1. 概要
ドン・レオ・ジョナサン(本名:ドン・ヒートン、1931年4月29日 - 2018年10月13日)は、アメリカ合衆国出身のプロレスラーである。彼は「人間台風」や「モルモンの暗殺者」という異名で知られ、また「ザ・モルモン・ジャイアント」の愛称も持っていた。そのナチュラルな巨体と並外れた身体能力は、「ルー・テーズを超える」と評されるほどの高い実力を誇った。
社会の公平性や人権、民主主義の発展といった観点から見ると、ジョナサンのキャリアは彼のプロレス界への貢献だけでなく、その晩年における行動も特筆される。彼はプロレスラーとしての激しい肉体労働がもたらす健康問題に対し、所属団体であったWWEを相手取った集団訴訟に参加した。この行動は、プロレスラーの健康と安全、そして企業の説明責任という社会的な問題提起となり、その後のプロレス界におけるアスリートの権利保護を考える上で重要な意味を持つ。本項目では、ジョナサンのプロレスラーとしての輝かしい功績に加え、彼の社会的な影響についても記述する。
2. 生い立ちと初期のキャリア
ドン・レオ・ジョナサンの出生地、家族、教育背景、そしてプロレスラーデビュー以前の海軍での活動について記述する。
2.1. 出生、家族、教育
ドン・レオ・ジョナサンことドン・ヒートンは、1931年4月29日にアメリカ合衆国ユタ州ハリケーンで生まれた。彼の家族はモルモン教を信仰しており、彼自身もモルモン教徒として育った。父親は元プロレスラーのブラザー・ジョナサン・デローン・ヒートンであり、リングにペットのガラガラヘビ「コールド・チルズ」を連れて入り、聖書の一節を唱えながらレスリングを行うことで「ソルトレイク・ガラガラヘビ」の異名で知られていた。ドン・レオ・ジョナサンは父親の指導のもと、幼い頃からプロレスラーになるためのトレーニングを積んだ。また、高校時代にはアメリカンフットボールをプレイし、武道も学んだ。
2.2. プロレスラー以前の活動
プロレスラーとしてデビューする前の社会活動として、ドン・レオ・ジョナサンはアメリカ合衆国海軍の水兵として兵役に就いていた。
3. プロレスラーとしてのキャリア
ドン・レオ・ジョナサンのプロレスラーとしてのデビューから、カナダ、アメリカ、そして世界各地での活躍、そして引退と晩年の栄誉について記述する。
3.1. デビューと初期の活動
ドン・レオ・ジョナサンは第二次世界大戦後、具体的には1949年にプロレスラーとしてデビューした。当初は太平洋岸から北東部まで各地を転戦し、経験を積んだ。彼の初めての選手権獲得経験は、1953年11月24日にカナダのオタワで行われ、キラー・コワルスキーからモントリオール版世界ヘビー級王座を奪取した。1955年にはモントリオールでMAC世界ヘビー級王座を二度獲得している。
3.2. カナダとアメリカでの主な活躍
ドン・レオ・ジョナサンの主要な活動拠点はカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバー地区であり、彼は1963年以降、同州のラングリーに居を構えた。バンクーバーを本拠地とし、彼はNWAオールスター・レスリングで頻繁に試合を行い、1970年から1977年にかけてNWA太平洋岸ヘビー級王座を5回獲得した。また、1966年にはドミニク・デヌーチと組んでNWA世界タッグ王座を獲得し、1964年から1978年にかけてはNWAカナディアン・タッグ王座を記録的な18回も獲得した。彼はNWA世界ヘビー級王座にも、ジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコといった王者たちに挑戦した。NWAオールスター・レスリングでは、キニスキーやダッチ・サベージとのライバル関係を築き、また彼らとタッグを組むこともあった。
アメリカ合衆国では、NWA傘下のトロントにおけるメープル・リーフ・レスリングで活躍し、1959年にはキニスキーと組んでNWAカナディアン・オープン・タッグ王座を獲得した。ウィニペグのアレックス・ターク・プロモーションズでも活動し、インターナショナル・タッグ王座を2回獲得した。1961年にはAWA系のネブラスカ州オマハ版世界ヘビー級王座を3度獲得している。
彼はニューヨークのWWWFにも度々登場し、グラン・ウィザードをマネージャーに据えたヒールとして活躍した。1973年にはペドロ・モラレスが、1974年にはブルーノ・サンマルチノが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦している。特に1974年1月14日には、マディソン・スクエア・ガーデンにおけるサンマルチノの初防衛戦の相手を務めた。
注目すべき試合として、1972年5月31日には「世紀の一戦」と銘打たれた試合でアンドレ・ザ・ジャイアント(当時のリングネームはル・ジェアン・ジャン・フェレ)を反則負けで破った。同年9月7日には「巨人の戦い」と称される再戦でアンドレに反則負けを喫している。
3.3. 国際的な活動
ドン・レオ・ジョナサンは、そのキャリアを通じて世界各地で活躍した。
