1. 概要
水戸泉政人(みといずみ まさと、本名:小泉政人)は、茨城県水戸市出身の元大相撲力士であり、現在は年寄・錦戸を襲名し、錦戸部屋の師匠を務めています。1978年の初土俵から2000年の引退まで、22年にも及ぶ長い現役生活を送り、最高位は東関脇でした。
彼のキャリアの頂点は、1992年7月場所での唯一の幕内優勝です。また、試合前の仕切りで大量の塩を豪快に撒く独特のパフォーマンスから「ソルトシェーカー」の愛称で広く親しまれました。現役時代の身長は194 cm、最高体重は200 kgに達し、その恵まれた体格と豪快な相撲で多くのファンを魅了しました。通算807勝という記録は、大相撲史上12番目に多い勝利数です。彼の相撲人生は、度重なる怪我との闘いと、それにも屈しない粘り強さによって特徴づけられます。
2. 来歴と相撲界への入門
水戸泉政人の相撲人生は、その幼少期の背景と、高見山からの勧誘を経て高砂部屋に入門するまでの経緯に深く根差しています。
2.1. 幼少期と家族背景
水戸泉政人、本名小泉政人は、1962年9月2日に茨城県水戸市で生まれました。幼い頃に父を亡くし、弟の昭二(後の元十両・梅の里)とともに、母の手一つで育てられました。茨城県水戸市立飯富中学時代には、母の勧めにより柔道に打ち込み、初段の腕前を持つまでになりました。
2.2. 角界への勧誘と初期の修行
1977年の暮れ、水戸泉は力士のサイン会へ足を運びました。本人は貴ノ花のサイン会だと思っていたそうですが、実際には高見山と富士櫻のサイン会でした。この時、高見山に「大きくねー、お相撲さんにならないかい」と勧誘されます。数日後には高砂親方からも勧誘を受け、当時入手困難だった29 cmの靴をもらったことが決め手となり、入門を決意しました。1978年3月に高砂部屋から本名の小泉政人としてプロデビューを果たします。1981年には出身地の水戸、本名の小泉、そして「枯れることなき泉のごとく出世を」という願いを込めて高砂親方が命名した「水戸泉」の四股名に改名しました。
高砂部屋の同期生には長岡(後の大関・4代朝潮)がおり、彼は水戸泉を手頃な稽古相手と見定めていました。7歳も年上で、二度の学生横綱を獲得した朝潮との稽古は、中学を卒業したばかりの少年には厳しいものでしたが、これが後の水戸泉の財産となりました。朝潮との間には数多くのエピソードが残っており、洗濯して干していた朝潮のパンツを神社に置き忘れて叱られた逸話などが伝わっています。また、1979年9月頃、挫折に耐えかね相撲に見切りをつけようとした朝潮に対し、水戸泉が「今日稽古はどうしたんですか?」とさりげなく声を掛けて立ち直らせたとも言われています。
3. プロ相撲経歴
水戸泉のプロ相撲経歴は、怪我との度重なる闘い、豪快な塩撒きによる「ソルトシェーカー」の愛称の獲得、そして1992年7月場所での唯一の幕内優勝という輝かしい頂点を特徴とする、22年にも及ぶ長い道のりでした。
3.1. 初期キャリアと番付の昇進
1978年3月のプロデビュー当初は本名の小泉政人として土俵に上がり、1981年に水戸泉政人に改名しました。キャリアの初期には病気に悩まされ、1982年には左膝に重傷を負い、4ヶ月間入院しました。これにより場所を休場し、番付が大きく下がることになります。この怪我は、彼の長く波乱に満ちた相撲人生で経験する多くの負傷の一つに過ぎませんでした。
1984年5月場所で関取の地位である十両に昇進し、この場所は奇しくも高見山が引退を発表した場所でした。わずか2場所後の同年9月場所には、最高位の幕内への昇進を果たします。新入幕から3場所目の1985年1月場所では11勝を挙げ、自身初の敢闘賞を受賞しました。しかし、同年5月場所前には交通事故に巻き込まれ顔面に裂傷を負い、場所の一部を休場せざるを得なくなりました。この事故は、現役力士の自動車運転を禁止する現在の日本相撲協会の規則が制定されるきっかけとなりました。
