1. 概要
糸井嘉男は、プロ入り後に投手から野手コンバートに成功した選手の代表格として知られ、日本を代表する5ツールプレイヤーとして活躍した。特に北海道日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ、阪神タイガースの3球団でその才能を発揮し、2013年にはワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンの四番打者も務めた。
NPB史上初となる6年連続「打率3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞」を達成した。これはイチローの4年連続を上回る最長記録である。NPB史上7位の通算出塁率.394(5000打席以上の選手が対象。1位王貞治.446、2位落合博満.422、3位松井秀喜.413、4位青木宣親.401、5位張本勲.399、6位アレックス・カブレラ.398に次ぐ。2019年終了時点)、NPB史上9位の9度の打率3割を記録するなど(規定打席以上の打率3割が対象。1位張本勲16回、2位王貞治13回、3位川上哲治・若松勉12回、5位長嶋茂雄・落合博満・前田智徳11回、8位小笠原道大10回に次ぎ、門田博光・大下弘・加藤英司・山内一弘らに並ぶ)、数々の偉業を成し遂げた。2022年に現役を引退した後も、野球界やメディアで幅広く活動を続けている。
2. 経歴
糸井嘉男の野球人生は、投手としての才能から始まり、プロ入り後の野手転向を経て、日本を代表する選手へと成長した。そのキャリアは、日本ハム時代、オリックス時代、阪神時代と3つの球団で輝かしい功績を残し、国際大会でも活躍した。
2.1. プロ入り前
糸井嘉男は、プロ野球選手となるまでの幼少期から大学時代にかけて、野球に打ち込む中でその才能の片鱗を見せていた。
2.1.1. 幼少期と家族
糸井嘉男は1981年7月31日に京都府与謝郡岩滝町(現:与謝野町)で生まれた。父親はトライアスロン選手で、2022年時点でも現役を続けている。母親は元バレーボールの国体選手であり、母方の祖父は京都府立峰山高等学校の高校体育教師で、野村克也を教え子に持つというスポーツ一家に育った。
小学3年生の夏休みには家族で初めて阪神甲子園球場を訪れ、真弓明信が本塁打を放つ姿を見てプロ野球選手になりたいと強く思ったという。中学時代は硬式野球部ではなく、旧岩滝町の橋立中学校の軟式野球部に所属。3年時の重要な大会で、試合前の練習中にベンチで休憩していたところ、顧問の教師に「帰れ!」と怒鳴られ、それを真に受けて本当に帰宅してしまったというエピソードがある。学校の目の前に自宅があった糸井は、試合に向かうチームのバスに向かって、自宅の二階から「頑張ってこいよ~!」と手を振っていたという。エースの不在によりチームは早々に敗退し、私立強豪校からの誘いを受けられなかったため、岩滝町に隣接する宮津市にある京都府立宮津高等学校に進学した。
高校入学早々に、中学2年時から痛みに耐えながらプレーを続けていた膝の皿が割れていたことが判明し、すぐに手術を受けた。リハビリを経て2年時にようやく走れるまでに回復し、2年の春先の練習試合で復帰登板を果たすも、すぐに肩の痛みを再発し降板。今度は肩を手術することとなり、医師の許可が降りた3年春からようやく本格的に復帰した。実質的に高校でプレーしたのは3年時のわずか4か月間であったが、投手として阪神タイガースのスカウトからも注目される存在となった。それでもドラフト会議での指名が確実ではなかったことから、4年後を見据えて近畿大学に進学した。
2.1.2. 大学野球
近畿大学野球部では、1年秋から先発を務めていた同学年のエース野村宏之や、1学年下の貴志款八(その後日本新薬)の陰に隠れ、3年時の2002年春まで関西学生野球連盟のリーグ戦出場はなかった。しかし、同年の秋季リーグでデビューを果たすと、4年時の春季リーグではエースとして2度の完封勝利を含む5連勝(無敗)の活躍を見せ、リーグMVP・最優秀投手・ベストナインの三冠に輝いた。大学選手権では初戦で馬原孝浩(九州共立大)と投げ合うも2回途中7失点で降板し、5回コールド負けを喫した。大学通算成績は19試合に登板し、9勝2敗、防御率1.49であった。同期には田中雅彦や中村真人らがいる。
2003年11月19日に行われたプロ野球ドラフト会議において、北海道日本ハムファイターズに自由獲得枠で投手として入団。契約金は1.00 億 JPY、年俸は1500.00 万 JPYで、背番号は26となった。
2.2. 日本ハム時代
日本ハム時代は、投手としてのキャリアから野手への転向という大きな転機を経験し、チームの主力選手として成長を遂げた。

2.2.1. 投手から外野手へ
プロ入り後の2004年から2005年までの2年間は、本人曰く「鳴かず飛ばず」で一軍登録されることはなかった。二軍では通算36試合に登板し、8勝9敗3セーブ、防御率4.86の成績を残した。187cmの長身から最速151 km/hの速球を投げるパワー投手として期待されたが、制球難や決め球となる変化球の習得に苦しみ、プロでは投手として結果を残すことができなかった。
しかし、その卓越した打撃センス、50mを5秒台で走る俊足、そして強肩は球団から高く評価されていた。当時の高田繁GMは、糸井に投手失格を宣言しつつも、「使えないよ、はははは」と笑いながら野手としての素質を見込み、2006年4月25日に正式に外野手へのコンバートを通告した。この転向は、チームメイトだった新庄剛志も助言していたという。
野手転向からわずか5か月後の9月には、イースタン・リーグの月間MVPを受賞し、月間打率.397を記録。二軍でのシーズン成績は打率.306、8本塁打、8盗塁と好成績を残した。このシーズン中の一軍出場はなかったが、11月のアジアシリーズでは出場登録28人枠入りし、11月11日のチャイナスターズ(中国野球リーグ選抜チーム)戦にて途中出場で一軍初出場を果たした。
2.2.2. 主力選手として
2007年は野手転向2年目にして開幕一軍入りを果たすも、結果を残せずすぐに二軍落ち。その後故障もあったが9月に再昇格し、9月10日にプロ初安打・初盗塁を記録した。しかし、その盗塁の際に足を痛めてしまい、すぐに登録抹消となった。二軍では同僚の金子洋平に次ぐイースタン・リーグ2位の12本塁打をはじめ、打率.319、長打率.579、14盗塁と好成績を残した。
