1. 生い立ちと教育
チャールズ・P・キンドルバーガーは、彼の学術的および公的なキャリアの基盤を築く上で重要な役割を果たした、堅固な教育背景を持っていました。
1.1. 出生と背景
キンドルバーガーは1910年10月12日にニューヨーク市で生まれました。彼の家族構成や幼少期の詳細については情報が限られていますが、後のキャリアで国際経済学という分野に進んだ背景には、幼少期の経験や環境が影響を与えた可能性があります。
1.2. 学歴
キンドルバーガーは、コネチカット州のケント・スクールを1928年に卒業しました。その後、ペンシルベニア大学に進学し、1932年に学士号(BA)を取得しました。さらに、コロンビア大学で学術的な研鑽を積み、1934年に修士号(MA)を、1937年には博士号(PhD)を取得しました。
学生時代には、学術的な枠を超えた国際的な経験も積んでいます。1931年の夏には、ヨーロッパを旅し、サルバドール・デ・マダリアーガが主催するセミナーに参加しました。マダリアーガが後に駐米スペイン大使に任命された際、キンドルバーガーは国際開発研究大学院(スイス、ジュネーブ)でアルフレッド・ジンマーン卿の講義に出席しました。これらの経験は、彼の国際経済学に対する関心を深める上で重要な役割を果たしました。
2. キャリア
キンドルバーガーのキャリアは、政府機関での重要な公職、マサチューセッツ工科大学(MIT)での長きにわたる学術活動、そして国際的な専門機関での多様な経験によって特徴づけられます。
2.1. 公職
キンドルバーガーは、その学術的な経歴と並行して、アメリカ合衆国政府の主要な経済関連機関で多岐にわたる役割を担いました。彼の公職での経験は、その後の彼の経済理論の形成に深く影響を与えました。
博士論文執筆中、キンドルバーガーはハリー・デクスター・ホワイトの指導の下、アメリカ合衆国財務省の国際部門で一時的に雇用されました。その後、1936年から1939年までニューヨーク連邦準備銀行にフルタイムで勤務しました。続いて、1939年から1940年にはスイスの国際決済銀行(BIS)で、1940年から1942年には連邦準備制度理事会で働きました。
第二次世界大戦中、彼は戦略情報局(OSS)に勤務しました。戦後、1945年から1947年にかけては、アメリカ合衆国国務省でドイツ・オーストリア経済局長を務めました。
2.1.1. マーシャル・プランへの貢献
キンドルバーガーは、第二次世界大戦後のヨーロッパ復興を目的としたマーシャル・プランの主要な立案者の一人でした。1945年から1947年には国務省の経済安全保障政策局の局長代理を務め、1947年から1948年には短期間ながらヨーロッパ復興計画(ERP)の顧問を務めました。
彼は、1973年のインタビューで、ジョージ・マーシャル将軍を「偉大な、偉大な人物」と評し、マーシャル・プランの策定と立ち上げに向けた24時間体制の仕事について、並々ならぬ情熱を持って語っています。その際、「この計画について大きな興奮を感じていた。我々は夜通し、何度も起きて仕事をしていた。経済学で初めてコンピューターを使った仕事は、マーシャル・プランのために夜間にペンタゴンのコンピューターを使用したものだった。この仕事に懸命に取り組んだことで、私は計り知れない満足感を得た」と述べ、計画に対する彼の献身と、それがもたらした達成感を強調しています。このマーシャル・プランへの貢献は、キンドルバーガーの国際協力と経済安定化への信念を示す重要な事例と言えるでしょう。
2.1.2. ハリー・デクスター・ホワイトとの関連
キンドルバーガーは、財務省でハリー・デクスター・ホワイトの元で働いた経験が、後に彼に少なからぬ困難をもたらしたことを回想しています。1950年代の赤狩りの際には、彼自身は反共産主義者の調査を免れたものの、ホワイトが問題に巻き込まれたため、彼に「感染した」者は皆困難に直面した、と語っています。彼の電話はFBIによって盗聴され、国務省での仕事中に発言した内容やゴシップ、誤報がジョージ・ソコルスキーのようなコラムニストに流されたと言われています。キンドルバーガーは、J・エドガー・フーヴァーがそうしたゴシップを彼らに与えていたと述べており、この経験は、政治的思惑による個人への干渉の危険性を示唆するものとして、彼の心に深く刻まれました。
