1. 生涯
安部譲二は、幼少期から作家転身、そして晩年まで波瀾万丈の人生を送りました。その経歴は、名門家庭での幼少期、ヤクザとしての活動、客室乗務員、実業家、そしてベストセラー作家へと多岐にわたります。
1.1. 生い立ちと幼少期
安部譲二、本名・安部直也は、1937年5月17日に東京府東京市で、日本郵船に勤務する父・安部正夫と母・玉枝の次男(4人兄姉の末っ子)として生まれました。母方の祖父・梶原仲治は山形県の福浦村(現在の飽海郡遊佐町付近)出身で、苦学して東京帝国大学を卒業した立志伝中の銀行家でした。また、母の姉は法学博士岸清一の長男の妻にあたります。父方の祖父は造船技師で、東京帝国大学で夏目漱石や正岡子規と同期でした。
父の転勤に伴い、幼少時はイギリスのロンドンやイタリアのローマで育ちました。しかし、第二次世界大戦の影響により、1941年に日本郵船が欧州支店を撤退したため、家族で日本へ帰国しました。帰国後は品川区東五反田にある母の実家で育ち、森村学園幼稚園に通いました。
日本も第二次世界大戦に参戦すると、1942年に軍属として昭南島(シンガポール)に出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを国民学校低学年にして片っ端から読破し、港区立麻布小学校では神童と呼ばれました。大戦末期には熱海の祖母の別荘に疎開し、町内に住んでいた松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一から野球を教えてもらったこともありました。この縁で、後に安部の母が息子にヤクザを辞めてプロ野球選手になることを真剣に望み、新田を通じて慶応野球部の後輩である別当薫に安部を紹介したこともあったといいます。
1.2. 学生時代とヤクザとの接点
安部は麻布中学校に進学しました。入学試験の際には、頭のいい受験生の後ろに座ってカンニングを企てたところ、当時から頭が良さそうに見えた橋本龍太郎の後ろに座ることに成功したという逸話があります。後に橋本が内閣総理大臣となった際も、二人は同窓会で再会し、互いの都合の悪いことには触れないことを約束したと語られています。安部はテレビのコメンテーターとして政治問題にコメントする際、「俺は龍ちゃんと同級生だったから」と自民党擁護の発言をすることが多かったですが、これは彼なりのジョークとして受け止められていました。
麻布中学校2年時には、江戸川乱歩が主宰する雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられた経験もあります。中学在学中から安藤組大幹部・阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りするようになったため、麻布高校への内部進学は認められませんでした。
1952年には夏祭りの場で複数の的屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こしました。困り果てた父親により、幼少期を過ごしたイギリスへ留学させられ、ウィンブルドンの寄宿制学校に入学しました。同校在学中には、南ロンドン地区の少年ボクシング大会に出場し、ライトウェルター級で優勝しています。しかし、入寮から4ヶ月後、イタリアからの女子留学生と全裸で戯れていたところを舎監に発見され、退寮処分となりました。16歳の時にはカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャムと売春婦を巡って喧嘩をしたこともあったと語られています。
1.3. 安藤組時代
日本に戻った安部は慶應義塾高校に入学し、体育会拳闘部の主将を務めました。しかし、16歳で本格的に暴力団構成員となったことに加え、早稲田大学の学生16人に喧嘩を挑まれ、3人で撃退したことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けました。
慶應義塾高校除籍後も、神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高校を転々としました。安藤組組員であった時期に保善高校の定時制課程に入学しています。この間、18歳の時に横浜市伊勢佐木町へ債権の取り立てに行き、不良外国人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をしました。19歳の時には横浜で不良外国人のもとへ借金の取り立てに行った際、用心棒に殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。この事件で強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所(現在の横浜刑務所横須賀刑務支所)へ移送されました。
