1. 生い立ちと背景
ネーメト・ミクローシュは、貧しいカトリック農民の家庭に生まれ、その幼少期は第二次世界大戦後のハンガリーの激動の時代と重なる。彼の家族背景と教育は、その後の政治キャリアに大きな影響を与えた。
1.1. 出生と家族
ネーメトは1948年1月24日、ラヨシュ・コシュートの生誕地でもある旧ゼンプレーン県(現:ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県)モノクで生まれた。彼の母方はシュヴァーベン系であり、スタイス家は18世紀にカーロイ家によって再定住させられた人々である。彼の祖父は1944年秋にモノクからソビエト連邦に強制送還され、1951年になってようやく帰国できた。彼の父アンドラーシュ・ネーメトは敬虔なカトリック教徒で、1942年のヴォロネジの戦いで戦い、1943年初頭のドン川での小土星作戦によるソ連の攻勢を生き延び、1946年にハンガリーに帰国した。
ネーメトの政治生活には、このようなキリスト教徒の家庭背景と共産党員としてのキャリアという二重のアイデンティティが存在した。例えば、1971年にエルジェーベト・シラージと結婚した際には、民事婚に加えて教会婚も行った。ネーメトは1956年ハンガリー革命の際には8歳だった。この出来事については断片的な経験しか持っていないが、両親がラジオ・フリー・ヨーロッパを聞いていたこと、村の広場に1848年革命の旗が立てられたこと、地元の党書記が逮捕され、革命家たちに主の祈りを暗唱させられたことなどを覚えている。国家のプロパガンダと情報隠蔽のため、彼はアメリカ合衆国に留学するまで、これらの出来事の全体像を知ることはできなかった。
1.2. 教育
ネーメトはセレンチで小学校を卒業した後、1962年にミシュコルツのベルツェヴィツィ・ゲルゲイ商業・ケータリング学校に入学し、神学者で歴史家のガーボル・デアークから教えを受けた。1966年に最終試験に合格し、その後カール・マルクス経済大学(現:ブダペシュト・コルヴィヌス大学)に入学した。共産主義時代の学術システムにおいて、この大学は、1968年に一部の市場経済と資本主義的要素を導入した「新経済メカニズム」という主要な経済改革の準備と実施に参加した、強力で影響力のある学長カールマーン・サボーのおかげで、ある程度の自治権を持っていた。この改革志向の指導部の下で、正統マルクス主義の専門家ではなく、西洋の主流カリキュラムに精通し、海外留学の機会も得た新しい経済学者たちが育った。
ネーメトは1971年に大学を卒業し、その後は助教、そして大学教授となった。彼は1975年から1976年の学期に国際研究交流委員会の奨学金を得てアメリカ合衆国に留学し、ハーバード大学で学んだ。そこで彼は意思決定理論、費用便益分析、商法を学んだ。後に彼は強硬派の共産主義指導者たちから、ハーバード大学在学中に中央情報局(CIA)に採用されたと非難されたが、彼はこれらの告発を「ばかげている」と一蹴した。
2. 初期キャリア
ネーメトの大学卒業後のキャリア初期段階は、経済学研究と国家計画業務に集中し、その中でハンガリーの経済的実情を深く理解する機会を得た。
2.1. 大学でのキャリアと初期の職務
大学を卒業後、ネーメトは助教、後に大学教授として勤務した。1977年からは経済大学を離れ、国家計画庁(OT)で働き始めた。この時期に彼はハンガリー社会主義労働者党(MSZMP)に入党した。1978年までは理論研究者として活動し、その後、同庁の経済部門に異動した。そこでは、工業、農業、社会などの調査に関する簡略化された計画文書の作成が彼の役割であり、これらの草案は閣僚評議会に送付された。ネーメトによれば、この職務を通じて彼はハンガリーの経済的現実と、その莫大な公的債務の真の規模を認識するようになった。共産主義政権とハンガリー国立銀行は二重帳簿をつけており、党の政治局の大多数でさえ、実際のデータを知らされていなかったという。
2.2. 党内での活動と経済分野での役割