2008年は左翼手として初の開幕戦先発出場を果たすものの、3月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(Kスタ宮城)で負った肉離れを押して試合に出続けたことにより、故障箇所を悪化させ二軍落ち。一軍復帰後にはプロ入り初を含む5本塁打を放ち、この年は他に63試合出場、打率.239、45安打、21打点、13盗塁を記録した。クライマックスシリーズ第1ステージでは1番打者に抜擢され、守備でも好送球を見せるなど活躍した。オフには770.00 万 JPYアップの推定年俸1800.00 万 JPYで契約更改した。
2009年は「7番センター」として2年連続の開幕スタメンの座を掴むと、打順は7番や2番を中心に、主に3番の稲葉篤紀がスタメンを外れた12試合では3番を担い、ポジションは前年まで3年連続でゴールデングラブ賞を獲得していた森本稀哲を押しのけセンターとしてついにレギュラーに定着した。特に6月は好調で、月間打率、安打数がともにリーグ2位で、4試合で殊勲安打(同点1、先制3)を放ち、チームの首位堅持に貢献した。6月11日から30日にかけては11試合連続安打を記録し、月間9二塁打はリーグトップ、6盗塁はリーグトップタイの成績を残し、自身初の月間MVPを受賞した。受賞会見では「不安ばっかりだったが、必死に練習してきた。起用してくれた監督、コーチ、そして転向を打診してくれた高田監督(当時東京ヤクルトスワローズ監督)に感謝したい」と秘めた思いを口にした。7月には監督推薦によりオールスターゲームにも初出場を果たした。シーズン終了までレギュラーを守り切り、チームの2年ぶりのリーグ優勝に貢献。自己最多となる131試合に出場し、初めて規定打席に到達。打率.306(リーグ7位)、15本塁打、24盗塁(同7位)、出塁率.381(同6位)、長打率.520(同4位)、OPS.901(同3位)という成績を記録し、パ・リーグ外野手部門2位で初のベストナインを、同外野手部門1位で初のゴールデングラブ賞をダブル受賞した。契約更改では3倍以上増となる推定年俸6000.00 万 JPYでサインし、「投手で入って野手になったときは一軍が目標だった。活躍できるなんて想像もしていなかった」と喜びを口にした。
2010年は前年主に5番のターメル・スレッジが退団した影響で主に「5番センター」としてクリーンアップの一角を担った。6月15日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では1試合4二塁打を記録。イチローや井口資仁ら好打者に並ぶ史上10人目の記録であったが「ホンマですか。必死なだけです」と語った。7月1日には、選手間投票により2年連続でのオールスターゲーム選出を果たす。本拠地最終戦の9月26日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)では9回裏にサヨナラ打を放ち、勝利を引き寄せた。この年は2年連続15本塁打を記録し、すべて前年を上回る打率.309、64打点、26盗塁、さらに76四球(25四球増)を選び初の4割台となる出塁率.407を記録した。2年連続でパ・リーグ外野手部門の1位でゴールデングラブ賞も受賞。オフの契約更改にて年俸は1.00 億 JPYの大台に到達し、背番号を同年まで坪井智哉がつけていた7に変更。背番号7について、「坪井さんの付けてた背番号なので相当な重みを感じています」とコメントしていた。この記事を見た坪井は自身の公式ブログで「涙が出そうになった」とコメントし、『7番似合ってるやん!』と糸井にメールしたことを明かしている。
2011年、打順は稲葉篤紀に代わる3番に昇格。相手投手の攻めも厳しさを増し、リーグトップタイの19の死球を受け、8月には右手小指に死球を受けて骨折しながらも出場を続けた。それでも打率はシーズン中盤までリーグ首位に立ち、最終的に自己最高でリーグ2位の.319を記録、本塁打も11本放ち3年連続の打率3割・2桁本塁打を記録した。出塁率は12球団全選手の中で唯一4割を超え、自身初タイトルとなる最高出塁率を獲得し、「出塁は毎年意識しており、(タイトルを)獲得できて光栄」と喜びを語った。31盗塁も自己最多でチームトップ。守備でも3年連続でゴールデングラブ賞を受賞。2年ぶり2度目のベストナインはリーグ外野手部門の1位で獲得した。12月13日、9000.00 万 JPY増の推定年俸1.90 億 JPYでサインし、野手転向者としては石井琢朗が横浜時代の2005年の推定年俸2.50 億 JPYに次ぐ高額年俸となった。
2012年、相手チームにライト前へヒットを打たれた時に、一塁走者の三塁進塁を抑止するため、首脳陣が当時右翼手を務めていた陽岱鋼と糸井を比較し「センターの守備力は変わらない。ならば(糸井)嘉男の強肩を生かす布陣の方が良い」という考えによりポジションを入れ替える形で右翼手にコンバートされた。オールスターゲームには稲葉篤紀に次ぐ両リーグ2位の得票を集め初めてファン投票で選出され、4年連続の出場を果たした。しかし怪我を抱えてのプレーとなり、前半戦は僅か2本塁打で、5月16日以来8月3日まで本塁打が出ないなど思いがけない不振に見舞われた。8月25日の試合前練習で左脇腹を痛め、翌日に登録抹消。「負けられない戦いの中、怪我をして不甲斐なかった」と、患部が完治していない状態で9月7日に3番右翼でスタメン復帰し、7回に右前打を放って意地を見せた。9月に打率.380、15打点でリーグ2位、出塁率.473、長打率.608はリーグトップの成績を記録し、5本の先制打、1本の勝ち越し打を放ってチームの3年ぶりのリーグ制覇の大きな原動力となり、3年ぶり2度目の月間MVPを獲得。最終的にシーズン成績は打率は4年連続で3割を超える.304(リーグ3位)を記録、出塁率は.404で2年連続で最高出塁率のタイトルを獲得という成績を残し、守備ではゴールデングラブ賞を4年連続で獲得し、2年連続でリーグ外野手部門の1位の得票で2年連続3度目のベストナインを受賞した。ポストシーズンに入っても好調を維持し、クライマックスシリーズファイナルステージ(札幌ドーム)では初戦と第2戦に2試合連続本塁打を放ちチームの日本シリーズ進出に貢献。初のクライマックス・シリーズMVPを受賞した。11月17日、18日に行われた「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出され、背番号は1を背負った。第2戦では自身初めての侍JAPANの4番打者に抜擢され4打数2安打を放った。契約交渉では1000.00 万 JPY増の推定年俸2.00 億 JPYの提示を受け、これに保留。球団はこのような評価となった理由を「糸井の成績は上がっているわけではない」とした。2度目の交渉からは代理人を伴ったものの交渉は難航した。
