1. 初期生い立ちと背景
ジャン・ギャバンは、俳優としてのキャリアを築く前に様々な経験を積み、その後の演技に深みを与えた。
1.1. 出生と家族
ジャン・ギャバンは、本名ジャン=アレクシス・モンコルジェとして1904年5月17日にフランスのパリ9区ロシュシュアール大通り23番地で生まれた。彼の父親フェルディナン・モンコルジェはカフェの経営者であり、舞台俳優として「ギャバン」という芸名でキャバレーに出演していた。母親のマドレーヌ・プティは歌手であった。この「ギャバン」という名は、フランスでは一般的なファーストネームでもある。
1.2. 幼少期と教育
ギャバンはパリから北へ約35 km離れたヴァル=ドワーズ県のメリエル村で育った。彼はパリ18区のクリニャンクール通りの小学校で初等教育を受け、その後リセ・ジャンソン・ド・サイイに進学したが、途中で退学した。
1.3. 初期職業と芸能界への進出
学校を中退した後、ギャバンは様々な職業を経験した。彼はパリ配電会社のオフィス使いや、ドランシーの自動車部品倉庫の倉庫番として働いた。19歳になるまで肉体労働者として生計を立てていたが、1922年、18歳でフォリー・ベルジェールの舞台に端役として出演し、芸能界に入った。この時期から、彼は両親の影響もあり、演技だけでなく歌唱についても相当な修練を積んだ。その後も軍隊に入るまで、様々な小さな役を演じ続けた。
2. 軍歴
ギャバンは第二次世界大戦中に軍務に服し、その勇敢な行動は高く評価された。
1924年、ギャバンはフランス海軍に入隊し、シェルブールに駐屯した。兵役を終えた後、彼は芸能界に戻った。
第二次世界大戦が激化し、1940年にドイツがフランスを占領した後、ギャバンはジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエといった他の映画関係者と共にアメリカ合衆国へ渡った。しかし、彼は1943年4月、アメリカ滞在中にシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍に志願兵として参加することを決意した。
彼は軍用タンカー「エローン」で大西洋を渡りカサブランカに到着。その後、フィリップ・ルクレール・ド・オートクローク将軍指揮下の第2機甲師団に属する海軍機甲旅団第2中隊の装甲車「スフルールII」の隊長に任命された。1945年春には、ラ・ロシェルのドイツ要塞解放作戦や、連合国によるナチス・ドイツ占領作戦に参加した。
ギャバンは北アフリカでの連合国軍との戦いにおける勇敢な行動が評価され、ミリタリー勲章とクロア・ド・ゲール勲章を授与された。ノルマンディー上陸作戦の後、彼はパリの解放を成し遂げた第2機甲師団に所属して従軍した。1945年7月、41歳で除隊した時には、すでに白髪が目立っていたという。
3. 俳優キャリア
ジャン・ギャバンは、舞台での経験から映画界へと進出し、フランス映画界の象徴的存在となった。
3.1. 舞台活動と初期映画キャリア
軍務を終えた後、ギャバンは芸能界へと復帰し、「ジャン・ギャバン」という芸名でパリのミュージックホールやオペレッタの舞台に立った。当時流行していたモーリス・シュヴァリエの歌唱スタイルを模倣するなど、様々な芸を披露した。1927年には妻のガビー・バセと共にブラジルを巡業したが、成功には至らずパリに戻り、ムーラン・ルージュで働くことになった。1928年春、歌手兼女優のミスタンゲットがギャバンを自身の劇団に招き、彼はレヴュー『パリ・キ・トゥルヌ』で「ウェイター」役を演じた。その後、『フロッシー』や『パウゾール王の冒険』といったオペレッタで恋人役を演じるようになった。
彼の舞台での演技が注目を集めるようになり、より良い役が舞い込むようになった。そして1928年には2本のサイレント映画に出演した。1930年にはパテ・フレール製作の『チャンスは誰にも』でトーキー映画への移行を果たした。その後4年間で、モーリス・トゥールヌールやジャック・トゥールヌールといった監督の作品を含む10本以上の映画で助演を務めた。
3.2. スターダムへの飛躍
