1. 生涯
オリビエ・パニスの幼少期からキャリア形成に至るまでの個人的な背景、家族構成、そしてモータースポーツとの関わりについて詳述する。
1.1. 幼少期と家族
オリビエ・ジャン・ドニ・マリー・パニスは、1966年9月2日にフランスのリヨン西部にあるウラン地区で生まれた。父のジャン・パニスはモータースポーツ愛好家でドーナツパン職人であり、1960年代にはクラシックF1フェラーリでヒルクライムレースに出場する傍ら、カートレース場とカートチームを運営していた。
オリビエはアンと12年間の交際期間を経て、息子オーレリアンが生まれた後の1996年1月に結婚した。彼らには3人の子供がいる。妻のアンもかつてカートレーサーであり、フランス選手権で4位に入賞するほどの速さを持っていたが、パニスは「彼女の走りはクレイジーすぎて、デカいクラッシュも多かった」とユーモラスに語っている。
1.2. 少年時代の経験
パニスは10歳から父の指導でレーシングカートの練習を始めた。しかし、当時の彼にとって第一目標はプロサッカー選手になることであり、300人の応募者がいた強豪ユースチームのセレクションで9人の合格者の中に入るなど、その力量は高かった。サッカーの他に、自宅には自転車競技やボクシングのサンドバッグなどのトレーニング器具があり、スポーツに囲まれた環境で育った。
16歳で学校を卒業した後、彼は地元の「普通のガレージ」で約3年間メカニックとして勤務した。18歳になると父に四輪レースを本格的にやりたいと話したが、父は「もう一年カートで腕を磨け」と指示し、125ccのカートで徹底的にマシンコントロールを叩き込まれた。
2. ジュニア・フォーミュラ・キャリア
カートでの初期の成功から、フォーミュラ・ルノー、フォーミュラ3、そして国際F3000選手権でのチャンピオン獲得に至るまでのオリビエ・パニスの下位カテゴリーでのキャリアと主要な成果を追う。
2.1. カートおよび初期レース
パニスはフランスのカート界で60勝以上を挙げ、地方大会や国内大会では順調に勝利を重ねた。しかし、世界選手権ではメカニカルトラブルに見舞われ結果を残せず、「あきらめようと思ったことも何度かあったし、別の仕事も考えた」と語っている。
自身のレースキャリアで最も大きな分岐点だったと語る「ボラン・エルフ」のレースで勝利し、フランスのオイルメーカー、エルフ賞を受賞した。これにより、エルフからのサポートを受けながらフォーミュラ・ルノーに参戦するチャンスを得た。
2.2. フォーミュラ・ルノーとフォーミュラ3
エルフのサポートを受けて参戦したフォーミュラ・ルノーでは、1989年にチャンピオンを獲得した。
1990年にはフランスF3選手権へステップアップ。2年目の1991年シーズンには5勝を挙げ、ランキング2位に入った(チャンピオンはクリストフ・ブシュー)。
2.3. 国際F3000選手権
1992年、パニスはアポマトクスにエマニュエル・コラールのチームメイトとして加入し、国際F3000選手権へとステップアップした。劣勢のローラ・T92での参戦だったにもかかわらず、2度の表彰台を獲得し、ランキング10位に入った。
1993年にはDAMSへと移籍し、レイナード製のシャシーを得たことで才能が開花した。デビッド・クルサード、ペドロ・ラミー、ジル・ド・フェランといったライバルたちとの激しい争いを勝ち抜き、シーズン3勝を挙げて国際F3000シリーズチャンピオンを獲得した。この実績によりスーパーライセンスの資格を得て、F1の母国チームであるリジェへの加入が決定した。
3. フォーミュラ1 (F1) キャリア
オリビエ・パニスのF1における10年以上にわたるドライバーとしてのキャリアを、所属チームごとの詳細な活動と主要な成績を交えて記述する。
3.1. リジェ時代 (1994-1996)
1994年、開幕戦ブラジルGPでF1デビューを果たした。この年はオーナー逮捕などの混乱があり、マシン開発が停滞したものの、ドイツGPで2位に入り、初の入賞と表彰台を記録した。最終的に計3回の入賞を果たし、チームメイトのエリック・ベルナールをシーズンを通して上回った。16戦中15レースで完走する高い安定感を見せた(第13戦ポルトガルGPでは完走したが、スキッドブロック規定違反で失格)。F1デビュー当時は英語が苦手で、記者会見には通訳を同伴していた。

1995年シーズンは新たに無限ホンダエンジンを搭載した。最終戦オーストラリアGPでは、首位を走るデイモン・ヒルから2周遅れながらも2位を走行中に車両から白煙を吹いたが、最後までマシンを労わりながら走行し、2位表彰台を獲得した。この他にも2度の4位を記録するなど、この年は16ポイントを獲得し、ランキング8位となった。
1996年、リジェの資金繰りが悪化し、マシンも前年の改良型を使用するなど苦しい戦いを強いられたが、過酷なサバイバルレースとなったモナコGPで、14番手スタートから優勝を飾った。これはパニスのF1キャリアで唯一の勝利であるとともに、リジェにとってF1での最終勝利、そして無限エンジンにとってのF1初優勝でもあった。レースは2時間の時間制限により78周中75周で終了し、パニスはデビッド・クルサードの追撃を抑えきって勝利した。この勝利は、フランス人ドライバーがフランス製のマシンでモナコGPを制した66年ぶりの快挙であった。しかし、この優勝が1996年シーズンの唯一のハイライトとなり、それ以外のレースではハンガリーGPの5位が最高位であった。
3.2. プロスト・グランプリ時代 (1997-1999)
