1. 概要
ミゲル・デ・アンドレス・バラセは、1957年10月8日にスペインのナバラ州オチャガビアで生まれた元プロサッカー選手である。主に守備的ミッドフィールダーとして活躍し、そのキャリアの大部分をアスレティック・ビルバオで過ごした。彼は1980年代初頭のアスレティック・ビルバオの黄金期において、ラ・リーガ2連覇(1982-83、1983-84)を含む複数の主要タイトル獲得に貢献した中心選手の一人である。また、1980年モスクワオリンピックにU-23スペイン代表として出場し、その後スペインA代表でもプレーした経験を持つ。現役引退後は、古巣アスレティック・ビルバオのスカウトとしてサッカー界に貢献した。
2. 生い立ちと背景
ミゲル・デ・アンドレス・バラセは、1957年10月8日にナバラ州オチャガビアで生まれた。幼少期からサッカーに親しみ、その才能は早くから注目された。
2.1. ユース経歴とアスレティック・ビルバオ入団
デ・アンドレスは、サッカー選手としてのキャリアをベルビンサナでスタートし、その後パンプローナのユースチームでプレーした。1975年には、レアル・マドリードやFCバルセロナといった強豪クラブからの関心も報じられる中、アスレティック・ビルバオのユースシステムであるレサマに入団した。アスレティック・ビルバオは彼の前所属クラブに対し、初期費用として40.00 万 ESPを支払い、さらに彼がトップチームでデビューした際には追加で500.00 万 ESPを支払う契約を結んだ。レサマでは、将来のプロキャリアに向けた集中的なトレーニングを受け、守備的ミッドフィールダーとしての才能を磨いた。
2.2. CDカステリョンへのレンタル移籍
アスレティック・ビルバオのリザーブチームで2年間を過ごした後、デ・アンドレスはプロキャリアの初期段階で経験を積むため、セグンダ・ディビシオンのCDカステリョンへ1年間(1978-79シーズン)のレンタル移籍を経験した。カステリョンではリーグ戦29試合に出場し1得点を記録。このレンタル期間は、彼がトップチームで活躍するための重要なステップとなった。
3. クラブ経歴
ミゲル・デ・アンドレスは、アスレティック・ビルバオのトップチームで約9シーズンにわたりプレーし、クラブの歴史に残る栄光の時代を築き上げた。ここでは、彼のデビューから主要タイトルの獲得、そして引退に至るまでの詳細な経緯を解説する。
3.1. デビューとアスレティック・ビルバオでの活躍
CDカステリョンでのレンタル移籍を終え、21歳となったデ・アンドレスは、当時のアスレティック・ビルバオの監督であったヘルムート・ゼネコビッチによってトップチームに引き上げられた。彼は1979年9月9日、UDサラマンカとのラ・リーガ開幕戦でトップチームデビューを果たしたが、試合は1-2で敗れた。
1980-81シーズンの序盤には、レアル・マドリードに1-7で大敗した後、ゼネコビッチ監督が解任されるという激動があったものの、デ・アンドレスは一貫してチームの先発メンバーとしての地位を維持した。彼はアスレティックで出場したすべてのリーグ戦で先発出場したが、本職であるリベロとしてプレーすることは稀で、主に守備的ミッドフィールダーとして起用された。ハビエル・クレメンテ監督の下では、チームがラ・リーガ2連覇を達成する上で重要な役割を担い、この期間に55試合に出場し4得点を記録した。
3.2. 主要タイトル獲得
デ・アンドレスは、アスレティック・ビルバオの黄金期を支え、数々の主要タイトル獲得に貢献した。
1983年2月9日、アスレティック・ビルバオが1982-83シーズンのリーグ優勝に向けて突き進む中、サン・マメス・スタジアムでRCDエスパニョールと対戦。激しい降雪の中で行われたこの試合で、デ・アンドレスは両足から放たれる強烈なシュートを武器に、長距離から2得点を挙げ、チームの5-2での勝利に貢献した。このシーズン、アスレティック・ビルバオはリーグ優勝を果たした。
翌1983-84シーズンも、チームはリーグタイトルを獲得し、2連覇を達成。さらに、コパ・デル・レイ決勝ではFCバルセロナをマドリードで1-0で破り、2冠を達成した。デ・アンドレスはこのコパ・デル・レイ決勝にも先発出場している。しかし、この決勝戦の終了後には、ディエゴ・マラドーナ、パコ・クロス、ミゲル、アンドニ・ゴイコエチェア、マヌエル・サラビアらと共に、デ・アンドレスも乱闘事件に巻き込まれた。この事件により彼は出場停止処分を受けたが、後にこの処分は撤回された。