第一審では懲役7年の実刑判決を受けましたが、今日出海らの勧めで控訴しました。控訴審では弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名が変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受けました。
その後、「幻の鉄」の異名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、親分の一家を守り、親分の娘と恋仲になりました。この大親分は、今日出海が小説『海賊』のモデルとした右翼の大物で、全モ連の広島支部長だった岩田幸雄とされています。また、若い時期は「ブラディー・ナオ」のリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もありました。世界王者サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーを務めたこともあり、西ドイツのハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともあったといいます。
1980年代、作家転向後の雑誌インタビューで、フランス滞在中に射撃大会で優勝し、そのことが現地紙「ル・モンド」に掲載された際、「日本では拳銃を所持できないのに、なぜお前が優勝できるのだ」という声があがり、「オレはヤクザだ」と発言したことが原因でフランスから国外退去させられたと語っています。
1.4. 日本航空スチュワード時代
1959年に22歳で保善高校定時制を卒業後、国際ホテル学校に入学。転校が非常に多かったものの、親が社会的に安定した地位にあり、自身も帰国子女で英語が堪能だったため、1961年1月に23歳で日本航空に入社しました。同期には後に力道山と結婚する田中敬子がいました。
訓練後、客室乗務員として国内線や国際線に乗務し、ホノルルやフランクフルト路線での写真も残っています。日本航空の客室乗務員時代の勤務態度は真面目な反面、感情的になることが多く、同僚の彼女を奪って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったといわれています。出勤時には車の中で安藤組の代紋を外し、日本航空の社章に取り換えていました。
客室乗務員時代に同僚の遠藤瓔子と結婚。その後作家となる、当時日本航空広報部社員だった深田祐介とも知り合い、深田の妻も客室乗務部で同僚でした。当時、深田は安部を「帰国子女で典型的な山の手のお坊ちゃん風」だと思っており、暴力団員であったことを退社に至るまで全く知らなかったと語っています。
この間、1963年4月17日から1967年8月25日に起きた第二次広島抗争に派遣されました。映画『仁義なき戦い』の第四部『頂上作戦』の劇中に、全国から喧嘩の助っ人が広島市に集結したくだりがありますが、実際には全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていました。ある日、商店街の野球大会に参加し、飛ばない軟式ボールを広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだところ、商店街の会長から「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われたと語っています。
スチュワードからパーサーまで昇進しましたが、理不尽な要求をする乗客とのトラブルで相手を殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であったことが露見し、安藤組解散(1964年)後の1965年1月に退社に追い込まれました。
1.5. 小金井一家と実業家活動
日本航空退社後の1966年からは刑務所で服役しました。同年、三島由紀夫が安部をモデルに原作を書き、田宮二郎主演で、日本航空時代の安部をモデルとした映画『複雑な彼』が大映で制作、封切りされています。田宮二郎が演じた主人公「宮城譲二」は、安部が後に作家デビューするにあたりペンネームにもなりました。
安藤組解散後、安部は新宿の小金井一家にヘッドハンティングされました。同時に妻とレストラン「サウサリート」の経営、キックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、競馬予想屋など、様々な職を転々としました。