その後、2場所連続で負け越して十両に降格。1986年3月場所で再入幕を果たし、12勝3敗で敢闘賞を獲得するなど好調を維持しました。同年9月場所には関脇に昇進しますが、この場所で大乃国との取組中に再び左膝側副靭帯を断裂する重傷を負い、3場所連続休場となり再び十両へ降格しました。この怪我はテレビ中継でも左膝が腫れているのが分かるほどの重傷で、医師からは「相撲はもう諦めるしかない」と言われるほどでした。初めてギプスを外して自分の青ざめた膝を見た時には絶望的な思いになったといいます。一時期は引退も考えましたが、療養中に訪れたリハビリ施設で、自分より若くして重度の障害を負った人々の前向きな姿に励まされ、また「親孝行がしたい」という強い思いから土俵に上がり続けることを決意しました。
幕内に復帰するまでに1988年1月場所まで時間を要しましたが、この復帰以降は、続く11年間を幕内で維持し続けました。1988年9月場所には小結で1横綱1大関に勝ち、10勝5敗で殊勲賞を受賞するなど、再び活躍を見せますが、またしても大乃国との対戦で左足首を負傷します。これらの2度の大きな負傷は、彼のキャリアを通じて常に苦しむ要因となりました。
3.2. 独特のスタイルと「ソルトシェーカー」の愛称
水戸泉は、その豪快な塩撒きで広く知られ、「ソルトシェーカー」という愛称で親しまれました。この習慣は、彼が十両に昇進した場所の8日目に、付け人の奄美富士からの「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言を受けて始められました。当初は1回目から大量の塩を撒いていましたが、後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになりました。1回にとる塩の量はなんと600 gにもなったと伝えられています。
この独特のパフォーマンスは、1991年にロンドン公演で「ソルトシェーカー」と紹介されたことで、日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着しました。同時代には朝乃若も同様に大量の塩を撒く力士として知られ、両者が対戦した際には、豪快に撒き上げる水戸泉と叩きつける朝乃若の塩撒きが観客を沸かせました。
塩を撒いた後に、自身の顔や廻しを強く叩いて気合を入れる仕草も彼の特徴でした。これはいつからか無意識に始めていたもので、ある時飲み屋で居合わせたファンから指摘されて初めて自分でも気づいたと語っています。イベントなどでこの仕草を求められることも多かったのですが、意識してやろうとするとうまくいかず苦労したと後に振り返っています。
一方で、水戸泉は制限時間まで立つ気がない仕切りを繰り返すことが多かったため、一部の好角家からは批判されることもありました。当時すでに時間いっぱいまで立とうとしない力士が大半でしたが、水戸泉の場合はそれが特に露骨であると見なされました。貴闘力や浪ノ花といった、時間前でも度々立つ力士との対戦では、その仕切りの遅さが興をそぐこともありました。
3.3. 幕内優勝と絶頂期
水戸泉のキャリアにおける最高の瞬間は、1992年7月場所での唯一の幕内最高優勝でした。この場所、西前頭筆頭にまで番付を下げていた水戸泉は、場所前のヨーロッパ遠征を腰痛により休場していました。このため、ハードスケジュールと時差ボケに苦しんで調整不足のまま場所を迎えた他のほとんどの力士とは異なり、好調の状態で土俵に上がることができました。また、場所前に新大関の曙が稽古中に左足小指を痛めて全休したことも、彼にとって大きなチャンスとなりました。
幕内昇進後初の初日からの7連勝という快進撃で白星を積み重ね、中日で小結・貴花田(当時、後の貴乃花)に初黒星を喫し、10日目には大関・霧島に敗れ2敗となったものの、それ以降も優勝争いの単独首位を走り続けました。場所中、彼の好成績が、ヨーロッパ巡業への意図的な不参加によるものではないかという批判が集中しましたが、本人は「ホントは、オレだってヨーロッパに行きたかったんだ」と、本当に怪我の影響で巡業を全休したのだと強調しました。
