1. 概要
マルコム・マクレーンは、20世紀後半の輸送と国際貿易に革命をもたらした現代的な海上コンテナと複合一貫輸送システムを発明したアメリカの事業家、発明家である。彼の発明したコンテナ化は、個々の貨物を繰り返し荷役する手間を排除することで、貨物輸送コストを大幅に削減した。これにより信頼性が向上し、貨物の破損や盗難が減少し、輸送時間が短縮されたことで在庫コストも大幅に削減された。コンテナ化はグローバル化の主要な推進力となり、世界の物流網の発展に大きく貢献した。1959年時点で製品価格の最大25パーセントが輸送費であり、そのうち約50パーセントが積み替え作業にかかる人件費であったが、コンテナの導入により、船の積み込み費用は1トンあたり5.83 USDからわずか0.158 USDへと劇的に削減された。マクレーンは「コンテナ化の父」として知られ、彼の死に際しては世界中のコンテナ船が汽笛を鳴らしてその功績を称えた。
2. 生い立ちと背景
マルコム・マクレーンの初期のキャリアは、家族の経済的困難と、輸送業界における彼の革新的な視点によって形成された。
2.1. 出生と家族
マルコム・パーセル・マクレーンは1913年11月14日、ノースカロライナ州のマックストンで生まれた。出生時の名前のスペルは「Malcolm」であったが、後に「Malcom」を使用するようになった。1931年にウィンストン・セーラムの高校を卒業した際、農家を営んでいた家族には大学へ進学させるための学費がなかったため、彼は進学を諦めざるを得なかった。その後、親戚の紹介で地元の食料品店の仕入れ係として就職した。
2.2. マクレーン・トラッキング・カンパニーの設立
マクレーンは隣町レッドスプリングスのガソリンスタンドの経営者募集に応募し、ガソリンスタンドのオーナーとなった。ガソリンの仕入れのために親戚から借金をし、5 USD安いガソリンを仕入れるため、45 km離れたフィアットビルまで向かう際、ガソリンスタンドオーナーから裏庭に放置されていたオンボロのトレーラーの使用許可を得たことが、後の運送会社「マクレーン・トラッキング・カンパニー」の始まりとなった。当初はガソリンスタンド経営兼タンクローリー運転手として、たった一人で事業を行っていた。
まもなく、地元で掘り出し物の中古ダンプカーが見つかり、週3 USDのローン払いを認めてもらい購入した。世界恐慌時代にフランクリン・ルーズベルトが宣言したニューディール政策によって州の公共事業が開始されたことで、土砂運搬の契約を勝ち取ることに成功した。これにより運転手を一人雇用することができ、もう一台中古のトラックを購入して、地元で生産された野菜の運搬を開始した。ニューヨークに野菜を運搬する際、橋の通行料が払えなかったため、通行料代わりにレンチを置いて、ニューヨークで積み荷を売却した際の売り上げで帰り道にレンチを取り戻したというエピソードも残っている。
1935年、22歳となったマクレーンは、妹のクララ、弟のジムと共に、トラック2台、トレーラー1台を保有し、車両持ち込みの運転手6名と自身を含め合計9名による運送会社「マクレーン・トラッキング・カンパニー」を正式に設立した。ノースカロライナ州レッドスプリングスに本社を構えたマクレーン社は、ノースカロライナからニュージャージー州へのドラム缶輸送や、ニューイングランドへの綿糸の大口契約などを結び、順調に事業を拡大した。1940年には創業6年目にしてトラック30台、年商23.00 万 USDに急成長し、1946年には年商220.00 万 USDにまで成長した。
1940年代後半、モータリゼーションの発展によって道路整備が進みトラック輸送が台頭する中、マクレーンは事業拡大を模索した。当時アメリカでは運輸法の下、新規路線の開設には州際通商委員会(ICC)による認可が必要であり、これは鉄道貨物輸送の保護目的もあり容易ではなかった。マクレーンは認可を得るのではなく、既に認可を受けている企業の買収を開始し、買収額が高い場合は借りることでこれを解決した。労働争議の影響で経営不振に陥っている企業が多かったため買収は容易であり、最終的に10社以上を買収したことで、1949年には保有台数が600台を超え、規模では全米第8位、利益率で第3位となる大手運送会社へと成長を遂げた。
弱小企業として運賃の安さでしか競争できなかったため、マクレーンは創業当時から高いコスト意識を持っていた。ガソリンエンジンが主流だった時代にディーゼルエンジン車両を採用し、大口割引契約による指定給油所での給油、空気抵抗を減らす新技術を採用したトレーラーの導入、保険費用を減らすための新人・ベテランチーム制度(新人が年間無事故の場合、ベテランに1月分のボーナスを支給)を採用し、事故を大幅に減らすことにも成功した。また、銀行からの融資もコストを考慮し、復員軍人が個人事業主として起業する場合の政府低金利融資制度を利用した復員軍人によるトラック購入と持ち込み制度を積極的に採用することで、マクレーン運送への低金利融資と変わらない結果を得た。1950年代には全米初となるプログラムマネジメントを取り入れるため、採用した新卒社員を研修に送り出している。
