1. 初期生い立ちとキャリア
エクトル・スカローネは1898年11月26日、ウルグアイのモンテビデオで生まれた。彼の兄であるカルロス・スカローネもまた、ナシオナルの伝説的な選手として知られている。
スカローネは15歳の時、身長が1.69 mと小柄で、足が細いという理由でナシオナルへの入団を一度拒否された。しかし、その1年後には入団が認められ、まずはリザーブチームに配属された。彼はリザーブチームでわずか5試合に出場しただけで、その実力を認められトップチームへと昇格を果たした。1917年にはトップチームでデビューし、この年、早くもプリメーラ・ディビシオンでのリーグ優勝を経験した。
2. 選手としてのキャリア
エクトル・スカローネは、その卓越した技術と得点能力で、クラブと代表の両方で目覚ましいキャリアを築き上げた。
2.1. クラブキャリア
スカローネの選手キャリアの大部分は、ウルグアイの強豪ナシオナルで過ごされた。彼はナシオナルで合計20年間プレーし、369試合に出場して301得点を記録した。これは、クラブ史上2番目に多い得点数である。また、ウルグアイ・プリメーラ・ディビシオンでは通算163得点を挙げ、歴代3位の記録を保持している。ナシオナルでは、プリメーラ・ディビシオンで8回(1916年、1917年、1919年、1920年、1922年、1923年、1924年、1934年)の優勝を経験するなど、合計21もの公式タイトルを獲得した。

1926年にはバルセロナへ移籍し、1926年から1927年のシーズンにかけて18試合に出場し17得点を挙げた。この期間にはコパ・デル・レイで優勝を果たしている。しかし、本人の希望によりわずか1年でウルグアイに帰国し、再びナシオナルに復帰した。
その後、1931年にはイタリアのインテル・ミラノ(当時の名称はASアンブロシアーナ=インテル)に移籍し、14試合で7得点を記録した。1932年にはパレルモへ移籍し、1934年までの2シーズンで54試合に出場し13得点を挙げた。
1934年のシーズン途中、彼は再び古巣のナシオナルに復帰。この復帰初年度に、自身にとって8度目となるリーグ優勝をクラブにもたらした。この時すでに36歳であったが、彼のプレーに衰えは見られず、41歳で現役を引退する最後の年までゴールを記録し続けた。
2.2. 代表キャリア
エクトル・スカローネは1917年から1930年までウルグアイ代表に選出され、52試合に出場し31得点を記録した(このうち21得点は非公式試合での記録)。
彼は南米選手権で4度の優勝(1917年、1923年、1924年、1926年)に貢献した。特に1917年の大会では、19歳にしてアルゼンチンとの決勝戦で決勝ゴールを挙げ、ウルグアイを優勝に導いた。これは彼の代表での4試合目であった。
また、オリンピックサッカーでは、FIFAワールドカップが開催される以前の世界選手権として認識されていた1924年パリ大会と1928年アムステルダム大会で金メダルを獲得した。
そして、1930年にウルグアイで開催された初代FIFAワールドカップでも主力選手として活躍し、優勝をもたらした。1930年7月21日のルーマニア戦でゴールを決め、19世紀生まれの選手としてワールドカップ本大会で得点した最後の選手となった。
彼の代表での31得点という記録は、2011年にディエゴ・フォルランによって更新されるまで、80年以上にわたりウルグアイ代表の最多得点記録として保持された。
2.3. プレースタイルと評価
エクトル・スカローネは、その並外れたボール捌きと創造性から、「El Mago魔法使いスペイン語」と呼ばれた。また、「Gardel del Fútbolサッカーのカルロス・ガルデルスペイン語」という愛称も持っていた。当時の身長は1.69 mと決して大柄ではなかったが、その卓越した技術と得点能力は、彼を同時代において世界最高の選手の一人と見なさせた。彼のプレーは、ウルグアイサッカーの黄金期を象徴するものであった。
2.4. 個人成績
エクトル・スカローネは、クラブと代表の両方で輝かしい得点記録を残した。
- クラブ総計**: 369試合出場、301得点(ナシオナルでの記録)
- 代表総計**: 52試合出場、31得点(ウルグアイ代表での記録)