終盤戦、13日目の関脇・琴錦戦では、立合いの頭突き一発で突き落とし、14日目には前頭12枚目の貴ノ浪にも上手投げで勝って12勝2敗としました。その貴ノ浪との相撲では、若さに任せた相手の寄りをギリギリで残し、さらに左外掛けに来る貴ノ浪を吊り上げるような上手投げで逆転する見事な相撲を見せました。その瞬間、10勝3敗と1差で追っていた小結の武蔵丸、大関の小錦、そして霧島の3力士全員が敗れ、水戸泉の初の平幕優勝が決まりました。水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていましたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは全く想像していなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「ウソーっ!?」と驚いた後、弟の梅の里と二人して抱き合って涙ぐみました。その嬉し泣きぶりは、当時を知る記者によれば、それまで見たことがないような派手な嬉し泣きであったといいます。奇しくも、当時の高砂親方である富士錦が現役時代、1964年に平幕優勝した時と同じ名古屋の土俵でした。水戸泉は千秋楽も勝って13勝2敗の好成績を収めました。なお、平幕優勝者は、1909年に優勝制度が確立して以降水戸泉が史上24人目ですが、前年の1991年7月場所に琴富士、同年9月場所に琴錦、同1992年1月場所には貴花田と、わずか1年の間に4人もの平幕優勝者が出るという非常に珍しい出来事となりました。
優勝パレードでは、当時大関で、優勝を争った小錦が優勝旗の旗手を務めました。大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は一部から「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と批判を浴びたといいます。しかし、高砂部屋入門時から小錦にとって水戸泉は共に下積み生活を送った間柄で、よき相談相手であり兄貴分でもありました。小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年5月場所)では曙の旗手までさせてしまった。水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」「これまでオレが優勝した3回とも水戸関が旗手をやってくれた。これはホンのお返しさ」と語り、「恩返し」の意味で自分から願い出たことでした。小錦は4敗を喫した際、水戸泉の優勝を確信したともとれるような表情を花道で浮かべていたと言われています。それから20年後の2012年5月場所、モンゴル出身の旭天鵬が平幕優勝を果たした際の優勝パレードでは、同モンゴルの後輩にあたる横綱白鵬が自ら旗手を務めていました。
3.4. 現役生活の長期化と怪我との闘い
1992年7月場所での幕内優勝後、翌9月場所には西張出関脇に昇進し、ここでも8勝7敗と勝ち越して、7月場所の優勝がまぐれではなかったことを印象付けました。1992年11月場所は成績次第では大関昇進の可能性がありましたが、またしても左足の負傷により1勝12敗2休に終わり、再び平幕に降格しました。
1993年からは、自身の名が「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」との思いから、四股名を水戸泉眞幸(みといずみ まさゆき)に改名します。しかし、その後も膝の故障が多発し、三役への復帰は叶いませんでした。1999年5月場所で十両に陥落し、それ以降幕内に戻ることはありませんでした。
彼はその後も現役を続け、蔵前国技館で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして、38歳まで土俵に上がり続けました。しかし、2000年9月場所を最後に引退を決断し、年寄・錦戸を襲名しました。水戸泉の幕内在位79場所で休場が99回という記録は、横綱・大関を除けば当時過去最多であり、そのため彼は「怪我のデパート」という異名で呼ばれることもありました(この記録は後に若の里が更新しています)。