陸運会社として大成したが、マクレーンはこの成功に満足していなかった。モータリゼーションの発展によって渋滞が顕著になったことに頭を悩ませており、沿岸海運企業が第二次世界大戦で過剰になった戦時標準船を安価に譲り受けることができたため、いずれ陸運の仕事が奪われるのではないかと危惧していた。1953年、「混雑した沿岸地域を走行するくらいならトレーラーごと船に乗せて運んでしまえばいいのではないか?」と閃き、この年の冬に具体的な計画案を立てた。これが門外漢であったマクレーンが海運事業に進出する契機となった。
3. コンテナ化の発明
マルコム・マクレーンによるコンテナ輸送システムは、貨物輸送の非効率性に対する深い問題意識から生まれた。彼は既存の輸送手段の限界を克服し、物流の概念そのものを変革する新たなシステムを構築した。
3.1. コンセプトと初期のアイデア
貨物を「箱」に入れて輸送するアイデアは古くから存在しており、19世紀後半にはイギリスとフランスの鉄道会社によって家具を木箱に詰めて運搬されていた。トラックが民間にも普及した第一次世界大戦後、シンシナティの運送会社はマクレーンが後に発明する方法と全く同じアイデアを思いついていた。アメリカで最初にコンテナを取り入れたのは、1920年のニューヨーク・セントラル鉄道によるスチール製のものであった。1926年にはサザン鉄道と北部鉄道によって運行されたロンドンからパリへの豪華列車「ゴールデン・アロー号/フレッシュ・ドール号」において、乗客の手荷物輸送に4つのコンテナが使用された。これらのコンテナはロンドンまたはパリで列車に積載され、港まで運ばれた。ドーバー港ではイギリスのフラットカーによって運搬され、カレー港ではフランスの北部鉄道の貨車によって運搬が行われた。当時、小型のコンテナは船にも積載されていたが、これは沖仲仕(港湾労働者)によるばら積みとの混載方式であった。
マクレーンが1953年に初めて計画した海上輸送案は、現代でいうRO-RO船(フェリー)方式であった。当時の法律では陸運と海運は完全に別扱いとなっており、船は移動速度が遅いため鉄道やトラックに比べ安い運賃設定が認められていた。マクレーンは渋滞回避だけでなくコストの安さにも惹かれており、この制度により同区間で競争相手よりも低い運賃設定が可能となるため、この年の末にターミナル構築に向けた用地買収に乗り出した。1950年代の沿岸海運業界は不況であり、1930年代の半分にまで落ち込み瀕死の状態であった。政府からの投資もほぼゼロに近い状態であり、かつて木材の集積港として栄えたニューアーク港を管轄するニューヨーク・ニュージャージー港湾公社は港湾事業を活性化させようと必死であった。ニューヨークの対岸となるニューアーク港はマクレーンが理想とする広大な用地が広がっており、マクレーンのコンテナターミナル構想は港湾公社局長と部長の心を奪い、公人として初の支持を表明した。港湾公社には歳入担保債を発行する権限を有していたため、港湾局が建設を行い貸し出すことが可能となり、マクレーンが直接投資する必要がない点もまた好都合であった。
こうしてターミナル建設が開始されると、マクレーンは海運企業の買収を目論んだ。これは運輸法から陸運企業が海運企業を保有することを禁じており、法律違反となるためICCの認可が得られるはずもなく、海運企業の権利を得るため必要な手段であった。検討の結果、ニューヨークを含む16の港に寄港できる権利を持つ「パン=アトラック・カンパニー」を子会社に持つアラバマ州モービルに本社を構える「ウォーターマン海運」に目を付け、4200.00 万 USDでの買収を開始した。ここでICCの規制を回避するため新会社「マクレーン・インストリーズ」を設立し、CEOとして就任。マクレーン・トラッキング・カンパニーの株式は信託に移管する形で辞職し、ウォーターマン海運の買収を開始した。これはアメリカ初のレバレッジド・バイアウト(LBO)案件となった。海運企業の権利を得たことでコンテナ化の本格的な幕開けとなった。最終的にマクレーン・トラッキング・カンパニーの全株式を売却し多額の売却益を得たが、資金運用は一切せず、マクレーン・インストリーズに保有する全資産をつぎ込んだ。後にメディアインタビューで「全資産を海運に注ぎ込まず一部は安全に運用したいと考えなかったのか?」と問われ、マルコムは「全然考えなかった。本気で取り組むには退路を断たなければならない」と答えている。
当初計画された車両ごと船舶に積み込む方式の「トレーラー船」と名付けられたRO-RO船方式は、船舶の潜在的貨物スペースが無駄になり非効率であった。これは「収容能力の破壊(broken stowage英語)」として認識された。しかし、この初期計画案に連邦政府が興味を示し、RO-RO船7隻の建造資金として6300.00 万 USDの政府融資保証を取り付けたが、これは使用されずに終わった。次のアイデアとして、現在の形となるシャーシ(トレーラー)ごとではなく、単純にコンテナのみ船に搭載する「コンテナ船」または「ボックス船」と名付けられた方式を思い付いた。車輪をなくすことで容積が3分の1減り、積み重ねることが可能となるためこの案を採用し、請け負っていたビール配送に関する運賃を試算したところ、このコンテナ方式では従来の積み替え方式に比べ約94パーセントの節約につながることが判明した。マクレーンは銀行から2200.00 万 USDの融資が得られたことで、1956年1月、政府から払い下げられた2隻の第二次世界大戦時のT2 タンカーを購入した。