2.3. オリックス時代
日本ハムからオリックス・バファローズへ移籍後も、糸井は変わらぬ活躍を見せ、チームの主軸として数々のタイトルを獲得した。
2.3.1. トレードと移籍
2013年1月23日、木佐貫洋・大引啓次・赤田将吾との交換トレードで、八木智哉と共にオリックス・バファローズへ移籍することが発表された。この5選手が絡む大型トレードは球界に激震が走り、チームメイトだった武田勝は「痛手であることは間違いない。僕らも気持ちの整理をつけてキャンプに臨みたい」と語り、日本ハム時代に一緒にトレーニングをする仲だったという元同僚で当時テキサス・レンジャースのダルビッシュ有も「糸井さんトレードとか、ありえん」と自身のTwitterにツイートした。日本ハムの栗山英樹監督も「これほど悲しいことはない」と話していた。翌26日にほっともっとフィールド神戸で記者会見した糸井は、「関西出身なので、小さいころからよくテレビで見ていた。優勝目指して頑張りたい」とオリックスでの目標を話した。なお背番号は日本ハム時代と同じ7となった。
2.3.2. 活躍とタイトル
2013年2月20日に第3回WBC日本代表に選出された。背番号は年上の松井稼頭央が7を背負うため9となる。山本浩二侍ジャパン監督から大会前からキーマンに指名されると、3月2日の1次ラウンドA組開幕戦(対ブラジル、5-3、ヤフオクドーム)では4番打者(右翼手)に起用され、4回にライトへの適時打を放ちチームの勝利に早くも貢献した。3月3日の中国戦(5-2、ヤフオクドーム)では5回の満塁のチャンスでフェンス直撃の中越え3点二塁打を放ち、10日の第2ラウンド・オランダ戦(東京ドーム)では4回に右越え3点本塁打を放つなど日本代表のベスト4入りに貢献する活躍を見せた。大会では全7試合に4番、5番などで出場し、打率.286、1本塁打、7打点、2盗塁、OPS1.024の好記録を残した。
シーズンでは安定した調子を維持し、5年連続での打率3割、ゴールデングラブ賞受賞を達成したほか、すべて自己最多の157安打、17本塁打、33盗塁(リーグ3位)を記録した。オールスターゲームにはファン投票で唯一の40万票超えとなる約43万票で自身初の両リーグ最多得票となり5年連続で出場。オフの契約更改では自己最高の推定年俸2.50 億 JPYプラス出来高で契約を更改し、その会見の際に「今は将来のことは考えていない。(メジャーへの思いは)でっかい大胸筋の奥に秘めておきます」と冗談交じりにメジャーリーグ挑戦の思いを一時的に封印すると述べた。
2014年は開幕から好調で、5月10日の日本ハム戦(ほっともっとフィールド神戸)ではディクソンと武田勝の両先発が好投を続け、投手戦となり両者無得点の6回の好機に均衡を破る5号先制3点本塁打を放った。続く7回にも自身初の2打席連続本塁打となる6号ソロ本塁打を放ちチームの勝利を決定づけた。6月8日の広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)ではプロ初の4番打者を務め、8号決勝2点本塁打を放った。この試合以降4番として出場し、8月14日からは再び3番に戻ったが、多くの試合で4番として出場した。シーズン終盤まで1位であった盗塁は、過去にパ・リーグでシーズン50試合以上で4番打者を務め盗塁王を獲得した選手はいないため、パ・リーグ史上初の「4番で盗塁王」なるかと注目された。7月18日、19日に行われたMAZDAオールスターゲーム2014には、前年を上回る48万7246票で2年連続でファン投票両リーグ最多得票を集め、選手間投票でも両リーグ最多得票で選出され、6年連続での出場を果たした。最終的に自己最高の打率.331で初の首位打者、同じく出塁率.424で2年ぶり3度目の最高出塁率のタイトルを獲得。2年ぶり4度目のベストナインと、6年連続のゴールデングラブ賞にも選出され、史上初の「6年連続打率3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞」という快挙を達成した。シーズン終了後の日米野球2014には、日本代表の3番打者として出場した。契約更改では1.00 億 JPY増の推定年俸3.50 億 JPYプラス出来高払いでサインしている。
2015年、オリックスの主将に就任。一軍公式戦では、5月20日に通算1000安打、7月30日に通算100本塁打、9月2日に通算1000試合出場と節目の記録を次々と達成した。その一方で、シーズン序盤から満身創痍の状態で出場を続けた結果、7月2日に右肘靱帯や右足首腱の損傷で戦線を離脱した。そのまま前半戦を終えたが、外野手部門のファン投票で3位に選ばれたオールスターゲームには、指名打者として出場した。後半戦から復帰し、7月30日の北海道日本ハムファイターズ戦(わかさスタジアム京都)では、プロ入り後初めての地元・京都での公式戦に出場し凱旋を果たす。その試合では1回裏に8号先制2点本塁打を放つと、5回裏には勝利を決定づける9号3点本塁打を放ち、この本塁打で一軍公式戦通算100号本塁打を達成した。同時に1試合における自己最多打点も記録。試合後のヒーローインタビューでは、「思いが詰まった球場で(通算100本塁打を)達成できて嬉しい。光栄です」と述べた。ここから調子を上げ、8月は打率.293、6本塁打、18打点、出塁率.409、さらに9・10月は打率.330、出塁率.434、12打点と復調したが打率は3割を切り、2008年から続いた前年までの連続3割達成は途切れてしまった。シーズン終了後には、推定年俸2.80 億 JPY(7000.00 万 JPY減)で契約を更改。さらに、PRP療法(自身から採取した血小板で左膝組織の修復や再生を図る自己多血小板血漿療法)を受けることで、左膝の回復を図った。