彼の引退相撲における断髪式(団髪式)は2001年6月9日に行われ、記録的な470人もの後援者、力士、親方衆が鋏を入れる髷切り儀式に参加しました。これは雑誌『相撲』によると、大相撲史上最多の人数とされています(近年では2015年1月31日に若荒雄の断髪式で450人の参列者が鋏を入れた記録が残っています)。水戸泉は、22年以上にわたる現役生活を通じて、807勝という通算勝利数を記録しました。これは大相撲史上12番目に多い勝利数です。彼は金星を獲得したことはありませんが、それは彼が横綱に勝利した全ての取組が、小結や関脇の三役の地位にあった時のものであり、平幕時代には横綱戦で全敗したためです。
4. 相撲スタイル
水戸泉の相撲スタイルは、その恵まれた体格とパワーを活かした豪快な取り口が特徴であり、特に得意手である寄り切りや上手投げで多くの勝利を収めました。
4.1. 得意手と技術的特徴
水戸泉は、その技術的な巧みさで特別に評価されることは少なく、技能賞を受賞した経験はありません。彼の最も得意とした決まり手は、圧倒的に相手を土俵際まで追い詰めて押し出す「寄り切り」であり、関取の地位での勝利の半分以上を占めていました。その長身とパワーを活かし、「きめ出し」(相手の腕を固めて押し出す技)も頻繁に用いました。これは今日ではあまり見られない珍しい技術です。
本来左利きである水戸泉は、得意の左四つ右上手の体勢になった際の強さが圧倒的で、パワフルな吊り気味の寄りを得意としました。右上手投げの威力も絶大で、横綱貴乃花を投げ飛ばしたこともあります。このため、水戸泉と対戦する力士たちは総じて右上手を警戒しており、その攻防が彼の取組の中で最大の見せ場でした。ただし、水戸泉も右四つが不得手というわけではなく、懐の深さを活かした引き技や、相手の差し手を極めるなどの対抗策もしばしば見せていました。
日本人離れした恵まれた体格とパワーを兼ね備え、新弟子時代から将来を期待されていました。しかし、腰が高く、脇が甘いため相手にもろ差しになられやすいという弱点も抱えていました。また、ばんざいの状態から肩越しに廻しを取る相撲も多く、膝が突っかえ棒のようになることも珍しくありませんでした。そのため、押し相撲の力士と対戦すると呆気なく土俵を割ることもあり、上半身の強さと下半身の脆さが同居していると評されました。特に大乃国のような巨漢の右四つ力士と対戦する際には、良くない膝へさらに大きな負担をかけることが常態化していました。彼の潜在能力の高さは、北の富士が「膝の故障がなければ当然大関」と公言するほどであり、度重なる怪我で大関昇進の道が阻まれたことが悔やまれる点です。
5. 引退と年寄としての活動
水戸泉は現役引退後、年寄錦戸を襲名し、自身の部屋を創設する一方で、日本相撲協会の要職を歴任しました。しかし、その道のりは健康問題や公私にわたる様々な困難を伴いました。
5.1. 引退相撲と年寄襲名
水戸泉の公式な引退相撲と断髪式(団髪式)は2001年6月9日に行われ、記録的な470人もの後援者、力士、親方衆が鋏を入れる髷切り儀式に参加しました。これは雑誌『相撲』によると、大相撲史上最多の人数とされています。彼は引退後も相撲界に残り、高砂部屋の親方衆として錦戸の年寄名を襲名しました。当時の高砂部屋の師匠であった元小結・富士錦が病気療養中だった時期には、事実上の部屋の指導者として高砂部屋を率いました。
しかし、彼は高砂親方の後継者となる機会を失いました。現役時代の1998年には6代高砂と養子縁組し、一時的に後継者に指名されていましたが、婚約破棄問題が原因で辞退することになります。この婚約相手の女性は、後の伊藤史生の前妻であり、伊藤と離婚した後は結婚詐欺まがいの行動で一時的にワイドショーを賑わせた人物でした。また、彼女は水戸泉との婚約破棄後に追風海と結婚(後に離婚)し、この問題が原因で追風海は師匠に破門される形で協会を去っています。結果として高砂部屋の継承は、元大関・朝潮に譲られ、朝潮部屋と合併する形となりました。このため、2002年12月に水戸泉は自ら錦戸部屋を相撲部屋として創設し、独立しました。錦戸部屋の玄関の横には、彼が唯一勝ち取った幕内最高優勝額が掲げられています。しかし、関取を育成する道のりは厳しく、2017年11月に水戸龍が十両に昇進するまで、錦戸部屋からは関取が誕生しませんでした。