3.2. コンテナと船の設計開発

アイデアを思いついた1955年時点で大型のコンテナを製造している会社はなく、小型のものが主流であった。そこで、ワシントン州スポーケンにある産業機械を製造していた「ブラウン・インダストリーズ」の主任技師「キース・タントリンガー」を探し出し連絡を試みた。ブラウン・インダストリーズは1949年に9.1 m (30 ft)(約9 m)のアルミ製コンテナを開発しており、見本市や業界の会合上で講演を行うものの「みんな興味は持ってくれるが、買ってはくれなかった」と述懐している。マクレーンはタントリンガーに対し「船、トラック、鉄道で容易に積み替えができる」ことを条件にT2タンカーに搭載するため10 m (33 ft)コンテナの開発を依頼した。その後、タントリンガーはマクレーンの説得によって、半ば強引にパン=アトラック・カンパニーの主任技師として採用された。
次にマクレーンはT2タンカーの甲板上下にコンテナを搭載できるよう改造を加えた。「メカノ・デッキング(Mechano decking英語)」と呼ばれたこの手法は、木製のデッキ(板)を甲板に並べる方法となり、マクレーンはこの改造計画も監督した。メカノ・デッキングは航空機などで大型貨物を輸送する際に採られた一般的な手法であった。船の甲板の上と下にコンテナ搭載用のデッキやデッキを支える梁や桁、コンテナを入れるフレームの構築を行い、コンテナが脱着可能なトレーラーのシャーシ設計と再運行までに数ヶ月を要した。
次に解決すべき問題は「クレーン」であった。当時貨物船にはデリック(クレーン)が装備されていることが標準的であったが、重量のあるコンテナをこのデリックで吊り上げるとバランスを崩し転覆する危険性があり採用せず、埠頭に平行に設置された軌道上を移動できる大型クレーン案が採用された。マクレーンは造船所で放置されていたクレーンを見つけ購入し、改造を施した上でポート・ニューアーク・エリザベス・マリンターミナルとヒューストン港に設置した。コンテナを吊り上げる方式も現在も使用されるコンテナのサイズに合わせた枠を上下させる「スプレッダー方式」がタントリンガーによって開発された。これにより沖仲仕による吊り上げ作業も不要となった。
3.3. アイデアル・X号の処女航海

1956年4月26日、招待された100人の要人を前に、改造が施されたタンカー「アイデアル・X号」(マクレーンの故郷ノースカロライナ州に因み「SS Maxton」とも呼ばれる)が、ニュージャージー州のポート・ニューアーク・エリザベス・マリンターミナルから11 m (35 ft)(約11 m)の「トレーラー・バン(Trailer Vans英語)」と呼ばれたコンテナと共に液体タンクなど58個が積み込まれ、ヒューストン港に向け出航した。アイデアル・X号はわずか8時間で58個のコンテナを積み込み、同日中に港を出発した。アイデアル・X号がニューアーク港を離れると、国際港湾労働者協会の幹部であったフレディ・フィールズに対し、この新型コンテナ船についてどう思うか尋ねられ、フィールズは「できるならあの畜生を沈めてやりたい(I'd like to sink that son of a bitch英語)」と答えている。マクレーンは船がヒューストンに接岸後、急ぎヒューストンに向かった。
3.4. 経済的影響と効率性の向上
1956年時点でほとんどの貨物は荷役作業を専門とする沖仲仕の手によって積み降ろしされていた。当時、船の手積みは1トンあたり5.83 USDであった。コンテナを使用すると船に積むのに1トンあたりわずか0.158 USDであり、36倍もの大幅な節約となった。コンテナ化されたことにより船への積み卸し時間も大幅に短縮された。マクレーンは「船は海にいる時のみ金を稼ぐ」ことを知っており、その効率性に基づいて事業を展開した。
3.5. シーランド・サービスの設立
パン=アトラック・カンパニーのコンテナ輸送部門は「シーランド」の名称で事業を開始し、ニューアークからヒューストン間を週1回の頻度で往復した。1957年4月、コンテナ専用として建造された新造船「ゲートウェイ・シティ」が、ニューヨーク、フロリダ、テキサス間で定期運航を開始した。1958年の夏、パン=アトランティック社は、アメリカとプエルトリコのサンフアン間でのコンテナ輸送を新造船「フェアランド」で開始した。しかし、この計画は大幅な赤字を計上し失敗に終わった。プエルトリコは市場として魅力的であったが、港湾作業は旧来の沖仲仕が取り仕切っており、これを考慮することを忘れたため、サンフアンに入港したフェアランドを含む2隻のコンテナ船は荷揚げを拒否された。荷揚げ交渉に4か月を費やし、最終的にマクレーンが折れて沖仲仕に荷役を発注することで解決したが、これにより3年分の利益が吹き飛び、会社は窮地に陥った。
