1. 初期生い立ちと背景
洪震は、朝鮮王朝末期に生まれ、法曹界での経験を積んだ後、独立運動に身を投じました。
1.1. 出生と家族
洪震は、1877年8月27日(旧暦)、朝鮮の忠清道永同郡で生まれました。その後、一時的に京畿道始興市で幼少期を過ごした後、漢城府(現在のソウル特別市)西小門にある両班の家庭で成長しました。父は洪載植、母は韓水同の次男として生まれ、本貫は豊山洪氏です。
1896年には宜寧南氏の南淑熙の次女である南相福(1876年 - ?)と結婚し、息子の洪起澤(1905年 - ?)をもうけました。また、韓始準教授による彼の伝記には、高麗王朝時代の洪之慶(後に朝鮮王朝時代の朝鮮古典詩歌の大家として知られる)にまで遡る洪震の詳細な家系図が記されています。現在の族譜には、アメリカに帰化した家族の生存メンバーも含まれています。
1.2. 教育と法曹界での経歴
洪震は、1903年2月に法官養成所(現在のソウル大学校法科大学およびソウル大学校法学専門大学院の前身)に入学し、1904年7月21日に卒業しました。卒業後、7月26日には法官養成所博士に任命されましたが、2日後に免職となりました。
1906年2月には漢城平理院主事に就任し、同年12月5日には法官銓考所試験に合格しました。12月10日には忠清北道忠州市の検事に発令され、漢城平理院判事や忠清検察庁検事を歴任しました。
1908年5月14日、義兵事件の論告を拒否したため、検事職を辞職しました。その後、同年5月29日に大韓帝国法部から弁護士認可証を受け取り、1909年7月14日には平壌地方裁判所検事局に弁護士登録し、平壌で開業しました。
2. 独立運動における活動
洪震は、日帝強占期における独立運動の中心人物として、国内外で重要な役割を果たしました。
2.1. 三・一運動と亡命
1919年3月、三・一独立運動が発生すると、洪震は忠清北道清州郡の連絡責任者として活動しました。同年3月17日には韓聖五の邸宅で漢城政府の組織に参加し、法務次長に任命されました。
同年4月15日、李圭甲とともに漢城政府の閣員名簿と文献を携え、鴨緑江を経由して中国上海へ亡命しました。この際、氏名を洪鎭から洪震に改名しました。
2.2. 大韓民国臨時政府での役割
上海に亡命後、洪震は大韓民国臨時政府の設立と運営において多大な貢献をしました。
2.2.1. 主要な役職の遂行
1919年9月11日に大韓民国臨時政府が組織されると、洪震は臨時議政院議員に選出され、法制委員長として憲法改正や国務委員の改善など、制度整備に尽力しました。同年11月には臨時政府国内調査委員および臨時議政院忠清道選挙委員長に任命されました。
1920年3月19日には臨時議政院常任委員会第4分科委員、3月30日には臨時議政院政務調査特別委員会委員を務めました。1921年4月6日には臨時議政院全員委員長に当選し、4月20日には上海大韓僑民団長に選任されましたが、5月20日に免職されました。同年5月6日には臨時議政院第3代議長に選出され、1922年4月3日までその職を務めました。
1921年8月13日には上海僑民団事務所で大太平洋会議外僑後援会を発足させ、臨時議長に選出されました。8月26日には同会の正式発足に伴い、代表人幹事長に就任し、日本への損害賠償要求や韓国の完全独立を主張する独立請願書を太平洋会議の各国代表に送付しました。
1923年には臨時政府の法務総長に選任され、その後も様々な要職を歴任しました。1924年5月には臨時議政院内で憲法改正問題が紛糾したことに伴い、臨時政府内の職を離任し、江蘇省鎮江市で隠居しました。
1926年7月7日、臨時議政院で第5代国務領(大統領)に選出され、翌日就任しました。この際、再び氏名を洪鎭から洪震に改めました。同年8月30日には洪震政府が正式に発足し、9月27日には国務領として外務総長を兼任しました。彼は非妥協的な自主独立運動の振興、全民族大政党の創設、被圧迫民族との連盟締結、国交増進を内容とする施政4大綱領を発表し、臨時政府の強化に努めました。しかし、独立運動団体間の紛争が続いたため、同年12月9日に国務委員たちと共に国務領を辞任し、臨時議政院議員として活動を続けました。