日本へは1958年9月に日本プロレスに初参戦し、10月2日の蔵前国技館大会では力道山のインターナショナル・ヘビー級王座初防衛戦の相手を務めた。この初来日時には、テレビ番組『三菱ダイヤモンド・アワー プロレスリング中継』の放送開始プロモーションとして、スカイ・ハイ・リーと共にオープンカーでのパレードにも参加した。1967年5月から6月にかけての再来日時には、ダッチ・サベージ、リップ・ホーク、スウェード・ハンセンらを従えて、ジャイアント馬場やアントニオ猪木と対戦した。1970年4月開催の『第12回ワールドリーグ戦』では、予選リーグで猪木に敗れたものの、外国陣営でトップの成績を収めて決勝戦に進出し、馬場と優勝を争った。
国際プロレスにも1972年3月開催の『第4回ワールド・シリーズ』に参戦し、当時モンスター・ロシモフと名乗っていたアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。予選リーグではアンドレに首位を奪われたが、敗者復活戦を勝ち抜き決勝トーナメントに進出。準決勝でストロング小林に敗れたものの、3位決定戦でバロン・フォン・ラシクを破り、シリーズ3位の好成績を残した。
1973年1月からは、前年10月に旗揚げした全日本プロレスにも参戦。馬場とは彼がアメリカ修業時代に「巨人コンビ」を結成した旧知の仲であった。1月24日の日本大学講堂大会では、馬場の「世界ヘビー級争覇戦」(PWFヘビー級王座の初代王者決定戦)における対戦相手の一人として起用された。1975年12月には『オープン選手権』に参加し、ドリー・ファンク・ジュニア、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミスター・レスリング、ザ・デストロイヤー、ラッシャー木村、グレート草津といった強豪たちと公式戦で激突した。
海外遠征では、1970年代に南アフリカ共和国にも遠征し、1975年にジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取した。また、1977年9月1日にはヨハネスブルグでオットー・ワンツを破りCWA世界ヘビー級王座を獲得。このタイトルは翌1978年7月15日にオーストリアグラーツでワンツに奪還されるまで保持していたとされる。オーストラリアのジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリングでは、アントニオ・プリエーゼをパートナーに、1969年にIWA世界タッグ王座をスカル・マーフィー&ブルート・バーナードやマリオ・ミラノ&ザ・スポイラーといったチームと争った。
3.4. 引退と晩年の栄誉
ドン・レオ・ジョナサンは1980年にプロレスラーとしてのキャリアを引退した。引退試合は1980年3月10日にバンクーバーで行われ、アンドレ・ザ・ジャイアントやロディ・パイパーとタッグを組み、ザ・シープハーダーズとバディ・ローズ組に勝利した。
引退後も彼はスポーツ界への貢献が認められ、数々の栄誉に輝いた。2005年11月5日には、ブリティッシュコロンビア州サレーで開催されたトップ・ランクド・レスリングのイベントで、彼のプロレス界への貢献を称える特別式典が催された。2006年5月20日には、ニューヨーク州アムステルダムにあるプロレスリング・ホール・オブ・フェイムに殿堂入りを果たした。
ジョナサンはジャイアント馬場との交友が深く、1989年1月には全日本プロレスのレトロ企画『OLDIES BUT GOODIES』の第一回ゲストとして、1978年の『第6回チャンピオン・カーニバル』以来11年ぶりに来日した。彼は映画にも出演しており、シルヴェスター・スタローン主演の1978年の映画『パラダイス・アレイ』にレスラーの一人として登場している。
4. レスリングスタイルと得意技
ドン・レオ・ジョナサンは、その巨体に似合わない卓越した運動神経と多彩なレスリングテクニックを併せ持っていた。彼は「トンボを切れる」と評されるほどの敏捷性を持ち、実際の試合ではキーロックを仕掛けたジャイアント馬場やジャンボ鶴田を軽々と担ぎ上げたり、コーナーポスト最上段の相手にドロップキックを放って場外に叩き落としたりする場面も見られた。怪力無双のエピソードも数多く、300 kgもの大鹿を狩猟で仕留め、それを担いで山を降りたという話も残されている。
彼の主な得意技は以下の通りである。
- ハイジャック・バックブリーカー
- ジャイアント・スイング
- サンセット・フリップ
- スタンプ・ホールド
5. 私生活
ドン・レオ・ジョナサンは1963年以降、カナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバーに居住していた。彼はローズという女性と結婚していた。プロレスラー引退後は、水中発明や探査の分野でキャリアを追求した。個人的な健康問題としては、膀胱がんを克服している。
2016年7月、ジョナサンはWWEに対して起こされた集団訴訟に名を連ねた。この訴訟は、レスラーたちが現役時代に外傷性脳損傷を負い、WWEがその危険性を隠蔽したと主張するものであった。この訴訟は、過去にもWWEに対して多数の訴訟に関与してきた弁護士コンスタンティン・カイロスによって提訴された。しかし、彼の死去の約1ヶ月前である2018年9月、連邦地方裁判所のヴァネッサ・リン・ブライアント判事によってこの訴訟は棄却された。
6. 死去
ドン・レオ・ジョナサンは2018年8月末頃にブリティッシュコロンビア州ラングリーの病院に入院し、そのまま退院することなく、2018年10月13日に87歳で死去した。
7. 獲得タイトルと功績
