1. 生涯
劉華清の生涯は、幼少期から初期の軍歴、そしてその後の重要な役職に至るまで、中国の現代史と深く結びついている。
1.1. 幼少期と教育
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劉華清は1916年10月1日に湖北省黄安県(現在の紅安県)で生まれた。1954年から1958年にかけて、彼はソ連のレニングラードにあるヴォロシーロフ名称海軍アカデミーに留学し、海軍指揮を専攻した。留学中にはセルゲイ・ゴルシコフに師事し、彼の海軍戦略思想から大きな影響を受けた。
1.2. 初期経歴
1929年10月に中国共産主義青年団に加入し、翌1930年12月には中国工農紅軍に入隊した。1935年10月には中国共産党に入党。国共内戦期には第2野戦軍に所属し、当時の政治委員であった鄧小平の指揮下で第2野戦軍第3兵団第11軍政治部主任を務めた。
中華人民共和国の建国後、彼は海軍に所属し、1955年には海軍少将の階級を授与された。

1958年以降は、海軍旅順基地第一副司令員兼参謀長、北海艦隊副司令員兼旅順基地司令員、国防部第7研究院院長などを歴任した。1965年には第6機械工業部副部長兼党委員会常務委員に任命され、国防部第7研究院院長を兼任した。1966年以降は国防科学委員会副主任、海軍副参謀長を歴任。1975年以降は中国科学院の党組核心領導小組構成員となり、引き続き国防科学委員会副主任を兼任した。
2. 主な活動と業績
劉華清の軍歴は、中国海軍の近代化と外洋展開に決定的な影響を与えた数々の重要な活動と業績によって特徴づけられる。
2.1. 海軍司令官としての活動
1979年に海軍参謀長助理・副参謀長となり、1982年8月には海軍司令員兼海軍党委副書記に就任した。同年9月の共産党第12回全国代表大会で党中央委員に選出される。
この時期、彼は鄧小平の命を受けて第一列島線戦略を提起した。この戦略は、中国が21世紀後半までに世界的な海軍力を保有するための3段階プロセスを概説するものであった。
- 第1段階(2000年 - 2010年)**: 中国海軍が第一列島線内での作戦能力を確立する。
- 第2段階(2010年 - 2020年)**: 中国海軍が第二列島線まで戦力を展開できる地域勢力となる。
- 第3段階(2040年までに達成)**: 航空母艦を中核とするブルーウォーター・ネイビーを保有する。
彼は師であるゴルシコフと同様に海軍の近代化を強力に推進し、中国海軍には航空母艦が不可欠であると一貫して提唱した。「中国の空母建造計画」を強く支持し、国内の技術革新を奨励すると同時に、大規模な外国からの装備購入も提唱した。1960年代から1970年代にかけては、海軍の研究開発を統括し、その後は国家の軍事研究を主導した。
劉華清は1985年9月に中央委員を引退し党中央顧問委員会委員となり、1987年11月には党中央軍事委員会委員、中央軍事委員会副秘書長に就任した。1988年1月に海軍司令員を退任し、同年4月9日には第7期全国人民代表大会第1回会議において中華人民共和国中央軍事委員会委員に選出された。同年9月には上将の階級を授与された。
2.2. 政治活動
1989年11月の第13期5中全会で江沢民が党中央軍事委員会主席に就任すると、鄧小平は劉華清を党中央軍事委員会副主席に任命した。これは、六四天安門事件で軍への影響力を強めた楊尚昆と楊白冰の兄弟を牽制し、軍における江沢民の後見人とするためであった。
1990年4月4日、第7期全人代第3回会議において国家中央軍事委員会副主席に昇格した。1992年10月19日の第14期1中全会では、楊兄弟が軍から追放される一方で、劉華清は党中央政治局常務委員に抜擢され、党中央軍事委員会副主席に再任された。過去に軍人(政治委員)出身者が政治局常務委員になった例はあったものの、現役軍人、しかも海軍司令員が政治局常務委員になるのは、1990年代以降では劉華清が唯一の事例である。翌1993年3月28日、第8期全人代第1回会議において国家中央軍事委員会副主席に再選された。
1997年の第15回党大会で党政治局常務委員兼中央軍事委員会副主席を退任。翌1998年3月の第9期全人代第1回会議において国家中央軍事委員会副主席も退任し、政界から引退した。