1939年10月15日には臨時議政院忠清道委員に選出され、10月16日には再び臨時議政院議長(2度目)に選出されました。10月23日には臨時政府国務委員に、10月25日には内務長に選任されましたが、11月5日には議長と国務委員の兼任を禁止する案に従い、臨時議政院議長職を辞任しました。
1940年10月8日には臨時政府顧問に推戴され、1942年10月26日には3度目の臨時議政院議長に選出され、8・15解放まで臨時政府で活動しました。
2.2.2. 外交および統合活動
洪震は、臨時政府の外交活動を通じて国際社会からの承認を得る努力をしました。彼の国務領在任中、臨時政府は中華民国、フランス、ポーランドなどから承認を受けました。また、独立運動勢力間の統合を強く推進しました。
1927年4月には上海で韓国唯一独立党上海促進会を結成し、執行委員となりました。同年11月には北京、武昌、南京で活動する独立運動家たちと連席会議を開き、同年末には満州へ赴き、独立運動団体の統合に尽力しました。
3. 政党活動と路線
洪震は、独立運動勢力内の統合を重視し、複数の政党の創設や参加を通じてその路線を追求しました。
3.1. 独立政党の創党と参加
1930年7月26日、洪震は韓国独立党を創党し、中央委員長および軍民会議副委員長に選出されました。
1934年2月25日には南京で申翼煕の韓国革命党と統合し、新韓独立党を創党して中央委員長に選出されました。その後、韓国独立党を再組織し、1935年7月5日には独立系列の単一政党である民族革命党を創党し、中央検事委員となりました。
1937年8月17日には、米州地域の6団体を参加させた韓国光復運動団体連合会を結成しました。1938年には独立運動団体が統合して韓国光復陣線が結成され、運営幹部に選任されました。
1940年5月9日には韓国独立党を創党し、中央執行委員に選出されました。同年、韓国国民党、韓国独立党、朝鮮革命党の3党が統合して韓国独立党となると、中央監察委員長となり、韓国光復軍の創設に貢献しました。
1944年1月3日、国務委員選出のための投票で与野党が同数となった際、議長であったにもかかわらず、野党側が主張した無記名投票案に賛成しました。この出来事を機に、崔東旿副議長とともに韓国独立党を離党しました。1945年2月9日には柳東説や金朋濬とともに新韓民主党を創党し、主席団に選出されました。
3.2. 中国および満州での活動
洪震は、中国および満州地域における独立運動の統合努力に積極的に関与しました。1931年9月に満州事変が勃発すると、彼は党の武装部隊である韓国独立軍を編成し、中国と連合戦線を形成して活動しました。
4. 私生活
洪震の私生活に関する情報は、彼の独立運動家としての公的な活動に比べると限られていますが、家族関係や信仰について知られています。
4.1. 結婚と家族
洪震は1896年に南相福と結婚しました。南相福は宜寧南氏の南淑熙の次女にあたります。二人の間には息子の洪起澤が生まれました。
4.2. 宗教
洪震は、1946年7月に心臓喘息で入院中、南相喆の勧めによりキリスト教の洗礼を受け、カトリックの洗礼名「アンドレア」を授かりました。これは彼の人生の晩年における重要な出来事でした。
5. 死去と評価
洪震は、独立後の混乱期にその生涯を終えましたが、彼の功績は高く評価され、現在も記念されています。
5.1. 死去と葬儀
1946年7月、洪震は心臓喘息で入院しました。同年9月9日、享年70歳で死去しました。彼の葬儀は、9月13日に金九が葬儀委員長を務め、明洞聖堂で執り行われました。遺体は当初、仁川広域市官校洞の墓地に埋葬されました。
5.2. 死後叙勲と記念
洪震の独立運動における功績が認められ、1962年に大韓民国政府から建国勲章国民章が追叙されました。彼の遺骸は、1984年12月15日にソウル特別市銅雀区の国立ソウル顕忠院に改葬され、さらに1994年10月6日には国立ソウル顕忠院内の臨時政府要人墓域である臨政随伴墓所に移葬されました。