1981年、ネーメトはハンガリー社会主義労働者党の経済部門で働き始めた。1982年にはフェレンツ・バルタと共に、国際通貨基金(IMF)の代表であるアラン・ウィットムやジャック・ド・ラロジエールと交渉を行った。また、彼はソ連を迂回して中華人民共和国からの融資を求める会議にも参加した。この交渉では周恩来総理と会談した。
ミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となった1986年、ネーメトは経済部門の責任者に任命された。以前から新書記長を知っていたネーメトは、社会、政治、経済の改革を伴う新しい時代が来ると予期していた。1987年6月には、経済政策担当書記として中央委員会に昇格した。1988年5月には政治局員に昇格した。この時期、長年書記長を務めたカーダール・ヤーノシュが首相のグロース・カーロイに交代し、グロースは「テクノクラート」政府の樹立を目指し、ネーメトにドイツ銀行との間で10億10.00 億 DEMの融資交渉を委任した。
3. ハンガリー首相
共産主義体制の終焉と民主化への移行という激動の時代において、ネーメトはハンガリーの首相として重要な役割を果たした。
3.1. 首相就任と内閣の編成

1988年夏、書記長グロースは首相職を辞任し、党の組織に専念する意向を発表した。彼は従来の慣例とは異なり、地方の党委員会、労働組合、愛国人民戦線と協議するため、レジェー・ニエルシュ、イムレ・ポジュガイ、イロナ・タタイ、パール・イヴァーニの4人を首相候補に指名した。グロースは壊滅的な経済状況と差し迫った債務不履行を認識しており、ネーメトも経済専門家としての評判を確立していたため、候補に指名された。最終的に高齢のニエルシュはネーメトに有利な形で立候補を取り下げた。ネーメトは1988年11月24日に宣誓就任した。当時、彼はパキスタンのベーナズィール・ブットーが1988年12月に首相に選出されるまで、世界で最も若い政府首脳であった。
ネーメトは、それまでの政府で閣僚や国務長官の職務を経験したことがなかったため、比較的低い地位から首相に就任した。また、彼はグロース内閣から影響力のある閣僚(フリジェシュ・ベレツやイシュトヴァーン・ホルヴァートなど)を「引き継いだ」ため、党内ではネーメトが数ヶ月間はグロースの側近であるという憶測が流れた。ネーメトによれば、翌年の予算がまだ作成されていなかったため、予算削減なしではシステムは維持不可能であり、グロースの目標は、自身の権力と共産主義イデオロギーを守るために、首相をスケープゴートにすることであった。強硬派と改革派の間の対立は、グロースがブダペスト・スポーツツサルノクで行った演説で階級闘争の激化に言及し、白きテロがハンガリーに戻る可能性を示唆したことで拡大した。
ネーメトは徐々に党指導部から距離を置いた。後任が自立するとは考えていなかったグロースは、ネーメトの電話を盗聴し、後にネーメトのスタッフは首相公邸で盗聴器を発見した。数ヶ月の間に強硬派は恒久的に弱体化し、政治局と愛国人民戦線は閣僚候補を指名する権利を放棄した。そして1989年5月10日までに、ネーメトは閣僚の構成を完全に刷新することに成功した。彼は内閣を、一党独裁制から民主主義への移行を担う「専門家政府」へと変革した。この時、改革派のジュラ・ホルン、ラースロー・ベーケシ、チャバ・ヒュッテル、フェレンツ・グラツ、フェレンツ・ホルヴァートが閣僚に就任した。その後、ネーメト政府はハンガリー社会主義労働者党ではなく、国民議会の権限下に置かれることになった。
3.2. 民主化への移行と共産主義体制の終焉
ネーメト政権は、共産主義体制の解体とハンガリーの民主主義システムへの移行を促進するために、重要な政策や決定を下した。
3.2.1. オーストリア国境の開放
1988年11月に首相に就任した後、ネーメトは長らく旅行が制限されていた東ドイツ市民がハンガリーを経由して西ドイツへ移動することを許可するという、物議を醸す決定を下した。ネーメト内閣は1989年3月からオーストリア国境との鉄条網の一部撤去を開始し、「鉄のカーテン」を取り払った。1989年8月19日に民主化勢力による汎ヨーロッパ・ピクニックがオーストリア国境で実施されたが、ネーメトはイムレ・ポジュガイ政治局員ら党内の急進改革派と共にこれを後援した。1989年9月11日には、ネーメト内閣は東ドイツ市民がオーストリア経由で西ドイツに向かう際に、ハンガリーを通過することを正式に許可した。この決定により、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー書記長から激しい抗議を受けることとなった。