2.3. 1989年天安門事件における役割
1989年の六四天安門事件当時、劉華清は戒厳令部隊の総指揮官として、副指揮の遅浩田上将と共に軍事行動に参加した。
3. 戦略思想
劉華清の軍事戦略思想は、彼の個人的な経験と、中国の海洋戦略の未来に対する深い洞察に基づいていた。
3.1. 主要思想の形成背景
劉華清の軍事思想や戦略は、彼のソ連留学経験と、師であるセルゲイ・ゴルシコフの影響を強く受けて形成された。彼はゴルシコフの提唱した「海洋強国」の概念を中国に適用し、中国が陸上国家から海洋国家へと転換するためには強力な海軍が不可欠であると認識していた。また、中国の地理的状況や経済発展の必要性から、海洋権益の保護と拡大が国家戦略上重要であると考えた。
3.2. 思想の特徴と内容
彼の核となる軍事思想は、**近海防御と外洋海軍建設の段階的発展**に集約される。彼は中国がまず第一列島線内での確固たる支配を確立し、その後第二列島線へと防御線を拡大し、最終的には世界的な外洋海軍を構築するという三段階戦略を提唱した。この戦略において、航空母艦は外洋海軍の核心的な要素であると位置づけられ、彼は中国の空母建造計画を強く推進した。彼の軍事思想は、防御的側面と攻撃的側面を兼ね備え、国家の安全保障と経済発展を両立させることを目指していた。
4. 私生活
劉華清の私生活は、公の軍事・政治活動とは一線を画していたが、その家族構成は一部で注目された。
4.1. 家族
劉華清には、息子と娘がいる。息子の劉卓明は中国人民解放軍海軍の副提督を務めた。娘の劉超英は元人民解放軍中佐で、1996年の米国キャンペーン資金論争において主要人物の一人として報道された。
5. 死去
劉華清は2011年1月14日に北京市内で病気のため死去した。享年94歳。彼の死の翌年、中国海軍は初の航空母艦である「遼寧」(旧「ヴァリャーグ」)を就役させた。
6. 評価と遺産
劉華清の功績は多岐にわたり、現代中国海軍の礎を築いたと広く評価される一方で、特定の歴史的事件における彼の役割については批判的な見解も存在する。
6.1. 肯定的な評価
劉華清は、現代中国海軍の発展において計り知れない貢献をしたと広く評価されており、「現代中国海軍の父」および「中国の航空母艦の父」と称されている。彼は中国海軍の近代化、特に外洋海軍への転換を強力に推進し、その戦略的ビジョンは今日の中国海軍の姿を形作った。彼が提唱した第一列島線・第二列島線戦略は、中国の海洋戦略の基礎となり、海軍力の段階的な拡大を可能にした。彼の指導の下、中国海軍は単なる沿岸警備隊から、地域的、そして将来的には世界的な海洋勢力へと変貌を遂げる基盤を築いた。彼の提言が後の遼寧の就役へと繋がったことは、彼の先見の明の証とされている。
6.2. 批判と論争
劉華清は、その輝かしい軍事的業績の一方で、1989年の六四天安門事件における役割について批判的な視点に晒されることがある。彼は当時の戒厳令部隊の総指揮官として、デモ隊の鎮圧に直接関与したため、人権問題や民主主義運動への抑圧という点で、彼の行動は議論の対象となっている。
7. 影響
劉華清の軍事戦略と提言は、彼の死後も中国海軍の発展に大きな影響を与え続けている。
7.1. 後世への影響
劉華清の活動と思想は、後世の中国海軍発展と軍事戦略に多大な影響を与えた。彼が確立した第一列島線・第二列島線戦略は、現在も中国の海洋戦略の基本枠組みとして機能している。また、彼の航空母艦保有への強い主張と具体的な計画は、中国海軍が実際に空母を建造・運用する道のりを切り開いた。彼は、技術革新と外国からの導入を組み合わせることで、海軍の能力を飛躍的に向上させるという近代化アプローチを確立した。彼のビジョンは、中国人民解放軍海軍が今日の強力な外洋海軍へと発展する上で不可欠な基礎を提供したと言える。
劉華清が授与された主要な勲章は以下の通りである。
- 八一勲章 二級(1955年)
- Order of Independence and Freedom独立自由勲章英語 二級
- Order of Liberation (China)解放勲章英語 一級
- 朝鮮民主主義人民共和国 国旗勲章 一級(1989年)
- Орден Дружбы (Россия)友好勲章ロシア語(ロシア、1999年)