1997年、リジェがアラン・プロストに買収され「プロスト・グランプリ」に改称された後も、パニスはエースドライバーとしてチームに残留した。この年から新規参入したブリヂストンタイヤのユーザーとしては最も競争力があり、第2戦ブラジルGPで3位、第6戦スペインGPで2位に入るなど好調を維持した。カナダGP開幕時点ではランキング3位につけていたが、同グランプリの決勝レース中にコンクリートウォールに激突し両足を骨折する大事故に見舞われ、シーズン後半の7レースを欠場することとなった。彼の代役はヤルノ・トゥルーリが務めた。シーズン終盤のルクセンブルクGPから復帰し、最終3レースに参戦。ルクセンブルクGPでは6位入賞を果たし、事故からの完全回復を示した。半分のレースを欠場したにもかかわらず、16ポイントを獲得しランキング9位となった。

1998年、プロストに残留したが、新たにプジョーエンジンを搭載したマシンの競争力が低く、苦しいシーズンを強いられた。この年はパニスにとってF1キャリアで唯一のシーズンノーポイントに終わり、チームとしてもチームメイトのヤルノ・トゥルーリが獲得した1ポイントのみという結果に終わった。
1999年、プロストから引き続き参戦。前年よりは改善が見られたものの、マシンの競争力には依然として苦しんだ。フランスGPでは予選3位、日本GPでは予選6位を記録し、決勝では一時3位を走行する場面も見られたが、シーズンを通じてはトゥルーリに遅れを取る場面が目立ち、獲得ポイントは2にとどまった。この年限りでリジェ時代を含め6年間過ごしたプロストを離脱し、翌2000年のシートを確保できず浪人生活を送ることとなった。
3.3. マクラーレン テストドライバー (2000)
ウィリアムズからオファーがあったものの、1年間の単年契約だったことにパニスが難色を示し、破談となった。一方、マクラーレンは増大するテストワークのドライバー負荷を分散するため、2000年シーズンにサードドライバーの採用を決定し、シートが決まっていなかったパニスに就任をオファーした。レースの出場機会はなくなるものの、テスト走行の機会が多いことと、トップチームに所属するメリットを考慮してパニスはマクラーレンと契約した。
マクラーレン首脳陣は、経験豊富で速さがあり、フィードバックや開発能力が高いパニスを高く評価した。ミカ・ハッキネンやデビッド・クルサードといったレギュラードライバーたちもパニスの貢献度を賞賛し、これにより彼のドライバーとしての価値が再び高まることとなった。チームは破格の条件を提示して残留を促したが、パニスはレース出場を強く望み、移籍を決断した。
3.4. B.A.R.時代 (2001-2002)

マクラーレンでの働きが評価され、2001年からB・A・Rのレギュラードライバーとして契約した。しかし、マシンの戦闘力不足に苦しみ、2年間で入賞はわずか4回にとどまった。最高位は2001年ブラジルGPでの4位であった。2001年オーストラリアGPでは当初4位でフィニッシュしたが、黄旗無視のペナルティにより7位に降格した。2002年限りでB・A・Rを離脱した。
3.5. トヨタ時代 (2003-2004)

2003年、2003年からトヨタへ移籍。2年目のチームに経験と知識を提供し、新人チームメイトのクリスチアーノ・ダ・マッタを助ける役割を担った。開幕戦オーストラリアGPでは予選5位を獲得するも決勝は燃圧トラブルでリタイア。続くマレーシアGPでも燃圧トラブルでリタイア、ブラジルGPではジョーダンのラルフ・ファーマンのサスペンショントラブルに巻き込まれる形でリタイアと、序盤は不運が続いた。第4戦サンマリノGPでようやく9位完走を果たした。第8戦カナダGPで8位入賞、第10戦フランスGPで自身初の地元入賞(8位)、そして第12戦ドイツGPではチームにとって当時最高位となる5位入賞を果たし、ダ・マッタと共にダブル入賞を記録した。最終的にこの年は6ポイントを獲得し、ドライバーズランキングは15位となった。
2004年、2004年もトヨタに残留し、F1キャリア10年目のシーズンを迎えた。マシンの戦闘力不足により開幕から苦戦が続いたが、第6戦モナコGPではクラッチトラブルでピットスタートを余儀なくされながらも、完走10台というサバイバルレースでシーズン初の8位入賞を果たした。第9戦アメリカGPではセッティングが的中し、シーズン最高位となる5位入賞を記録した。シーズン途中で改良型のTF104Bが投入されたが、パフォーマンスは大きく改善されず、入賞は第14戦ベルギーGPのみであった。同年10月、日本GPをもってレギュラードライバーを引退することを発表した。この時点で37歳であり、当時F1で最も高齢の現役ドライバーであった。
F1引退後もトヨタとの関係は続き、2005年と2006年にはテストドライバーを務めた。2005年シーズン開幕当初のレギュレーションでは金曜フリー走行に参加する資格を有していなかったが、規定変更により、フランスGPのみリカルド・ゾンタに代わり第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走した。2006年9月18日、F1から完全に引退し、他のカテゴリーでのレース活動に専念することを発表した。彼のF1テストドライバーとしての最後の走行は、2006年12月14日にスペインのヘレスで行われた。
3.6. F1キャリアの総括
パニスは優れたレースクラフトで高く評価されていた。ミカ・ハッキネンなどからも、F1界で最高のテストドライバーの一人として見なされており、彼がマクラーレンのテストチームを離れてフルタイムのドライバーに戻った際には、ハッキネンは特に残念がったという。