3.2.2. ベルリンの壁崩壊への寄与
ハンガリーの国境政策は、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊に寄与した要因として広く認識されている。ネーメトはソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長と秘密裏に会談し、ソ連軍が1956年のハンガリー動乱のようにハンガリーの内政に介入しないことを確認していた。ゴルバチョフは1989年3月には、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放した後も、ソ連が武力を行使しないことを約束していた。また、ネーメト政権は西ドイツ政府とも非公式に連携していた。これらの動きが、ベルリンの壁崩壊および東欧における共産主義体制崩壊という広範な出来事に影響を与えた。
3.2.3. 党と国家の変革
1989年10月7日、ハンガリー社会主義労働者党は中道左派の社会民主主義政党であるハンガリー社会党へと移行し、ネーメトもその創設メンバーとなった。1989年10月23日に議会が憲法改正を可決し、憲法から共産主義的な性格が削除された後、ネーメトは第三ハンガリー共和国の初代(暫定)首相となり、ハンガリーの新しい指導者となった。
4. 首相退任後のキャリア
首相職を退いた後も、ネーメトは国際機関や国内政治において重要な役割を果たし続けた。
4.1. 欧州復興開発銀行 (EBRD) 副総裁
1990年の共産主義崩壊後初の自由選挙でアンタル・ヨージェフ率いるハンガリー民主フォーラムに敗れ、同年5月23日に首相を辞任した。その後、ネーメトは1991年4月までセレンチ選出の無所属議員を務めた。
彼はその後、ロンドンに本部を置く欧州復興開発銀行(EBRD)の副総裁を務めた。EBRDは、東欧および中央ヨーロッパ諸国、そして旧ソ連諸国が民主的な市場経済へ移行するのを支援するために国際社会によって設立された金融機関である。ネーメトは2000年にEBRDを退職し、ハンガリーに帰国した。
4.2. 後期の政治活動と国連調査
ハンガリー帰国後、彼は野党ハンガリー社会党の首相候補を目指したが、メッジェシ・ペーテルがその役割に任命されたため、成功しなかった。メッジェシは後に首相に就任した。
2007年、ネーメトは国連事務総長潘基文から、国際連合開発計画(UNDP)による北朝鮮への資金不正使用を調査する任務を委任された。これに先立ち、中央情報局(CIA)はUNDP総裁ケマル・デルヴィシュに対し、北朝鮮政権が食糧援助として送られた紙幣を偽造・再印刷していると通報していた。ネーメトは3人からなる調査委員会を率い、この無許可の資金使用と、カイロおよびマカオにある配布支部の存在を確認した。2008年6月には、380ページにわたる報告書が公表された。
4.3. 受賞歴と顕彰
ネーメトは、ドイツとヨーロッパの統一における彼の役割を認められ、2014年6月にポイント・アルファ賞を受賞した。また、彼はミハイル・ゴルバチョフ、レフ・ワレサ、ドイツの政治家たちと共に、ベルリンの壁崩壊25周年記念式典にも参加した。あるインタビューでネーメトは、ベルリンの壁の破壊は突然起こったように見えたが、実際には数ヶ月前からその出来事につながる勢いが構築されていたと述べた。
1993年には、ヘリオット・ワット大学から名誉博士号を授与されている。
5. イデオロギーと政治的見解
ネーメト・ミクローシュは、経済学者としての深い知識と、共産主義体制下での改革派としての経験を背景に、ハンガリーの民主化と市場経済への移行を主導した。彼のイデオロギーは、硬直化した計画経済からの脱却と、より開かれた社会の構築を目指すものであった。