ギャバンが真に俳優として認知されるようになったのは、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の1934年作品『白き処女地』での演技によるものだった。その後、1936年のデュヴィヴィエ監督の戦争ドラマ『地の果てを行く』でロマンチックな主人公を演じ、主要なスターとしての地位を確立した。翌年には再びデュヴィヴィエと組み、大成功を収めた『望郷』に出演。この作品の国際的な人気によって、ギャバンは世界的な名声を得た(この映画では、彼がミュージックホール時代を彷彿とさせるシャンソンを実際に歌っている)。

同年、彼はジャン・ルノワール監督の反戦映画『大いなる幻影』に出演し、この作品はニューヨーク市の劇場で異例の6か月間というロングランを記録した。これに続き、ルノワール監督のもう一つの主要作品であるエミール・ゾラの小説を原作とするフィルム・ノワールの悲劇『獣人』(1938年)でシモーヌ・シモンと共演した。また、マルセル・カルネ監督による詩的リアリズムの古典『霧の波止場』(1938年)にも出演した。彼の持つ荒々しいカリスマ性は、ハンフリー・ボガートやジェームズ・キャグニーと比較されることもあった。
3.3. ハリウッド進出と第二次世界大戦中の活動
1930年代後半、ギャバンはハリウッドから多くのオファーを受けていたが、第二次世界大戦の勃発までそれら全てを断っていた。1940年のドイツによるフランス占領後、彼はルノワールやデュヴィヴィエと共にアメリカへ渡った。ハリウッド滞在中、ギャバンは女優マレーネ・ディートリヒとの恋愛関係を始め、この関係は1948年まで続いた。
アメリカでの出演作である『夜霧の港』(1942年)と、デュヴィヴィエ監督との再タッグとなった『逃亡者』(1944年)はいずれも興行的には成功しなかった。
3.4. 戦後キャリアと再起

1945年、マルセル・カルネはディートリヒを共演者として『夜の門』にギャバンを起用しようとした。しかし、ディートリヒは脚本を嫌い、戦後のフランス観客にドイツ語訛りが受け入れられないことを恐れてプロジェクトから降板した。ディートリヒが降板すると、ギャバンもそれに続き、カルネとの間に確執が生じた。その後、ギャバンとディートリヒを共に起用するフランスのプロデューサーと監督が見つかり、『狂恋』が製作されたが、この映画も成功せず、彼らの個人的な関係も間もなく終焉を迎えた。
1948年、ギャバンはルネ・クレマン監督の詩的リアリズム映画『鉄格子の彼方』(原題:Au-delà des grillesフランス語)に出演した。この作品はアカデミー外国語映画賞を受賞したが、ギャバン自身への評価はあまり得られなかった。1949年には、アンリ・ベルンシュタインの舞台劇『渇き』で唯一の本格的な舞台出演を果たし、パリで6か月間上演された。「一流の舞台俳優」として批評家から絶賛されたにもかかわらず、その後の映画はフランスの興行収入で振るわず、続く5年間は失敗が繰り返された。

ギャバンのキャリアは低迷期にあるかに見えたが、1954年のジャック・ベッケル監督作品『現金に手を出すな』で批評家からの絶賛を浴び、成功裏に再起を果たした。この映画は国際的にも非常に大きな利益を上げた。その後、彼は再びジャン・ルノワールと組み、マリア・フェリックスやフランソワーズ・アルヌールと共演した『フレンチ・カンカン』に出演した。
3.5. 後期キャリアと主要な役柄
ギャバンは1958年、1959年、1963年に、ジョルジュ・シムノンの探偵メグレ警部を演じた3本の映画に出演し、この役は彼の代表的な持ち役の一つとなった。続く20年間で、彼はさらに約50本の映画に出演し、その多くは商業的にも批評的にも大成功を収めた。特に、俳優のフェルナンデルとの共同製作会社である「ガフェル・フィルム」の作品に数多く出演した。
この時期の共演者には、戦後フランス映画界を代表する名優たちが名を連ねる。ブリジット・バルドー(『可愛い悪魔』)、アラン・ドロン(『シシリアン』、『地下室のメロディー』、『暗黒街のふたり』)、ジャン=ポール・ベルモンド(『冬の猿』)、ルイ・ド・フュネス(『刺青の男』)など、錚々たる顔ぶれであった。ギャバンは晩年には渋い老役を中心に、マフィアの組長役など、ギャング映画に数多く出演し、重厚な演技を披露した。