2.2. 学術活動
1948年以降、キンドルバーガーはマサチューセッツ工科大学(MIT)の国際経済学教授に任命されました。彼は、この職を1976年にフルタイムの地位から退くまで務め、その後も1981年に完全に教職から引退するまで上級講師として教え続けました。
MIT在籍中、彼はフォード国際経済学教授の地位も保持しました。彼の学術活動は教育だけでなく、研究にも及び、特に経済史と国際金融の分野で顕著な貢献をしました。
2.3. その他の専門的経歴
キンドルバーガーは、学術界や公職以外にも、いくつかの重要な機関で専門的な経験を積みました。彼は外交問題評議会(CFR)のワーキンググループに参加していました。これらの経験は、彼の理論的な枠組みを実際の政策議論や国際関係の文脈に結びつける上で貴重なものでした。
3. 主要な経済理論と著作
キンドルバーガーの経済思想は、国際経済学、金融危機、経済発展という多岐にわたる分野で、その独特な研究方法論と深い洞察によって特徴づけられます。
3.1. 研究方法論と特徴
経済史家としてのキンドルバーガーは、数学的モデルに依拠するのではなく、物語的なアプローチを重視しました。彼の著作『大不況下の世界 1929-1939』の序文では、「それは、表計算なしで、単に語られた物語である」と述べており、データよりも歴史的事実の検証を通して結論を導き出す彼の姿勢が示されています。
彼の研究方法は、興味深い事例を収集し、検証し、分類することに重きを置いており、その取り組みはまるで自然科学者のようだったと言われています。経済学者のロバート・ソローは、キンドルバーガーの研究を、ビーグル号で航海した時のチャールズ・ダーウィンに喩えました。この比喩は、彼のデータ収集の徹底ぶりと、そこから新たな知見を導き出す類まれな能力を的確に表現しています。キンドルバーガーのこのようなアプローチは、経済学が単なる抽象的なモデル構築に留まらず、歴史の具体的な文脈の中で理解されるべきであるという、より包括的で社会的な視点を提供しました。
3.2. 覇権安定論
キンドルバーガーの主要な理論の一つである覇権安定論は、国際経済の安定には、開放的な市場の維持、景気循環に逆行する長期的な融資の提供、為替レートの相対的安定の監視、国家のマクロ経済政策の調整の確保、そして金融危機における「最後の貸し手」としての流動性供給という、五つの責任を負う「世界的な安定化要因(ヘゲモン)」が必要であると主張します。
彼は、1973年と1986年の著書『大不況下の世界 1929-1939』の中で、世界恐慌の異例の長さと深刻さは、第一次世界大戦後に英国がその役割を担えなくなった際に、米国が世界経済のリーダーシップを引き継ぐことに躊躇したためであると結論付けています。彼は、「世界経済が安定するためには、安定化要因が必要であり、それは一つの安定化要因である」と述べ、特に戦間期においては米国がその役割を果たすべきだったと強調しています。
キンドルバーガーは、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツによる世界恐慌のマネタリスト的な見解を、あまりにも狭く、独断的であるとして強く懐疑的でした。また、ポール・サミュエルソンによる「偶然」または「好都合な」解釈を、彼は考慮に値しないものとして退けました。彼の『大不況下の世界』は、ジョン・ケネス・ガルブレイスによって「このテーマに関する最高の書」と評されました。
キンドルバーガーにとって、国際機関の主な問題は、国家がフリーライド(ただ乗り)しようとする誘因がある公共財を提供することにありました。マンサー・オルソンに続き、キンドルバーガーは、フリーライド問題の解決策は、協力のコストを単独で負担するに足るほど大きな主体(ヘゲモン)が存在し、かつそうする意思があることだと主張しました。この理論は、国際的な協力と安定を重視する彼の姿勢を明確に示しています。
3.3. 金融危機分析