2016年は開幕戦から10試合連続安打を記録。4月13日の北海道日本ハムファイターズ戦(京セラドーム大阪)では、5回裏の打席で自身およびチームのシーズン初本塁打を放ち、前日にチームが至った2リーグ制導入後のワーストの開幕13試合連続本塁打無しという記録も止まった。翌日の同カードでは、2試合連続本塁打(ソロ本塁打)でチーム唯一の得点を挙げ、チームにシーズン初の連勝をもたらした。オールスターゲームにも、前年に続いてパ・リーグ外野手部門のファン投票で3位に入り、8年連続で出場した。8年連続の出場は、この年の出場選手で最も長い。8月13日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)第1打席で、一軍公式戦4000打数(NPBにおける通算打率の規定打数)に到達。この試合が終了した時点で、通算打率がNPB歴代23位の.300(4003打数1202安打)になった。9月15日の北海道日本ハムファイターズ戦で1回表にルイス・メンドーサから初球で13号先頭打者本塁打を放ったことを皮切りに、公式戦では自身初の3打数連続本塁打を記録。「同一選手による1回表の先頭打者初球本塁打を含む1試合3本塁打」というNPB史上初の快挙も達成した。さらに、次のカードの9月17日・18日の福岡ソフトバンクホークス戦(福岡 ヤフオク!ドーム)でも本塁打を放ち、自身初の3試合連続本塁打を記録した。走塁面では、5月8日の千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で、一軍公式戦通算200盗塁を記録。35歳の誕生日を迎えた7月31日の対埼玉西武ライオンズ戦(京セラドーム大阪)でシーズン自己最多の34盗塁を記録すると、8月下旬からは1番打者に起用された。9月6日の福岡ソフトバンクホークス戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の7回表に二盗を成功させたことによって、シーズン50盗塁に到達した。NPBの一軍公式戦で35歳以上の選手がシーズン50盗塁を達成した事例は、通算盗塁数のNPB記録を保持している福本豊が1983年に35歳で達成して以来、33年ぶり史上2人目である。シーズン終盤には、猛烈な勢いで盗塁数を増やしてきた金子侑司(埼玉西武ライオンズ)との間で、熾烈な盗塁王争いを展開。最終的に53盗塁を記録し金子と分け合う形で自身初の盗塁王を獲得した。シーズン終了時35歳2か月での盗塁王獲得は当時の史上最年長記録であった(2021年に荻野貴司が36歳0か月で達成するまで)。また、「34歳で開幕を迎えたシーズンの盗塁王獲得」という日本プロ野球史上4人目の快挙を成し遂げた(1978年の柴田勲、1982年の福本豊、1993年の大石大二郎に次ぐ史上4人目)。シーズン終了後にはゴールデングラブ賞(いずれもパ・リーグ外野手部門)を受賞。ゴールデングラブ賞への選出は通算7度目で、セ・リーグ・パ・リーグ両リーグの現役選手としては最も多い。
3月28日に取得していた国内FA権を11月7日に行使することを表明。11月10日付で、NPBからフリーエージェント宣言選手として公示された。既にシーズン中から読売ジャイアンツや阪神タイガースなどの他球団が、糸井の獲得に興味を示していることを示唆する報道が相次いでおり、その一方で、オリックスも推定年俸総額18.00 億 JPY規模の4年契約を提示するなど慰留につとめていた。
2.4. 阪神時代
阪神タイガースへ移籍後も、糸井は持ち前の身体能力と野球センスでチームを牽引したが、度重なる怪我にも悩まされ、現役引退へと向かう時期となった。
2.4.1. 移籍と期待
2016年11月21日に、阪神タイガースが契約合意を正式発表。契約期間は4年で、年俸総額は推定18.00 億 JPY以上と報じられた。背番号は前年まで西岡剛が使用した7を譲り受け、西岡は背番号5に変更となった。
2017年、金本知憲監督から早々に正中堅手の座を確約されていたが、1月の自主トレーニング中に右膝の関節炎が再発。春季キャンプでは一軍の「沖縄組」へ参加したものの、本隊と別のメニューによる調整で患部のリハビリを優先させた。3月15日のオリックス戦で復帰した。3月31日のシーズン開幕戦である対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)に「3番中堅手」として移籍後公式戦初出場を果たし、四球を選んだあとの3回無死一・二塁の第2打席で左中間越えの2点適時二塁打を放った。4回一死二塁でもダメ押しの右翼線適時打、7回にも左前打を放ち、3安打猛打賞と活躍し、移籍初戦でヒーローインタビューを受けた。4月5日、対東京ヤクルトスワローズ戦で阪神移籍後初の本塁打を放った。ちなみにこの本塁打は前日に乱闘騒ぎがあり、これにより監督の金本が鬼の形相をしていたことから「絶対に勝たないといけないと思ったのが理由で本塁打を放つようにした」と後に述べている。
2.4.2. 成績と怪我
2017年7月17日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)、5回裏で出場した打席で、チェンジアップを空振りした際に右の脇腹を痛め、途中交代した。翌日、右脇腹の筋挫傷であることが判明し、登録抹消を余儀なくされた。8月17日に一軍に復帰。8月30日の東京ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)では、10回裏二死で迎えた第4打席で、プロ入り後初となる値千金のサヨナラソロ本塁打を右翼席へ放った。そのままシーズン最終戦及びクライマックスシリーズまで全試合に出場。一軍復帰した8月17日時点の打率は.267だったが、9月16日まで打率.297まで上昇。自身8度目の3割へ射程圏内にいた。最終的に打率.290でシーズンを終え、初めて規定打席に到達した2009年以降、自身2度目となる3割を切る数字となったが、リーグ打撃10傑入りは果たした。また出塁率はリーグ7位の.381を記録。レギュラーに定着以降最少の114試合の出場ながら、自己2位の17本塁打、同5位の62打点やリーグ4位タイの21盗塁を記録した。12月14日、チーム大トリとなる契約更改を行い、1.20 億 JPY増で自己最高の推定年俸4.00 億 JPYプラス出来高という内容で4年契約2年目となる翌年の契約を更改した。