5.2. 日本相撲協会での役割
引退後、水戸泉は長く日本相撲協会内で審判委員を務めました。2014年4月には、協会役員以外の親方で構成される年寄会の会長に選出されました。会長就任にあたり、彼は形式的になっていた総会のあり方を見直し、「連絡網をしっかりして、何かあった時にすぐ集まれるようにしたい。相撲協会のために皆さんの意見を取り入れながら、いい年寄会にしていきたい」と意欲を示しました。
2016年8月には審判委員を退任しますが、2018年3月28日の職務分掌で役員待遇委員に昇格し、審判部副部長に就任しました。しかし、2019年3月8日には体調不良のため、3月場所の休場が報じられました。
2020年8月6日には、彼の弟子の極芯道が阿炎に同伴して日本相撲協会の新型コロナウイルス感染症対応ガイドラインに違反する行為を行ったため、錦戸親方自身も譴責処分を受けました。また、2020年7月場所で照ノ富士が幕尻優勝を果たした際、審判長を務めていた錦戸親方は、場所11日目の段階でも「玉鷲(12日目の相手)に勝てば三役に持っていかないと」と悠長に構えていたと報じられ、後手を踏んだ取組編成が一部報道で問題視されました。
2022年3月30日に発表された職務分掌により、再び役員待遇委員に任命されています。
5.3. 健康問題と公衆への影響
水戸泉は、引退後も深刻な健康問題に直面しました。2016年10月28日、テレビ番組『爆報! THE フライデー』(TBS)に出演した際に、自身が末期の腎不全を患い、長時間の人工透析治療を受けていることを公表しました。このため、稽古に出られない日もあったと明かしています。この時期、一部週刊誌では「親方への反発で弟子が相次いでやめた」「妻が豪遊生活を送っている」などと報じられ、錦戸部屋は危機に瀕していると伝えられました。しかし、同番組内では、妻が朝早くから相撲部屋の家事をこなし、稽古に出られない親方の代わりに申し合い稽古の番数をグラフにまとめたり、弟子たちの食事を作ったり、居酒屋に誘い出して悩みを聞いたりと、献身的に女将業をこなす姿が紹介され、バッシングを払拭しました。
2021年3月場所では、4日目から体調不良を理由に休場しました。芝田山広報部長は、発熱はないものの「あんまり体が良くないから審判長も交代でやってたけど」と説明しました。
2022年1月場所の初日である1月9日には妻が新型コロナウイルス感染症に感染していることが判明し、翌1月10日には錦戸親方自身の感染も確認されました。これに伴い、所属力士4人全員とともに1月場所を休場しました。感染判明後、錦戸親方は高熱が出て体調が悪化し、基礎疾患があったため、保健所指定の隔離病棟に入院して治療を受けました。14日目にあたる1月22日には熱が下がったため退院し、自身のブログで「シンドイのはわかっていたが、こんなにシンドイとは思わなかった、、、」と、その苦しい闘病生活を報告しました。
6. 人物と私生活
水戸泉の私生活は、家族との絆、相撲界では珍しい結婚、そして多岐にわたる趣味と温かい人柄が特徴的です。
6.1. 家族関係と結婚
水戸泉には弟の梅の里(本名:小泉昭二)がいます。彼もまた水戸泉と同じ高砂部屋に所属する大相撲力士として、1980年から2001年まで21年間現役を続けました。しかし、梅の里が十両に昇進したのは1993年7月場所の1回のみでした。引退後、梅の里は錦戸部屋でマネージャーとして親方を支えています。
相撲部屋の師匠としては珍しく、水戸泉は長年独身で過ごしていましたが、2016年2月12日に22歳年下のソプラノ歌手、小野友葵子と結婚したことを発表しました。
6.2. 趣味と嗜好
水戸泉は、幼い頃から絵画に強い情熱を抱いていました。少年時代、彼は父を早くに亡くしたため、母が仕事で家を空けることが多く、買ってもらったクレヨンで好きな漫画を模写することで寂しさを紛らわせました。手塚治虫、ちばてつや、ちばあきおといった巨匠たちの作品をスケッチしているうちにデッサン力が向上し、小学校3年生の時には市内の大会で表彰されるほどの腕前になりました。当初は漫画家としてのキャリアも思い描いていたといいます。
