1. 人物・経歴
岡田彰布は、選手として、また監督として、日本のプロ野球界に大きな足跡を残してきた。そのキャリアは、幼少期の野球との出会いから始まり、学生野球での輝かしい実績、プロ野球選手としての活躍、そして指導者・監督としての成功と挫折、そして再びの栄光へと続く。
1.1. 幼少期から学生時代まで
岡田彰布は大阪市中央区玉造で育った。父親は「大阪紙工所」という町工場を経営しており、阪神タイガースの有力な後援者で、村山実や藤本勝巳といった選手たちと親交が深かったため、岡田は幼少期からタイガースと縁深い環境で育った。東大阪市の私立朝陽ヶ丘幼稚園に入園後には、当時のタイガースの正三塁手だった三宅秀史とキャッチボールをする機会があり、それ以来、三宅に憧れを抱くようになった。岡田が後にタイガースへ入団した際に背番号16を希望したのは、かつて三宅が着用していた番号だったからである。1962年の阪神の優勝パレードでは、幼稚園児ながら選手と一緒に車に乗って沿道に手を振っていた経験もある。
大阪市立愛日小学校5年生の時に、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」に入団し、本格的に野球を始めた。これは阪神が少年野球チームを持っていなかったためでもある。父親の町工場でも草野球チームを結成し、岡田自身も村山が着用していた背番号11を付けてマウンドに上がった。阪神甲子園球場へタイガースの試合を見に行くことも多かったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側だった。その理由は、読売ジャイアンツの長嶋茂雄を一番近くで見ることができ、そこから野次を飛ばすためだったという。
1972年、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝した。1973年3月には村山実の引退試合が行われ、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボールの相手を試合前に務めた。同年4月、北陽高等学校に進学。2学年上には有田二三男(のち近鉄)と慶元秀章(のち近畿大学~クラウンライター/西武~近鉄)がいた。同年夏の甲子園に左翼手として出場し、7番あるいは2番打者として起用された。3回戦では有田が宮崎県立高鍋高等学校からノーヒットノーランを達成したが、準々決勝で愛媛県立今治西高等学校に2対6で敗れた。この大会では3試合で9打数3安打、打率.333を記録している。3年生時の1975年にはエース兼4番打者として府予選決勝まで進出するも、興國高に0対2で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。この頃、読売ジャイアンツからドラフト指名の話を受けたことがあったという。
岡田はプロ入りせずに一般入試で早稲田大学に合格し、その後早稲田大学野球部のセレクションを受験した。15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという)という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たした。3学年上に松本匡、吉沢俊幸、八木茂、2学年上に佐藤清、難波秀哉と山倉和博のバッテリー、1学年上に金森栄治らがいた。東京六大学野球リーグでは1976年秋季リーグから「7番打者・左翼手」としてレギュラーを獲得し、江川卓(法政大学)から3安打を放って注目を集めた。2年生からはかつて憧れていた三宅と同じ三塁手として5番打者を任され、1978年秋季リーグでは三冠王に輝き、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。同年、第7回日米大学野球で三塁手として4番打者を務めた。1979年春季リーグでは主将としてリーグ連覇に貢献し、同年の全日本大学野球選手権でも決勝に進むが、香坂英典・高木豊を擁する中央大学に敗れ、準優勝に終わった。第7回・第8回日米大学野球選手権大会にも出場し、全日本の4番打者として全試合に出場した。この全日本では原辰徳(東海大学)とポジションが被ったため、岡田が遊撃手に回った。大学同期にはエースの向田佳元、捕手の有賀佳弘、外野手の島貫省一がいた。
岡田のリーグ通算成績は88試合で309打数117安打、打率.379、20本塁打、81打点で、打率と打点はリーグ記録として2023年現在も破られていない。また、1977年秋季から5季連続でベストナインに選出されたほか、1978年春季・対東京大学2回戦では史上2人目のサイクル安打を達成するなど、岡田は大学野球の花形選手となった。卒論は「私の打撃理論。」というテーマで執筆したが、実際には単位不足で卒業扱いとはならなかった。
1.2. 選手としてのキャリア
岡田彰布は、プロ入り後、阪神タイガースとオリックス・ブルーウェーブで16年間の現役生活を送った。その間、ポジションを複数経験し、打撃と守備の両面でチームに貢献した。
1.2.1. プロ入り
東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立した岡田へのプロ野球各球団の獲得競争は一気に過熱し、ドラフト会議の目玉となった。岡田は10月29日のプロ入り表明会見の席において希望球団を問われ、「(地元の)阪神だったら最高ですが、阪急(ブレーブス)などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントがしっかりして優勝を争える球団なら行きたい」「巨人、西武も優勝を狙えるし、良いですね」と答えた。しかし、後年のインタビューでは「僕が一人っ子だったことで母が『関西に帰ってきてほしい』と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急、近鉄、南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている。なお、ある一部のマスコミに意中の球団をインタビューされた時、「どこの球団とは言えませんが、セ・リーグの在阪球団が希望です。」と事実上、阪神が希望と言っているのと同等の発言をした逸話もある。ドラフトでは当時史上最多となる6球団(西武・ヤクルト・南海・阪神・阪急・近鉄)が岡田を1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得し、岡田の阪神入団が決まった。契約金は6000.00 万 JPY、年俸は480.00 万 JPYであった。
