1. 初期生活と背景
サルバドール・ルリアは、科学者としてのキャリアを築き、アメリカへ移住するまでの初期段階で、ファシズム下のイタリアでの経験やナチス侵攻からの亡命といった激動の時代を経験した。
1.1. 幼少期と教育
ルリアは1912年8月13日、イタリアのトリノに、影響力のあるイタリア系ユダヤ人のセファルディムの家庭に生まれた。両親はダヴィデとエステル(サチェルドーテ)ルリアである。彼はトリノ大学の医学部に進学し、ジュゼッペ・レヴィの下で学んだ。この大学では、後にノーベル賞を受賞するリータ・レヴィ=モンタルチーニやレナート・ダルベッコとも出会った。1935年にトリノ大学を卒業したが、当時のイタリアの高等教育制度では修士号や博士号が一般的でなかったため、それらを取得することはなかった。1936年から1937年にかけて、ルリアはイタリア陸軍で衛生兵として兵役に服した。その後、ローマ大学で放射線医学の授業を受け、そこでマックス・デルブリュックの遺伝子を分子として捉える理論を知り、細菌に感染するウイルスであるバクテリオファージを用いて遺伝理論を検証する方法を考案し始めた。
1.2. ヨーロッパからの移住
1938年、ルリアはアメリカ合衆国で研究するためのフェローシップを獲得し、デルブリュックとの共同研究を計画していた。しかし、フェローシップ受賞直後、ベニート・ムッソリーニのファシズム政権がユダヤ人の学術研究フェローシップを禁止した。アメリカでもイタリアでも研究資金を失ったルリアは、1938年に故郷を離れてフランスのパリへ移住した。1940年にナチス・ドイツ軍がフランスに侵攻すると、ルリアは自転車でマルセイユまで逃れ、そこでアメリカ合衆国へのビザを取得した。彼は1940年9月12日にニューヨークに到着し、すぐにファーストネームとミドルネームをサルバトーレからサルバドール、エドアルドからエドワードへと改名した。
2. 科学的研究と業績
ルリアはウイルス学、分子生物学、遺伝学の分野で革新的な研究と発見を成し遂げ、現代生命科学の基礎を築いた。
2.1. ファージ研究の先駆者

ニューヨークに到着後、ルリアはローマ大学時代からの知人であった物理学者エンリコ・フェルミの助けを得て、ロックフェラー財団のフェローシップを受け、コロンビア大学で研究を続けることができた。彼はすぐにマックス・デルブリュックとアルフレッド・ハーシーに出会い、彼らはコールド・スプリング・ハーバー研究所やデルブリュックのヴァンダービルト大学の研究室で共同実験を行った。彼らの研究の目的は、遺伝子の物理的性質を解明することであり、そのためにバクテリアに感染するウイルスであるバクテリオファージ、略して「ファージ」を用いた。ファージは遺伝子を持つ最も単純な「生物」であり、生物学における水素原子の等価物と見なされた。1940年代には、彼らを中心とした科学者たちが「ファージグループ」を形成し、コールド・スプリング・ハーバー研究所に集まって実験を行い、科学的な問題を議論した。
2.2. ルリア=デルブリュックの実験
1943年、ルリアとデルブリュックは、細菌における突然変異のランダム性と自然選択を証明する有名な実験を行った。これは「ルリア=デルブリュックの実験」として知られている。彼らは、細菌の遺伝がジャン=バティスト・ラマルクの説ではなく、チャールズ・ダーウィンの原則に従うことを統計的に示した。この実験は、ウイルスが存在しない場合でも、ランダムに発生した突然変異細菌がウイルス耐性を獲得しうることを明らかにした。細菌にも自然選択が作用するというこの考え方は、抗生物質耐性菌の出現メカニズムを説明するなど、その後の科学に深い影響を与えた。
2.3. ルリア=ラタジェット効果と制限酵素の発見
1947年、ルリアとラタジェットは、細胞内での増殖中のバクテリオファージに対する紫外線照射の影響について定量的な分析結果を発表した。彼らは感染初期にバクテリオファージの紫外線耐性が増加し、その後減少するというパターンを発見した。これは「ルリア=ラタジェット効果」として知られている。当時、DNAの生物学における中心的な役割についてはほとんど知られていなかったが、後の研究により、感染バクテリオファージによってコードされる複数の特異的なDNA修復経路が、感染初期の紫外線耐性増加に寄与していることが確立された。
1943年から1950年まで、ルリアはインディアナ大学で勤務した。彼の最初の大学院生は、後にフランシス・クリックと共にDNAの構造を発見したジェームズ・ワトソンである。ルリアは1947年1月にアメリカ合衆国の帰化市民となった。
1950年、ルリアはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に移った。1950年代初頭、ルリアとジュゼッペ・ベルターニは、細菌ウイルスの「宿主依存的な制限・修飾」現象を発見した。これは、特定の大腸菌の培養液が、他の株で増殖したファージの生産を大幅に減少させる一方で、一度その株でファージが確立されると、他の株での増殖能力も制限されるという現象である。後に他の研究者たちによって、細菌が特定の配列でウイルスDNAを切断する酵素を産生するが、DNAメチル化によって保護された自身のDNAは切断しないことが発見された。これらの酵素は「制限酵素」として知られるようになり、分子生物学における主要な分子ツールの一つとなった。
2.4. 晩年の研究:細胞膜とバクテリオシン
