1. Overview
金相鎬(김상호キム・サンホ韓国語、1964年10月5日生まれ)は、大韓民国出身の元サッカー選手であり、現在は指導者として活動する人物である。選手時代には主にポスコアトムズと全南ドラゴンズで守備的ミッドフィールダーとして活躍し、Kリーグの優勝やカップ戦でのタイトル獲得に貢献した。引退後は指導者の道に進み、韓国国内外のクラブチームや年代別代表チームで監督を務め、現在はカルビン大学サッカー部の監督を務めている。本稿では、彼の選手としての輝かしいキャリアと、その後の多岐にわたる監督としての活動、そしてサッカー界に残した功績と評価について詳細に記述する。
2. Early life
2.1. Birth and childhood
金相鎬は1964年10月5日に光州広域市で生まれた。幼少期の具体的な情報については多く知られていないが、サッカーに親しむ環境で育ち、後にプロサッカー選手としてのキャリアを歩むこととなる。
3. Playing career
金相鎬は、プロサッカー選手として、複数のクラブチームとサッカー大韓民国代表で活躍した。
3.1. Club career
3.1.1. Pohang Steelers (POSCO Atoms)
金相鎬は1987年にポスコアトムズ(現在の浦項スティーラース)に入団し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。1987年3月28日に行われた現代ホランイとのKリーグデビュー戦に出場。同年4月19日のラッキー金星ファンソ戦ではKリーグでの初ゴールを記録した。ポスコアトムズでは、1987年から1994年まで在籍し、リーグ戦149試合に出場し10得点を挙げた。この期間に、チームは1988年と1992年にKリーグ優勝を果たし、1987年にはKリーグ準優勝、1993年にはKリーグカップで優勝を飾るなど、数々のタイトルを獲得した。金相鎬自身も、1988年にはKリーグベストイレブンに選出されるなど、チームの中心選手として活躍した。
3.1.2. Chunnam Dragons
1995年、金相鎬は新設された全南ドラゴンズへ移籍した。全南ドラゴンズでは、1995年から1998年までプレーし、リーグ戦64試合に出場し2得点を記録した。ここでは、1997年にKリーグ準優勝、韓国FAカップで優勝、Kリーグカップで準優勝を経験し、チームの成功に貢献した後、現役を引退した。
3.2. International career
金相鎬はサッカー大韓民国代表としてもプレーした。1990年9月25日に北京で行われた1990年アジア競技大会のパキスタン戦では、2得点を挙げ、チームの7-0での勝利に貢献した。彼はこの大会で銅メダルを獲得した韓国代表チームの一員であった。
3.3. Player honors and awards
金相鎬の選手キャリアにおける主な栄誉と賞は以下の通りである。
- クラブタイトル**
- ポスコアトムズ**
- Kリーグ 優勝: 1988, 1992
- Kリーグ 準優勝: 1987
- Kリーグカップ 優勝: 1993
- 全南ドラゴンズ**
- Kリーグ 準優勝: 1997
- 韓国FAカップ 優勝: 1997
- Kリーグカップ 準優勝: 1997
- ポスコアトムズ**
- 個人賞**
- Kリーグベストイレブン: 1988(ミッドフィールダー)
- Kリーグオールスターゲーム出場: 1991
3.4. Career statistics (player)
金相鎬の選手時代のクラブキャリアにおける統計は以下の通りである。
クラブ成績 | リーグ戦 | カップ戦 | リーグカップ | 大陸別大会 | 通算 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
大韓民国 | リーグ | KFAカップ | リーグカップ | アジア | 通算 | |||||||||
1987 | ポスコアトムズ | Kリーグ | 29 | 3 | - | - | - | 29 | 3 | |||||
1988 | 15 | 0 | - | - | - | 15 | 0 | |||||||
1989 | 14 | 0 | - | - | - | 14 | 0 | |||||||
1990 | 22 | 2 | - | - | - | 22 | 2 | |||||||
1991 | 36 | 5 | - | - | - | 36 | 5 | |||||||
1992 | 9 | 0 | - | 0 | 0 | - | 9 | 0 | ||||||
1993 | 14 | 0 | - | 0 | 0 | - | 14 | 0 | ||||||
1994 | 10 | 0 | - | 0 | 0 | - | 10 | 0 | ||||||