彼はF1で3つの日本製エンジンメーカー(無限ホンダ、ホンダ、トヨタ)を経験した数少ないドライバーの一人である(他にヤルノ・トゥルーリとミカ・サロ)。F1に現役参戦していた時期から、自身も若き日に学んだフランスの「ウィンフィールド・レーシングスクール」でコーチとして授業を受け持ち、フランスの若手レーサー育成に心を配っていた。
1996年のモナコGPでの優勝は、その後24年間、2020年イタリアグランプリでピエール・ガスリーが優勝するまで、フランス人ドライバーによるF1優勝はなかった。
4. F1引退後のキャリア
F1引退後もモータースポーツの世界で活動を続けたオリビエ・パニスの多様なキャリアを網羅する。
4.1. スポーツカーレース
2008年、オレカと契約し、ル・マン・シリーズでLMP1クラスのスポーツカーレースに転向した。彼はル・マン・シリーズやアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦し、2011年のセブリング12時間レースではプジョー・908 HDi FAPを駆って優勝を飾った。ル・マン24時間レースには4度参戦し、2009年と2011年には総合5位を記録している。
2016年には元サッカーフランス代表のファビアン・バルテズと共に自身のスポーツカーレーシングチーム「Panis Barthez Competition」を設立した。チームはヨーロピアン・ル・マン・シリーズやブランパンGTシリーズに参戦し、テック1レーシングの運営下で活動した。バルテズは2019年末にチームを離れた。その後、「Panis Racing」として、ル・マン24時間レースのLMP2クラスで2020年と2021年に2年連続で表彰台を獲得した。2024年にはTDSレーシングが運営パートナーとなり、マルクVDSとのスポンサー契約も締結した。
4.2. その他のレース活動
2007年から2008年シーズンにかけては、A1グランプリのA1チーム・フランスのスポーティングディレクターとして指揮を執った。
氷上レースであるアンドロス・トロフィーにも参戦し、50代を越えた現在も現役で活動を続けている。2018年には同トロフィー史上初めて、ガソリン車を相手にEVで勝利を収めたドライバーとなった。彼はイギリスの人気自動車番組『トップ・ギア』のエピソードに出演し、氷上レースでチームと対決した際には、番組の冒頭でユーモラスに「フランスで2番目に優れたレーシングドライバー」と紹介された(おそらくアラン・プロストに次ぐという意味)。
4.3. チームオーナーおよびマネジメント
2016年にファビアン・バルテズと共に自身のスポーツカーレーシングチーム「Panis Barthez Competition」を設立し、運営に携わった。
また、母国の後輩ドライバーのマネージメントも行っており、2012年にF1デビューしたシャルル・ピックのマネージャーとしても活動した。
5. 個人的な側面
オリビエ・パニスの私生活、家族関係、そしてレースキャリアに影響を与えた個人的な側面について掘り下げる。
5.1. 結婚と家族
妻のアンとは12年間の交際期間を経て、息子オーレリアンが生まれた後の1996年1月に正式に入籍した。パニスがアンと出会ったのはカート場で、彼女自身もカートレーサーとしてフランス選手権で4位に入るほどの速さを持っていた。しかし、パニスは「彼女の走りはクレイジーすぎて、デカいクラッシュも多かった」とユーモラスに語っている。彼らには3人の子供がおり、その中にはレーシングドライバーとして活躍する息子オーレリアン・パニスも含まれる。
6. エピソード
オリビエ・パニスのキャリアにまつわる興味深い逸話や、レース中の出来事、チームメイトとの関係、ファンとの交流などを紹介する。
- 地元での生活**: フランスの地元は山に囲まれた静かな環境で、街の人々が彼をF1レーサーと知っていても、自由に活動できて快適だと語っている。しかし、1995年シーズン終了後には、「ファンレターはドイツや日本、東ヨーロッパから多く送ってもらいうれしい。でも今年は地元フランスからは年間5通だったんだ。もう少し増えるよう頑張らないとね」と話し、さらに「日本やイタリアのファンの熱量はフランスではちょっと考えられないよ!鈴鹿やモンツァでファンに囲まれたときはとても驚いた。フランスであんなに囲まれちゃうことは無いからね」と、各国のファンの熱量の違いに驚きを表明している。
- 英語の上達**: F1参戦初期は英語が苦手だったが、無限ホンダエンジンのスタッフと共同作業をするようになった1995年頃から、無限のエンジニアとの英語での会話を通じてかなり上達したという。パニスはその理由を、「僕の英語もひどかったけど、無限の日本人スタッフの英語も母国語じゃないからゆっくりに聞こえたんだと思う。何を言ってるのか完璧に聞き取れたし、お互い英語に不自由しているからかえって何を伝えたいのか真剣に聞くし、面白い現象だったね」と語っている。
- 首の特訓**: F1デビューが決まると、父ジャンが考案した特製の重り付きヘルメットで首を訓練した。これは使い古しのヘルメットの両側に重りをぶら下げ、それを着用してカートで何時間もコースを走り続けるというもので、この特訓のおかげでF1デビュー戦でも首には全く問題が生じなかった。
- ペドロ・ディニスへの評価**: 1996年に多額のスポンサーマネーで注目されていたペドロ・ディニスがリジェにチームメイトとして加入した際、テスト初日を終えたパニスは「彼(ディニス)は言われてるほどひどいドライバーじゃないと今日見て思ったよ。みんな(ジャーナリスト)が思ってるよりいいドライバーだし、F1でポイントを取ることも可能だと思うよ」とコメントした。多くのジャーナリストがディニスのポイント獲得は不可能と考えていた中で、パニスの言葉通りディニスはこの年2度の6位以内入賞に成功し、レーサーとしての評価を上げた。パニスは公平な目で早くにその才能を指摘していた。