1960年4月、「パン=アトランティック・スチームシップ・コーポレーション(Pan-Atlantic Steamship Corporation英語)」から「シーランド(Sea-Land Service Inc.英語)」に社名を変更した。マクレーンの事業は1961年までに黒字化しており、新規航路の開拓と大型船の購入を継続して行った。1963年8月、マクレーンは、さらに多くのコンテナを取り扱うため、ニューアーク港に101 acre(約0.41 km2)の港湾施設を新たに建設した。1960年代後半までコンテナ市場の発展は遅く、多くの港では、コンテナを船舶に積み降ろすクレーンが設置されていなかった。伝統的な業界ゆえに改革の速度は遅く、生計が脅かされるとして港湾労働者組合はこの新しい流れに対し抵抗した。1966年4月、シーランドはニューヨークとオランダのロッテルダム、ドイツのブレーメン、スコットランドのグランジマウス間での輸送を開始した。
3.6. 競争と標準化の取り組み
1954年、マクレーンがニューヨーク東海岸ターミナルを借りた時期、マトソン海運が貨物荷役に関する学術研究機関に対し資金提供を開始した。マトソンは1882年にサンフランシスコで創業した家族経営の会社であり、ハワイ航路から始まり輸送部門で多角化、その後、客船などの旅客輸送やホテル経営、サトウキビ農園や航空会社経営など手広く事業を行っていた。そのほとんどが思いつきで利益は微々たるものであり、マトソンを所有する大株主は他に比べ小規模となるマトソンに無関心であった。1947年に引退を考えていた海運担当役員であったジョン・E・カッシングに3年だけ社長業を依頼した。この提案を受け社長に就任したカッシングは呆れるほど低かった生産性を改善すべく、同社始まって以来となる大幅なコストカットに乗り出した。1948年、それまで袋積みされていた砂糖のばら積みを開始。原料を貯蔵するサイロ、サイロまで運ぶベルトコンベヤ、専用運搬車両など巨費を投じ自動化したことで大幅にコストが圧縮された。この結果を突きつけられた経営陣はカッシング退社後、一般貨物の改善計画に取り組むことを決意した。そこで、設計者として招致したのがジョンズ・ホプキンズ大学の地球物理学者であった「フォスター・ウェルダン」であった。ウェルダンは潜水艦発射弾道ミサイル「ポラリス」の設計に携わっているほか、新しい科学分野「オペレーションズ・リサーチ」での高名な学者であった。コンテナ輸送に関し一切のデータがないことからデータを集めることから開始し、集積したデータから最適となるコンテナサイズは高さ2.4 m (8 ft)6インチ、長さ7.3 m (24 ft)が一番経済的であるとの結果を導き出した。
パン=アトラック・カンパニーの方式も見学し、港でのクレーンに関し初期に採用された岸壁クレーンは旋回式であることを非効率であると判断しており、今日使用されるガントリークレーンの基礎を築き、マトソンはこの方式を採用した。運行に関しコンピューターを導入し、数々のシミュレーションを行い効率的な運行方法も編み出した。
1950年代後半になるとコンテナは輸送関係者の話題となるが、大半のコンテナは2.4 m (8 ft)以下のものばかりとなり、2.4 m (8 ft)以上のものはシーランドとマトソン2社によるものであることが1959年に行われた調査から明らかとなった。各々が使いやすいサイズでコンテナを製造したため互換性がなく、この影響は船だけでなくトラック、鉄道、荷役機器だけでなく荷主まで多岐に渡り、有事の際のロジスティクスに与える影響が大きいことが懸念されたため、1958年、この無秩序なコンテナ開発に終止符を打つべく、アメリカ海軍が後押しする形で連邦海事局(MARAD)が対策に乗り出した。この年の2月専門家会議が開かれたが、コンテナ製造に関する補助金を受けていないシーランドとマトソンの出席は求められなかった。会議は紛糾し、唯一絶対の規格を策定することは不可能と判断し、複数サイズを容認することを決定した。ただし「幅」は標準軌から「2.4 m (8 ft)」であること、4隅にスプレッダーが取り付けられる構造を持つことなどは満場一致で可決された。また、当時のヨーロッパは2.1 m (7 ft)までしか対応できなかったが、いずれアメリカの基準が採用されるであろうとの意見が大半を占めた。「高さ」については「2.4 m (8 ft)」が多かったが、陸運業界からフォークリフトで乗り入れることができる「2.4 m (8 ft)6インチ」案が出され、最終的にこの高さを越えてはならないと決められた。「長さ」については長いコンテナに短いコンテナを積む場合、4点で支持できず構造上加重に耐えることができないとして今後の検討課題とされた。そして最も重要なのは積載時の「最大重量」であり、これはコンテナ、船、トラック、鉄道、荷役機器を製造する際の基準となるため調査が必要であると先送りされた。
