1. 概要
イバン・グデリ(Ivan Gudeljクロアチア語、1960年9月21日生まれ)は、クロアチアの元サッカー選手で、ユーゴスラビア代表のミッドフィールダーとして活躍しました。才能豊かな選手でしたが、25歳(一部情報では26歳)で試合中に倒れ、B型肝炎と診断されたことで、その輝かしいキャリアは突然の終わりを迎えました。しかし、彼はその逆境を乗り越え、後に指導者としてサッカー界に貢献し続けました。グデリは現役時代に「ズミヤブチのベッケンバウアー」と称され、1982年にはユーゴスラビア年間最優秀サッカー選手賞を受賞するなど、その非凡な才能を高く評価されました。この記事では、彼の選手としての功績、突然の引退、そしてその後の指導者としての歩みを詳述します。
2. 幼少期と背景
イバン・グデリは、1960年9月21日にイモツキ郡で生まれ、その近郊にあるズミヤブチ村で幼少期を過ごしました。
2.1. 幼少期と初期の形成
幼い頃のグデリは、カトリックの司祭になることを考えていた時期もありました。また、彼は幼少期に、イバン・ラオスによる小説を原作とし、グデリの故郷ズミヤブチで撮影された1972年のユーゴスラビアのテレビドラマシリーズ『Prosjaci i sinovi乞食と息子たちクロアチア語』にエキストラとして出演した経験があります。撮影中のある逃走シーンでは、彼は他の子役たちよりも格段に速く走り、その際立った身体能力を見せつけました。
3. 選手経歴
イバン・グデリは、その短いながらも輝かしい選手キャリアにおいて、主に守備的ミッドフィールダーとして、その堅実で優雅なプレースタイルで名を馳せました。病による突然の引退は多くの人々に衝撃を与えましたが、彼の才能は記憶され続けています。
3.1. クラブ経歴
グデリの選手キャリアは、故郷ズミヤブチに近いルノビチ村のクラブ、NKムラチャイで始まりました。ここでは、後にサッカー界のスターとなるズボニミール・ボバンの父であるマリンコ・ボバンから指導を受けました。数年後、グデリはハイドゥク・スプリトに移籍し、1976年から1986年までの期間で合計362試合に出場し、93ゴールを記録しました。彼はすぐに信頼できる、そして優雅な守備的ミッドフィールダーとしての評価を確立し、ユーゴスラビアのメディアからは「ズミヤブチのベッケンバウアー」という愛称で呼ばれるようになりました。
しかし、この新星のキャリアは突然の健康問題により終わらざるを得ませんでした。グデリはB型肝炎を患い、選手生活の引退を余儀なくされました。26歳だった彼は、1986-87シーズンのリーグ開幕戦である1986年9月23日のレッドスター・ベオグラード戦が、彼の最後の試合となりました。この時、フランスの強豪クラブであるジロンダン・ボルドーとの仮契約も進んでいましたが、病気のためその契約は実現することはありませんでした。
3.2. 代表経歴
イバン・グデリは、ユース年代からA代表まで、ユーゴスラビアのナショナルチームで重要な役割を果たし、国際舞台でもその才能を発揮しました。
3.2.1. ユース代表
1979年、18歳になったグデリは、多忙な夏を過ごしました。まず同年6月には、オーストリアのウィーンで開催されたUEFAヨーロッパU-18サッカー選手権にユーゴスラビア代表として出場し、決勝でブルガリアを破り優勝に貢献しました。この大会でグデリは最優秀選手に選出されるという栄誉を獲得しました。
その後、同年8月には、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権にユーゴスラビア代表の一員として参加しました。この大会では、当時18歳のディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンと同じ厳しいグループに入り、ユーゴスラビアは次のステージに進むことはできませんでした。
3.2.2. A代表