1.2.2. 阪神タイガース時代
入団初年度の1980年、監督のドン・ブレイザーは「オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い」という考えで、一塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い」と告げられたが、岡田は「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えたと著書に記している。しかし当時の野手陣には三塁手に「ミスター・タイガース」掛布雅之、遊撃手として岡田が入団する前年に太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズから加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務めることになる真弓明信、二塁手に中村勝広・榊原良行と、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトン、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった藤田平がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという。
オープン戦で本塁打を2本放つ活躍をしたが1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。ヒルトンはオープン戦で特大本塁打を放ったがシーズン開幕直後から打撃不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷離脱した4月19日、20日も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部はヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。4月22日の対大洋戦前に小津正次郎球団社長がブレイザー監督と2時間会談して説得し、その日以降は岡田が三塁手で起用された。ヒルトンは18試合出場、打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日に解雇された。阪神球団は新たにブルース・ボウクレア外野手を獲得したが、これに反対するブレイザーと球団の関係が極度に悪化し、5月15日、球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。掛布が復帰した5月17日以降は二塁手で起用され新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している。
この年、オールスターゲームの第1戦において22歳7か月で代打本塁打を放ったが、これは2015年の第2戦で19歳11か月だった森友哉が代打本塁打を放つまでオールスターでの代打本塁打の最年少記録だった。ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、掛布雅之が故障したことで三塁手が最も多く、遊撃手、二塁手、一塁手でも出場している。打順は前半の7番、8番打者から次第に繰り上がり、終盤は5番打者として起用された。同年は規定打席(13位、打率.290)にも達し、18本塁打を放った。
1981年には初めて全130試合に出場し、20本塁打を記録した。ポジションは二塁手に固定された。前年のルーキーイヤーから2年連続2桁本塁打を記録したが、これは後に佐藤輝明がルーキーイヤーの2021年、2022年に連続2桁本塁打を記録するまでは、ほかに田淵幸一しか記録者のないものだった。1982年には安藤統男監督が就任し、同年は打率.300(リーグ9位)を記録した。このシーズンも2桁本塁打を放ち、新人からの3年連続も阪神では以前には田淵、その後も佐藤だけが記録しているものである。
1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振った。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった真弓明信が入り、空いた遊撃手は平田勝男が入った。1984年、春季キャンプには参加したが、実戦復帰はずれ込んで5月19日対広島戦から先発に復帰した。当初二塁手を中心にランディ・バースの帰国時などに時折一塁手も守るという形だったが、後半戦は主に右翼手で起用された。打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績を残している。
1985年、吉田義男監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁手に戻った。シーズンは5番を通して活躍した。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、「ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!」と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏二死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の吉田義男も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。
同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇が日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも"飛行機派"と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2点本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録した。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342、リーグ4位の35本塁打、リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。
