1. 生涯
山中毅の生涯は、彼の出生から幼少期、そして学歴を通じて、水泳選手としての基盤がどのように築かれたかを示している。
1.1. 出生と幼少期
山中毅は1939年1月18日に石川県輪島市で生まれた。彼の母親は海女であり、出産数日前まで海に潜っていたという逸話が残っている。このため、「山中は生まれる前から泳いでいる」という話が語り継がれている。
1.2. 学歴
山中毅は石川県立輪島高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部に進学した。早稲田大学を卒業後、彼はアメリカ合衆国の南カリフォルニア大学に留学した。この留学期間中、彼は水泳選手としてさらなる飛躍を遂げ、同じ大学に留学していたマレー・ローズやジョン・コンラッズらと共に南カリフォルニア大学の水泳チームの黄金時代を築き上げた。
2. 競泳経歴
山中毅は、3度のオリンピック出場と数々の世界記録樹立、そして独自のトレーニング方法とライバル関係を通じて、日本の競泳界にその名を刻んだ。
2.1. オリンピック出場
山中毅は1956年、1960年、1964年の3度のオリンピックに出場し、合計4つの銀メダルを獲得した。
- 1956年メルボルンオリンピック
- 自由形400mと1500mに出場し、いずれもオーストラリアのマレー・ローズに次ぐ2位で銀メダルを獲得した。
- 4×200mフリーリレーでは4位に入賞した。
- 1960年ローマオリンピック
- 400m自由形に出場し、再びマレー・ローズに敗れ銀メダルを獲得した。
- 4×200mフリーリレーでは、チームで最速の泳ぎを見せたものの、アメリカ合衆国に敗れて銀メダルを獲得した。この大会の1500m自由形では4位に入賞している。
1960年のローマオリンピックにおける山中毅(中央)。左はマレー・ローズ、右はジョン・コンラッズ。 - 1964年東京オリンピック
- 400m自由形に出場し、6位に入賞した。
- 4×200mフリーリレーでは、予選を泳ぎ、日本チームの銅メダル獲得に貢献した。
彼は3度のオリンピックで延べ7種目に出場し、獲得した4個の銀メダルを含め、出場したすべての種目で入賞を果たした。
2.2. 世界記録と大会実績
山中毅は、オリンピックでの活躍に加え、数々の世界記録を樹立し、国際的な主要大会でも輝かしい実績を残した。
2.2.1. 世界記録
山中毅は、競泳における複数の世界記録を樹立した。
- 200m自由形
- 1958年から1959年にかけて2つの世界記録を樹立した。
- 1961年には、南カリフォルニア大学留学中にわずか2ヶ月の間に3度も世界記録を更新した。
- 400m自由形
- 1959年に世界記録を樹立した。
- 4×200mフリーリレー
- 1959年と1963年に合計3つの世界記録を樹立した。
2.2.2. 主要大会
山中毅はオリンピック以外にも、数々の主要大会で優れた成績を収めた。
- 1958年アジア競技大会
- 400m自由形と1500m自由形の両種目で金メダルを獲得した。
- アメリカ国内記録
- 200m自由形と400m自由形で2つのアメリカ国内記録を樹立した。
- アメリカ水泳連盟(AAU)選手権
- 200m自由形と400m自由形で優勝を果たした。この大会では、ジョージ・ブリンを破ったが、マレー・ローズには敗れた。
2.3. トレーニングとライバル関係
山中毅の競泳経歴は、彼の独特なトレーニング方法と、国際的なライバルとの切磋琢磨によって特徴づけられる。
山中のコーチは、トレーニング中に彼の背中に小石(ペブル)を投げ入れるという独特な指導法を用いた。山中が泳ぎを緩めると、コーチは彼に小石を投げつけ、トレーニング後には山中がプール底に沈んだ小石を全て回収しなければならなかった。この方法は、彼が常に集中し、努力し続けることを促した。
競泳界における主要なライバルとしては、特にオーストラリアのマレー・ローズが挙げられる。山中は1956年メルボルンオリンピックと1960年ローマオリンピックの400m自由形決勝で、いずれもローズに次ぐ2位となり銀メダルを獲得した。また、南カリフォルニア大学に留学中には、同じく留学していたマレー・ローズやジョン・コンラッズと共に練習を重ね、互いに高め合うことで同大学の水泳チームの黄金時代を築いた。
3. 引退後の活動
競技水泳のキャリアを終えた後、山中毅は様々な分野でその才能を発揮し、社会貢献に努めた。
3.1. 職歴と指導
早稲田大学卒業後、山中毅は大洋漁業(現・マルハニチロ)に就職し、会社員としてのキャリアをスタートさせた。また、彼は水泳教育分野にも深く関わり、イトマンスイミングスクールの取締役を務めるなど、後進の指導にも尽力した。
3.2. 政界進出
1995年には、参議院議員選挙の比例区にさわやか新党から出馬し、政界進出を試みた。しかし、この選挙では落選に終わった。
4. 個人的エピソード
山中毅の人生には、彼の運の強さを示す注目すべき個人的な逸話がいくつか存在する。
1962年、彼はジョン・コンラッズと共に南米に招待され、帰国の途についた。この際、彼らが搭乗する予定だったヴァリグ・ブラジル航空810便がペルーで墜落する事故が発生したが、山中らは飛行機に乗り遅れたため、難を逃れることができた。
さらに、1966年に発生した全日空羽田沖墜落事故と全日空松山沖墜落事故の際にも、彼は直前に友人と会う約束があったため搭乗をキャンセルし、奇跡的に命拾いしている。これらの出来事は、彼の人生における特異な幸運として語り継がれている。
5. 死去
山中毅は2017年2月10日、肺炎のため東京都練馬区内の病院で死去した。78歳没。
6. 受賞歴・顕彰
山中毅は、その輝かしい競泳における功績を称えられ、数々の重要な賞や栄誉を受けている。最も注目すべきは、1983年に国際水泳殿堂(International Swimming Hall of FameISHOF英語)入りを果たしたことである。これは、彼の世界的な水泳界への貢献が認められた証である。