関取になって時間に余裕ができると、当時の6代高砂夫人(元小結・富士錦の妻)に紹介されて油絵を始めました。師事する先生に教わり、ヘラやくしを使って描くうちに、その表現の幅広さに驚きを覚えたといいます。「気が付くと食事も取らず、5、6時間も描き続けちゃう」ほど熱中したため、本場所中は絵画制作を自粛していたほどです。本人は長続きする「趣味」と謙遜していますが、2023年時点でも絵画展に出展したり、後援者に宛てる手紙に気に入った風景を添えたりしているとのことです。彼の引退相撲のポスターには、塩を撒く自身の自画像が使われました。
彼はプロ野球では自他ともに認める大の読売ジャイアンツファンです。自身が幕内優勝を争っていた1992年7月場所の際にも、「優勝の可能性?100パーセントだ。もちろん、巨人のだよ」と報道陣を煙に巻いていました(ちなみに、この年の巨人はヤクルトスワローズに2ゲーム差の2位に終わっています)。
また、熱心なゲームファンでもあり、特に『ドラゴンクエスト』に熱中するあまり、当時付け人だった闘牙にまでレベル上げを頼んだという逸話が残っています。闘牙は引退後、2012年から錦戸部屋の部屋付親方として水戸泉を支えています。
水戸泉は、自分の付け人で相撲を辞めようとしている者がいると、屋台に飲みに連れ出して説得したという人情家な一面も持っていました。「俺も昔は弱かったんだよ」と語っているうちに、自分が泣き出してしまうことが多かったことから、知らず知らずのうちに「泣きの水戸泉」というあだ名がつけられていました。入門当時、有形無形の差別に悩まされていた小錦も、この水戸泉の涙にほだされた一人だったと語っています。小錦は後に「入門当時、水戸関だけは差別なく優しく僕に接してくれた」と発言しており、水戸泉の思いやりのある人柄を賞賛しています。
断髪式後はオールバックにする元力士が多く見られる中で、水戸泉はすぐに坊主頭にしました。本人の弁では、当時脱毛症に悩まされており、脱毛した部分が目立たないよう頭を丸めたといいます。現在は症状が改善されたためか、再び髪を伸ばしています。
7. 主な成績と記録
水戸泉の相撲人生は、通算807勝という高い勝数と、1度の幕内優勝を含む各段優勝、そして数多くの三賞受賞によって彩られています。
7.1. 通算成績と幕内成績
- 通算成績:807勝766敗162休 勝率.513
- 幕内成績:530勝556敗99休 勝率.487
- 現役在位:136場所
- 幕内在位:79場所
- 三役在位:11場所(関脇4場所、小結7場所)
7.2. 各段優勝と三賞
- 三賞:7回
- 殊勲賞:1回(1988年9月場所)
- 敢闘賞:6回(1985年1月場所、1986年3月場所、1986年7月場所、1988年5月場所、1989年11月場所、1992年7月場所)
- 各段優勝
- 幕内最高優勝:1回(1992年7月場所)
- 十両優勝:1回(1986年1月場所)
- 幕下優勝:1回(1984年3月場所)
- 金星:なし
- 三役時代に何度か横綱に勝利していますが、平幕では全敗に終わり、引退まで金星は獲得できませんでした。
7.3. 幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
蒼樹山 | 6 | 5 | 青葉城 | 1 | 2 | 安芸乃島 | 13 | 9 | 安芸ノ州 | 2 | 2 | |
曙 | 0 | 11 | 朝乃翔 | 6 | 10 | 朝乃若 | 10 | 8 | 旭富士 | 6 | 9 | |
旭豊 | 5 | 7 | 板井 | 6 | 6 | 恵那櫻 | 1 | 2 | 巨砲 | 6 | 3 | |
大錦 | 1 | 0 | 大乃国 | 3 | 8 | 大乃花 | 1 | 0 | 大若松 | 1 | 0 | |
小城錦 | 7 | 8 | 小城ノ花 | 8 | 4 | 魁皇 | 1 | 5 | 魁輝 | 3 | 0 | |
海鵬 | 2 | 2 | 春日富士 | 10 | 8 | 巌雄 | 4 | 6 | 北勝鬨 | 8 | 6 | |