1986年は前年と同じく5番打者、二塁手で開幕戦に先発出場すると、4月後半に掛布が故障離脱したのに伴い4番打者に抜擢された。5月半ばに掛布が復帰すると5番に戻るが、この年の掛布は再離脱を繰り返したため8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めた。9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打を放った。前年よりは数字を落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残した。1987年は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。
1988年に村山実監督が就任し、開幕時は5番二塁手で、5月以降は4番二塁手で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本本塁打のチームメイトのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。
1990年から中村勝広監督が就任し、八木裕が遊撃手から三塁手にコンバートされ、岡田は二塁手に戻った。1991年は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わった。1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力した。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減した。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた。この年のオフ、一部で翌年の戦力構想から外れ、本人がトレード志願との一報が出た。一時はダイエー移籍の可能性が高いとも報じられたが、一転して球団が慰留に務め、残留に合意した。1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になった。
1.2.3. オリックス・ブルーウェーブ時代
1994年のキャンプイン直前に仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団した。その会見では「これからも阪神ファンであり続ける...」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称「愛人」の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200.00 万 JPYを脅し取られる被害を受けていたことが明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている。
1994年の春のキャンプ中、オリックスに89年1位で入団しながら伸び悩んだパンチ佐藤がフジテレビ「プロ野球ニュース」のカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と宣言。この年阪神から移籍した岡田を見つけると「岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で、今年復活にかける、と言いましょう!」と力強く誘ったが、岡田は引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がり「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」と返した。なおも「いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!」と食い下がったが、一流選手としてのプライドが高いことで有名な岡田が呆れ返り「復活って、お前、何もないやないか」「一緒にすんなよ」とあくまで拒否。パンチにとって吉兆とはいえない現役最後のシーズンの始まりであった。オープン戦では打席に立ったときに阪神ファンからも応援される光景が観られた。
1995年、出場機会も減り、10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に、現役引退した。日本シリーズでの出場機会はなかった。1996年3月26日、古巣・阪神とのオープン戦が引退試合となり、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。現役中はスポーツ用品メーカーであるSSKのアドバイザリースタッフを務めた。
1.2.4. 選手としての特徴
岡田彰布は、長きにわたりプロ野球の第一線で活躍し、特に打撃と守備において独自のスタイルと高い技術を示した。
1.3. 指導者としてのキャリア
岡田彰布は、現役引退後、オリックスと阪神でコーチを務め、特に二軍監督として若手選手の育成に尽力した。
1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任した。1998年、二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。この頃、自動車運転免許を取得した。1999年には二軍監督兼打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督(専任)を務め、1999年と2002年にはファーム日本選手権で優勝し、2度、日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。
2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換され、三塁ベースコーチを担当した。三塁ベースコーチとしての状況判断は正確無比であったと評されている。大西崇之は現役時代に「うまいと思った三塁コーチ」について、岡田の名を挙げた。
1.4. 監督としてのキャリア
岡田彰布は、阪神タイガースとオリックス・バファローズで監督を務め、特に阪神では2度のリーグ優勝と1度の日本一を達成した。その采配は堅実さと独自の哲学に基づき、多くの話題を呼んだ。
1.4.1. 第1次阪神監督時代