キンドルバーガーの代表作の一つである『熱狂、恐慌、崩壊:金融危機史』(1978年)は、投機的なバブルとその崩壊のパターンを分析し、金融危機に関する深遠な洞察を提供しました。この本は、2000年のITバブル崩壊後に再版されるなど、その時宜を得た内容が評価され、現在でも米国のMBAプログラムで広く使用されています。
彼は、バブル経済についていくつかの明確なパターンを見出しました。
- 資産価格のバブルは、信用拡大に依存します。所得が増える見込みのない借り手に対して貸し手が積極的に融資するパターンが見られます。
- 資産価格のバブルには、見過ごされたリスクが存在します。貸し手は、新しい債務商品が安全であると信じており、こうした安全に見える債務(債券)によってバブルが増幅されます。
キンドルバーガーは晩年、不動産市場に特に注目していました。2002年のウォールストリートジャーナルのインタビューでは、銀行がこぞって住宅担保ローンを売ろうとしている状況を「危険な兆候」だと語っていました。彼の死後である2007年には、まさに彼が危惧していたサブプライム住宅ローン危機が発生し、その後の世界金融危機へとつながったことから、彼の先見の明が改めて評価されています。
3.4. その他の経済理論と概念
キンドルバーガーは、覇権安定論や金融危機分析以外にも、幅広い分野で重要な経済理論と概念に貢献しました。
彼の著書『Europe's Postwar Growth. The Role of Labor Supply英語』(1967年)では、第二次世界大戦後の数年間における西ヨーロッパの爆発的な経済成長の要因について分析しています。彼は、旧東ドイツ、トルコ、ユーゴスラビア、スペイン、アルジェリアからの外国人労働者がいなければ、ドイツやフランスの経済的奇跡は起こらなかったであろうと論じ、労働供給の役割が戦後復興に不可欠であったことを強調しました。これは、経済発展における人的資源の重要性と、国際的な労働移動の肯定的な側面を浮き彫りにするものであり、社会の多様な貢献を認識する視点と合致します。
また、1972年の論文「The Benefits of International Money英語」では、国際通貨がもたらす恩恵についても考察しています。彼の初期の著書『International Economics英語』(原書1953年)は、その後も版を重ね、E. デスプレとW.S. サラントという新たな共著者と共に現在も読まれ続けている成功した作品です。彼の著作は、優れた文体だけでなく、気品と魅力が感じられると評されています。
4. 主要な著書と出版物
キンドルバーガーは1937年の『International Short-Term Capital Movements英語』を皮切りに、1950年以降も多数の著作を執筆し、生涯で30冊以上の本を出版しました。以下は彼の主要な著書の一部です。
- 『International Short-term Capital Movements英語』 (New York: Columbia University Press, 1937)
- 『International Economics英語』 (Irwin, 1953)
- 『Economic Development英語』 (New York, 1958)
- 『Foreign Trade and the National Economy英語』 (Yale, 1962)
- 『Europa and the Dollar英語』 (Cambridge, Massachusetts, London, 1966)
- 『Europe's Postwar Growth. The Role of Labor Supply英語』 (Cambridge, Massachusetts, 1967)
- 『American Business Abroad英語』 (New Haven, London, 1969)
- "The Benefits of International Money英語". Journal of International Economics 2 (Nov. 1972): 425-442.