- 中野信治への配慮**: プロスト・グランプリが発足した1997年、チームの重要な議論が全てフランス語で行われるなど、チームメイトの中野信治(英語は堪能だがフランス語は苦手)はチーム内で冷遇を受けていた。パニスはライバルである中野への冷遇に心を痛め、「シンジにも彼が走りやすい環境を作ってやってほしい」とアラン・プロストに苦言を呈した。しかし、最後まで待遇改善は行われず、中野がプロスト・グランプリを去るシリーズ最終戦の終了後、パニスは「力になれなくて本当にすまなかった」と涙ながらに中野に詫びたという。2019年10月、WTCRに参戦している息子のオーレリアンのサポートで鈴鹿サーキットを訪れた際、中野と再会している。
- マクラーレンでの歓迎**: マクラーレンでの初テストの際、パニスのシートには事前に赤ワインとカマンベールチーズが置かれていた。スタッフの粋な歓迎に、パニスはとても喜んだという。
7. 評価と影響
レーシングドライバー、チームオーナー、そしてモータースポーツ界全体へのオリビエ・パニスの貢献と、その影響力について評価する。
レーシングドライバーとしてのパニスは、優れたレースクラフトを持ち、ミカ・ハッキネンからも「最高のテストドライバーの一人」と評されるなど、その技術は高く評価された。特に、F1で3つの日本製エンジンメーカー(無限ホンダ、ホンダ、トヨタ)を経験した数少ないドライバーの一人であることは、彼の適応能力と技術的な理解力の高さを示している。
若手育成への貢献も顕著であり、現役時代からフランスの「ウィンフィールド・レーシングスクール」でコーチを務めるなど、若手レーサーの育成に尽力してきた。F1引退後も、息子のオーレリアン・パニスやシャルル・ピックといった後進ドライバーのマネジメントを行い、フランスモータースポーツ界の発展に貢献している。
チームオーナーとしては、自身のレーシングチーム「Panis Racing」を設立し、ル・マン24時間レースで表彰台を獲得するなど、チーム運営者としても成功を収めている。彼のF1での唯一の勝利である1996年モナコグランプリでの優勝は、その後24年間、フランス人ドライバーによるF1優勝がなかったという点で、フランスモータースポーツ史における重要な節目となった。また、氷上レースのアンドロス・トロフィーでEV車でガソリン車に勝利するなど、多様なカテゴリーで挑戦を続け、その存在感を示している。
8. レース戦績一覧
オリビエ・パニスの主要なレースカテゴリーにおける戦績を統計的にまとめる。
| シーズン | シリーズ | チーム | レース | 勝利 | ポール | ファステストラップ | 表彰台 | ポイント | 順位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988 | Championnat de France Formule Renault Turbo | Ecurie Elf | 12 | 0 | 1 | 3 | 4 | 87 | 4th |
| 1989 | Championnat de France Formule Renault | Ecurie Elf | 13 | 5 | 4 | 2 | 9 | 127 | 1st |
| 1990 | French Formula Three | Elf Gitanes | 12 | 0 | 0 | 1 | 4 | 70 | 4th |
| Macau Grand Prix | Montagut Racing | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 12th | |
| 1991 | French Formula Three | La Filière Elf | 12 | 5 | 6 | 1 | 6 | 103 | 2nd |
| 1992 | International Formula 3000 | Apomatox | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 10 | 10th |
| 1993 | International Formula 3000 | DAMS | 9 | 3 | 2 | 2 | 4 | 32 | 1st |
| 1994 | Formula One | Ligier Gitanes Blondes | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 11th |
| 1995 | Formula One | Ligier Gitanes Blondes | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 16 | 8th |
| 1996 | Formula One | Ligier Gauloises Blondes | 14 | 1 | 0 | 0 | 1 | 13 | 9th |
| 1997 | Formula One | Prost Gauloises Blondes | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 16 | 9th |