2003年オフ、健康問題により勇退した星野仙一の後任として第30代一軍監督に就任した。大阪府出身の監督は球団創設69年目にして初となった。背番号はコーチ時代から引き続いて『80』。就任時には「期待してもらって結構です」と挨拶した。
監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球による怪我、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。
2005年はジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之による『JFK』を勝利の方程式として起用するようになる。9月7日のナゴヤドームにおける中日との2ゲーム差での首位攻防戦で、9回表の微妙な本塁クロスプレーでのアウトの判定が伏線となり(本塁憤死した走者は奇しくも11回に決勝弾を放った中村豊)、直後の9回裏に同じような本塁クロスプレーでのセーフの判定を巡って審判団に詰め寄り、選手全員を一時ベンチへ引き揚げさせるなど激しく抗議した。その後フロントの説得により放棄試合は回避するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザーの久保田に対し「もう打たれろ! 打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほうったれ(投げたれ)!」と言葉をかけた。久保田は後続の渡邉博幸、タイロン・ウッズを連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。この一見投げやりにも取れる言葉の裏には「たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負う」という強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督の差で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡き父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。
しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。またシリーズ中は4試合中3試合が大量ビハインドであったことから、僅差の展開となった第4戦を除き『JFK』(藤川のみ第3戦にも登板)を起用しなかった。11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに輝いた。
2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明した。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75.60 万 JPY(1セット約9000 JPY)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まであきらめない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。
2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった。
2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。
1.4.2. オリックス監督時代
2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆した。2009年2月1日の朝日放送「虎バン」で解説者としてデビューし、日本テレビ・読売テレビ・朝日放送・サンテレビ・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。4月12日の阪神対巨人戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という岡田本人の意思もあり、見送られた。評論家活動とは別に、2009年シーズン開幕前に岡田は日本プロ野球機構から「調査委員会」の委員として任命され、8月にメンバーの熊﨑勝彦(元・東京地検特捜部長)、石塚久(弁護士)と顔を合わせた。通常の任期は2年だが、後述のオリックス監督就任に伴い1年の任期を残して退任している。

2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1.00 億 JPY、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる。岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ時代の球団OBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。阪急・オリックス球団におけるOB監督は1980年シーズンの梶本隆夫以来実に30年ぶりである。
2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)でT-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが、小林の経験の少なさから投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。
2011年シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちを収め、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊やアーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた。
2012年は前年オフに大型補強をおこない、「優勝」を口にするほどであった。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、「来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい」という理由で方針転換。ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表した。
1.4.3. 第2次阪神監督時代