規格の統一は既に製造していた大手2社や政府にとって規格外となることで今までの投資や補助金が水の泡になることを意味し、短いコンテナは荷役コストが倍となることで大手は嫌い、プエルトリコ航路の輸送を行っていたブル海運は、変則コンテナもあり、他と連絡しないため独自規格の認可を求め出すなど事態は混乱を極めた。1961年4月14日投票が行われ、海運業者は棄権したが、賛成多数により長さが決まり「3.0 m (10 ft)、6.1 m (20 ft)、9.1 m (30 ft)、12 m (40 ft)」の4種類となった。ここで今までに無かった「9.1 m (30 ft)」が新たに追加された。12 m (40 ft)はヨーロッパの道路事情から運搬できず欧州の懸念を汲んだ形となった。アメリカ政府はこのサイズを製造する場合のみ補助金を認める発表を直ちに行った。
1961年9月、ニューヨークに国際標準化機構加盟11か国の代表とオブザーバー15か国の代表が集まり標準化会議が行われた。この議席上、アメリカで3年に渡り争われたサイズ問題が繰り返された。ヨーロッパは歴史上、小型のものが主流であったため、3.0 m (10 ft)以下のものも認めて欲しいと懇願するが、アメリカ、イギリス、日本がこの案に反対し、最終的に「1.5 m (5 ft)」「1.8 m (6 ft)8インチ」を「シリーズ2」として追加する妥協案が採決された。1964年、幅、高さ2.4 m (8 ft)、長さ3.0 m (10 ft)、6.1 m (20 ft)、9.1 m (30 ft)、12 m (40 ft)、シリーズ2として1.5 m (5 ft)、2.1 m (6.8 ft)をISO規格とすることが決定した。
スプレッダーやツイストロック機構はシーランドの特許技術であったため、各社はシーランドに使用料を払う義務が発生していた。マクレーンはフルハーフ・トレーラー・コーポレーションの主任技師となっていたタントリンガーからの指南や政府機関からの働きかけもあり、特許権を放棄したことでISO規格として採用された。しかし、その後、強度不足など数々の不備が発見されている。ISOで承認した金具が欠陥品であることが判明したため、急遽エンジニアが招集され問題解決にあたっており、金具の厚みを増すことで全て解決することが判明し、関係者は胸を撫で下ろした。
3.7. ベトナム戦争中の物流への貢献
1965年冬、アメリカ政府はベトナム戦争への緊急増派を開始した。これにより補給物資の混乱が始まった。ベトナムは南北に長く、1本しかない鉄道は機能しておらず、道路は舗装すらされていない上に分断され、大型船が接岸できる水深の深い港はサイゴン港1か所しかなかったため、一隻が接岸すると他の大型船は沖合に停泊し、そこから艀に移し替える人海戦術が採られた。また、ダナンなど他の港も遠浅のため同様の措置がとられた。委託された民間企業が物資補給を支援しており、23,300名もの労働者が荷役作業に従事していたが、既に手一杯であり、12時間交代で休日返上での作業が行われていた。当時米軍は16種類もの補給方式を運用しており、現場では倉庫やトラックの奪い合いが発生する有様であった。到着貨物を管理するシステムは存在すらしておらず、これら理由により接岸した大型船の荷下ろしは滞り離岸できず、統括する海軍の軍事海上輸送司令部(MSTS)はオフィスさえない状態であった。桟橋は艀で溢れかえり、一隻空にするのに10日から30日程かかっており、夏は台風が発生するため度々作業は中断された。大半の陸揚げ貨物は野ざらしとなり、南ベトナム軍による組織的窃盗行為も横行していたため、トラックによる貨物移動の際は武装した憲兵が警護のため同乗していた。末期には陸揚げを諦め、船を倉庫代わりとして停泊させたため、物資輸送を行う船舶が足りない状況に陥った。アメリカ陸軍は戦況がひっ迫していることを理由に兵站に関与しようとせず、アメリカ空軍は見て見ぬ振りを突き通した。
統合参謀本部が「プッシュ」式の補給方法を採用したことが悪化要因の一つであった。前線の要請に従った物資を送る方法が「プル」となり、兵員の規模に応じて必要となる量を予め決め定期的に送る方式が「プッシュ」となり初期段階において前線に素早く供給する方式としては最良となるが、日々刻々と変化する戦況には向いておらず、このため不要物資が溢れ返り必要物資が足りない状況が発生した。その後、物資補給センターを構築するためダナン港を拡張し、新港を建設する案が国防長官ロバート・マクナマラによって承認されたが、電気、ガス、水道などのインフラは一切ない場所で、軟弱地盤ゆえに大型産業機械を設置するには不向きであったことから事態は一向に改善しなかった。船舶はフィリピンで待機する状況となり、物資が溢れる無秩序な状況がライフによって特集され、それを受け議員が視察し問題視したことで抜本的な改善計画が開始された。