3.6. 演技スタイルと大衆的イメージ
ジャン・ギャバンは、その深みのある演技と渋い容貌で、フランス映画界の象徴的存在となった。彼の演技は、現実的で実直なキャラクターを表現することに長けており、特に「タフガイ」や「実直な男」といった大衆に広く認識されたイメージを確立した。彼の荒々しいカリスマ性は、観客に強い印象を与え、その存在感は多くの作品で際立っていた。
3.7. 製作会社設立
1963年、ジャン・ギャバンは俳優のフェルナンデルと共に映画製作会社「Gafer Films」を設立した。この会社は、ギャバンが出演する多くの商業的に成功した作品を製作し、彼のキャリア後期において重要な役割を果たした。ガフェル・フィルムが最初に製作した映画は、ギャバンとフェルナンデルが共演した『L'Âge ingrat』である。
4. 私生活
ギャバンは生涯で3度の結婚と3度の離婚を経験した。
1925年初頭、ギャバンは休暇中に後に女優となるマリー=ルイーズ・バセ(通称ガビー)と出会い、結婚したが、後に離婚した。
1933年11月20日、ギャバンはパリ16区の市庁舎でジャンヌ・モーシャンと再婚した。しかし、第二次世界大戦中にアメリカに滞在していた1943年1月18日、フランスのエクス市(旧)の裁判所は、ギャバンに全面的に責任があるとして、彼とジャンヌ・モーシャンとの離婚を認めた。
1949年3月28日、ギャバンはランバンのファッションモデルであったクリスチャンヌ・フルニエ(1918年 - 2002年)と再々婚した。彼らの間には、フローレンス(1949年)、ヴァレリー(1952年)、マティアス(1956年)の3人の子供が生まれた。
また、彼はハリウッド滞在中に女優マレーネ・ディートリヒと熱愛関係にあったことでも有名である。この関係は1948年まで続いた。ギャバンは気さくな性格で、共演者からも愛された俳優であったという。
5. 受賞歴と栄誉
ジャン・ギャバンは、その輝かしいキャリアを通じて数々の賞と栄誉を獲得した。
- レジオンドヌール勲章オフィシエ
- ミリタリー勲章
- クロア・ド・ゲール勲章(1939年-1945年)
- 1951年: ヴェネツィア国際映画祭男優賞(『夜は我がもの』)
- 1954年: ヴェネツィア国際映画祭男優賞(『現金に手を出すな』および『われら巴里っ子』)
- 1959年: ベルリン国際映画祭男優賞(『放浪者アルシメード』)
- 1960年: 映画『Les Vieux de la vieille』の撮影中にレジオンドヌール勲章オフィシエを受章。
- 1971年: ベルリン国際映画祭男優賞(『猫』)
- 1976年4月3日、第1回セザール賞授賞式で議長を務めた。
- 1987年: セザール賞名誉賞(追贈)
6. 死去
ジャン・ギャバンは1976年11月15日午前6時(日本時間午後2時)、パリ西郊外のヌイイ=シュル=セーヌにあるアメリカン・ホスピタル・オブ・パリで白血病により死去した。72歳没。
彼の遺体は火葬され、1976年11月17日にはペール・ラシェーズ墓地の火葬場で葬儀が執り行われ、その模様はテレビで生中継された。彼の最後の願いにより、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の特別許可を得て、遺灰は軍艦「デトロワヤ」に乗せられ、1976年11月19日にブレストから約20 nautical mile離れたイロワーズ海に散骨された。彼は「ジェラール・フィリップやエディット・ピアフの墓のように、自分の墓に人々が迷惑をかけに来るのを望まない」と語っていたという。
7. 遺産と影響力
ジャン・ギャバンは、その生涯と演技を通じて、フランス映画界に計り知れない影響を与え、また遠く離れた日本の文化にも独自の足跡を残した。
7.1. フランス映画界における位置づけ
ジャン・ギャバンは、フランス映画史上最も偉大なスターの一人として広く認識されている。彼の存在は、フランス映画の黄金時代を象徴し、その芸術的・文化的貢献度は非常に大きいと評価されている。
7.2. 日本文化への影響
ギャバンは、その演技、特に食事をするシーンのリアリティで日本の俳優や映画関係者に大きな影響を与えた。