グデリのユース年代での目覚ましい活躍は、A代表監督のミルヤン・ミルヤニッチの目に留まり、翌年にはA代表に招集されました。1980年9月、ルクセンブルクとの1982 FIFAワールドカップ予選で、彼は85分にゾラン・ブヨビッチとの交代で出場し、ユーゴスラビア代表としてA代表デビューを果たしました。
グデリはすぐにミルヤニッチ監督のお気に入りとなり、21歳という若さでナショナルチームの主将を務めることになりました。最終的に、彼は代表戦に33試合出場し、3ゴールを記録しました。彼は1982 FIFAワールドカップとUEFA EURO 1984にも出場しました。その優れたパフォーマンスが評価され、フランスのサッカー専門誌『L'Équipeフランス語』は、彼を1982 FIFAワールドカップの理想的なチームの一員として選出しました。彼の最後の代表戦は、1986年5月にベルギーと対戦した親善試合でした。また、彼は1982年にユーゴスラビア年間最優秀サッカー選手賞を受賞しました。
4. 監督経歴
イバン・グデリは、1990年に指導者の道を歩み始めました。彼は監督として、クロアチアの聖職者代表チームや士官候補生代表チームを指導しました。後者では、イングランドで開催された2001年のユーロチャンピオンシップで銅メダルを獲得しました。このチームには、後に著名な選手となるニコ・クランチャルも含まれていました。
その後、彼は様々なクラブチームの監督を歴任しました。彼はストブレチのプリモラツを率いてクロアチアのトップリーグに昇格させました。また、クリスのウスコク、ザダル、ドゥブロヴニク、オーストリアのクラブであるフォアヴェルツ・シュタイアー、そしてハイドゥク・スプリト(2005年にミロスラフ・ブラジェビッチの後任として)でも指揮を執りました。ハイドゥクの監督に就任する前には、クロアチアU-17代表チームの監督を務め、イタリアで開催された2005 UEFAヨーロッパU-17選手権で4位入賞という成功を収めました。
5. 栄誉
イバン・グデリは、その選手キャリアにおいて数々の栄誉に輝きました。
- 選手としての栄誉**
- HNKハイドゥク・スプリト|ハイドゥク・スプリト**
- ユーゴスラビアカップ: 1983-84
- 個人受賞**
- 1979 UEFA欧州U-18選手権 最優秀選手
- 1982 FIFAワールドカップ 『L'Équipeフランス語』選出理想的チーム
- ユーゴスラビア年間最優秀サッカー選手賞: 1982
- HNKハイドゥク・スプリト|ハイドゥク・スプリト**
6. 評価と影響
イバン・グデリの選手キャリアは、B型肝炎という不運な病によって25歳(または26歳)で突然の終わりを告げました。絶頂期にあった彼のキャリアが強制的に中断されたことは、サッカー界に大きな衝撃を与え、多くの人々にとって悲劇と見なされました。特に、彼が病気で倒れた後には、一部の人々が感染を恐れて彼に手を差し伸べることさえためらったという悲しい現実があり、これは彼の人生に深い影響を与えました。ボルドーとの移籍話が具体化していた中での引退は、彼がもし選手生活を続けていれば、世界的なスター選手として更なる高みに到達していた可能性を強く示唆しています。
しかし、この予期せぬ引退にもかかわらず、グデリは「ズミヤブチのベッケンバウアー」というニックネームや、1982年のユーゴスラビア年間最優秀サッカー選手賞受賞、1982 FIFAワールドカップでの『L'Équipeフランス語』による理想的チームへの選出など、その非凡な才能と功績は後世に語り継がれています。彼の選手としての才能は、病によってキャリアが短縮された事実を上回るほど強烈な印象を残しました。
選手引退後、彼は指導者として新たな道を歩み、クロアチアのサッカー発展に貢献し続けました。彼の物語は、才能あるアスリートが予期せぬ困難に直面した時、どのように人生を再構築し、異なる形で情熱を追求できるかを示す好例となっています。グデリは、逆境にも屈せず、自己の能力を最大限に発揮し続けた人物として、サッカーファンや多くの人々に記憶されています。