1. 幼少期と背景
1.1. 出生と子供時代
イ・マンスは1958年9月19日、江原道鉄原郡で生まれた。彼の両親はともに北からの出身で、父親は朝鮮戦争停戦後に南朝鮮の鉄原に渡り、軍の医務下士官として職業軍人の道を歩んだ。イ・マンスは、その父親が勤務していた場所で誕生した。
小学校時代に父親が軍を退役し、大邱広域市で精肉店を始めたため、一家は大邱市に移住した。イ・マンス自身も、大邱中央小学校5年生の時に初めて野球を始めた。
1.2. 教育
イ・マンスは大邱中央小学校、大邱中学校、大邱商業高等学校(現在の大邱尚苑高等学校)を経て、漢陽大学校体育学科(78学番)を卒業した。大学卒業は1982年である。この学業的背景が、その後の彼の選手生活および指導者としてのキャリアの基盤となった。
2. 選手時代
イ・マンスは、KBOリーグ創成期の象徴的な選手であり、特にサムスン・ライオンズの歴史において重要な位置を占める。
2.1. プロデビューと初期の成功
漢陽大学校を卒業した1982年、イ・マンスは韓国野球委員会(KBO)と契約を交わし、新たに設立されたプロリーグの球団でプレーすることを選んだ。そして、サムスン・ライオンズに入団し、プロとしてのキャリアをスタートさせた。
1982年3月27日、KBOリーグ初の公式戦が東大門野球場で行われ、イ・マンスはMBC青龍を相手に、韓国プロ野球史上初の安打と本塁打を記録した。この試合で彼は1打席目にレフトへの適時二塁打を放ち、プロ初の安打を記録。さらに5回表にはソロ本塁打を放ち、プロ初のホームランも記録した。この本塁打は、KBOリーグにおける2号、3号本塁打も初めて記録したものであった。1982年シーズン、彼はライオンズの正捕手としてチームを韓国シリーズに導いたが、OBベアーズに4勝1敗1分で敗れた。
彼の強打と本塁打能力から、「ハルク」や「韓国のベーブ・ルース」といった愛称で呼ばれた。1983年には自身初となる本塁打王のタイトルを獲得し、リーグMVPに選出された。翌1984年には、打率(.340)、本塁打(23本)、打点(80点)の3部門でリーグ1位となり、KBOリーグ史上初の三冠王を達成した。しかし、シーズン終盤の打撃タイトル争いで人為的な操作があったとされ、2年連続のリーグMVP獲得を逃すという論争も経験した。
2.2. サムスン・ライオンズでの輝かしいキャリア
イ・マンスはサムスン・ライオンズで16シーズンにわたり、正捕手および一塁手として活躍した。キャリアを通じて252本の本塁打と861打点を記録した。1985年にも本塁打と打点の両部門でリーグトップに立った。ゴールデングラブ賞には1983年から1987年まで5年連続で捕手部門で受賞し、オールスターゲームにも12回出場した。
彼の通算本塁打数252本は、1999年5月23日に韓火イーグルスの張鍾勲が253本目を打つまでKBOリーグの記録であった。また、KBOリーグ史上初めて通算100本塁打と200本塁打を達成した選手でもある。この捕手としての通算本塁打記録は、後に朴勁玩に破られるまで、プロ通算捕手本塁打の最多記録であった。
1986年には、馬山でのキャンプ中に腰を負傷し、オープン戦に出場できなかった。同年5月7日の大邱でのヘテ戦で4番指名打者として初出場したが、4打数無安打3三振と不振に陥った。その後も腰の負傷が再発し、後期リーグ序盤は長期欠場を余儀なくされた。9月2日のピングレ戦で復帰し、初回先頭打者初球本塁打を放ち、通算100本塁打を達成したが、5回裏にデッドボールを左足くるぶしに受け、再び途中交代し、しばらく試合に出場できなかった。結局、このシーズンは規定打席に到達できず(59試合239打席212打数68安打)、3年連続で獲得していた本塁打王と打点王のタイトルも譲ることになった。
1994年からは捕手ではなく、主に一塁手兼指名打者として出場するようになった。彼のポジション変更後、サムスン・ライオンズは1999年7月31日に斗山ベアーズから陳甲龍を金銭トレードで獲得するまで、長らく捕手難に苦しむことになった。
2.3. 引退の経緯
イ・マンスは、サムスン・ライオンズのフランチャイズスターであり、長年にわたりチームの顔であったが、その引退は物議を醸した。彼は1997年シーズン終了後、球団とのコーチ研修支援に関する意見の相違により、サムスン・ライオンズから放出され、選手としてのキャリアを終えることになった。彼は現役で40歳までプレーを続けることを望んでいたが、球団の反対により、不本意な形で選手生活に終止符を打たざるを得なかった。その後、彼は自費でアメリカへ野球指導者としての研修に旅立つことになった。
3. 指導者・監督時代
選手引退後、イ・マンスは指導者として新たなキャリアをスタートさせ、国内外で多様な役割を歴任した。
3.1. メジャーリーグベースボールでの指導経験
選手引退後の1998年、イ・マンスはアメリカに渡り、クリーブランド・インディアンス傘下のクラスAチームであるキンストン・インディアンスで打撃コーチとして指導者研修を受けた。翌1999年にはシカゴ・ホワイトソックス傘下のAAA級チームであるシャーロット・ナイツに移り、一塁コーチを務めた。