- 俳優の高倉健は、「食事の芝居はギャバンを見て勉強した」と語っており、映画評論家の淀川長治も「ジャン・ギャバンは食べるのが上手な俳優」と評していた。高倉は、京都の行きつけのカフェに「いつも迷惑を掛けているので」とギャバンの特大ポスターをプレゼントし、そのポスターは今も店のカウンターに飾られている。
- 三船敏郎もギャバンを尊敬する日本の俳優の一人であり、かつて共演の予定があったという。
- 映画通・食通として知られる作家の池波正太郎の代表作『剣客商売』や『鬼平犯科帳』は、ギャバン作品、とりわけギャバンの食事シーンの演技から強い影響を受けているとされる。川本三郎も池波の著書『食卓の情景』におけるギャバン評を引用している。ただし、池波自身は「鬼平役=ギャバン」というイメージに対しては、「昔の日本人には、あんな人がいくらでもいましたもの」「ジャン・ギャバンじゃ駄目だ。鬼平はもっといい男じゃなきゃ(笑)」と否定的な見解を示している。
- アニメーション監督の宮崎駿は、映画『現金に手を出すな』を再鑑賞した際に、作品と共にギャバンの芝居を絶賛した。
- 声優の森山周一郎は、ギャバンの日本語吹き替えをほぼ専属で担当した。森山の吹き替えは同業者や視聴者から高く評価されており、森山本人によると「それまでに(別の声優で)録ってあったジャン・ギャバンの声を全部私で録り直して以後、NHK始め民放全局が私になってしまった」という。宮崎駿が監督した映画『紅の豚』で森山は主人公の声を担当したが、演技指導の際に宮崎から「ジャン・ギャバンの吹き替えのような芝居をしてほしい」と言われたことから、同作の主人公である豚のモデルの一つはギャバンであると考えられている。
- 俳優千葉真一が準レギュラーで出演していた特撮番組『宇宙刑事ギャバン』の主人公と番組名の由来は、ジャン・ギャバンである。
7.2.1. ギャバン役を演じた日本の俳優やギャバンと共演した日本の女優
俳優の仲代達矢が主演した映画『道』は、ギャバン作品『ヘッドライト』のリメイクであり、仲代もギャバンを敬愛し、ギャバンが演じた役を演じた。
フランス生まれの日本の女優谷洋子は、ギャバンと映画『その顔をかせ』で共演している。
7.3. 記念事業と顕彰
ギャバンの功績を称え、彼を追悼するための様々な記念事業や顕彰活動が行われている。
- 1981年、俳優ルイ・ド・フュネスの発案により、フランス映画界の若手男優に贈られる「ジャン・ギャバン賞」が設立された。この賞は1981年から2006年まで毎年授与されたが、2008年に賞の運営委員会とギャバンの遺族との間に問題が生じたことにより、「パトリック・ドヴェール賞」と改称された。この賞は、女優に贈られるロミー・シュナイダー賞と提携関係にあった。
- 1992年、ギャバンが幼少期を過ごしたヴァル=ドワーズ県のメリエルに、「
ジャン・ギャバン博物館(メリエル) ジャン・ギャバン博物館」が設立された。この博物館は彼の生涯を物語り、映画関連の記念品を展示している。博物館の玄関に設置された像は、俳優であり彫刻家でもあったジャン・マレーが制作したものである。
- 2008年5月16日には、当時のパリ18区区長ダニエル・ヴァイヤンとギャバンの子供たちによって、モンマルトルの麓、キュスティーヌ通りとランベール通りの角に「ジャン・ギャバン広場」が落成した。
- モンジュネーヴルにある「シネマ・ジャン・ギャバン」は彼にちなんで名付けられた。モンジュネーヴルはフランス最古のスキーリゾートとされており、ギャバンやジャン=ポール・サルトルを含む多くのフランスの芸術家や知識人に人気の休暇地であった。
- ギャバンはオルヌ県、特にボンヌフォワとムーラン=ラ=マルシュに土地を購入した。ムーラン=ラ=マルシュには彼にちなんで名付けられた通りがあり、彼が創設した競馬場「イポドローム・ジャン・ギャバン」もその名を冠している。
- 2011年には、スイスのポランチュイ市にも「ジャン=ギャバン広場」が落成した。
8. 主要なフィルモグラフィー
ジャン・ギャバンは生涯で95本の映画に出演し、ブリジット・バルドー(『可愛い悪魔』)、アラン・ドロン(『シシリアン』、『地下室のメロディー』、『暗黒街のふたり』)、ジャン=ポール・ベルモンド(『冬の猿』)、ルイ・ド・フュネス(『刺青の男』)といった著名な俳優たちと共演した。