旭豪山 | 2 | 0 | 旭鷲山 | 5 | 3 | 旭天鵬 | 2 | 0 | 旭道山 | 8 | 7 | |
鬼雷砲 | 5 | 6 | 霧島 | 14 | 17(1) | 起利錦 | 4 | 3 | 麒麟児 | 0 | 6 | |
金開山 | 0 | 2 | 久島海 | 11(1) | 2 | 蔵間 | 3 | 3 | 剣晃 | 1 | 3 | |
高望山 | 1 | 2 | 五城楼 | 5 | 2 | 琴稲妻 | 14 | 13 | 琴ヶ梅 | 9 | 11 | |
琴風 | 2 | 0 | 琴椿 | 4 | 3 | 琴錦 | 6 | 13(1) | 琴ノ若 | 7 | 9 | |
琴富士 | 10 | 9 | 琴別府 | 3 | 6 | 琴龍 | 5 | 6 | 逆鉾 | 7 | 8 | |
佐田の海 | 0 | 3 | 敷島 | 6 | 5 | 嗣子鵬 | 1 | 0 | 陣岳 | 3 | 7 | |
大輝煌 | 1 | 0 | 大至 | 6 | 5 | 太寿山 | 8 | 8(1) | 大翔鳳 | 8 | 8 | |
大翔山 | 4 | 5 | 大善 | 2 | 2 | 大徹 | 4 | 3 | 大飛翔 | 1 | 2 | |
貴闘力 | 9 | 13 | 貴ノ浪 | 6 | 7 | 貴乃花 | 5 | 13 | 孝乃富士 | 3 | 4 | |
隆三杉 | 11 | 11 | 多賀竜 | 7 | 4 | 立洸 | 2 | 0 | 玉海力 | 1 | 0 | |
玉春日 | 1 | 6 | 玉龍 | 2 | 1 | 千代大海 | 0 | 1 | 千代天山 | 0 | 1 | |
千代の富士 | 1 | 10 | 出島 | 1 | 1 | 寺尾 | 16 | 16(1) | 出羽嵐 | 1 | 1 | |
出羽の花 | 4 | 1 | 闘竜 | 1 | 1 | 時津海 | 2 | 1 | 時津洋 | 1 | 3 | |
土佐ノ海 | 1 | 5 | 栃赤城 | 1 | 0 | 栃東 | 0 | 1 | 栃司 | 6 | 2 | |
栃剣 | 2 | 1 | 栃乃洋 | 1 | 2 | 栃乃藤 | 1 | 1 | 栃乃和歌 | 13 | 18 | |
栃纒 | 1 | 0 | 巴富士 | 4 | 2 | 智乃花 | 1 | 1 | 豊ノ海 | 5 | 4 | |
浪之花 | 6 | 3 | 蜂矢 | 1 | 0 | 花乃湖 | 3 | 1 | 花ノ国 | 3 | 3 | |
濱ノ嶋 | 6 | 9 | 肥後ノ海 | 6 | 7 | 日立龍 | 0 | 1 | 飛騨乃花 | 2 | 1 | |
富士乃真 | 1 | 1 | 双羽黒 | 1 | 3 | 鳳凰 | 3 | 1 | 北天佑 | 7 | 6(1) | |
北勝海 | 3 | 10 | 舞の海 | 11 | 6 | 前乃臻 | 2 | 0 | 舛田山 | 3 | 0 | |
益荒雄 | 2 | 0 | 三杉里 | 17 | 7 | 湊富士 | 10 | 8 | 武蔵丸 | 3 | 10 | |
武双山 | 1 | 5 | 大和 | 1 | 3 | 力櫻 | 1 | 0 | 両国 | 10(1) | 0 | |
若嶋津 | 1 | 2 | 若翔洋 | 7 | 4 | 若瀬川 | 2 | 4 | 若の里 | 1 | 2 | |
若ノ城 | 3 | 4 | 若乃花 | 8 | 8 | 和歌乃山 | 0 | 1 |
8. 改名歴と年寄変遷
水戸泉政人は、現役時代に本名から四股名を改名し、引退後も年寄名としての名義を複数回変更しています。
- 現役時代の改名歴
- 小泉 政人(こいずみ まさと):1978年3月場所 - 1981年5月場所
- 水戸泉 政人(みといずみ まさと):1981年7月場所 - 1992年12月場所
- 水戸泉 眞幸(みといずみ まさゆき):1993年1月場所 - 2000年9月場所
- 年寄名の変遷
- 錦戸 眞幸(にしきど まさゆき):2000年9月 - 2000年11月
- 錦戸 政人(にしきど まさと):2000年11月 - 2002年9月
- 錦戸 将斗(にしきど まさと):2002年9月 - 2012年3月