- ウルグアイ代表での得点記録**
# | 日付 | 開催地 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1917年10月7日 | パルケ・ペレイラ, モンテビデオ, ウルグアイ | ブラジル | 1-0 | 4-0 | 1917 南米選手権 |
2. | 1917年10月14日 | パルケ・ペレイラ, モンテビデオ, ウルグアイ | アルゼンチン | 1-0 | 1-0 | |
3. | 1918年7月28日 | パルケ・ペレイラ, モンテビデオ, ウルグアイ | アルゼンチン | 1-0 | 3-1 | 1918 コパ・プレミオ・オノール・ウルグアージョ |
4. | 1919年5月13日 | エスタジオ・ダス・ラランジェイラス, リオデジャネイロ, ブラジル | アルゼンチン | 2-0 | 3-2 | 1919 南米選手権 |
5. | 1919年7月18日 | パルケ・ペレイラ, モンテビデオ, ウルグアイ | アルゼンチン | 1-0 | 4-1 | 1919 コパ・プレミオ・オノール・ウルグアージョ |
6. | 3-0 | |||||
7. | 1919年9月17日 | エスタディオ・ヒムナシア・イ・エスグリマ, ブエノスアイレス, アルゼンチン | アルゼンチン | 1-0 | 2-1 | 1919 コパ・リプトン |
8. | 2-0 | |||||
9. | 1919年12月7日 | パルケ・ペレイラ, モンテビデオ, ウルグアイ | アルゼンチン | 3-1 | 4-2 | 1919 トロフェオ・シークラール |
10. | 1920年7月18日 | エスタディオ・グラン・パルケ・セントラル, モンテビデオ, ウルグアイ | アルゼンチン | 1-0 | 2-0 | 1920 コパ・プレミオ・オノール・ウルグアージョ |
11. | 1923年11月4日 | エスタディオ・グラン・パルケ・セントラル, モンテビデオ, ウルグアイ | パラグアイ | 1-0 | 2-0 | 1923 南米選手権 |
12. | 1924年5月26日 | スタッド・オリンピック・イヴ=デュ=マノワール, コロンブ, フランス | ユーゴスラビア王国 | 2-0 | 7-0 | 1924年夏季オリンピック |
13. | 1924年5月29日 | スタッド・ベルジェール, パリ, フランス | アメリカ合衆国 | 2-0 | 3-0 | |
14. | 1924年6月1日 | スタッド・オリンピック・イヴ=デュ=マノワール, コロンブ, フランス | フランス | 1-0 | 5-1 | |
15. | 2-1 | |||||
16. | 1924年6月6日 | スタッド・オリンピック・イヴ=デュ=マノワール, コロンブ, フランス | オランダ | 2-1 | 2-1 | |
17. | 1926年10月17日 | エスタディオ・カンポス・デ・スポルツ・デ・ニュニョア, サンティアゴ, チリ | チリ | 3-0 | 3-1 | 1926 南米選手権 |
18. | 1926年10月28日 | エスタディオ・カンポス・デ・スポルツ・デ・ニュニョア, サンティアゴ, チリ | ボリビア | 1-0 | 6-0 | |
19. | 2-0 | |||||
20. | 3-0 | |||||
21. | 4-0 | |||||
22. | 6-0 | |||||
23. | 1927年8月29日 | エスタディオ・ミニストロ・ブリン・イ・センゲル, ブエノスアイレス, アルゼンチン | アルゼンチン | 1-0 | 1-0 | 1927 コパ・リプトン |
24. | 1927年11月6日 | エスタディオ・ナシオナル, リマ, ペルー | ボリビア | 9-0 | 9-0 | 1927 南米選手権 |
25. | 1927年11月20日 | エスタディオ・ナシオナル, リマ, ペルー | アルゼンチン | 1-0 | 2-3 | |
26. | 2-2 | |||||
27. | 1927年12月10日 | ビニャ・デル・マール, チリ | チリ | 3-2 | 3-2 | 親善試合 |