「物資輸送を必ず成功させる」とマクナマラを口説き落とした民間企業であるアラスカ・バージ社にMSTSが輸送依頼したことで改善の兆しが見え始めた。そこで、マクナマラは海運業で最先端を行くマクレーンをワシントンに招致し現状説明を行った。その後、マクレーンは度々コンテナを使用した輸送案をワシントンで説いて回るが誰もが「必要ない」との認識であった。これに業を煮やしたマクレーンは海軍大将フランク・ベッソンに直訴することに成功した。エンジニア2名と共にベトナムを視察したマクレーンはコンテナを使用すれば全て解決すると判断し、この結果を政府に進言した。政府は軍に対し民間企業のノウハウを導入しろと圧力をかけるが、軍は始まったばかりのコンテナ化が何なのかを理解できなかったため狼狽し、事態は一向に進展することはなかった。そんな中、シーランドの子会社「エクイップメント・レンタル」がサイゴンでのトラック輸送案件を受注した。コンテナとは一切関係なかったが、ここでの事業を足掛かりにMSTSに対しオークランド - 沖縄間の輸送に関する契約をシーランドと結ぶことを進言。結果、シーランドとの契約が結ばれ、コンテナを使用した輸送が開始された。12日ごとに到着する476個の11 m (35 ft)コンテナを軽々とさばいたシーランドにMSTSは感服し、ベトナムとアメリカ本土間の輸送依頼を懇願しており、この事業に数社が名乗り上げるが最終的にシーランドが指名される結果となった。
アメリカ本土からコンテナ輸送が開始されるが、ベトナムにはクレーンが設置されていないため、フィリピンのスービック湾までの輸送に限定された。MSTSは沖縄での見事なまでの手際を知っているため、ベトナムの荷役を統括する第一兵站司令部に対しクレーンを導入しろと強い口調で指示するが、第一兵站司令部はコンテナに乗り気ではなく、実際にはクレーンの設置計画すらない状況であった。荷役の混乱は一旦は小康状態になったものの、1966年半ばになると再び貨物量が前年より55パーセントも増えたことで再発し、マクナマラの一声により突貫工事が開始されたことでカムラン湾はコンテナ港へと生まれ変わった。これにより大型コンテナ船オークランド号が接岸できる様になり、一度で今までの10隻分となる貨物の陸揚げが開始され、港湾作業や輸送などコンテナに関わる全ての事業をシーランドが受注したことで荷役が整然としただけでなく、破損や盗難も大幅に減り、輸送コストまでも下がったことに軍は驚愕し「問題は全て解決された」と1967年の軍の記録に誇らしげに記述されている。米軍はその後の調査からコンテナ化は単なる輸送手段ではなく、ロジスティクス・システムであると結論付け、軍が開発したConex boxは廃止され、民間用6.1 m (20 ft)コンテナを使用した兵站システムの構築が開始された。ベトナムへの輸送は1968年と1969年にはシーランド収益の40パーセントを占めた。
国防総省との契約から大型船3隻、小型船3隻によるベトナムへの運行を請け負い、行きは軍需物資で満載であったが、帰りは空のコンテナが大半となり、往復分の運賃を保証されていたため、帰り荷は全て利益となるため何か策がないか頭を巡らしたマクレーンはある国を閃いた。日本であった。1960年代の日本は高度経済成長期であり世界最速のペースで成長し、アメリカとの貿易額は第二位となっていた。1968年9月にシーランドは横浜 - 西海岸の定期航路開設を行い、コンテナには日本で製造された電化製品が山積みされ日本は輸出ラッシュを迎えた。また、このサービスは1969年に香港と台湾に、1971年にはシンガポール、タイ、フィリピンに拡大した。コンテナの取扱量が飛躍的に伸び始めたことでアジア各地でも競って港湾建設が開始されており、この中でも一番熱心に取り組んだのがシンガポールであった。惜しみない拡張と作業内容の見直しによるギャングの構成人数を減らすなど効率化を追求した結果、2005年には世界一のコンテナ取扱量となり、シンガポールのイースト・ラグーン港は世界に名を轟かせるハブ港として君臨している。
4. 事業展開と企業史
マルコム・マクレーンは、シーランド・サービスの売却後も、新たな事業に挑戦し続けた。
4.1. R.J.レイノルズへの売却とその後
マクレーンのコンテナシステムがもたらす利点が明らかになると、競合他社は直ぐに適応した。他社はマクレーンよりも大きな船、より大きなガントリークレーン、より洗練されたコンテナの製造を開始した。1965年の時点でニューヨーク港の年間取扱量は195.00 万 tであったが、翌年は最初の2か月で260.00 万 tを記録し、取扱量は急激な右肩上がりとなった。同時期、国際運行を行っていたのはわずか3社のみであったが、翌年には60社が参入した。このためシーランドは競争力を維持するため現金が必要となった。マクレーンは、自社のトラックがレイノルズのタバコを米国中に輸送していた際、R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーに着目した。1969年1月、レイノルズはシーランド社を5.30 億 USDの現金と株式で購入することに合意した。マクレーンは個人的に1.60 億 USDの売却益を得ており、レイノルズの取締役に就任した。レイノルズは買収を完了させるため、1969年5月に持株会社R・J・レイノルズ(R.J. Reynolds Industries Inc, RJR)社を設立した。同年、シーランドは後にアルゴル級車両貨物輸送艦(SL-7)クラスとなった、世界で最大かつ最速のコンテナ船「シーランド・ギャロウェイ」を含む8隻の発注を行った。