2018年、開幕スタメンを勝ち取り3月30日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で「3番・右翼手」として出場した。5月25日の巨人戦(甲子園)で、プロ通算150本塁打を菅野智之から放った。またその3連戦の最終戦となる27日からは、4番打者として期待されたウィリン・ロサリオの不振を背景に阪神移籍後初の「4番・右翼手」として先発し、6月2日の対埼玉西武ライオンズ戦(メットライフドーム)では、野田昇吾から逆転満塁弾を放つなど阪神タイガース打線を引っ張り、オールスターゲームの選手間投票で選出されるも、6月30日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)の8回、ヤクルトの風張蓮から死球が原因で、右足腓骨を骨折した。それでもオールスターに出場し、7月21日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で戦線復帰し、9月21日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で野村祐輔からプロ通算1500安打を記録したが、8回裏一死二塁で打席に入った代打新井貴浩の打球を、ダイビングキャッチを試みた際に左肩腱板部分を損傷し、29日に登録を抹消され、シーズンを終えた。そのため119試合の出場に留まるも、打率は2年ぶり自身8度目の3割を超え、出塁率は.420(キャリア2位)、OPSは.900(同3位)を記録した。阪神の選手がOPS.900以上を記録したのは、2010年のブラゼル以来である。
2019年、3月29日の対東京ヤクルトスワローズ戦(京セラドーム大阪)で「3番・右翼手」として開幕スタメン入りを果たしたが、8月9日の対広島東洋カープ戦(京セラドーム大阪)で二盗を試みて滑り込んだ際に左足を負傷。「左足首の関節炎」と診断され、翌8月10日に登録を抹消された。そのため103試合の出場に留まり、本塁打、打点共に規定打席到達以降ではワーストとなったが、打率は.314(リーグ3位)、出塁率は.403(同2位)を記録した。
2020年は古傷の右膝に悩まされ打撃不振に陥っていたが、9月の月間打率は.352、10月は.290と徐々に復調した。移籍後最少の86試合の出場に終わり、オフには2.15 億 JPY減となる推定年俸1.85 億 JPYでサインした。
2021年、3月26日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で開幕スタメンを逃した。これにより2008年から3球団にまたがり続いていた開幕スタメン連続記録は13年でストップした。9月11日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で約1年半ぶりとなる盗塁を記録し、通算300盗塁を達成した。ただし、勝負強さは目立ったものの、主に代打としての起用であり、シーズン通算では77試合の出場、打率.208、3本塁打、18打点にとどまった。オフに、1.00 億 JPY減となる推定年俸8500.00 万 JPYプラス出来高払いで契約を更改した。
2.4.3. 晩年と引退
2022年、オープン戦で結果を残し、6番レフトで2年ぶりの開幕スタメンで出場した3月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)でチーム初本塁打を放った。5月13日、前日にぎっくり腰になっていたことを明かした。その後、一軍復帰するも、8月に新型コロナウイルスに感染し、登録を抹消された。9月12日、現役引退を発表した。9月15日、YouTubeのチャンネル「糸井嘉男 超人チャンネル」を開設したことを発表した。9月21日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)が引退試合となり、自身は5回裏に代打で登場。森下暢仁から最終打席で安打を放ち、有終の美を飾った。この安打が通算1755安打目となった。
2.5. 国際大会でのキャリア
糸井嘉男は、日本代表として国際舞台でもその実力を発揮し、特にワールド・ベースボール・クラシックではチームの重要な役割を担った。
2.5.1. 2013 ワールド・ベースボール・クラシック
糸井は2013年ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出された。1次ラウンドでは全3試合に右翼手として先発出場し、最初の2試合では4番打者を務めた。彼は日本代表の中で最も安定した打者の一人であり、全試合で安打を記録した。2次ラウンドでは、不調だった長野久義に代わって中堅手に入り、打撃の安定性を維持。チャイニーズタイペイ戦では二塁打を放ち(日本代表にとってこの時点までで2本目の長打であり、もう1本も糸井によるものだった)、オランダ戦では3点本塁打を放つなど、日本代表のベスト4進出に貢献した。しかし、準決勝ではプエルトリコに1-3で敗れ、決勝進出はならなかった。
3. 選手としての特徴
糸井嘉男は、プロ入り後に投手から野手へのコンバートに成功した稀有な選手として知られ、日本を代表する5ツールプレイヤーとしての地位を確立した。2009年から2014年にかけては、史上初の「6年連続打率3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞受賞」という偉業を達成している。
2015年には膝の故障により連続記録が途絶え(本塁打は17本を記録)、レギュラー定着後最低のシーズンとなったが、オフに左膝の改善を図るため、自身から採取した血小板を使って組織の修復や再生を図るPRP注射と呼ばれる治療を受けた。すると翌2016年には再び打率.306と53盗塁(盗塁王を受賞)を記録し、ゴールデングラブ賞を受賞。また17本塁打・70打点(共にキャリア2位)を記録し、見事な復活を果たした。年を重ねるごとに進化を続ける姿は、多くのファンを魅了した。
引退する2022年までに放ったシーズン本塁打は最大でも19本だったが、コーチをしていた藤井彰人は「40歳だけど30発は打てる」と太鼓判を押すほどの打力を持っていた。
3.1. 打撃
糸井は死球が非常に多く、8打席に1つ近い割合で四球を選ぶ優れた選球眼を持っていた。カウントに応じて打球方向を変える器用さも併せ持つ。芯でボールを捉えた時には日本人離れした打球のスピードと飛距離を見せるパワーを持ち、広い札幌ドームでも左方向へ本塁打を放つことができる技術を持っていた。打者転向当初の2008年から2010年までは左投手に対して打率.278と苦手にしていたが、2011年からは対左通算打率.304と克服した。