- 錦戸 眞幸(にしきど まさゆき):2012年3月 - 現在
9. 評価とレガシー
水戸泉は、その相撲人生を通じて見せた粘り強さや人柄で肯定的に評価される一方で、仕切りの遅さや公私にわたる問題行動により批判を受けることもありました。
9.1. 肯定的な評価と貢献
水戸泉は、「幼い頃から苦労をかけた母に少しでも親孝行がしたい」という一心で力士となり、その思いを現役中も常々口にしていました。彼が幕内最高優勝を果たす前、実の母親から「いつも優勝パレードでは旗持ちばかりして。たまにはあなたが優勝して、誰かに優勝旗を持たせるようにしなさいよ!」と奮起を促されたというエピソードは有名です。そして、水戸泉が正真正銘の幕内優勝を成し遂げたことで、立派に親孝行を果たせたと言えるでしょう。
彼の誠実で思いやりのある人柄は、多くの同僚や後輩からも高く評価されています。特に、小錦は、高砂部屋入門時から有形無形の差別を受けていた中で、水戸泉だけが差別なく優しく接してくれたと語っており、水戸泉の兄貴分としての温かさを賞賛しています。また、自分の付け人で相撲を辞めようとしている者がいると、屋台に飲みに連れ出して説得し、「俺も昔は弱かったんだよ」と語っているうちに、自分が泣き出してしまうことが多かったことから、「泣きの水戸泉」というあだ名がつけられました。この人情味あふれる一面も、彼の魅力として多くのファンに記憶されています。
水戸泉は、同じ高砂一門に千代の富士や北勝海、曙といった横綱陣、さらに同部屋には大関の小錦がいたため、優勝パレードの旗手役の常連でもありました。初優勝力士を出した部屋では、「優勝パレードの次第がわからなかったら水戸泉に聞きにいく」とまで言われたほど、その役割を熟知していました。彼自身の平幕優勝パレードで小錦が旗手を務めてくれた際も、「いつものように自分が優勝旗を思わず持ちそうになってしまった」と苦笑いしながら語るほど、その役割が体に染みついていたようです。
長きにわたる現役生活を通じて、数々の怪我に苦しみながらも土俵に上がり続けたその粘り強さと献身は、多くの相撲ファンに感動を与えました。また、豪快な塩撒きは彼の代名詞となり、相撲の仕切りにエンターテイメント性をもたらした先駆者の一人としても評価されています。
9.2. 批判と論争
水戸泉のキャリアには、いくつかの批判や論争も存在します。彼の相撲スタイルの一つであった、制限時間まで立つ気がないまま仕切りを繰り返す行為は、一部の好角家から批判の対象となりました。
また、1985年5月場所前には彼が関与した交通事故が発生し、顔面裂傷を負い、その場所の一部を休場することになりました。この事故は、日本相撲協会が「現役力士の自動車運転を禁止する」という規則を制定するきっかけとなった出来事であり、その後の力士の行動規範に大きな影響を与えました。
引退後、彼は高砂部屋の後継者となる予定でしたが、婚約破棄問題が原因でその話を辞退しました。この婚約破棄問題は、相手の女性が後の伊藤史生の前妻であり、伊藤と離婚した後は結婚詐欺まがいの行動で一時的にワイドショーを賑わせ、さらに彼女が後に追風海と結婚・離婚し、追風海がこの問題で師匠に破門されるなど、相撲界内外に波紋を広げました。
審判委員としての活動中にも、公の場で注目される出来事がありました。2007年9月場所11日目、豪栄道と豪風の取組前に、突然大量のチラシを持った女性客が土俵に上がろうとするハプニングが発生しました。この際、西土俵下で控えていた高見盛らと共に、水戸泉もその女性を引き摺り下ろしました。また、2020年7月場所で照ノ富士が幕尻優勝を果たした際、審判長を務めていた錦戸親方は、場所11日目の段階でも「玉鷲(12日目の相手)に勝てば三役に持っていかないと」と悠長に構えていたと報じられ、取組編成の後手後手ぶりが一部報道で問題視されました。
さらに、2020年8月6日には、彼の弟子の極芯道が阿炎に同伴して日本相撲協会の新型コロナウイルス感染症対応ガイドラインに違反する行為を行ったため、錦戸親方自身も譴責処分を受けています。これらの出来事は、彼の行動や協会内での役割に関して、時折批判的な視点をもたらす要因となりました。