- 『The World in Depression: 1929-1939英語』 (University of California Press, 1973; 1986年改訂増補版)
- 『Manias, Panics, and Crashes: A History of Financial Crises英語』 (Macmillan, 1978)
- 『A Financial History of Western Europe英語』 (New York, 1984)
- 『Historical Economics - Art or Science?英語』 (1990)
- 『World Economic Primacy: 1500 - 1990英語』 (Oxford University Press, 1996)
- 『Centralization versus Pluralism英語』 (Copenhagen Business School Press, 1996)
- 『Economic Laws and Economic History英語』 (Cambridge University Press, 1997)
5. 私生活と死
チャールズ・P・キンドルバーガーの私生活は、彼の学術的・公的なキャリアを支える安定した基盤となっていました。
5.1. 私生活
キンドルバーガーは、サラ・マイルズ・キンドルバーガーと59年間結婚していました。彼らには、チャールズ・P・キンドルバーガー3世、リチャード・S・キンドルバーガー(『ボストン・グローブ』紙の記者)、サラ・キンドルバーガー、E・ランダル・キンドルバーガーという四人の子供がいました。
5.2. 死去
チャールズ・P・キンドルバーガーは、2003年7月7日にマサチューセッツ州ケンブリッジで、92歳で脳卒中のため亡くなりました。
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6. 受賞と栄誉
キンドルバーガーは、その傑出したキャリアを通じて、数々の賞や名誉、学術会員の資格を授与されました。
- 1944年: ブロンズスターメダル
- 1945年: レジオン・オブ・メリット
- 1954年: アメリカ芸術科学アカデミー会員に選出
- 1966年: パリ大学名誉博士号
- 1977年: ゲント大学名誉博士号
- 1978年: 世界経済研究所(ドイツ、キール)ハルムズ賞
- 1981年: バーモント州のミドルベリー大学客員教授
- 1984年: ペンシルベニア大学名誉理学博士号
- 1984年: アメリカ経済学会会長
- 1987年: アメリカ哲学協会会員に選出
- 1989年: ジョージタウン大学建国200周年記念メダル
7. 遺産と評価
チャールズ・P・キンドルバーガーの経済学への貢献は、今日においても広く認識されており、彼の理論と洞察は後世に大きな影響を与え続けています。
7.1. 肯定的評価
キンドルバーガーは、「金融危機に関するジャンルの達人」と『エコノミスト』誌から評されるなど、その金融危機分析に関する洞察力は高く評価されています。彼の著書『熱狂、恐慌、崩壊』は、そのバブル経済と金融危機に関する明快なパターン分析により、現在でも米国のMBAプログラムで広く使用されており、経済学の重要な古典としての地位を確立しています。
特に、彼が晩年に指摘した不動産市場における危険な兆候は、その後のサブプライム住宅ローン危機の発生によって、彼の先見の明を裏付けるものとなりました。彼の研究方法論は、数学的モデルに過度に依存せず、歴史的事実の検証と物語的なアプローチを重視するものであり、経済の複雑な動きを人間的・社会的な文脈で理解しようとする彼の姿勢は、多くの学者から賞賛されています。また、彼の著作は、単に内容が優れているだけでなく、その文章が「気品と魅力が感じられる」と評されるほど、優れた文体を持っていることでも知られています。
7.2. 批判と論争
キンドルバーガー自身は1950年代の赤狩りの際に反共産主義者としての調査を免れましたが、かつてアメリカ合衆国財務省で共に働いたハリー・デクスター・ホワイトが問題に巻き込まれたことで、彼自身もFBIによる電話盗聴や、国務省での発言が誤報としてコラムニストに流されるといった困難を経験しました。これは、彼のキャリアに直接的な批判というよりは、外部の政治的状況が学者の活動に影響を及ぼす可能性を示す事例として挙げられます。
7.3. 影響と波及力
キンドルバーガーの理論は、経済思想、政策、そして社会に具体的な影響を与えました。彼の覇権安定論は、国際経済の安定にはリーダーシップを発揮する国家が必要であるという概念を確立し、国際関係論や国際経済学において重要な枠組みを提供しました。この理論は、国際協力やグローバルな課題への対応の重要性を強調する視点に繋がります。
また、彼の金融危機に関する研究は、投機的なバブルが社会に与える破壊的な影響を浮き彫りにし、政策立案者や一般市民が金融システムの脆弱性を理解する上で不可欠なものとなっています。彼の著書『熱狂、恐慌、崩壊』が現在も世界中の大学で教えられ続けていることは、彼の思想が現代経済における金融危機の分析と理解に与える影響力を明確に示しています。彼は、経済現象を単なる数字の動きとして捉えるのではなく、歴史的文脈や人間の心理といった多角的な視点から分析することの重要性を後世に伝えました。