1. 概要
ロシア大公女マリヤ・キリロヴナ(Мария Кирилловнаロシア語、1907年2月2日 - 1951年10月25日)は、ロシア帝国の皇族であり、キリル・ウラジーミロヴィチ大公とヴィクトリア・メリタ公女の長女として、亡命生活の中で生を受けた。彼女の生涯は、ロシア革命とその後の亡命、第二次世界大戦という激動の時代に翻弄された個人の苦難を象徴している。両親の結婚が当時のニコライ2世の承認を得られなかったため、彼女はドイツのコーブルクで亡命中に生まれた。家族からはフランス語風の「Marieマリーフランス語」、またはロシア語の愛称「Машаマーシャロシア語」と呼ばれて育った。第一次世界大戦勃発前に一家はロシアへの帰国を許されたものの、1917年ロシア革命の勃発により再び亡命を余儀なくされる。結婚後も、夫が第二次世界大戦中にドイツ軍に徴兵され、ソ連軍の捕虜として強制収容所で餓死するという悲劇に見舞われた。本稿では、個人の人生に多大な影響を与えたこれらのマクロな歴史的事件を、その悲劇的な影響、特に戦争やイデオロギー的対立がもたらした苦難と人権侵害に焦点を当てて叙述する。
2. 生涯
マリヤ・キリロヴナ大公女は、両親の亡命という特殊な環境下で生まれ育ち、その生涯を通じて政治的激動と個人的な苦難に直面した。彼女の人生は、20世紀前半のロシアとヨーロッパを襲った大規模な歴史的事件が、いかに個人の運命を左右し、深刻な影響を与えたかを示す典型的な例である。
2.1. 幼少期と育成
マリヤ・キリロヴナは、1907年2月2日にドイツのコーブルクで生まれた。当時、彼女の両親であるキリル・ウラジーミロヴィチ大公とヴィクトリア・メリタ公女は、ロシア皇帝ニコライ2世が結婚を承認しなかったため、ロシア国外での亡命生活を送っていた。幼少期は、コーブルクとフランスのサン=ブリアック=シュル=メールで過ごした。
一家は第一次世界大戦が始まる前に皇帝の許しを得てロシアに帰国したが、1917年ロシア革命の勃発により、再び亡命を余儀なくされた。この革命による亡命は、彼女のその後の人生に決定的な影響を与えた。マリヤは当初、「ロシア公女」の称号を使用していたが、父親が1921年に「帝位保護者」を宣言した際、彼女も「ロシア大公女」の称号と「皇族殿下」の敬称を用いるようになった。
幼い頃のマリヤは、黒髪と暗い目を持ち、母親の祖母にあたるマリア・アレクサンドロヴナ大公女に似ていたとされ、広い丸顔で、若い頃から体重が増えやすく、実年齢よりも老けて見える傾向があった。性格は内気で、穏やかだったが、やや「軽薄」な一面もあったとされている。

1922年、15歳の時、マリヤは叔母であるルーマニア王妃マリアを訪問した際に、ルーマニア宮廷に仕える女官の縁者と親密な関係を持ったとされる。この関係については、13歳の従妹であるイレアナ王女がマリヤの帰国後に噂を広めたため、ルーマニア王妃マリアとマリヤの母ヴィクトリア・メリタとの姉妹関係に一時的な緊張が生じたが、後にこの対立は解消された。
2.2. 結婚と家族

1925年2月24日、マリヤはライニンゲン侯カール6世(1898年2月13日 - 1946年8月2日)と婚約し、同年11月25日に結婚した。彼女は全部で7人の子供をもうけたが、そのうちの1人は第二次世界大戦中に乳児期に亡くなった。
彼女の家庭に悲劇が訪れたのは第二次世界大戦末期だった。夫カールはドイツ軍への入隊を余儀なくされ、終戦間際にソ連軍の捕虜となった。そして1946年、ロシアの強制収容所で餓死するという悲劇的な最期を遂げた。この出来事は、戦争とイデオロギー的対立がいかに個人の人生を破壊し、家族に深い傷跡を残すかを示すものであった。夫の死は、マリヤとその子供たちにとって計り知れない苦難をもたらした。
2.3. その後の人生と死
夫カールを失ったマリヤは、残された6人の子供たちを育てるために、わずかな財産をやりくりして経済的に苦闘する生活を送った。夫の死から5年後の1951年10月25日、マリヤは心臓発作により44歳で急逝した。彼女の死は、戦争の悲劇に続く長年の苦労が、その生涯を縮めた結果ともいえる。
3. 祖先
マリヤ・キリロヴナ大公女の系譜は、ロシアのロマノフ家とヨーロッパの主要な王室・公室が複雑に絡み合っている。彼女はロシア皇帝アレクサンドル2世の曾孫にあたる。
マリヤ・キリロヴナ大公女の祖先は以下の通りである。
- 1. マリヤ・キリロヴナ(ライニンゲン侯妃)
- 2. キリル・ウラジーミロヴィチ大公
- 3. ヴィクトリア・メリタ・オブ・エディンバラ
- 4. ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公
- 5. メクレンブルク=シュヴェリーン女公マリー
- 6. アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)
- 7. マリア・アレクサンドロヴナ大公女
- 8. アレクサンドル2世
- 9. ヘッセン=ダルムシュタット公女マリー
- 10. フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)
- 11. アウグステ・ロイス・ツー・ケストリッツ
- 12. アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)
- 13. ヴィクトリア (イギリス女王)
- 14. アレクサンドル2世 (= 8)
- 15. マリー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (= 9)
4. 子孫と遺産
マリヤ・キリロヴナ大公女と夫カール6世は7人の子供をもうけ、その血統は現代にも続いている。彼女の子孫たちは、ヨーロッパの王室や貴族の家系と結婚し、その系統を広げた。
- エミッヒ・キリル・フェルディナント・ヘルマン(1926年10月18日 - 1991年10月30日):ライニンゲン侯家家長。1950年8月10日、オルデンブルク公女アイリーカと結婚し、4人の子供をもうけた。
- カール・ヴラディーミル・エルンスト・ハインリヒ(1928年1月2日 - 1990年9月28日):1957年2月20日、ブルガリア王女マリヤ・ルイザと結婚したが、1968年12月4日に離婚し、2人の息子をもうけた。
- キーラ・メリタ・フェオドラ・マリー・ヴィクトリア・アレクサンドラ(1930年7月18日 - 2005年9月23日):1963年9月18日、ユーゴスラビア王子アンドレイと結婚し、3人の子供をもうけた。
- マルガリータ・イレアナ・ヴィクトリア(1932年5月9日 - 1994年6月16日):1951年1月5日、ホーエンツォレルン侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚し、3人の息子をもうけた。
- メヒティルデ・アレクサンドラ(1936年1月2日 - 2021年2月12日):1961年11月25日、カール・アントン・バウシャーと結婚し、3人の息子をもうけた。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルトルト(1938年6月18日 - 1999年8月29日):1960年カリン=エヴェリン・ゲースと結婚したが1962年に離婚し、1971年ヘルガ・エッシェンバッヒャーと再婚した。
- ペーター・ヴィクトル(1942年12月23日 - 1943年1月12日):乳児期に死去。
マリヤ・キリロヴナの遺産は、その子孫たちの人生と選択を通じて受け継がれている。彼女自身の人生は、革命と戦争という歴史の荒波に翻弄されながらも、家族を守り、次世代へと命をつないだ苦難の連続であった。彼女の子孫たちは、ヨーロッパの王室や貴族の系譜を維持しつつ、現代社会において多様な人生を歩んでおり、彼女の生きた時代の複雑な遺産を物語っている。