| 1998 | Formula One | Gauloises Prost Peugeot | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC |
| 1999 | Formula One | Gauloises Prost Peugeot | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 15th |
| 2000 | Formula One | West McLaren Mercedes | テストドライバー | ||||||
| 2001 | Formula One | Lucky Strike BAR Honda | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 14th |
| 2002 | Formula One | Lucky Strike BAR Honda | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 14th |
| 2003 | Formula One | Panasonic Toyota Racing | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 15th |
| 2004 | Formula One | Panasonic Toyota Racing | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 14th |
| 2005 | Formula One | Panasonic Toyota Racing | テストドライバー | ||||||
| 2006 | Formula One | Panasonic Toyota Racing | テストドライバー | ||||||
| 2008 | Le Mans Series | Team Oreca-Matmut | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 12th |
| Porsche Carrera Cup France | Porsche France | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
| 24 Hours of Le Mans | Team Oreca-Matmut | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
| 2009 | FFSA GT Championship | DKR Engineering | 12 | 4 | 0 | 3 | 8 | 243 | 3rd |
| Le Mans Series | Team Oreca-Matmut AIM | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 22 | 3rd | |
| 24 Hours of Le Mans | Team Oreca-Matmut AIM | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 5th | |
| FIA GT Championship | Solution F | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 24th | |
| 2010 | FFSA GT Championship | DKR Engineering | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 32 | 14th |
| Le Mans Series | Team Oreca-Matmut | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 39 | 8th | |
| FIA GT1 World Championship | Matech Competition | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 60th | |
| 24 Hours of Le Mans | Team Oreca-Matmut | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
| 2011 | FFSA GT Championship | Graff Racing | 14 | 0 | 1 | 1 | 1 | 75 | 7th |
| Intercontinental Le Mans Cup | Team Oreca-Matmut | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | NC | |
| American Le Mans Series | Team Oreca-Matmut | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | NC | |
| 24 Hours of Le Mans | Team Oreca-Matmut | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 5th | |