彼は、ハンガリーが抱える莫大な公的債務の真の規模を党指導部の誰よりも早く認識し、経済改革の必要性を強く主張した。この認識に基づき、彼は国際通貨基金(IMF)との交渉を進め、西側からの融資導入を積極的に推進した。これは、ソ連の影響下にあった当時の東欧諸国としては異例の動きであり、彼の現実主義的な経済観と、国際社会との協調を重視する姿勢を示している。
首相就任後、彼は「専門家政府」を組織し、政治的イデオロギーよりも実務的な能力を重視する姿勢を明確にした。これは、旧来の共産党の支配構造からの脱却を図り、民主的な統治への移行を円滑に進めるための重要なステップであった。彼の最も象徴的な行動であるオーストリア国境の開放は、人々の移動の自由という基本的な人権を尊重するものであり、鉄のカーテンの撤廃に直接貢献した。この決断は、単なる国境管理の問題に留まらず、東欧全体の民主化運動に拍車をかけるものとなった。
ネーメトは、ハンガリー社会主義労働者党の解体と、中道左派の社会民主主義政党であるハンガリー社会党への移行を主導した。これは、彼が共産主義のイデオロギー的硬直性を克服し、多党制民主主義と市場経済の原則を受け入れる用意があったことを示している。彼の政治的見解は、社会正義と民主主義の発展を重視しつつも、国際的な経済協力と現実的な政策運営を通じて国家の発展を図るという、中道左派的なアプローチに基づいていたと言える。
6. 私生活
ネーメト・ミクローシュの私生活については、公に知られている情報は限られている。彼は1971年にエルジェーベト・シラージと結婚した。この結婚は、当時のハンガリー社会における彼の二重のアイデンティティを象徴するように、民事婚と教会婚の両方が行われた。
7. 評価と遺産
ネーメト・ミクローシュの行動と遺産は、ハンガリーの歴史において極めて重要な時期に果たした彼の役割を反映しており、肯定的な評価と、一部の批判や論争の両方を含んでいる。
7.1. 肯定的評価
ネーメトは、ハンガリーの民主化プロセスにおける彼の役割、特に共産主義体制の平和的な終焉と市場経済への移行を主導した功績で高く評価されている。彼の首相在任中の最も重要な決定の一つであるオーストリアとの国境開放は、東ドイツ市民の西側への脱出を可能にし、ベルリンの壁崩壊の遠因となったと広く認識されている。この行動は、鉄のカーテンの撤廃に向けた決定的な一歩であり、ヨーロッパ統合への貢献として称賛されている。
彼はまた、ハンガリー社会主義労働者党を中道左派のハンガリー社会党へと変革する過程で主導的な役割を果たし、一党独裁体制から多党制民主主義への移行を円滑に進めた。経済学者としての彼の専門知識は、国家の莫大な債務問題に対処し、国際通貨基金(IMF)との交渉を通じて経済の安定化を図る上で不可欠であった。首相退任後も欧州復興開発銀行(EBRD)の副総裁として東欧諸国の経済移行を支援するなど、国際的な舞台でその専門性を発揮し続けた。
7.2. 批判と論争
ネーメトの経歴には、いくつかの批判的な見方や論争点も存在する。その一つは、ハーバード大学留学中に中央情報局(CIA)に採用されたというスパイ容疑である。この告発は、共産主義体制下の強硬派指導者たちによってなされたものであり、ネーメト自身はこれを「ばかげている」と否定している。
また、彼が旧共産党員であったという立場は、一部の反共主義者から批判の対象となった。特に、韓国語版ウィキペディアの記述では、彼の両親がナチス・ドイツに協力した反共主義のファシストであり、帝国主義者であったため、後に彼が家族と絶縁したという非常に強い主張が見られる。しかし、英語版ウィキペディアの記述では、彼の父がヴォロネジの戦いでソ連軍の攻勢を生き延びたという、この主張とは矛盾する情報が提供されている。このため、彼の家族の政治的背景に関するこの主張は、特定の批判者からの論点として慎重に扱う必要がある。
首相退任後、彼は共産主義者からは「アメリカのスパイ」と、反共主義者からは「ソ連のスパイ」と呼ばれ、両陣営から排斥されたという見方もある。これは、彼が激動の移行期において、旧体制と新体制の双方から疑念の目を向けられた複雑な立場にあったことを示している。