかわらず達成された記録であり、彼の卓越した能力を示している。
2.2. 1500m
800メートル競走での勝利から2日後、ヒルは1500メートル競走にも出場し、再び金メダルを獲得した。この勝利により、彼は中距離種目での2冠を達成した。これは、イギリスの陸上競技選手としては初めての快挙であり、次にこの「ダブル」を達成するのは、84年後の2004年アテネオリンピックでケリー・ホームズ(Kelly Holmesケリー・ホームズ英語)が登場するまで待たれることになる。このレースでは、後にノーベル平和賞を受賞する同胞のフィリップ・ノエル=ベイカー(Philip Noel-Bakerフィリップ・ノエル=ベイカー英語)が2位に入り、ヒルの勝利を助けた。ヒルは4分01秒8の記録で、比較的楽に優勝を果たした。
2.3. 3000m団体競走
ヒルは個人種目だけでなく、3000メートル団体競走にも出場した。この種目では、イギリスチームの一員として銀メダルを獲得し、アントワープオリンピックでの3つ目のメダルを手にした。
3. 後期のキャリアと引退
オリンピックでの成功後も、ヒルはしばらく競技を続けたが、やがて選手生活に幕を下ろし、後進の指導に当たった。
1921年の全英選手権では、1マイル競走で再び優勝し、4分13秒8のイギリス記録を更新した。この記録は当時の世界記録からわずか1秒2差であり、アマチュア選手としては史上2番目に速いタイムであった。ヒルは1921年をもって選手としてのキャリアを終え、その後は自身がコーチとなった。彼の最も有名な教え子の一人には、シドニー・ウッダーソン(Sydney Woodersonシドニー・ウッダーソン英語)がいる。
4. カナダへの移住と死去
第二次世界大戦後、アルバート・ヒルはカナダへ移住した。彼は1969年1月8日にカナダのオンタリオ州ロンドンで79歳で死去した。
5. 功績と評価
アルバート・ヒルは、その競技人生とコーチとしての活動を通じて、イギリス陸上競技界に多大な貢献をした。彼の功績は高く評価されており、2010年にはイングランド陸上競技殿堂(England Athletics Hall of Fameイングランド・アスレティックス・ホール・オブ・フェイム英語)に殿堂入りを果たした。