また、1984年にはスーペルコパ・デ・エスパーニャも獲得している。アスレティック・ビルバオがリーグとコパ・デル・レイの2冠を達成したため、自動的にスーペルコパのタイトルも授与された。
3.3. 負傷と引退
1986-87シーズンは、デ・アンドレスにとってキャリアを大きく左右する不運なシーズンとなった。このシーズン、ハビエル・クレメンテの後任として、クラブの伝説的な選手であるホセ・アンヘル・イリバールが監督に就任した。デ・アンドレスは開幕戦のスポルティング・デ・ヒホン戦で負傷し、その後も度重なる再発に苦しんだ。さらに、CDログロニェスとのカップ戦への出場を拒否したことで、クラブから出場停止処分を受けるなど、ピッチ外での問題も抱えた。
リーグ戦の第31節、チームが降格圏からの脱出を目指して奮闘する中、レアル・マドリードとの試合で悲劇が起こった。相手選手であるリカルド・ガジェゴが彼の膝の上に落下し、デ・アンドレスの膝は粉砕されるという重傷を負った。この負傷は彼のキャリアを事実上終わらせるものであり、彼はこの試合を最後にアスレティック・ビルバオの「ライオンズ」としてプレーすることは二度となかった。
1987年にはハワード・ケンドールがアスレティック・ビルバオの監督に就任したが、デ・アンドレスは1年間リハビリと治療に専念した後、わずか31歳で現役を引退することを決断した。アスレティック・ビルバオでの公式戦出場は通算267試合、12得点という記録を残しての引退であった。
3.4. 引退後の活動
選手としてのキャリアを終えた後も、ミゲル・デ・アンドレスはサッカー界との関わりを続けた。彼は長年所属した古巣アスレティック・ビルバオのスカウトとして活動し、若手選手の才能発掘に尽力した。
4. 代表経歴
ミゲル・デ・アンドレスは、スペインの世代別代表およびA代表として国際舞台での経験も積んだ。
4.1. オリンピック代表
デ・アンドレスは、U-23スペイン代表の一員として、ソビエト連邦のモスクワで開催された1980年モスクワオリンピックに参加した。彼はグループステージの全3試合にフル出場したが、チームは3引き分けに終わり、グループステージで敗退した。当時の監督はホセ・サンタマリアで、デ・アンドレスはレアル・ソシエダのアグスティン・ガヘテと共に守備陣を形成した。
4.2. A代表
デ・アンドレスは、自国開催となった1982 FIFAワールドカップの予備登録メンバー40人には選出されたものの、ホセ・サンタマリア監督によって最終メンバーからは外された。
その後、ミゲル・ムニョスが監督に就任し、スペインがUEFA欧州選手権1984の出場権を獲得した後、デ・アンドレスはスペインA代表としての初キャップを記録した。デビュー戦は1984年1月18日にカディスで行われたハンガリー代表との親善試合で、試合は0-1で敗れた。3ヶ月後にはバレンシアで行われたデンマーク代表戦(2-1で勝利)に10分間出場したが、フランスで開催された本大会の最終メンバーには選出されず、チームは準優勝という成績を収めた。スペインA代表としての出場は通算2試合であった。
5. 受賞歴
ミゲル・デ・アンドレス・バラセが選手として獲得した主要なタイトルは以下の通りである。
アスレティック・ビルバオ
- ラ・リーガ:2回(1982-83、1983-84)
- コパ・デル・レイ:1回(1983-84)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1回(1984)
- アスレティック・ビルバオがラ・リーガとコパ・デル・レイの2冠を達成したため、自動的にタイトルが授与された。
6. 外部リンク
- [https://www.bdfutbol.com/en/j/j3186.html BDFutbolでのプロフィール]
- [https://www.athletic-club.eus/en/players/186/de-andres アスレティック・ビルバオ公式サイトでのプロフィール]
- [https://www.national-football-teams.com/player/18994.html National-Football-Teams.comでのプロフィール]
- [https://eu-football.info/_player.php?id=4358 EU-Football.infoでのプロフィール]