打率と出塁率では、2016年シーズン中にNPBの通算成績規定を満たした。通算打率.2965は史上32位(2022年終了時点)。
3.2. 守備
一塁到達まで基本的に4秒を切り、バントヒットで一塁到達3.54秒を計測したこともある脚力を生かした広い守備範囲と、遠投120 mの強肩と制球力を持っていた。投手として最速151 km/hを記録したこともある。大学時代には50m走5秒76を記録した。
中堅守備では後方の打球に強く、2010年にはUZR0.9を記録。2012年には、右翼守備でUZR25.9を記録した。一方で自ら「内野手みたい」と語るなどのポカも多く、2010年から3年連続で外野手リーグ最多失策を記録。2013年には失策数を1に留め、外野手としてリーグ4位の守備率.995を記録したが、UZRは右翼守備でマイナスを記録した(-10.2)。
3.3. 走塁
牽制でベースに戻ることひとつ取っても、研ぎ澄まされたセンスと能力を持ち併せており、盗塁の失敗率が低い。また、スタートを判断する嗅覚も優れていた。2015年は膝の故障の影響で11盗塁と数字が減少したが、この年のオフに上述のPRP注射を受けたことに加えて膝に負担のかからない走り方をマスターしたことで、2016年9月6日に50盗塁に到達。NPBで35歳以上の選手が50盗塁以上を記録した前例は、1983年に福本豊が35歳11か月で54盗塁したのみで、糸井は33年ぶり史上2人目の快挙を成し遂げた。福本、大石大二郎の34歳11か月を上回る35歳2か月での受賞で、史上最年長盗塁王となった。その背景には、その年に就任したヘッドコーチの西村徳文と打撃コーチの高橋慶彦から「もっと走れる」と言われ上限を定めずに走るようになった影響がある。
4. 引退後の活動
現役引退後、糸井嘉男は多岐にわたる活動を展開している。2023年からは毎日放送・北海道テレビの野球解説者、デイリースポーツの野球評論家を務めている。また、阪神タイガースの「Special Ambassador」(SA)にも就任した。
2022年9月15日にはYouTubeチャンネル「糸井嘉男 超人チャンネル」を開設し、野球に関する情報発信やバラエティ企画などを行っている。
5. 人物
糸井嘉男は、その野球選手としての卓越した能力だけでなく、ユニークな人間性や家族との関係性でも知られている。
5.1. 愛称と性格
糸井の愛称は「超人」(Chojin英語)と「ヨッピ」(Yoppi英語)である。「超人」の愛称は、その並外れた身体能力と野球センスに由来する。非常に天然な性格で知られ、プロ4年目のヒーローインタビューで、インタビュアーに「うちゅうかん(右中間)ってなんですか?」と聞いてしまうほど。ただ、高校時代の監督である市田匡史は、主将在任時の低迷を例に「天然ボケな行動をしますけど、ああ見えて繊細やからね」と評していた。
高校時代のある時、通っていたスポーツジムから帰る際に電車の中で寝過ごして自宅から電車で2時間かかる京都駅まで乗り越してしまい、結局母親に迎えに来てもらい翌日の練習を休まざるを得なくなったというエピソードがある。当時宮津高校で監督を務めていた市田匡史はこれを高校時代の糸井に関する一番の笑い話としている。
5.2. 家族
糸井の家族はスポーツ一家である。父親はトライアスロンの元選手で、2022年時点でも現役を続けている。母親は元バレーボールの国体選手であった。母方の祖父は京都府立峰山高等学校の高校体育教師で、野村克也を教え子に持っていた。
オリックス移籍後の2015年には、当時の森脇浩司一軍監督からの任命を受けて、野球人生で自身初の主将に就任した。しかし、チームは優勝候補と目されながら、森脇がシーズン途中で休養(後に監督を辞任)するなど低迷。糸井自身も、「(前年の好成績から)長打を増やすことを意識し過ぎたことに加えて、主将の肩書がプレッシャーになった」と述懐するなど、開幕から極度の打撃不振に見舞われた。2016年には、前年途中から一軍監督代行を務めていた福良淳一新監督の方針で主将を置いていないが、糸井は「(2015年限りで)主将をクビになった」と受け止めていた。
日本ハム時代から打席に入る際の登場曲としてSMAPの『SHAKE』を使用していた。オリックス時代には、本拠地の京セラドーム大阪やほっともっとフィールド神戸では、「二人ならヤレルヤ~♪」というサビの部分の歌詞を「糸井ならヤレルヤ~♪」に変えたうえで、同球団のファンがサビを合唱することが恒例になっていた。そのSMAPは2016年末で解散し、同時期に糸井自身も阪神への移籍と共に転機を迎えたが、糸井は移籍後も「SHAKE」を登場曲に使い続けている。「糸井ならヤレルヤ~♪」のコールも阪神ファンに受け継がれている。
2021年に行われた北海道日本ハムファイターズによるファン投票の結果、「FIGHTERS LEGENDS BEST NINE」の一人に選ばれた。
オリックスから阪神への移籍については、移籍が決定した際に、「毎日悩みに悩んできた」と心境を明かした。「今までどんなときも温かく声援くださったオリックスファンの皆さんには感謝の気持ちでいっぱい。その想いも踏まえた上でやはり今回の決断に至った中には、野球人として成長するために自分の中で変化というものが必要ではないかと考え、自分を奮い立たせて新しい環境でチャレンジすることにより更に成長出来るのではないかという強い思いと、そして何より金本監督の熱意に心を打たれたことがあった」と述べている。移籍が正式に発表される直前(2016年11月23日)には、退団が決定していたにもかかわらず、オリックスのファン感謝イベントに出席。大声援で迎えられ、「(自分の名前の入った)旗を振っていてくれたり、タオルを掲げてくれていたので何か出来ることあるかな思っていた」と自身のバットに「ありがとう」と記してファンに手渡しし、最後はハイタッチして回るなど4年間を過ごしたファンに感謝の気持ちを示した。同年11月25日に開かれた阪神への入団会見には、およそ200人もの報道陣が集結。糸井は、12台のテレビカメラを前に、阪神タイガースのイメージを「記者が多いなと。熱狂的なファンとマスコミのイメージが大半ですね」と表現した。また、「チームがトップに立つために、金本監督を胴上げするために一つでもチームに貢献したいなと思います」と語っている。さらに、翌26日にゲストで出演した関西ローカルの情報番組『せやねん!』(毎日放送)では、2017年の公約として「お立ち台(公式戦でのヒーローインタビュー)7回」を挙げた。