1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は、本店を遠藤に任せ、赤坂、六本木、三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、大田区鵜の木の敷地2314 m2の豪邸に住むほどの勢いがありました。「ロブロイ」では菅野邦彦も演奏しましたが、当時高校生の矢野顕子も演奏していました。後に遠藤瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなっています。
1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあると語っています。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランス製メタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は15.00 万 USDで購入したメタンフェタミンを群集に奪われ、命からがら脱出したこともあったとされています。
1.6. 服役と転向
1975年に拳銃不法所持や麻薬取締法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役しました。当時、囚人の中には赤軍派(後に日本赤軍)活動家の城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きる直前、城崎にオルグされかけたことがあったといいます。
1981年にヤクザ稼業から足を洗いました。安部の前科は暴行、傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また国外でも複数回の服役を経験し、国内外での刑務所生活は通算8年間に及びました。
1.7. 死去
2019年9月2日午前1時18分、急性肺炎のため82歳で死去しました。
2. 作家・タレント活動
安部譲二は、その特異な経験を活かし、ベストセラー作家として、またテレビタレントとして広く活躍しました。
2.1. 作家デビューと主要作品
安部は1983年から小説を書き始めました。当初は著書を出してくれる出版社が見つかりませんでしたが、1984年に山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に刑務所服役中の体験記『府中木工場の面々』の連載を開始しました。文筆家としての道を歩むきっかけとなった山本との出会いに関しては、著書などで事あるごとに「山本先生は自分の恩師、大恩人である」と述べています。
1986年に連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版されました。この作品はベストセラーとなり映画化もされ、以後人気作家としての地位を確立しました。この著作の影響で、日本で刑務所のことを「塀の中」と表現するようになったといわれています。
2.2. 漫画原作活動
安部は漫画作品の原作にも携わりました。2005年には柿崎正澄作画の『RAINBOW-二舎六房の七人-』で第51回小学館漫画賞一般部門を受賞しました。
2.3. テレビ・ラジオ出演
安部は、情報帯番組『追跡』(日本テレビ系)の金曜レギュラーを皮切りに、テレビやラジオに数多く出演し、タレントとしても活動しました。1990年には石原プロ製作の刑事ドラマ『代表取締役刑事』に警察署長役でレギュラー出演するなど、活動の幅を広げました。
3. 人物・エピソード
安部譲二は、その豪放な性格と多趣味な一面を持ち、各界の著名人との幅広い交友関係がありました。また、政治に対する彼なりの見解も持っていました。
3.1. 交友関係
安部は多くの著名人と交流がありました。彼が著書『俺が痺れた男たち-日本快男児列伝』で紹介しているだけでも、安藤昇、石原裕次郎、和泉宗章、江夏豊、大野伴睦、金平正紀、ジョージ川口、畑山隆則、花村元司、ピストン堀口、マック鈴木、渡辺正人など、そうそうたる面々が名を連ねています。また裏社会の人物・団体としては「海原清平」、「岩田幸雄」、「森脇将光」、「闘鶏協会」といった名前も登場します。なお、本記事に記載されている交友関係の多くは、暴力団対策法の制定よりもはるか以前のものです。
永田雅一に大変な恩義を感じており、永田の孫でTBSラジオのディレクター、プロデューサーを歴任した永田守の頼みは断れないようで、永田守が初代プロデューサー兼ディレクターを担当した『伊集院光 深夜の馬鹿力』では、内田有紀、遠藤久美子、シャロン・ストーンの物真似を延々させられたり、出会い系サイトに登録してどれくらいモテるか他の出演者と競うなど、他の番組ではありえない扱いを受けることもありました。