2022年シーズン中より、同年限りでの退任を表明していた矢野燿大の後任候補として名前が報じられるようになる。9月下旬に阪神球団がLINEでマスコミ各社に「報道規制」を依頼したとする報道もなされたが、9月27日にはサンケイスポーツが「岡田が次期監督に内定」と報じる事態となった。
シーズン終了後の同年10月15日、岡田の監督就任が正式に発表された。背番号は第一次監督時代、およびオリックス監督時代と同じ「80」。
迎えた2023年は、それまで打順やポジションが流動的であった大山悠輔を「4番・一塁」、佐藤輝明を「5番・三塁」に固定。また中野拓夢を二塁にコンバートし、空いた遊撃には木浪聖也を起用。投手陣では3年目の村上頌樹やソフトバンクから現役ドラフトで獲得した大竹耕太郎を先発ローテーションに定着させ、序盤から不調だった湯浅京己の代役として岩崎優を抑えに配置転換。打順は年間を通してほぼ固定するなど大胆な変革を施して順調にシーズンを勝ち進んだ。そして9月14日、阪神球団としては18年ぶり6度目となるリーグ優勝を達成した。奇しくも前回(2005年)と同じ「木曜日の甲子園球場における対巨人戦ナイトゲーム」で優勝を決めた。またこの日が監督就任発表から334日目であることも併せて話題になった。66歳になるシーズンでの優勝監督はパ・リーグも含めると2013年の星野仙一(当時楽天)と並び最年長タイ、リーグ優勝決定時点の年齢(65歳9ヶ月)では2000年の長嶋茂雄(当時64歳7ヶ月)が持つセ・リーグ最年長記録を更新した。阪神の監督として2度のリーグ優勝を達成するのは、1962年・1964年に優勝した藤本定義以来59年ぶり2人目となった。
広島と対戦したクライマックスシリーズファイナルステージに4勝0敗(うち1勝はレギュラーシーズン優勝によるアドバンテージ)の成績で優勝を収め、岡田にとって18年ぶりとなる日本シリーズ出場が決定した。
かつて選手や監督として在籍したオリックスとの日本シリーズは第7戦までもつれ込んだが、4勝3敗で球団として1985年以来38年ぶり2度目の日本一を達成した。岡田は1985年に選手、2023年に監督として阪神タイガースにおける2度の日本一をいずれも経験することとなり、同時に選手・監督の双方で日本一を達成した球団初の人物ともなった。また、65歳11ヶ月での日本シリーズ優勝は2013年の星野仙一(当時66歳9ヶ月)に次いで史上2番目の年長記録となった。
2024年7月6日の対DeNA戦に勝利したことで阪神監督としての通算515勝に到達し、藤本定義の514勝を抜いて球団の歴代単独1位となった。同年10月3日に今季限りでの退任が報道され、同月6日に退任を正式表明した。この年は最後まで優勝争いに絡むも、最終的にリーグ優勝した巨人と3.5ゲーム差の2位に終わった。最後の指揮となった10月13日のクライマックスシリーズファーストステージ第2戦(対DeNA)は3対10の大敗を喫し、第1次政権やオリックス時代とあわせ通算10年間の監督生活を終えた。クライマックスシリーズ開幕直前に風邪をひいた影響で試合後のファンへの挨拶は行われず、オーナーへのシーズン終了報告や監督退任会見も行われなかった。その後、同月中には体調が回復し、同月28日に西宮市内の球団施設を元気な姿で訪問していたことが報じられた。
1.4.4. 監督としての哲学・戦術
岡田彰布は、堅実を重視するスタンスでチームを率いる監督として知られている。その独自の野球哲学と戦術は、多くの野球関係者やファンから注目を集めてきた。
1.4.5. 監督退任後の活動

オリックス監督退任後の2013年からは、デイリースポーツの野球評論家に復帰した。同紙では1月から、自身の経験を基に球界の旬の話題などを独特の見解で定義付けるコラム「岡田辞典」の連載を開始した。また、「阪神元監督OKADA流野球論 岡田彰布のそらそうよ」という連載コラムを『週刊ベースボール』で担当した。朝日放送・読売テレビ・Tigers-aiを中心にプロ野球中継での解説も再開している(ラジオに関してはABCの事実上専属出演である)。2017年からは、大学の後輩にあたる江尻慎太郎と共に、東日本放送の東北楽天ゴールデンイーグルスの公式戦中継やスポーツ番組で解説を務めていた。
阪神監督の後任を球団本部付スペシャルアシスタント(SA)の藤川球児に引き継ぎ、2024年11月1日付けで「オーナー付顧問」として3年間の契約期間で球団フロント入りした。
2. 受賞歴・記録
岡田彰布は、選手としても監督としても数々の受賞歴と記録を打ち立て、その功績は日本プロ野球史に刻まれている。
背番号 | |
---|---|
1980年 - 1993年 | 16 |
1994年 - 1995年 | 10 |
1996年 - 1997年 | 85 |
1998年 - 2008年 | 80 |
2010年 - 2012年 | 80 |
2023年 - 2024年 | 80 |
2.1. 表彰
- 新人王(1980年)
- ベストナイン:1回(二塁手部門:1985年)
- ダイヤモンドグラブ賞:1回(二塁手部門:1985年)
- 正力松太郎賞:1回(2023年)
- 月間MVP:2回(1985年8月、野手部門:1989年6月)
- オールスターゲームMVP:2回(1980年第1戦、1988年第2戦)
- セ・リーグ 特別表彰:2回(最優秀監督賞:2005年、2023年)
- ミキハウス・サンスポMVP 特別表彰(2024年)
- ベスト・プラウド・ファーザー賞 in 関西(2013年)
- ユーキャン新語・流行語大賞 年間大賞(2023年、「アレ(A.R.E.)」)
- Yahoo!検索大賞2023 スペシャル部門(2023年)
2.2. 記録
2.2.1. 初記録
- 初出場:1980年4月11日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に深沢恵雄の代打で出場
- 初打席:同上、9回裏に平松政次の前に三振
- 初先発出場:1980年4月22日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(横浜スタジアム)、8番・三塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、8回表に加藤英美から左前適時打
- 初本塁打:1980年5月1日、対読売ジャイアンツ5回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に新浦壽夫から左中間越3ラン
2.2.2. 節目の記録