2017年から阪神タイガースで2年間チームメイトになった西岡剛とは、自身と同じパ・リーグの球団出身である縁で、阪神タイガースへの移籍前から親交がある。糸井の阪神タイガース移籍に際しては、西岡が同球団で2016年まで付けていた背番号7を糸井に譲渡する意向を示したうえで、背番号を5に変更した。西岡も千葉ロッテマリーンズに入団した2003年から延べ12年間にわたって背番号7を着用していたが、糸井が阪神でも7番の着用を希望していることを知ったため、「糸井さんは自分より実績がある」という理由で背番号を譲ることを決意。糸井の移籍交渉中には、糸井本人に連絡したうえで、「背番号を7番にするなら、気分よく(阪神に)来て下さい」とのメッセージを伝えたという。
オリックス在籍時に、元々の視力が1.2あるにもかかわらずレーシック手術を受けた。そのおかげでドーム上段のスポンサーの看板の文字がよく見えるようになったという。視力は2.0に落ち着いている。
ベンチプレスで150 kgを記録するなど怪力の選手で知られていたが、プロ入り当初から筋肉質であったわけではなく、大学時代は寧ろ細身であった。野手に転向した際にバットが重く感じたのがウエイトトレーニングに没頭した理由である。ウエイトトレーニング開始1か月で元のスーツが合わなくなるほど筋肉の増量に成功し、これに気を良くしてウエイトトレーニングに没頭。本人曰く「野球とはかけ離れた(ウエイトトレーニングを行っていた)時期もあります」「(自分のようなウエイトトレーニングは)おススメはしません」とのこと。
6. 受賞歴・記録
糸井嘉男は、その輝かしいキャリアを通じて、数多くの個人タイトル、表彰、そして特筆すべき記録を達成した。
6.1. 個人タイトル
- 首位打者:1回(2014年)
- 盗塁王:1回(2016年)
- 最高出塁率:3回(2011年、2012年、2014年)
6.2. 主要な表彰
- ベストナイン:5回(外野手部門:2009年、2011年、2012年、2014年、2016年)
- ゴールデングラブ賞:7回(外野手部門:2009年 - 2014年、2016年)
- 月間MVP:3回(野手部門:2009年6月、2012年9月、2019年6月)
- クライマックス・シリーズMVP:1回(2012年)
- オールスターゲーム敢闘選手賞:1回(2013年第1戦)
6.3. 記録
; 初記録
- 初出場・初先発出場:2007年3月27日、対オリックス・バファローズ1回戦(京セラドーム大阪)、8番・左翼手で先発出場
- 初打席:同上、3回表にトム・デイビーから遊飛
- 初安打:2007年9月10日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(千葉マリンスタジアム)、5回表に高木晃次から右前安打
- 初盗塁:同上、5回表に二盗(投手:高木晃次、捕手:里崎智也)
- 初打点:2008年3月25日、対埼玉西武ライオンズ1回戦(札幌ドーム)、1回裏に西口文也から遊撃適時内野安打
- 初本塁打:2008年6月27日、対オリックス・バファローズ7回戦(京セラドーム大阪)、3回表にラモン・オルティズから中越ソロ
; 節目の記録
- 1000安打:2015年5月20日、対福岡ソフトバンクホークス11回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、1回表に中田賢一から左前安打 ※史上279人目
- 100本塁打:2015年7月30日、対北海道日本ハムファイターズ16回戦(わかさスタジアム京都)、5回裏に屋宜照悟から左越3ラン ※史上275人目
- 1000試合出場:2015年9月2日、対東北楽天ゴールデンイーグルス21回戦(楽天Koboスタジアム宮城)、3番・右翼手で先発出場 ※史上473人目
- 200盗塁:2016年5月8日、対千葉ロッテマリーンズ8回戦(QVCマリンフィールド)、1回表に本盗(投手:大嶺祐太、捕手:田村龍弘) ※史上73人目、一塁走者・T-岡田と重盗
- 250盗塁:2017年5月28日、対横浜DeNAベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、1回表に二盗(投手:今永昇太、捕手:戸柱恭孝) ※史上45人目
- 150本塁打:2018年5月25日、対読売ジャイアンツ10回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に菅野智之から右越ソロ ※史上167人目
- 1500安打:2018年9月21日、対広島東洋カープ22回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、2回表に野村祐輔から右前安打 ※史上124人目
- 300二塁打:2019年4月28日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤドーム)、1回表に柳裕也から中越二塁打 ※史上71人目
- 100死球:2019年6月2日、対広島東洋カープ12回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、1回表にアドゥワ誠から ※史上21人目
- 1500試合出場:2019年8月7日、対東京ヤクルトスワローズ16回戦(明治神宮野球場)、3番・右翼手で先発出場 ※史上195人目
- 1000三振:2021年6月13日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(楽天生命パーク宮城)、9回表に松井裕樹から空振り三振 ※史上72人目
- 300盗塁:2021年9月11日、対広島東洋カープ18回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、8回表に二盗(投手:ケムナ誠、捕手:會澤翼) ※史上31人目
; 年齢に関する記録
- 35歳以上の選手のシーズン50盗塁:2016年(35歳、53盗塁)※史上2人目
- 35歳での盗塁王:2016年 ※当時最年長、2021年に荻野貴司が更新