| Blancpain Endurance Series | Graff Racing | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 20th | |
| 2012 | FFSA GT Championship | SOFREV-ASP | 14 | 1 | 1 | 2 | 8 | 182 | 2nd |
| Blancpain Endurance Series | SOFREV-ASP | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 15 | 25th | |
| 2013 | FFSA GT Championship | Hexis Racing | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 40 | 15th |
| Blancpain Endurance Series | Hexis Racing | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
| 2014 | FFSA GT Championship | SOFREV-ASP | 14 | 0 | 0 | 0 | 3 | 125 | 5th |
| 2015 | FFSA GT Championship | Team AKKA ASP | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 109 | 6th |
| 2020 | FFSA GT Championship | CMR | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 43 | 8th |
8.1. フランス・フォーミュラ3選手権
| 年 | エントラント | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990年 | エキュリ・エルフ-ジタン | ダラーラ F390 | アルファロメオ | レドゥノン 2 | ノガロ 7 | マニクール 3 | ポー 2 | シャレード 7 | ルーアン 18 | ポール・リカール 3 | ディジョン 11 | アルビ 4 | マニクール 4 | ブガッティ Ret | クロワ=アン=テルノワ 10 | 4位 | 70 |
| 1991年 | La Filière Elf | ダラーラ F391 | ノガロ Ret | レドゥノン 8 | マニクール 1 | ポー 1 | ディジョン 8 | シャレード | ルーアン 2 | マニクール 7 | アルビ 1 | ブガッティ 6 | クロワ=アン=テルノワ 1 | アルノ 1 | 2位 | 103 |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
8.2. 国際F3000選手権
| 年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1992年 | アポマトクス | ローラ T92/50 | コスワース DFV | シルバーストン 3 | ポー Ret | カタロニア 7 | エンナ・ペルグーサ Ret | ホッケンハイム 20 | ニュルブルクリンク Ret | スパ・フランコルシャン Ret | アルバセテ Ret | ノガロ Ret | マニクール 2 | 10位 | 10 |
| 1993年 | DAMS | レイナード 93D | ドニントン 3 | シルバーストン 6 | ポー Ret | エンナ・ペルグーサ Ret | ホッケンハイム 1 | ニュルブルクリンク 1 | スパ・フランコルシャン 1 | マニクール 10 | ノガロ Ret | 1位 | 32 |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
8.3. F1
| 年 | エントラント | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | WDC | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994年 | リジェ | JS39B | BRA 11 | PAC 9 | SMR 11 | MON 9 | ESP 7 | CAN 12 | FRA Ret | GBR 12 | GER 2 | HUN 6 | BEL 7 | ITA 10 | POR DSQ | EUR 9 | JPN 11 | AUS 5 | 11位 | 9 | |||
| 1995年 | JS41 | BRA Ret | ARG 7 | SMR 9 | ESP 6 | MON Ret | CAN 4 | FRA 8 | GBR 4 | GER Ret | HUN 6 | BEL 9 | ITA Ret | POR Ret | EUR Ret | PAC 8 | JPN 5 | AUS 2 | 8位 | 16 | |||
| 1996年 | JS43 | AUS 7 | BRA 6 | ARG 8 | EUR Ret | SMR Ret | MON 1 | ESP Ret | CAN Ret | FRA 7 | GBR Ret | GER 7 | HUN 5 | BEL Ret | ITA Ret | POR 10 | JPN 7 | 9位 | 13 | ||||