ドン・レオ・ジョナサンが現役中に獲得した主なチャンピオンシップタイトルと受賞歴は以下の通りである。
団体名 | 獲得タイトル | 獲得回数 | パートナー |
---|---|---|---|
アレックス・ターク・プロモーションズ | NWAインターナショナル・タッグ王座(ウィニペグ版) | 2回 | ホイッパー・ビリー・ワトソン、ジム・ヘイディ |
AWA | 世界ヘビー級王座(オマハ版) | 3回 | |
キャッチ・レスリング・アソシエーション | CWA世界ヘビー級王座 | 1回 | |
カリフラワー・アレイ・クラブ | アイアン・マイク・マズアキー賞 | 2007年 | |
ヨーロピアン・レスリング・ユニオン | EWU世界スーパーヘビー級王座 | 1回 | |
グランプリ・レスリング | GPWヘビー級王座 | 1回 | |
インターナショナル・レスリング・アソシエーション (モントリオール) | IWA世界ヘビー級王座 | 2回 | |
メープル・リーフ・レスリング | NWAカナディアン・オープン・タッグ王座 | 1回 | ジン・キニスキー |
ミッドウエスト・レスリング・アソシエーション (オハイオ) | MWAアメリカン・タッグ王座 | 1回 | レイ・スターン |
NWAオールスター・レスリング | NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版) | 18回 | キンジ渋谷、ロイ・マクラティ、ジン・キニスキー、ジム・ヘイディ、ヘイスタック・カルホーン(2回)、ドミニク・デヌーチ、ロッキー・ジョンソン、スカイ・ハイ・ジョーンズ、パット・バレット、ジョニー・コスタス、ジョン・トロス、ダンカン・マクタビッシュ、スティーブン・リトル・ベア、ジミー・スヌーカ、ジョン・アンソン、ダッチ・サベージ、ビッグ・ジョン・クイン |
NWAオールスター・レスリング | NWA太平洋岸ヘビー級王座(バンクーバー版) | 5回 | |
NWAオールスター・レスリング | NWA世界タッグ王座(バンクーバー版) | 1回 | ドミニク・デヌーチ |
プロレスリング・ホール・オブ・フェイム | テレビ時代(2006年) | 殿堂入り | |
サウスウエスト・スポーツ | NWAテキサス・ブラスナックル王座(テキサス版) | 1回 | |
サウスウエスト・スポーツ | NWAテキサス・ヘビー級王座 | 2回 | |
スタンピード・レスリング | NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版) | 2回 | |
スタンピード・レスリング | スタンピード・レスリング殿堂 | 1995年 | |
ワールド・チャンピオンシップ・レスリング | IWA世界タッグ王座 | 2回 | アントニオ・プリエーゼ |
ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ | WWAインターナショナルTVタッグ王座 | 1回 | ロード・レスリー・カールトン |
ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ | WWA USタッグ王座 | 1回 | フレッド・ブラッシー |
ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ | NWA "ビート・ザ・チャンプ" テレビジョン王座 | 2回 | |
レスリング・オブザーバー・ニュースレター | レスリング・オブザーバー・ニュースレター殿堂 | 1996年 |
8. 評価と影響
ドン・レオ・ジョナサンは、その驚異的な身体能力とレスリング技術により、プロレス界で非常に高く評価されている。彼のレスリングスタイルは、巨体からは想像できないほどの敏捷性と多彩な技を特徴とし、「ルー・テーズを超える」と評されるほどの実力者であった。しかし、彼がメジャー団体でのビッグタイトルに恵まれなかった背景には、プロレス以外のサイドビジネス(潜水事業の運営)に注力していたことが影響しているとされている。この選択は、彼のキャリアにおけるタイトル獲得数には影響を与えたものの、その技術力やリング上での存在感に対する評価を損なうことはなかった。
彼の技術力やタイトル獲得過程は、単なる試合結果だけでなく、プロレスの芸術性やアスリートとしての才能を示すものとして議論されることが多い。特に、ジャイアント馬場やアントニオ猪木、そしてアンドレ・ザ・ジャイアントといった伝説的なレスラーたちと繰り広げた名勝負は、プロレス史に残る記憶として語り継がれている。
晩年におけるWWEに対する集団訴訟への参加は、ジョナサンが単なるアスリートに留まらず、プロレスラーの人権と健康問題という社会的な課題に積極的に関わった人物であることを示している。この訴訟は、プロレスラーがキャリアを通じて負う可能性のある外傷性脳損傷のリスクと、それに対する団体の責任を問いかけるものであった。結果として訴訟は棄却されたものの、ジョナサンのこの行動は、プロレス界における労働者の権利、安全性、そして企業統治のあり方について、重要な議論を提起した。これは、社会の公平性や民主主義の発展という観点から、彼の功績を評価する上で不可欠な要素である。彼の行動は、プロレスラーという特殊な職業に従事する人々の福祉と尊厳を守るための闘いの一端を担ったものとして、記憶されるべきである。