1995 | 全南ドラゴンズ | 25 | 1 | - | 0 | 0 | - | 25 | 1 | |||||
1996 | 27 | 0 | ? | ? | 0 | 0 | - | 27 | 0 (不明) | |||||
1997 | 12 | 1 | ? | ? | 15 | 2 | - | 27 | 3 (不明) | |||||
1998 | 0 | 0 | ? | ? | 4 | 1 | ? | ? | 4 | 1 (不明) | ||||
通算 | 大韓民国 | 213 | 12 | 19 | 3 | 232 | 15 | |||||||
キャリア通算 | 213 | 12 | 19 | 3 | 232 | 15 |
4. Coaching career
選手引退後、金相鎬はサッカー指導者としての道を歩み始めた。
4.1. Coaching education and early roles
引退後、金相鎬は指導者としての専門的な教育を受けた。1998年にはイングランドに渡り、FAのコーチング「B」ライセンスを取得。また、ウィンブルドンFCで指導者としての研修も受けている。大韓民国に帰国後、彼は長年にわたり複数のチームでコーチを務めた。
4.2. Club coaching
金相鎬はプロクラブチームで監督としての経験を積んだ。
4.2.1. Gangwon FC
2011年から2012年にかけて、金相鎬は江原FCの監督を務めた。彼はチェ・スンホの後任としてチームを率い、2012年にはキム・ハクボムが後任として就任した。
4.2.2. Shanghai Shenxin
2015年12月5日、金相鎬は中国サッカー甲級リーグ(中国甲級リーグ)所属の上海申鑫と監督契約を締結した。この際、マイケル・キムが首席コーチ、キム・ボンジュがゴールキーパーコーチとして彼に帯同した。彼はリュウ・ジュンウェイの後任として監督に就任したが、チームの成績不振により、わずか数ヶ月後の2016年5月には監督を解任された。彼の後任にはギャリー・ホワイトが就任した。
4.2.3. Calvin University
現在、金相鎬はカルビン大学サッカー部の監督を務めている。
4.3. National team coaching
金相鎬は、大韓民国の年代別サッカー代表チームでも指導者として経験を積んだ。
4.3.1. South Korea U-20 National Team
2013年9月から2014年10月にかけて、金相鎬はサッカー大韓民国U-20代表チームの監督を務めた。彼はイ・グァンジョンの後任として就任し、アン・イクスが後任となった。彼はソ・ミョンウォン、キム・ヨンギュ、ペク・スンホといった選手を含むU-19代表チーム(当時のU-20代表はU-19の選手で構成されていた)を率いて、2014年AFC U-19選手権に臨んだ。初戦のベトナム戦では6-0で勝利し好調なスタートを切ったものの、次の中国戦では0-0の引き分け、そして日本戦では1-2で敗北を喫した。最終的に、1勝1分1敗の成績でグループリーグ3位となり、韓国U-20代表としては14年ぶりのグループリーグ敗退という結果に終わった。
5. Evaluation and legacy
金相鎬のサッカー界への貢献は、選手としての実績と指導者としての経験の双方から評価される。
5.1. Positive reception
選手としての金相鎬は、ポスコアトムズで2度のKリーグ優勝に貢献し、Kリーグベストイレブンにも選出されるなど、その実力は高く評価された。特にミッドフィールダーとして、チームの戦術の中核を担い、攻守にわたって安定したパフォーマンスを見せたことは、彼の選手としての貢献度を示すものである。また、国際舞台でも代表として活躍し、1990年アジア競技大会でのメダル獲得に貢献した。引退後も、海外での指導者教育を積極的に受け、その知識と経験を韓国サッカーに還元しようと努めるなど、サッカーに対する真摯な姿勢と情熱は高く評価されている。様々な世代やレベルのチームで指導経験を積んだことは、彼の指導者としての多様な能力と適応性を示している。
5.2. Criticism and controversies
金相鎬のキャリアには、批判的な視点や論争となった出来事も存在する。監督としてのキャリアにおいては、特に成績不振が指摘されることがあった。サッカー大韓民国U-20代表監督として指揮を執った2014年AFC U-19選手権では、期待されながらもグループリーグで敗退という結果に終わり、これはU-20代表にとって14年ぶりの早期敗退であったため、多くの批判を浴びた。また、中国の上海申鑫で監督を務めた際も、チームの成績不振が続き、短期間で解任されるに至った。これらの経験は、彼の指導者としての挑戦の中で、困難な局面もあったことを示している。