特に興行的に成功した作品には、『レ・ミゼラブル』(ブールヴィルと共演、994万枚のチケット販売)、『ナポレオン』(541万枚)、『パリ横断』(489万枚)、『シシリアン』(アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラと共演、482万枚)、『現金に手を出すな』(471万枚)、『Le Tonnerre de Dieu』(410万枚)、『放浪者アルシメード』(407万枚)、『大家族』(404万枚)などがある。
以下にジャン・ギャバンが出演した主要な映画作品を公開年順に整理して示す。
公開年 | 邦題 原題 | 役名 | 監督 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1930 | Chacun sa chance | - | ハンス・シュタインホフ、ルネ・プジョル | |
1931 | Paris Béguin | ボブ | アウグスト・ジェニーナ | |
1932 | Les Gaietés de l'escadron | フリコ | モーリス・トゥールヌール | |
1933 | 上から下まで Du haut en bas | シャルル | G・W・パプスト | |
トンネル Le tunnel | マック・アラン | カーティス・ベルンハルト | ドイツ映画のフランス語版 | |
1934 | 白き處女地 Maria Chapdelaine | フランソワ・パラディ | ジュリアン・デュヴィヴィエ | 1935年ナショナル・ボード・オブ・レビュー外国語映画賞受賞 |
はだかの女王 Zouzou | ジャン | ジュリアン・デュヴィヴィエ | ||
ゴルゴダの丘 Golgotha | ピラト | ジュリアン・デュヴィヴィエ | ||
1935 | 地の果てを行く La Bandera | ピエール・ジレ | ジュリアン・デュヴィヴィエ | ピエール・マコランの小説『ラ・バンデラ』原作 |
1936 | 我等の仲間 La belle équipe | ジャン | ジュリアン・デュヴィヴィエ | シャルル・ヴァネル、ヴィヴィアーヌ・ロマンスと共演 |
どん底 Les bas-fonds | ワスカ・ペペル | ジャン・ルノワール | 1937年ルイ・デリュック賞受賞。マクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』原作 | |
1937 | 望郷 Pépé le Moko | ペペ | ジュリアン・デュヴィヴィエ | |
大いなる幻影 La grande illusion | マレシャル中尉 | ジャン・ルノワール | 1938年ナショナル・ボード・オブ・レビュー外国語映画賞受賞 | |
愛慾 Gueule d'amour | リュシアン・ブーラッシュ | ジャン・グレミヨン | ||
1938 | 珊瑚礁 Le récif de corail | トロット・レナール | モーリス・グレイズ | ミシェル・モルガンと共演 |
霧の波止場 Le quai des brumes | ジャン | マルセル・カルネ | ミシェル・モルガン、クロード・ブラッスールと共演。1939年ルイ・デリュック賞受賞 | |
獣人 La bête humaine | ジャック・ランティエ | ジャン・ルノワール | エミール・ゾラの小説『獣人』原作 | |
1939 | 陽は昇る Le jour se lève | フランソワ | マルセル・カルネ | |
Le Messager | --- | レイモン・ルーロー | ||
1941 | 曳き船 Remorques | アンドレ・ローラン船長 | ジャン・グレミヨン | マドレーヌ・ルノーと共演 |
1942 | 夜霧の港 Moontide | ボボ | アーチー・メイヨ | アイダ・ルピノと共演 |
1944 | 逃亡者 The Impostor | クレマン/モーリス | ジュリアン・デュヴィヴィエ | |