2000年1月からは背番号「59」でシカゴ・ホワイトソックスのブルペン捕手(コーチ陣の一員)として活動を開始し、韓国人としては史上初めてメジャーリーグのコーチを務めた。2005年にはホワイトソックスのコーチとして、ワールドシリーズ優勝の栄誉に輝き、ワールドシリーズリングを手にした。
なお、2003年シーズン後にはサムスン・ライオンズからバッテリーコーチとしての招聘の打診があったものの、途中でその打診が撤回されたため、彼はホワイトソックスのコーチのオファーを一度断っていたにもかかわらず、再び復帰するという複雑な経緯をたどった。
3.2. SKワイバーズでのリーダーシップ
2006年シーズン後、イ・マンスは韓国に帰国し、同年10月30日にSKワイバーズと2年契約を結び、金星根監督の下で首席コーチを務めた。2010年6月には桂炯徹二軍監督と配置転換されたが、同年8月に再び元の役職に戻った。
2011年8月18日、当時の金星根監督が突然解任されたことを受け、イ・マンスは同日、SKワイバーズの監督代行に就任した。混乱した状況下で、彼はチームを韓国シリーズへと導き、KBOリーグ史上初めて韓国シリーズ準優勝を果たした監督代行となった。この期間、尹喜尚や朴熙洙といった投手たちが彼の采配によって重用され、SK投手陣の強化に貢献した。2011年韓国シリーズ終了後、10月29日に第4代正式監督に昇格した。
2012年にはチームを2年連続の韓国シリーズ準優勝に導いたが、その後の2シーズンは連続で成績不振に陥った責任を負い、2014年シーズンを最後にSKとの契約が満了し、監督職を退任した。後任には金鏞熙(現KBO試合運営委員)が第5代監督として選任された。
3.3. ラオスでの野球普及活動
SKワイバーズの監督を退任した後、イ・マンスはラオスに渡り、同国での野球普及活動に力を注いでいる。彼はラオス野球協会の副会長兼ラオJブラザーズのオーナーに選任されるなど、現地で野球の発展のために積極的に貢献している。この活動は、単なる指導者としての役割を超え、スポーツを通じた国際貢献という側面を持つ。
4. 私生活
4.1. 家族と信仰
イ・マンスは、家族構成が公にされており、彼の信仰についても知られている。彼の父親はイ・チャンソク(1925年 - 1994年)、母親はチャン・ヨンソン(1928年 - 2015年)である。配偶者はイ・シンファで、長男のイ・ハジョンにはパク・ミリという妻と孫がいる。次男のイ・オンジョンにはシム・ジンヘという妻がいる。兄弟姉妹としては、姉のイ・ミオク(1952年生まれ)、兄のイ・マンギル(1955年生まれ)、弟のイ・マンホ(1961年生まれ)がいる。彼の宗教はプロテスタント(大韓イエス教長老会(白石))である。
5. 功績と評価
イ・マンスは韓国プロ野球界における偉大な選手の一人として、また指導者としても多大な影響を与えた人物である。その功績は広く認識されているが、一方で、彼のキャリアには古巣サムスン・ライオンズとの複雑な関係性も存在した。
5.1. サムスン・ライオンズとの継続的な関係
イ・マンスは名実ともにサムスン・ライオンズのフランチャイズスターであり、彼の背番号「22」は2003年にサムスン・ライオンズの永久欠番に指定された。しかし、球団との関係は常に円満であったわけではない。
2003年シーズン後、サムスン・ライオンズは宣銅烈首席コーチ、韓大化打撃コーチの招聘と並行して、イ・マンスをバッテリーコーチとして招き入れようとした。しかし、この招聘提案は途中で撤回されたため、彼はシカゴ・ホワイトソックスのコーチとしてのオファーを一度断っていたにもかかわらず、再びホワイトソックスに復帰せざるを得ないという不本意な経緯をたどることになった。
2006年にKBOリーグに復帰した際も、彼は古巣であるサムスン・ライオンズではなく、SKワイバーズのユニフォームに袖を通すことになった。これは、サムスングループの創業者が「一度捨てた人間は再び使わない」という教えを持っていたことや、1980年代から1990年代にかけてサムスンが優勝の宿願を果たせなかったことに対する「癪に障る罪」といった、球団側の複雑な感情が背景にあったとされている。また、イ・マンス自身も40歳まで現役生活を続けるという夢を持っていたが、球団の反対によって不完全な形で選手生活を終えざるを得なかったことが、彼のサムスンへの複雑な感情を助長したと言われている。しかし、彼の背番号22番が2003年に永久欠番となったことで(韓国の報道では2004年に指定されたとの記述もある)、彼の無念がいくらか晴らされたとも評価されている。
5.2. 全体的な影響と認識
イ・マンスは、KBOリーグの歴史に数々の「初」の記録を刻み込んだパイオニアである。韓国プロ野球初の安打、初のホームラン、初の三冠王、そして捕手として5年連続ゴールデングラブ賞受賞など、その輝かしい業績は彼の選手としての偉大さを示している。
また、指導者としては、韓国人初のMLBコーチとしてワールドシリーズ優勝を経験するなど、国際的な舞台での成功を収めた。SKワイバーズ監督代行時代には、混乱の中でチームを韓国シリーズ準優勝に導き、尹喜尚や朴熙洙といった若い選手たちの成長を促した。