28. | 1928年5月30日 | オリンピックスタジアム, アムステルダム, オランダ | オランダ | 1-0 | 2-0 | 1928年夏季オリンピック |
29. | 1928年6月7日 | オリンピックスタジアム, アムステルダム, オランダ | イタリア | 3-1 | 3-2 | |
30. | 1928年6月13日 | オリンピックスタジアム, アムステルダム, オランダ | アルゼンチン | 2-1 | 2-1 | 1928年夏季オリンピック金メダル決定戦再試合 |
31. | 1930年7月21日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ, ウルグアイ | ルーマニア | 2-0 | 4-0 | 1930 FIFAワールドカップ |
2.5. 受賞歴
エクトル・スカローネは、選手として数多くのタイトルと個人賞を獲得した。
- クラブタイトル**
- ナシオナル
- プリメーラ・ディビシオン (8): 1916, 1917, 1919, 1920, 1922, 1923, 1924, 1934
- コパ・オノール (2): 1916, 1917
- コパ・コンペテンシア (3): 1919, 1921, 1923
- コパ・アルビオン (1): 1919
- コパ・レオン・ペイロウ (1): 1920
- トルネオ・コンペテンシア (1): 1934
- コパ・デ・オノール・コウセニエール (2): 1916, 1917
- コパ・アルダオ (3): 1916, 1919, 1920
- バルセロナ
- コパ・デル・レイ (1): 1926
- 代表タイトル**
- ウルグアイ代表
- 南米選手権 (4): 1917, 1923, 1924, 1926
- オリンピックサッカー金メダル (2): 1924, 1928
- FIFAワールドカップ (1): 1930
- 個人賞**
- IFFHS ウルグアイ男子ドリームチーム
- 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀世界最優秀選手40位 (1999年)
- ウルグアイ代表
- ナシオナル
3. 監督としてのキャリア
現役引退後、エクトル・スカローネはサッカー指導者の道に進んだ。
彼はミジョナリオスの創設以来2代目の監督を務め、アマチュアチームであった1947年から1948年まで指揮を執った。1950年代には、古巣のナシオナル(1954年)や、スペインの強豪レアル・マドリード(1951年から1952年)の監督を歴任した。レアル・マドリードでは、1シーズン目に9位、2シーズン目に3位という成績を残している。また、ウルグアイ代表の監督も経験した他、デポルティーボ・キトの監督も務めた。
4. 死去
エクトル・スカローネは1967年4月4日、68歳で故郷のモンテビデオで死去した。彼はナシオナルの試合を観戦した後に息を引き取ったという。
彼の死に際し、ウルグアイ代表のチームメイトであったホセ・ナサシは、スカローネの葬儀で「我々は若く、勝者であり、団結していた...我々は不死身だと信じていた」と語り、その功績と絆を偲んだ。
5. 遺産と影響力
エクトル・スカローネは、ウルグアイサッカーの歴史において最も偉大な選手の一人として記憶されている。彼の卓越したボールコントロールと得点能力は、当時のサッカー界に大きな影響を与え、「魔法使い」と称されるほどの才能を持っていた。
彼は、オリンピックサッカーでの2つの金メダルと、初のFIFAワールドカップ優勝という、ウルグアイサッカーの黄金時代を築き上げた中心人物であった。特に、ワールドカップ創設以前のオリンピックサッカーが世界選手権として認識されていた時代において、3度の世界タイトルを獲得したことは、彼の歴史的な重要性を際立たせている。
また、ウルグアイ代表での通算31得点という記録を80年以上にわたって保持し続けたことは、彼の得点能力がいかに傑出していたかを物語っている。スカローネの功績は、ウルグアイの国民的誇りの象徴であり、後世のサッカー選手たちにも多大な影響を与え続けている。