1946 | 狂恋 Martin Roumagnac | マルタン・ルーマニャック | ジョルジュ・ラコンブ | マレーネ・ディートリヒと共演 |
1947 | 面の皮をはげ Miroir | リュサック | レイモン・ラミー | |
1948 | 鉄格子の彼方 Au-delà des grilles | ピエール・アリニョン | ルネ・クレマン | 1949年アカデミー外国語映画賞受賞 |
1950 | 港のマリィ La Marie du port | アンリ・シャトラール | マルセル・カルネ | ジョルジュ・シムノンの小説原作 |
1951 | 夜は我がもの La nuit est mon royaume | レエモン・パンサアル | ジョルジュ・ラコンブ | ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞 |
1952 | 愛情の瞬間 La minute de vérité | ピエール・リシャール | ジャン・ドラノワ | ミシェル・モルガンと共演 |
La Vérité sur Bébé Donge | フランソワ・ドンジュ | アンリ・ドコアン | ダニエル・ダリューと共演。ジョルジュ・シムノンの小説原作 | |
ル・プレジール Le Plaisir | ジョゼフ・リヴェ | マックス・オフュルス | ギ・ド・モーパッサンの短編3作が原作 | |
1953 | ラインの処女号 La vierge du Rhin | ジャック/マルタン | ジル・グランジェ | |
1954 | 現金に手を出すな Touchez pas au grisbi | マックス | ジャック・ベッケル | ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞(『われら巴里っ子』での演技と共に) |
われら巴里っ子 L'air de Paris | ヴィクトル・ル・ギャレック | マルセル・カルネ | ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞(『現金に手を出すな』での演技と共に) | |
フレンチ・カンカン French Cancan | アンリ・ダングラール | ジャン・ルノワール | ミュージカル映画 | |
1955 | 筋金を入れろ Razzia sur la Chnouf | アンリ・フェレ | アンリ・ドコアン | |
その顔をかせ Le port du désir | ル・ケヴィック船長 | エドモン・T・グレヴィル | 谷洋子と共演 | |
首輪のない犬 Chiens perdus sans collier | ラミイ判事 | ジャン・ドラノワ | ||
地獄の高速道路 Gas-oil | ジャン・シャプ | ジル・グランジェ | ジャンヌ・モローと共演 | |
1956 | ヘッドライト Des gens sans importance | ジャン・ヴィアール | アンリ・ヴェルヌイユ | |
殺意の瞬間 Voici le temps des assassins | アンドレ・シャトラン | ジュリアン・デュヴィヴィエ | ||
Le Sang à la tête | フランソワ・カルディノー | ジル・グランジェ | ||
パリ横断 La traversée de Paris | グランジル | クロード・オータン=ララ | ルイ・ド・フュネス、ブールヴィルと共演 | |
罪と罰 Crime et châtiment | ガレ警部 | ジョルジュ・ランパン | ||
1957 | 医師 Le cas du Dr Laurent | ローラン | ジャン・ドラノワ | |
赤い灯をつけるな Le rouge est mis | ルイ・ベルタン | ジル・グランジェ | アニー・ジラルドと共演 | |
1958 | 殺人鬼に罠をかけろ Maigret tend un piège | メグレ警部 | ジャン・ドラノワ | アニー・ジラルドと共演 |
夜の放蕩者 Le désordre et la nuit | バロワ警部 | ジル・グランジェ | ダニエル・ダリューと共演 | |