- 100本塁打:1985年7月13日、対読売ジャイアンツ15回戦(後楽園球場)、9回表に木戸克彦の代打で出場、西本聖から左越ソロ ※史上139人目
- 150本塁打:1987年6月27日、対広島東洋カープ12回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に長冨浩志から左越2ラン ※史上83人目
- 1000安打:1988年5月26日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、10回表に伊東昭光から左前適時打 ※史上150人目
- 1000試合出場:1988年6月22日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、4番・二塁手として先発出場 ※史上277人目
- 200本塁打:1989年8月3日、対横浜大洋ホエールズ15回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に遠藤一彦から左越ソロ ※史上58人目
- 1500試合出場:1992年8月9日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、12回表に弓長起浩の代打で出場 ※史上102人目
- 1500安打:1994年6月29日、対近鉄バファローズ12回戦(日生球場)、2回表に江坂政明から中前安打 ※史上68人目
2.2.3. その他の記録
- オールスターゲーム出場:8回(1980年、1981年、1982年、1985年、1986年、1988年、1989年、1990年)
2.2.4. 監督としての節目の記録
- 初勝利:2004年4月2日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、8-3で勝利
- 100勝:2005年6月11日、対日本ハムファイターズ5回戦(阪神甲子園球場)、11-6で勝利
- 200勝:2006年7月14日、対中日ドラゴンズ5回戦(京セラドーム大阪)、7-2で勝利
- 300勝:2007年9月5日、対横浜ベイスターズ18回戦(阪神甲子園球場)、3-2で勝利
- 400勝:2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(東京ドーム)、3-2で勝利
- 500勝:2011年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(QVCマリンフィールド)、7-2で勝利 ※史上28人目
- 600勝:2023年5月13日、対横浜DeNAベイスターズ7回戦(阪神甲子園球場)、7-2で勝利 ※史上25人目
- 700勝:2024年6月27日、対中日ドラゴンズ12回戦(阪神甲子園球場)、8-1で勝利 ※史上20人目
- 同一球団(阪神)で500勝:2024年5月19日、対東京ヤクルトスワローズ9回戦(阪神甲子園球場)、7-2で勝利 ※阪神球団史上2人目
- 同一球団(阪神)で515勝:2024年7月6日、対横浜DeNAベイスターズ12回戦(阪神甲子園球場)、2-1で勝利 ※阪神球団監督最多勝利数更新
2.2.5. 年度別打撃成績
年 | 所属 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 故意四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | 阪神 | 108 | 403 | 376 | 44 | 109 | 19 | 0 | 18 | 182 | 54 | 4 | 2 | 1 | 0 | 23 | 6 | 3 | 45 | 6 | .290 | .336 | .484 | .820 |
1981 | 130 | 524 | 485 | 70 | 140 | 23 | 3 | 20 | 229 | 76 | 1 | 0 | 2 | 4 | 28 | 3 | 5 | 43 | 13 | .289 | .331 | .472 | .804 | |
1982 | 129 | 521 | 466 | 57 | 140 | 22 | 1 | 14 | 206 | 69 | 10 | 5 | 2 | 5 | 44 | 12 | 4 | 30 | 13 | .300 | .362 | .442 | .804 | |
1983 | 79 | 289 | 246 | 44 | 71 | 9 | 0 | 18 | 134 | 44 | 7 | 3 | 1 | 5 | 36 | 5 | 1 | 23 | 3 | .289 | .375 | .545 | .920 | |
1984 | 115 | 366 | 323 | 38 | 96 | 14 | 2 | 15 | 159 | 51 | 3 | 1 | 0 | 7 | 33 | 4 | 3 | 41 | 13 | .297 | .361 | .492 | .853 | |
1985 | 127 | 532 | 459 | 80 | 157 | 24 | 3 | 35 | 292 | 101 | 7 | 3 | 0 | 6 | 64 | 3 | 3 | 41 | 11 | .342 | .421 | .636 | 1.057 | |
1986 | 129 | 551 | 474 | 67 | 127 | 21 | 0 | 26 | 226 | 70 | 11 | 3 | 0 | 4 | 70 | 5 | 3 | 57 | 14 | .268 | .363 | .477 | .840 | |
1987 | 130 | 518 | 474 | 54 | 121 | 24 | 3 | 14 | 193 | 58 | 5 | 2 | 0 | 2 | 40 | 2 | 2 | 75 | 12 | .255 | .315 | .407 | .722 | |
1988 | 127 | 524 | 454 | 65 | 121 | 22 | 1 | 23 | 214 | 72 | 10 | 5 | 0 | 5 | 63 | 6 | 2 | 75 | 16 | .267 | .355 | .471 | .826 | |
1989 | 130 | 557 | 492 | 66 | 138 | 20 | 1 | 24 | 232 | 76 | 8 | 3 | 0 | 7 | 57 | 3 | 1 | 81 | 15 | .280 | .352 | .472 | .823 | |