レイノルズ傘下でのシーランドの利益は断続的であった。1974年末までにレイノルズはシーランドに対し10.00 億 USD以上投資し、ニュージャージー州と香港に巨大な貨物ターミナルを建設し、コンテナ船も増強した。シーランド最大の経費は燃料費であったため、1970年にRJR社は「アミノイル」として知られるアメリカン・インディペンデント・オイル社を5600.00 万 USDで買収した。RJR社は数百万ドルを石油採掘に費やしており、アミノイルを世界の採掘市場で競争するのに十分な規模にまで拡大させた。
1974年、RJR社は最高の年を迎えた。シーランドの収益は10倍近くまで増加し1.45 億 USDに達しており、アミノイルの収益は8630.00 万 USDにまで急増した。金融格付け機関のダン&ブラッドストリートは、RJR社をアメリカで最もよく管理されている5つの企業の1つに挙げた。しかし、1975年シーランドの収益はアミノイルの収益と共に急減した。この2年後、1977年にマクレーンはレイノルズの取締役会は官僚的であったとして辞任し、レイノルズ社との関係を断ち切った。マクレーンは「私は起業家であり彼らは経営者であった」と残している。
1984年6月、RJR社は、ニューヨーク証券取引所で独立した株式公開会社として、シーランド社の株式分割を行った。この年シーランドは28年の歴史の中で最も高い収益を計上した。1986年9月、シーランド社は貨物鉄道企業CSXトランスポーテーションの子会社、アクイジョン(CSA Acquisition Corp.英語)と合併。シーランド社の株式は、1株当たり28 USDの現金に交換された。
シーランドの国際部門は1999年、デンマークの海運企業、A.P. モラー・マースクに売却され、合併後に企業名はマースク・シーランドとなり、2006年には単にマースクラインとして著名となる。国内部門はホライゾン・ラインズとして運行されており、米国本土からアラスカ、ハワイ、プエルトリコ、およびグアム向けの輸送を行っており、これは全米船舶輸送数の約36パーセントを占める。本社はノースカロライナ州シャーロットに所在する。
コンテナの登場により港湾の勢力地図は容易く塗り替えられ、大手資本の参入により船舶は年々大型化し、大量輸送により輸送コストは考慮する必要性が無いほどまでに低下した。その後、供給過多になった海運業界は値下げ競争に突入したことで体力を失い、身売りや買収などの業界再編が起きた。石油ショックによる貿易の低迷や紛争による原油価格の上昇は燃油サーチャージ制度ができたものの容易く運賃に転嫁することができず、シーランドが所有するSL7など燃費効率の悪い船舶は採算割れを起こし売却される結果となった。1990年代に入り世界的な製造工場の海外移転に伴い中国、マレーシア、タイが巨費を投じ大型コンテナ港の建設を行っており、現代ではコンテナ全体の4分の1が中国から出荷されたものとなっている。2010年にはコンテナ取扱量でシンガポールを抜き上海港が首位に立っている。
4.2. その他の事業展開
1968年、マクレーンはミシシッピ州ウェイブランド(現:ダイヤモンドヘッド)で行われた米国南部最大のリゾート型コミュニティの開発プロジェクトに投資を行った。1971年にはノースカロライナ州パインハーストのパインハースト・リゾートの土地が、マクレーンが所有するニュージャージー州マウンテンサイドに本社を置く土地開発会社、ダイヤモンドヘッド・コーポレーションに売却された。75年間ほとんど変化のなかった歴史あるリゾートは論争の中心となったが、最終的に1982年、パインハーストはダイヤモンドヘッドの主要貸し手であるリゾート・アセット・コーポレーションの所有となり、地域全体の復興に向けたより実行可能な取り組みが行われた。
1978年、マクレーンは海運会社ユナイテッド・ステイツ・ラインズ(USL)を買収した。マクレーンは当時最大であった4,400TEUのコンテナ船団を構築した。全世界の海域輸送を行っていたが、これらの船舶は1970年代の石油不足の影響を受けて設計されたため、燃料効率は良いものの速度が遅く、その後、石油価格が下落した時代で競争するのには適しておらず、USL社は1986年に破産している。この破産によってマクレーンは関連企業などから多くの批判に晒された。
4.3. 財政難と破産
1982年、マクレーンは純資産4.00 億 USDとしてフォーブスの長者番付に名を連ねたが、数年後、彼は原油価格の上昇に賭け、これが実現しなかったために13.00 億 USDの負債を抱え連邦倒産法第11章の申請を行っている。
1991年、77歳となったマクレーンはフロリダ州ジャクソンビルでアメリカ本土とプエルトリコ、ドミニカ共和国間の輸送を行う陸海運会社トレーラー・ブリッジ社を設立した。この他、マクレーンは患者をストレッチャーから病院のベッド上に持ち上げる技術など、海事以外での発明も行っている。