レ・ミゼラブル Les Misérables | ジャン・バルジャン | ジャン=ポール・ル・シャノワ | ヴィクトル・ユーゴーの小説原作 | |
可愛い悪魔 En cas de malheur | アンドレ・ゴビヨ | クロード・オータン=ララ | ブリジット・バルドーと共演 | |
大家族 Les grandes familles | ノエル・シュードレール | ドゥニ・ド・ラ・パテリエール | ||
1959 | 放浪者アルシメード Archimède, le clochard | アルシメード | ジル・グランジェ | ベルリン国際映画祭銀熊賞(男優賞)受賞 |
サン・フィアクル殺人事件 Maigret et l'affaire Saint-Fiacre | メグレ警部 | ジャン・ドラノワ | ジョルジュ・シムノンの小説原作 | |
子供たち Rue des Prairies | アンリ・ヌーヴォー | ドゥニ・ド・ラ・パテリエール | ||
1961 | ギャンブルの王様 Le baron de l'écluse | アントワーヌ男爵 | ジャン・ドラノワ | |
親分は反抗する Le cave se rebiffe | フェルディナン・マレシャル | ジル・グランジェ | ||
1962 | 冬の猿 Un singe en hiver | アルベール・カンタン | アンリ・ヴェルヌイユ | ジャン=ポール・ベルモンドと共演 |
エプソムの紳士 Le gentleman d'Epsom | リシャール・ブリアン=シャルムリー | ジル・グランジェ | ルイ・ド・フュネスと共演 | |
1963 | 地下室のメロディー Mélodie en sous-sol | シャルル | アンリ・ヴェルヌイユ | アラン・ドロンと共演 |
メグレ赤い灯を見る Maigret voit rouge | メグレ警部 | ジル・グランジェ | ||
1964 | Monsieur | ルネ・デュシェーヌ / ジョルジュ・ボーダン | ジャン=ポール・ル・シャノワ | |
1965 | 皆殺しのバラード Du rififi à Paname | ポウロ・レ・ディアム | ドゥニ・ド・ラ・パテリエール | ゲルト・フレーベ、ジョージ・ラフト、ミレーユ・ダルクと共演 |
1967 | 太陽のならず者 Le soleil des voyous | ドニ・フェラン | ジャン・ドラノワ | ロバート・スタックと共演 |
パリ大捜査網 Le pacha | ジョス警視 | ジョルジュ・ロートネル | ||
1968 | 刺青の男 Le Tatoué | コント・アングラン | ドゥニ・ド・ラ・パテリエール | ルイ・ド・フュネスと共演 |
1969 | シシリアン Le clan des Siciliens | ヴィットリオ・マナレーゼ | アンリ・ヴェルヌイユ | アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラと共演 |
1970 | ジャン・ギャバン/ドン La horse | オーギュスト・マロワイユール | ピエール・グラニエ=ドフェール | |
1971 | 猫 Le chat | ジュリアン・ブアン | ピエール・グラニエ=ドフェール | ベルリン国際映画祭銀熊賞(男優賞)受賞 |
1972 | Le Tueur | ル・ゲン警視 | ドゥニ・ド・ラ・パテリエール | |
1973 | 事件 L'affaire Dominici | ガストン・ドミニク | クロード・ベルナール=オーベル | |
暗黒街のふたり Deux hommes dans la ville | ジェルマン・カズヌーブ | ジョゼ・ジョヴァンニ | アラン・ドロン、ミムジー・ファーマー、ジェラール・ドパルデューと共演 | |
1974 | 愛の終わりに Verdict | ミュニエール判事 | アンドレ・カイヤット | ソフィア・ローレンと共演 |
1976 | 脱獄の報酬 L'année sainte | マックス・ランベルト | ジャン・ジロー | ジャン=クロード・ブリアリ、アンリ・ヴィルロジュー、ダニエル・ダリューと共演。ギャバン最後の映画 |