1990 | 130 | 571 | 486 | 75 | 129 | 27 | 0 | 20 | 216 | 75 | 7 | 2 | 0 | 4 | 74 | 5 | 7 | 87 | 12 | .265 | .368 | .444 | .812 | |
1991 | 108 | 428 | 383 | 45 | 92 | 11 | 0 | 15 | 148 | 50 | 1 | 3 | 0 | 3 | 40 | 3 | 2 | 68 | 9 | .240 | .313 | .386 | .700 | |
1992 | 70 | 212 | 185 | 9 | 35 | 11 | 0 | 2 | 52 | 19 | 1 | 0 | 0 | 3 | 22 | 1 | 2 | 48 | 3 | .189 | .278 | .281 | .559 | |
1993 | 42 | 62 | 53 | 2 | 9 | 1 | 0 | 1 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 24 | 0 | .170 | .290 | .245 | .536 | |
1994 | オリックス | 53 | 117 | 101 | 10 | 28 | 3 | 0 | 2 | 37 | 12 | 1 | 1 | 0 | 1 | 14 | 0 | 1 | 20 | 3 | .277 | .368 | .366 | .734 |
1995 | 32 | 46 | 39 | 3 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 9 | 1 | .179 | .304 | .179 | .484 | |
通算:16年 | 1639 | 6221 | 5496 | 729 | 1520 | 251 | 14 | 247 | 2540 | 836 | 76 | 33 | 6 | 56 | 624 | 59 | 39 | 767 | 144 | .277 | .351 | .462 | .813 |
2.2.6. 年度別監督成績
3. 人物・交友関係
岡田彰布は、その野球人生を通じて多くの愛称や口癖を持ち、多様な人物と交流を深めてきた。その人間関係や趣味・嗜好は、彼の人物像を多角的に示している。
3.1. 愛称・口癖
岡田の愛称は「オカ」や「どんでん」である。「どんでん」は、当時販売されていた家庭用調味料製品「ほんだし関西名物うどんおでんだし(通称=どんでん)」(味の素)のCMに、1998年から1999年にかけて坂田利夫と共に出演した際、坂田の「うどんのおつゆなんでんねん?」という問いかけに、岡田が「どんでんでんねん」、「おつゆはどんでん」などと答えた流麗なやりとりが大きな話題となり、以降「どんでん」が岡田の愛称として定着した。また指示語や省略が目立つ岡田の発する言葉は愛称の「どんでん」にちなんで「どん語」、コメントを「どんコメ」と称されることがある。
座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実の座右の銘「球道一筋」から取られている。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。現役時代は自分の数字が残るので、目標を持って「有言実行」を座右の銘としていた。2004年の一軍監督就任時に村山氏の文字をもらおうとしたが、監督1年目で全部の文字をもらうのは失礼にあたると、球の字を外して「道一筋」としてスタートした。また、2023年に日本一を達成したのを機に、2024年1月1日から座右の銘を「球道一筋」に変更した。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった。
口癖は「そらそうよ」(『それはそうですよ』という意味の関西弁)である。そらそうよの商標権は株式会社阪神タイガースが所有しており(登録商標 第6710506号)、これに由来する「そらそーよ」という焼酎も発売され、「そら、そうよ」として自身の著書のタイトルにもなった。2023年にタイガースの監督に復帰した際には、球団公式グッズとして、「そらそうよタオル」(シークレット全20種)も発売され、運が良ければ岡田本人の顔写真が入っている。また、何を指しているのか分かりにくい「アレ」を多用する癖があり(前述の「優勝」を指す言い換えのようにあえて用いることもある)、阪神監督時代は、何に対して指摘されているのか分からなかった若手選手のために、当時レギュラー選手の赤星憲広が「翻訳」していたこともあった。長男からは「主語を抜いていることが多い」、実母からは「あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い」という指摘がなされている。2023年の阪神監督再任時には、相づちとして使っていると推測される「おーん」という間投詞も岡田の口癖として認識されるようになった。こうした岡田の話法が広まった点について、広尾晃は関西出身(もしくは関西の文化に堪能)の「岡田番」の記者がその発言をあまり変えずに紙面に載せ、岡田の側も昔の大阪にいた「旦那衆」のようにそれを咎めない対応を示した結果ではないかと述べている。また、英語教育学者の岡田圭子は、主語の省略や指示語を多用する岡田彰布の話法はわかりにくさがある一方で、「非言語」の部分の口調も含めた独自のコミュニケーションスタイルによって人を引きつけると述べている。
3.2. 趣味・嗜好
ストレス解消法として飲酒(現在は焼酎党)、カラオケ、手品やニンテンドーDSの脳トレを挙げている。大の紙巻たばこの愛煙家である。また、吉本系などのお笑い番組もリラックスするときはよく見ており、夫人が録画したビデオテープをリビングに置いてくれたこともあった。西村京太郎トラベルミステリーなど推理ドラマや数独も好むとのこと。
小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた。
2023年に再度阪神監督就任後に度々パインアメを食べていることが話題となった。製造元のパイン株式会社は、阪神タイガースとコラボし2023年の阪神のチームスローガンである「ARE」にちなんだ「パインアレ」書かれたタオルやパインアメ24粒入の巾着などのグッズなどが販売された。
3.3. 家族・人間関係