監督退任後も、彼はラオスでの野球普及活動に積極的に取り組むなど、野球を通じた社会貢献にも尽力している。これらの活動は、単に個人の功績に留まらず、韓国野球界の国際的な地位向上や発展に貢献するものであり、その影響は野球界全体に及ぶものと評価されている。
6. 記録と統計
イ・マンスは、その選手キャリアにおいて数多くの記念碑的な記録を達成した。以下の項目は、KBOリーグにおける主要な記録とマイルストーンである。太字はKBOリーグ初の記録を示す。
6.1. キャリアにおける主要な記録とマイルストーン
記録 | 日付 | 所属 | 球場 | 対戦相手 | 相手投手 | 試合結果 | 打席数 | 試合数 | 達成時年齢 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
初安打 | 1982年3月27日 | サムスン | 東大門 | MBC | 李吉煥 | 1 | 1 | 1回表1打点左前二塁打 韓国プロ野球初の安打 | ||
初本塁打 | 1982年3月27日 | サムスン | 東大門 | MBC | 柳鍾謙 | 1 | 23歳6ヶ月8日 | 5回表1点本塁打 韓国プロ野球初のホームラン 2号、3号本塁打も初めて記録 | ||
シーズン27本塁打 | 1983年 | サムスン | 従前: 1982年 金奉淵の22本を更新 | |||||||
60本塁打 | 1984年8月8日 | サムスン | 三美 | 8回3点、シーズン20号 | ||||||
シーズン80打点 | 1984年 | サムスン | ||||||||
シーズン87打点 | 1985年 | サムスン | 当時の最高記録 9月11日、大邱 OBベアーズ戦3回 2点本塁打で87打点達成 | |||||||
100本塁打 | 1986年9月2日 | サムスン | 大邱 | ピングレ | 千昌鎬 | 420 | 27歳11ヶ月14日 | 1回裏左翼場外本塁打 | ||
150本塁打 | 1989年7月17日 | サムスン | 大邱 | MBC | 芮炳準 | 655 | 30歳9ヶ月28日 | |||
500打点 | 1989年7月17日 | サムスン | 大邱 | MBC | 655 | 30歳9ヶ月28日 | ||||
600打点 | 1991年4月27日 | サムスン | 大邱 | LG | 834 | 32歳7ヶ月8日 | ||||
200本塁打 | 1991年9月17日 | サムスン | 大邱 | ヘテ | 936 | 32歳11ヶ月29日 | ||||
1000安打 | 1992年4月19日 | サムスン | 大邱 | OB | 3764 | 952 | 33歳7ヶ月 | 歴代3番目 | ||
700打点 | 1992年7月16日 | サムスン | 蚕室 | OB | 898 | 33歳9ヶ月27日 | ||||
2000塁打 | 1994年6月14日 | サムスン | 社稷 | ロッテ | 1157 | 35歳8ヶ月25日 | 歴代2番目 | |||
800打点 | 1995年7月1日 | サムスン | 蚕室 | LG | 1265 | 36歳9ヶ月11日 | ||||
250本塁打 | 1996年8月24日 | サムスン | 大邱 | 現代 | 1399 | 37歳11ヶ月5日 | ||||
252本塁打 | 1997年9月27日 | サムスン | 光州 | ヘテ | 6:4 サムスン勝 | 1447 | 39歳8日 | 最後の本塁打、引退時KBO記録 |
6.2. KBOリーグ通算成績
イ・マンスのKBOリーグにおける通算成績は以下の通りである。
年度 | 所属 | 年齢 | 出場 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 2塁打 | 3塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 選球 | 三振 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | 塁打 | 併殺打 | 死球 | 犠打 | 犠飛 | 敬遠 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | サムスン | 25 | 78 | 322 | 270 | 46 | 78 | 16 | 1 | 13 | 51 | 6 | 2 | 46 | 27 | .289 | .400 | .500 | .900 | 135 | 13 | 4 | 0 | 1 | 0 |
1983 | 26 | 98 | 410 | 357 | 53 | 105 | 12 | 0 | 27 | 74 | 0 | 3 | 41 | 51 | .294 | .379 | .555 | .934 | 198 | 11 | 8 | 2 | 2 | 2 | |