同学年の梅宮辰夫とは「辰ちゃん」「譲二」と呼び合う仲でした。また、大の岡田奈々ファンとして知られ、自身が原作の映画作品に出演させています。
阪神タイガースのファンで、子供の頃に吉田義男のボールさばきを見て大ファンになりました。野球界では青田昇と親交が深いことをブログなどで明かしています。
3.2. 趣味・嗜好
趣味の将棋はアマ有段者の腕前で、1989年には日本将棋連盟が発刊していた『将棋マガジン』誌上で、当時のA級棋士・タイトルホルダーとの二枚落ち自戦記『負けても懲りない十二番』を連載しました。大山康晴に勝利したときは人目も憚らず涙を流したといいます。この時の連載は後に『突撃将棋十二番 トップ棋士との二枚落ち奮戦記』として書籍化されています。
大の猫好きとしても知られていました。猫の絵の入ったシャツを着ていて親分に嫌がられたこともあるというエピソードもあります。
選挙ではいつも日本共産党に投票していましたが、日本社会党、日本共産党の支持を受け、庶民派の東京都知事として在任中であった美濃部亮吉が、高級ホテルとして知られるホテルオークラで朝食を摂っているのを目撃した安部は、美濃部と一悶着起こしたと自著に記しています。また、2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後に後悔しているとも述べています。
気まぐれでお笑いライブを見に行った際に「こいつは売れる」と思ったのがふかわりょうでした。後年、テレビに出るふかわを見て「ほら売れたろ!」と言っていたといいます。
4. 著作
安部譲二は、自らの経験を基にした小説から、漫画原作、翻訳まで、幅広いジャンルの作品を発表しました。
4.1. 小説
- 『塀の中の懲りない面々』(文藝春秋、1986年、のち文庫)
- 『塀の中のプレイボール』(講談社、1987年、のち文庫)
- 『極道渡世の素敵な面々 28年間、この男たちに魅せられて』(祥伝社〈ノン・ブック〉、1987年)
- 『極道の恩返し 安部譲二ワルの馬券学』(ネスコ、1987年、のち集英社文庫)
- 『塀の外の男と女たち』(ワニブックス、1987年)
- 『ぼくのムショ修業』(講談社、1987年、のち文庫)
- 『殴り殴られ』(集英社、1987年、のち文庫)
- 『さらば、極道』(角川書店、1987年)
- 『泣きぼくろ』(講談社、1988年、のち文庫)
- 『安部譲二の侠気塾』(マガジンハウス〈平凡パンチの本〉、1988年)
- 『塀の中の懲りない面々 2』(文藝春秋、1988年、のち文庫)
- 『ジェット・ストリーム』(講談社、1988年、のち文庫)
- 『曇りのち晴れ舞台 懲りないジョージのエンドレス・ライブ』(対談集)(徳間書店、1988年)
- 『怪傑ゾロ目』(文藝春秋、1988年、のち文庫)
- 『懲役絵図師』(光文社、1988年、のち文庫)
- 『ちんぴら渡世』(実業之日本社、1988年)
- 『塀の上の曲芸師たち』(祥伝社〈ノン・ブック〉、1989年)
- 『スゴめ、サラリーマン!』(徳間書店、1989年)
- 『賞ナシ罰アリ猫もいる』(文藝春秋、1989年、のち文庫)
- 『プロ野球死んでもらいます 元極道の私だから言える』(学習研究社、1989年)
- 『黄金の悪夢』(祥伝社、1989年)
- 『つぶての歌吉』(朝日新聞社、1989年、のち文庫)
- 『女にすがって極道渡世 わが愛しの愚妻・悪妻・聖女・魔女...たち』(主婦と生活社、1989年)
- 『みみずのハナ唄』(文藝春秋、1990年、のち文庫)
- 『俺達は天使じゃない』(講談社、1990年、のち文庫)
- 『男の条件 もっと強い男になりたい』(ごま書房〈ゴマブックス〉、1990年)
- 『きのこ』(中央公論社、1991年)
- 『時速十四ノット、東へ』(講談社、1992年、のち文庫)
- 『謀られた騎手』(祥伝社〈ノン・ノベル〉、1992年)
- 『塀の外の懲りない二人』(実業之日本社、1992年)
- 『いつも命がけ!小説ジョージ川口物語』(日本テレビ放送網、1992年)
- 『心の塀は自分で越えろ 安部譲二の好かれたい人に好かれる法』(アズ・コミュニケーションズ、1992年、のちPHP文庫)
- 『懲役の達人。「アメリカ版」塀の中の懲りない面々』(集英社、1992年)
- 『大列車旅行 オリエント・エクスプレス15000キロ』(文藝春秋、1992年)
- 『突撃将棋十二番 トップ棋士との二枚落ち奮戦記』(日本将棋連盟、1992年)
- 『囚人道路』(講談社、1993年、のち文庫)
- 『風の向こうに』(角川書店、1993年)