1982年12月11日に結婚式を挙げた。同年には実母がニッスイのちくわのCMに出演している(ちくわ入りの八宝菜を作り岡田に呼びかける内容となっている)。また、1986年には妻がライオンの台所用洗剤のCMに生後間もない長男と出演している。2023年現在は西宮市在住であり、2023年11月27日に西宮市の六湛寺公園で開催された「阪神タイガース日本一西宮市民報告会」において、「(市役所に)この間も期日前投票に来ました。ちゃんとしていますから。マイナンバー(カード)も取りに来ましたから」などと語っている。
高校の1年後輩に前田日明がいる。ちなみに関西では「前田と赤井英和が電車の中で喧嘩して、見かねた岡田が仲裁に入った」という話が広まっているが、これについては前田が「赤井くんとは沿線が違い、当時は会ったこともなかった」と否定している。
ルーキーの頃に、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった。
シンガーソングライターの吉田拓郎が岡田のファンとされるが、岡田自身はフォークソングに全く興味がないという。
元サッカー日本代表監督の岡田武史とは同じ大阪市出身、同姓、早稲田大学の同級生、プロスポーツ監督と共通点も多い。また、共にタイガースファンである。武史の方が1歳上であるが、武史は1年浪人しており、そのため彰布と同級生であり、同時期に野球部とサッカー部の主将をそれぞれ務めた。両者の直接的な接点はなかったが、2009年に雑誌「Sports Graphic Number」の「早稲田力」特集で初対面の両者による対談が行われ、以後交友を持った。また、元サッカー選手で現在サッカー解説者の長谷川治久は高校の同級生にあたり、こちらも現在でも親交がある。
原辰徳とは大学時代(原は東海大学所属)に全日本代表チームで共にプレーし、クリーンアップを担う間柄で親交を深めた。私生活でも携帯電話やメールで意見を交換する仲だった。2008年に岡田が阪神監督を辞任した際には、原から「岡田さん、辞めないでください」というメールが届いたことを明かしている。岡田もまた、原が2003年に監督を辞任した際に、将来監督として復帰することを期待し「次に監督をする前に二軍監督をやってみたらどうか」と提案した。
4. 著書
岡田彰布は、自身の野球哲学や経験をまとめた多くの著書を出版している。
4.1. 単著
- 『頑固力 ~ブレないリーダー哲学』 角川・エス・エス・コミュニケーションズ〈角川SSC新書〉、2008年11月28日第1版発行(11月13日発売)、978-4-8275-5051-1
- 『オリの中の虎 ~愛するタイガースへ最後に吼える』 ベースボール・マガジン社〈ベースボール・マガジン新書〉、2009年11月20日第1版第1刷発行、978-4-583-10231-3
- 『動くが負け ~0勝144敗から考える監督論』 幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2010年7月30日第1刷発行(7月28日発売)、978-4-344-98178-2
- 『なぜ阪神はV字回復したのか?』 角川書店〈角川ONEテーマ21〉、2013年9月12日発売、978-4-04-110532-0
- 『そら、そうよ 勝つ理由、負ける理由』 宝島社、2014年3月21日第1刷発行(3月7日発売)、978-4-800-21796-7
- 『プロ野球構造改革論』 宝島社、2014年8月23日第1刷発行(8月9日発売)、978-4-8002-2882-6
- 『金本・阪神 猛虎復活の処方箋』 宝島社、2017年4月24日第1刷発行(4月10日発売)、978-4-8002-6756-6
- 『幸せな虎、そらそうよ』 ベースボール・マガジン社、2023年11月30日第1版第1刷発行、978-4-583-11655-6
4.2. 共著
- 江夏豊・岡田彰布 『なぜ阪神は勝てないのか? ~タイガース再建への提言』 角川書店〈角川ONEテーマ21〉、2009年9月10日初版発行(9月9日発売)、978-4-04-710206-4
- 張本勲、江本孟紀、岡田彰布、福本豊ほか 『プロ野球史上最高の選手は誰だ? レジェンドOBが選ぶ「実力ナンバーワン」決定戦』 宝島社、2019年7月11日第1刷発行(6月27日発売)、978-4-8002-9616-0
5. 影響・評価
岡田彰布は、その選手としての実績に加え、監督としての独自の哲学とコミュニケーションスタイルによって、野球界に大きな影響を与え、多角的な評価を受けている。
監督としては堅実を重視するスタンスであり、自身の著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している。藤田平からも「チームを率いる能力、素質を持ち合わせている。」と評価されている。
2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈した。2005年の日本シリーズで阪神と対したロッテ監督のボビー・バレンタインは、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。野村克也は、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせる」JFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている。これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している。
クライマックスシリーズについては、「そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる」として否定的である。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少(場合によってはゼロ)を、プロ野球改革の試案として示している。
2023年シーズンに阪神をリーグ優勝、日本一に導いた際に、岡田監督が多用した「アレ」という言葉は、その年の新語・流行語大賞年間大賞を受賞するほどの社会現象となった。この言葉は、過度なプレッシャーを避けるための監督の戦略であり、ファンやメディアにも浸透し、チームの快進撃を象徴する言葉となった。岡田自身も「アレ」が「もう少しでたどりつく」という絶妙な距離感を表す言葉であると解説し、そのユーモラスなコミュニケーションスタイルは多くの人々に愛された。