1984 | 27 | 89 | 342 | 300 | 45 | 102 | 17 | 1 | 23 | 80 | 3 | 8 | 26 | 37 | .340 | .414 | .633 | 1.048 | 190 | 10 | 12 | 0 | 4 | 3 | |
1985 | 28 | 103 | 423 | 357 | 63 | 115 | 19 | 2 | 22 | 87 | 7 | 9 | 42 | 37 | .322 | .414 | .571 | .985 | 204 | 13 | 14 | 1 | 9 | 6 | |
1986 | 29 | 59 | 239 | 212 | 31 | 68 | 8 | 0 | 16 | 39 | 1 | 0 | 21 | 20 | .321 | .398 | .585 | .982 | 124 | 7 | 6 | 0 | 0 | 2 | |
1987 | 30 | 85 | 357 | 299 | 56 | 103 | 14 | 1 | 18 | 76 | 6 | 2 | 47 | 23 | .344 | .431 | .579 | 1.010 | 173 | 16 | 4 | 0 | 7 | 4 | |
1988 | 31 | 86 | 334 | 285 | 47 | 92 | 13 | 0 | 18 | 58 | 6 | 3 | 41 | 22 | .323 | .419 | .558 | .977 | 159 | 8 | 7 | 0 | 1 | 5 | |
1989 | 32 | 110 | 413 | 359 | 55 | 102 | 11 | 0 | 20 | 64 | 4 | 5 | 42 | 48 | .284 | .373 | .482 | .855 | 173 | 12 | 10 | 0 | 2 | 0 | |
1990 | 33 | 110 | 421 | 359 | 50 | 103 | 13 | 0 | 26 | 57 | 3 | 4 | 54 | 37 | .287 | .386 | .540 | .926 | 194 | 16 | 5 | 0 | 2 | 6 | |
1991 | 34 | 118 | 446 | 378 | 51 | 120 | 18 | 0 | 17 | 74 | 6 | 2 | 56 | 27 | .317 | .414 | .500 | .914 | 189 | 7 | 8 | 0 | 3 | 12 | |
1992 | 35 | 93 | 368 | 305 | 50 | 88 | 11 | 0 | 22 | 70 | 7 | 3 | 48 | 41 | .289 | .402 | .541 | .943 | 165 | 8 | 12 | 0 | 3 | 8 | |
1993 | 36 | 78 | 219 | 193 | 21 | 40 | 3 | 1 | 5 | 20 | 0 | 2 | 21 | 23 | .207 | .294 | .311 | .605 | 60 | 8 | 3 | 0 | 1 | 0 | |
1994 | 37 | 109 | 269 | 233 | 24 | 59 | 14 | 0 | 12 | 37 | 0 | 2 | 28 | 42 | .253 | .343 | .468 | .811 | 109 | 5 | 5 | 1 | 2 | 1 | |
1995 | 38 | 97 | 192 | 158 | 17 | 34 | 10 | 0 | 5 | 27 | 1 | 0 | 24 | 20 | .215 | .344 | .373 | .717 | 59 | 1 | 8 | 0 | 2 | 3 | |
1996 | 39 | 97 | 222 | 193 | 14 | 55 | 12 | 1 | 6 | 38 | 2 | 2 | 14 | 25 | .285 | .359 | .451 | .810 | 87 | 5 | 10 | 0 | 3 | 0 | |
1997 | 40 | 39 | 57 | 52 | 2 | 12 | 2 | 0 | 2 | 9 | 0 | 0 | 3 | 10 | .231 | .298 | .385 | .683 | 20 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | |
KBO通算:16年 | 1449 | 5034 | 4310 | 625 | 1276 | 193 | 7 | 252 | 861 | 52 | 47 | 554 | 490 | .296 | .388 | .519 | .907 | 2239 | 140 | 118 | 4 | 42 | 52 |
- シーズン記録中太字は当該シーズン最高記録
7. 外部リンク
- [http://www.leemansoo.co.kr イ・マンス - 公式ウェブサイト]
- [http://www.statiz.co.kr/player.php?opt=1&name=%EC%9D%B4%EB%A7%8C%EC%88%98&birth=1958-09-19 イ・マンス - スタッティーズ]