- 『欺してごめん 私が舌を巻いた五人の詐欺師たち』(クレスト社、1993年)
- 『塀の中の懲りない面々 3』(文藝春秋、1994年)
- 『懲りない男と言われても...』(広済堂出版、1994年)
- 『不時着』(サンドケー出版局、1994年)
- 『同伴賭博』(実業之日本社、1994年)
- 『猫のいいぶん、猫のみかた』(河出書房新社、1995年、のち文庫)
- 『博奕・ギャンブル・旅烏』(プレイグラフ社、1995年)
- 『僕は百獣(110)の王』(南雲堂、1995年)
- 『仕合証文 忠臣蔵外伝』(有楽出版社、1996年)
- 『起きろ、寝ぼけトラ!愛しているから言う。』(ソニー・マガジンズ、1996年)
- 『こいつだけは許せねえ 世間に代わってワルを撃つ』(日本文芸社、1996年)
- 『アメリカ東海岸・談論風発』(広済堂出版、1996年)
- 『解決!ゴルフに懲りた人がうまくなる』(PHP研究所、1997年)
- 『ジョージから愛をこめて』(廣済堂出版、1997年)
- 『想い出のゴロニャン』(どうぶつ出版、1997年)
- 『天下御免の13人』(PHP研究所、1998年)
- 『ああ!!女が日本をダメにする』(中経出版、1998年、のち徳間文庫)
- 『秋は滲んで見えた』(PHP研究所、1998年)
- 『仁侠でござる』(有楽出版社〈Joy novels〉、1999年)
- 『ファイナル・ラウンド』(講談社、1999年)
- 『きりとりブルース』(徳間文庫、1999年)
- 『幸福のすすめ "勇気"と"信念"で生きる』(大和出版、2000年)
- 『塀の外の同窓会』(文藝春秋、2000年)
- 『お金持ちは国の宝です 腹がたつこんな社会をどう生きる』(ぱるす出版、2000年)
- 『俺が痺れた男たち 日本快男児列伝』(双葉社、2001年)
- 『八ヶ岳あかげら日誌』(PHP研究所、2001年)
- 『母さん、ごめんなさい 母とグレた息子の物語』(PHP文庫、2001年)
- 『六十歳からのやんちゃ道』(ワイアンドエフ、2001年)
- 『記憶に残る拳豪たち』(小学館、2001年)
- 『オレの借金地獄 デフレ・リストラ、どんとこい!』(祥伝社、2002年)
- 『日本怪死人列伝』(扶桑社、2002年、のち文庫)
- 『塀の内外喰いしんぼ右往左往』(講談社+α新書、2003年)
- 『猫のシッポ』(講談社、2003年)
- 『ナンバーワンにならない生き方』(日本実業出版社、2004年)
- 『藍色の海』(PHP研究所、2004年)
- 『渡世の学校』(リイド社、2004年)
- 『馬主だけに儲けさせるな-ウラ側から見た馬券術』(ハルキ文庫、2005年)
- 『「頭のいいワル」だから、人生うまくいく!』(三笠書房、2006年)
- 『裏も表もあるもんか。格差社会を出し抜く行動学』(リイド文庫、2008年)
- 『絶滅危惧種の遺言』(講談社文庫、2009年)
- 『もう、猫なしでは生きていけない。』(青志社、2013年)
4.2. 共著・編著
- 『夢を、実現する。足を洗った俺の生き方、人生の拓き方 痛快語り下ろし』(経済界、1989年、佐藤正忠との共著)
- 『日本の名随筆』別巻 56 賭事(編)(作品社、1995年)
- 『大勝負 野村阪神VS長嶋巨人 男のプライドを賭けた最後の闘い』(中経出版、1999年、江夏豊との共著)
- 『人はなぜ生きるのか 生きていてよかったと思えるために』(文芸社、2001年、濤川栄太との共著)
- 『塀の中から見た人生』(カナリア書房、2004年、山本譲司との共著)
- 『人生相談劇場』(山田詠美共著、中央公論新社、2014年)
4.3. 翻訳書
- ロナルド・リチャード・ロバーツ『エディソン郡のドブ』(扶桑社、1994年)
- ジョージ・フォアマン『敗れざる者』(角川春樹事務所、1995年)
4.4. 漫画原作・連載コラム
- 『渋谷ホンキィトンク』(作画:田中正仁、週刊プレイボーイ、集英社)
- 『赤い弾丸』(作画:岸山直、ビッグコミックスピリッツ、小学館)
- 『アプサラス』(作画:深山雪男、週刊ヤングサンデー、小学館)
- 『RAINBOW-二舎六房の七人-』(作画:柿崎正澄、週刊ヤングサンデー~ビッグコミックスピリッツ、小学館)
- 『愚連隊の神様、万寿十一伝説 紅蓮』(作画:嶺岸信明、近代麻雀ゴールド、竹書房)
- 『懲りない編集長安部譲二のなんだかんだ』(デイリースポーツ)
4.5. 映像化作品
4.5.1. 映画
- 『塀の中の懲りない面々』(1987年、松竹)
4.5.2. Vシネマ