| 1997年 | プロスト | JS45 | AUS 5 | BRA 3 | ARG Ret | SMR 8 | MON 4 | ESP 2 | CAN 11 | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | AUT | LUX 6 | JPN Ret | EUR 7 | 9位 | 16 | ||
| 1998年 | AP01 | AUS 9 | BRA Ret | ARG 15 | SMR 11 | ESP 16 | MON Ret | CAN Ret | FRA 11 | GBR Ret | AUT Ret | GER 15 | HUN 12 | BEL DNS | ITA Ret | LUX 12 | JPN 11 | NC | 0 | ||||
| 1999年 | AP02 | AUS Ret | BRA 6 | SMR Ret | MON Ret | ESP Ret | CAN 9 | FRA 8 | GBR 13 | AUT 10 | GER 6 | HUN 10 | BEL 13 | ITA 11 | EUR 9 | MAL Ret | JPN Ret | 15位 | 2 | ||||
| 2001年 | BAR | 003 | AUS 7 | MAL Ret | BRA 4 | SMR 8 | ESP 7 | AUT 5 | MON Ret | CAN Ret | EUR Ret | FRA 9 | GBR Ret | GER 7 | HUN Ret | BEL 11 | ITA 9 | USA 11 | JPN 13 | 14位 | 5 | ||
| 2002年 | 004 | AUS Ret | MAL Ret | BRA Ret | SMR Ret | ESP Ret | AUT Ret | MON Ret | CAN 8 | EUR 9 | GBR 5 | FRA Ret | GER Ret | HUN 12 | BEL 12 | ITA 6 | USA 12 | JPN Ret | 14位 | 3 | |||
| 2003年 | トヨタ | TF103 | AUS Ret | MAL Ret | BRA Ret | SMR 9 | ESP Ret | AUT Ret | MON 13 | CAN 8 | EUR Ret | FRA 8 | GBR 11 | GER 5 | HUN Ret | ITA Ret | USA Ret | JPN 10 | 15位 | 6 | |||
| 2004年 | TF104 | AUS 13 | MAL 12 | BHR 9 | SMR 11 | ESP Ret | MON 8 | EUR 11 | CAN DSQ | USA 5 | FRA 15 | GBR Ret | 14位 | 6 | |||||||||
| TF104B | GER 14 | HUN 11 | BEL 8 | ITA Ret | CHN 14 | JPN 14 | BRA | ||||||||||||||||
| 2005年 | TF105 | AUS | MAL | BHR | SMR | ESP | MON | EUR | CAN | USA | FRA TD | GBR | GER | HUN | TUR | ITA | BEL | BRA | JPN | CHN | - | - |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
8.4. インターコンチネンタル・ル・マン・カップ
| 年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2011年 | チーム・オレカ-マットムート | プジョー・908 HDi FAP | LMP1 | SEB 1 | SPA 10 | LMN 5 | IMO | SIL | PET | ZHU |
8.5. ル・マン24時間レース
| 年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2008年 | チーム・オレカ-マットムート | マルセル・フェスラー サイモン・パジェノ | クラージュ-オレカ LC70-ジャッド | LMP1 | 147 | DNF | DNF |
| 2009年 | チーム・オレカ-マットムート AIM | ニコラ・ラピエール ソエイル・アヤリ | オレカ・01-AIM | LMP1 | 370 | 5位 | 5位 |
| 2010年 | チーム・オレカ-マットムート | ニコラ・ラピエール ロイック・デュバル | プジョー・908 HDi FAP | LMP1 | 373 | DNF | DNF |
| 2011年 | ニコラ・ラピエール ロイック・デュバル | LMP1 | 339 | 5位 | 5位 |
8.6. GT1世界選手権
| 年 | チーム | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2010年 | Matech Competition | フォード GT1 | ABU QR | ABU CR | SIL QR | SIL CR | BRN QR | BRN CR | PRI QR 18 | PRI CR Ret | SPA QR | SPA CR | NUR QR | NUR CR | ALG QR | ALG CR | NAV QR | NAV CR | INT QR | INT CR | SAN QR | SAN CR | 60th | 0 |