1959年、ルリアはマサチューセッツ工科大学(MIT)の微生物学部門の主任となった。MITでは、彼の研究対象はファージから細胞膜とバクテリオシンへと移行した。1963年にパリのパスツール研究所で研究するためにサバティカル(研究休暇)を取っていた際、彼はバクテリオシンが細胞膜の機能を損なわせることを発見した。MITに戻ると、彼の研究室は、バクテリオシンが細胞膜に穴を形成し、イオンが通過できるようにすることで、細胞の電気化学勾配を破壊し、細胞膜の機能を損なわせるメカニズムを解明した。1972年には、MITのがん研究センターの主任となった。彼が設立したこの部門からは、後にノーベル賞を受賞するデビッド・ボルティモア、利根川進、フィリップ・シャープ、ロバート・ホロビッツなど、多くの著名な科学者が輩出された。
3. 受賞歴と栄誉
ルリアは科学界で数々の主要な賞を受賞し、学術的な会員資格や学会での役職を歴任し、その業績が高く評価された。
3.1. ノーベル生理学・医学賞
1969年、ルリアはマックス・デルブリュック、アルフレッド・ハーシーと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。この受賞は、ウイルスの複製機構と遺伝構造に関する彼らの画期的な発見、特に細菌のウイルスに対する耐性が遺伝的に受け継がれることを示した功績に対して贈られた。彼らの研究は、遺伝子の分子としての理解を深め、分子生物学の発展に不可欠な基盤を提供した。
3.2. その他の主要な受賞歴と会員資格
ノーベル賞の他にも、ルリアは数多くの賞と栄誉を受けている。1959年にはアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選出され、1960年には米国科学アカデミーの会員となった。1964年にはアメリカ哲学協会の会員に選ばれた。1968年から1969年にはアメリカ微生物学会の会長を務めた。1969年には、ノーベル生理学・医学賞の共同受賞者であるマックス・デルブリュックと共に、コロンビア大学からルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を授与された。アメリカでは、1974年に彼の一般向け科学書『分子から人間へ - 生命:この限りなき前進』(Life: the Unfinished Experiment)で全米図書賞(科学部門)を受賞した。また、1991年にはアメリカ国家科学賞を受賞している。
4. 政治的・社会的活動
ルリアは生涯を通じて、積極的に政治的・社会的な発言を行い、様々な運動に関与した。彼は科学者としての立場から、社会問題に対して強い関心と責任感を示した。
1957年には、ライナス・ポーリングと共に核兵器実験に反対する抗議活動に参加した。彼はベトナム戦争に反対し、労働組合の支援者でもあった。1970年代には、遺伝子工学に関する議論に深く関わり、完全な禁止や完全な科学的自由といった極端な立場ではなく、適度な監視と規制という妥協的な立場を提唱した。彼の政治的関与のため、1969年には一時的にアメリカ国立衛生研究所からの助成金対象から外されるという事態も経験した。ノーム・チョムスキーはルリアを友人であると述べ、ルリアがユダヤ系アメリカ人作家エリ・ヴィーゼルのイスラエルに対する公的な立場に影響を与えようとしたと主張している。
5. 死去
サルバドール・ルリアは1991年2月6日、マサチューセッツ州レキシントンで心臓発作のため、78歳で死去した。
6. 遺産と影響力
ルリアの科学的発見は後世の科学に計り知れない影響を与え、特に分子生物学の発展と後進の育成において重要な役割を果たした。
6.1. 分子生物学への影響
彼のバクテリオファージ研究における先駆的な業績は、分子生物学という新しい分野の扉を開いた。特に、彼とジュゼッペ・ベルターニによる宿主依存的な制限・修飾現象の発見は、後に制限酵素の発見へと繋がり、この酵素は分子生物学における主要なツールの一つとして不可欠な存在となった。ルリアの発見は、遺伝子の性質、ウイルスの複製メカニズム、そして細菌の進化に関する理解を深め、現代の生命科学の発展に多大な貢献をした。
6.2. 後進の育成
ルリアは優れた研究者であると同時に、多くの才能ある科学者を指導し、育成した教育者でもあった。彼の最初の大学院生であるジェームズ・ワトソンは、後にフランシス・クリックと共にDNAの二重らせん構造を解明するという歴史的な業績を成し遂げた。また、彼が1972年にMITで主任を務めたがん研究センターからは、デビッド・ボルティモア、利根川進、フィリップ・シャープ、ロバート・ホロビッツといった、後にノーベル賞を受賞する多数の著名な科学者が育っている。彼の指導は、次世代の分子生物学者たちに大きな影響を与え、科学界に永続的な遺産を残した。
7. 著書
- 『分子から人間へ - 生命:この限りなき前進』(Life: the Unfinished Experiment)渡辺格, 鈴木孯之訳, 文化放送開発センター出版部, 1974; 新版 法政大学出版局, 1988
- 『分子生物学への道』(A Slot Machine, a Broken Test Tube)石館康平, 石館三枝子訳, 晶文社, 1991
- 『ルリア生物学』(36 Lectures in Biology)長野敬, 森久保真紀訳, 共立出版, 1980
- 『一般ウィルス学』松本稔, 丸善, 1955