- 『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ~』(1990年、東映ビデオ=東北新社)※『泣きぼくろ』の映像化
- 『雀鬼5/ひとりだけの引退試合』(1995年、竹書房) 阿藤役
4.5.3. テレビアニメ
- 『RAINBOW-二舎六房の七人-』(2010年、日本テレビほか)
4.5.4. オリジナル・ビデオ・アニメ
- 『安部譲二かっとび青春記 渋谷ホンキィトンク』(1988年、ナック映画、徳間ジャパン、徳間コミュニケーションズ、全4巻)
5. 出演作品
安部譲二は、俳優、解説者、パーソナリティなどとして、多岐にわたる映像作品や音声作品に出演しました。
5.1. テレビ
- ゴールデン・キックボクシング(日本テレビ系列) - 解説者
- クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!(日本テレビ系列)
- 追跡(日本テレビ系列) - 金曜パートナー
- 安部譲二のスポーツZANMAI(毎日放送)
- 世界まるごと2001年(毎日放送・TBS系列)
- 安部譲二のあぶない夜(テレビ東京)
- 代表取締役刑事 (1990年 - 1991年、テレビ朝日系列) - 辰巳署長・大島茂三 役
- 月曜ドラマスペシャル 塀の中の懲りない面々(TBS系列)
- シティーハンター テレビスペシャル『グッド・バイ・マイ・スイートハート』(1997年、日本テレビ系列) - エリカ 役 ※特別出演
5.2. ラジオ
- ズバリ快答!テレフォン身の上相談(TBSラジオ) - 回答者
- 伊集院光 深夜の馬鹿力(TBSラジオ)
- 堂々! 天下御免(ニッポン放送)
5.3. 映画
- 『塀の中の懲りない面々』(1987年、松竹)- 水田順一 役
- 『塀の中のプレイボール』(1987年、松竹)
- 『極道渡世の素敵な面々』(1988年、東映映)- 有賀清志 役
- 『クレイジーボーイズ』(1988年、松竹富士)- ラーメン屋の親爺 役
- 『カンバック』(1990年、松竹)
- 『修羅がゆく4 東京大戦争』(1997年、KnacK)- 鬼塚厳 役
- 『借王1・2』(1998年、日活) - 大阪府警察 浪速南警察署 署長 役
- 『極道の妻たち 決着』(1998年、東映)- 江頭 役
- 『極道はクリスチャン/修羅の抗争』(2004年、knack)- 末松健児 役
6. 音楽作品
- 「伝説の"赤い玉"」(1991年2月5日、テイチク) - さやま友香と共演
7. 論文
- [https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E5%AE%89%E9%83%A8%E8%AD%B2%E4%BA%8C&count=100&sortorder=3 国立情報学研究所CiNii収録論文]
8. 評価と影響
安部譲二の生涯と作品は、そのユニークな背景から多角的な評価を受け、日本社会に様々な影響を与えました。
8.1. 社会的・文化的影響
安部譲二の代表作『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり、そのタイトルから「塀の中」という言葉が刑務所を指す一般的な表現として広く定着しました。この作品は、これまで一般には知られることの少なかった刑務所内部の日常や受刑者の生態をユーモラスかつリアルに描き出し、読者に新たな視点を提供しました。これにより、社会の裏側、特に犯罪と刑罰に対する大衆の関心を高め、ある種のタブーを打ち破る文化的な役割を果たしたと言えます。また、彼がテレビやラジオに出演し続けたことで、元暴力団員という経歴を持つ人物が世間から受け入れられ、多様な人生を肯定する社会的な風潮にも貢献しました。
8.2. 批判と論争
安部譲二は自身のヤクザ時代の過去について、「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけねぇんだよ」と発言しており、自身の経験談にかなりの脚色を加えていることを認めていました。このような発言は、彼の著作の事実性に対する議論を呼ぶ一方で、エンターテイナーとしての彼の姿勢を示すものとも解釈されました。
また、2005年頃から新聞などに掲載された禁煙グッズの広告に「私は楽して煙草をやめました」として登場していましたが、彼自身は煙草をやめていないことを自身のブログなどで告白しており、その広告内容の真偽を巡る批判もありました。政治的見解に関しては、庶民派を自称する東京都知事が高級ホテルで朝食を摂っているのを目撃し、その態度を批判したというエピソードや、投票した民主党の政策に後悔の念を示した発言など、彼独自の政治的姿勢が注目されることもありました。