5. 影響と遺産
マルコム・マクレーンのコンテナ化は、世界経済、物流システム、そしてグローバル化に広範な影響を与え、彼の遺産は現代社会に深く根付いている。
5.1. グローバル貿易と物流の革命
コンテナ化は、国際貿易、サプライチェーン、そして世界の物流網を根本的に変革した。個々の貨物を繰り返し荷役する手間がなくなったことで、輸送コストは劇的に削減され、輸送の信頼性が向上し、貨物の破損や盗難が減少した。また、輸送時間の短縮は在庫コストの削減にもつながり、企業はより効率的な生産・流通システムを構築できるようになった。これにより、製造工場の場所が輸送コストに左右されにくくなり、世界各地への工場移転とグローバル・サプライチェーンの構築が加速した。
コンテナの登場により、港湾の勢力地図は容易く塗り替えられ、大手資本の参入により船舶は年々大型化し、大量輸送により輸送コストは考慮する必要性が無いほどまでに低下した。その後、供給過多になった海運業界は値下げ競争に突入し、体力を失ったことで身売りや買収などの業界再編が起きた。1990年代に入り、世界的な製造工場の海外移転に伴い中国、マレーシア、タイが巨費を投じ大型コンテナ港の建設を行い、現代ではコンテナ全体の4分の1が中国から出荷されたものとなっている。2010年にはコンテナ取扱量でシンガポールを抜き上海港が首位に立っている。

5.2. 標準化とその結果
世界統一規格ができたが、9.1 m (30 ft)コンテナはほとんど使用されず、3.0 m (10 ft)も少数が使用するのみとなり発注はほとんどなかった。6.1 m (20 ft)コンテナは満載した2個をトレーラーに積むと過積載となるためトラック業界から忌み嫌われており、米国国家規格協会(ASA)の作業部会に対し、満載された12 m (40 ft)はトラックでは過積載になるとして11 m (35 ft)を導入すべきとの提案がシーランド、マトソン2社によって行われた。ASAにより高さ2.6 m (8.6 ft)が新たに認められたが、11 m (35 ft)は退けられている。
5.3. 批判と論争
今日「マクレーンの事業は革命ではなく応用に過ぎない」と指摘する歴史家もいる。輸送における荷役コストがかさむ問題は1950年代初頭から認識されており、コンテナが解決策となりうることは指摘されていた。初期に開発されたコンテナは小型のものが中心であり、経済原理を根本的に変える性質や広範囲に影響力を与えるものではなかった。コンテナを使用し経済効果を上げるには、出荷の時点で満杯に積み、発地から着地まで一度も開梱されることなく運ばれて初めて効果が最大限に発揮されるためである。マクレーンが優れていたのは、海運業は船を運行する産業ではなく、貨物を輸送する産業であることを見抜き、徹底したコスト意識や港、船、クレーン、倉庫、トラック、鉄道による複合一貫輸送システムを構築したことにある。
また、ユナイテッド・ステイツ・ラインズの破産は、マクレーンが個人的に多くの批判に晒される原因となった。彼は原油価格の変動に賭けた投資が失敗したことで巨額の負債を抱え、破産申請に至った。
5.4. 栄誉と評価
マクレーンは生前、その功績を高く評価された。1982年にはフォーチュン誌のビジネスの殿堂入りを果たし、ジュニア・アチーブメントの米国ビジネスの殿堂にも認定された。1995年にはアメリカン・ヘリテージ誌によって、過去40年間の10人の優れた革新者の1人に選ばれた。2000年には国際海事殿堂入りし「世紀の男」に選出され、米国商船アカデミーから名誉学位を授与された。
彼はニューヨーク証券取引所に上場した企業を3社(およびNASDAQに2社)設立した唯一の人物である。彼が1991年に設立したトレーラー・ブリッジ社は、毎年「マルコム・P・マクレーン革新的精神賞」を授与している。また、ジョージ・メイソン大学では、教授陣が選ぶ優秀な卒業生に毎年「マクレーン賞」が贈られている。2006年にはノースカロライナ州交通の殿堂入りを果たした。
6. 死去
マルコム・マクレーンは2001年5月25日、心不全のためマンハッタン、イーストサイドの自宅で87歳で逝去した。彼の死に際し、当時のアメリカ合衆国運輸長官ノーマン・ミネタは以下の声明を発表している。
「マルコムは20世紀の海事産業に革命をもたらしました。船の積み降ろしを近代化するという彼のアイデアは、3,000年以上も前に古代のフェニキア人が行ったのとほぼ同じ方法で行われていました。これによって商品のより安全で安価な輸送、より速い配達、より良いサービスをもたらしました。私たちは『コンテナ輸送の父』マルコム・P・マクレーンというビジョンある人材に大きな借りがあります。」
死後まもなくの社説で、ボルチモア・サン紙は「ロバート・フルトンの次に海上貿易史上最大の革命家としてランク付けされている」と述べた。フォーブス誌はマクレーンを「世界を変えた数少ない男性の一人」と呼んでいる。マクレーン葬儀の朝、彼の栄誉を称え、世界中のコンテナ船が同時刻一斉に汽笛を鳴らし追悼を行った。