- 37歳以上の選手のシーズン20盗塁:2018年(37歳、22盗塁)※史上6人目、セ・リーグ史上3人目、1986年の福本豊(39歳、23盗塁)以来32年ぶり
- 37歳以上で20盗塁を記録した選手の盗塁成功率:2018年(37歳、.880)※史上最高
; 連続記録
- 6年連続打率3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞:2009年 - 2014年 ※史上単独1位
- 6年連続打率3割・20盗塁:2009年 - 2014年 ※史上1位タイ(松井稼頭央と並ぶ)
- 6年連続打率3割・ゴールデングラブ賞:2009年 - 2014年 ※史上2位(イチローの7年連続に次ぐ)
- 6年連続打率3割:2009年 - 2014年 ※史上8位タイ
; オールスターゲームの記録
- 出場:10回(2009年 - 2018年)
- ファン投票選出:6回(2012年 - 2017年)
- ファン投票両リーグ最多得票:2回(2013年、2014年)
- 選手間投票選出:8回(2010年 - 2014年、2016年- 2018年)
- 選手間投票両リーグ最多得票:1回(2014年)
- 監督推薦選出:1回(2009年)
; その他の記録
- 1試合4二塁打:2010年6月15日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場) ※最多タイ記録・史上10人目(4打席連続は史上6人目)
- 全球団から本塁打:2013年5月11日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(京セラドーム大阪)、1回裏に谷元圭介から右越3ラン ※史上26人目
- 1回表の先頭打者初球本塁打を含む1試合3本塁打:2016年9月15日、対北海道日本ハムファイターズ24回戦(札幌ドーム) ※史上初
- 同日開催の試合で2人の選手が1回表に先頭打者初球本塁打:2016年9月15日、糸井が対北海道日本ハムファイターズ24回戦(札幌ドーム)で、桑原将志(横浜DeNAベイスターズ)が対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)で記録 ※史上初
6.4. 年度別打撃成績
年度 | 所属 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 故意四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2007 | 日本ハム | 7 | 11 | 11 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .091 | .091 | .091 | .182 |
2008 | 63 | 205 | 188 | 19 | 45 | 14 | 1 | 5 | 76 | 21 | 13 | 3 | 5 | 0 | 10 | 1 | 2 | 53 | 6 | .239 | .285 | .404 | .689 | |
2009 | 131 | 496 | 425 | 74 | 130 | 40 | 3 | 15 | 221 | 58 | 24 | 6 | 18 | 1 | 46 | 8 | 6 | 93 | 6 | .306 | .381 | .520 | .901 | |
2010 | 138 | 583 | 488 | 86 | 151 | 33 | 3 | 15 | 235 | 64 | 26 | 8 | 13 | 1 | 71 | 2 | 10 | 94 | 7 | .309 | .407 | .482 | .889 | |
2011 | 137 | 578 | 489 | 72 | 156 | 30 | 0 | 11 | 219 | 54 | 31 | 6 | 9 | 2 | 59 | 2 | 19 | 91 | 5 | .319 | .411 | .448 | .859 | |
2012 | 134 | 597 | 510 | 72 | 155 | 21 | 3 | 9 | 209 | 48 | 22 | 9 | 0 | 1 | 75 | 2 | 11 | 86 | 9 | .304 | .404 | .410 | .813 | |
2013 | オリックス | 141 | 601 | 524 | 75 | 157 | 33 | 2 | 17 | 245 | 61 | 33 | 9 | 0 | 3 | 66 | 1 | 8 | 93 | 6 | .300 | .384 | .468 | .852 |
2014 | 140 | 590 | 502 | 73 | 166 | 36 | 2 | 19 | 263 | 81 | 31 | 9 | 0 | 4 | 70 | 7 | 14 | 73 | 7 | .331 | .424 | .524 | .948 | |
2015 | 132 | 565 | 484 | 61 | 127 | 22 | 0 | 17 | 200 | 68 | 11 | 4 | 0 | 1 | 72 | 2 | 8 | 78 | 10 | .262 | .366 | .413 | .779 | |
2016 | 143 | 616 | 532 | 79 | 163 | 24 | 1 | 17 | 240 | 70 | 53 | 17 | 0 | 2 | 75 | 5 | 7 | 84 | 13 | .306 | .398 | .451 | .849 | |
2017 | 阪神 | 114 | 493 | 427 | 60 | 124 | 16 | 0 | 17 | 191 | 62 | 21 | 6 | 0 | 2 | 59 | 0 | 5 | 62 | 12 | .290 | .381 | .447 | .828 |
2018 | 119 | 509 | 419 | 60 | 129 | 24 | 0 | 16 | 201 | 68 | 22 | 3 | 0 | 5 | 77 | 4 | 8 | 63 | 9 | .308 | .420 | .480 | .900 | |
2019 | 103 | 444 | 382 | 45 | 120 | 22 | 1 | 5 | 159 | 42 | 9 | 5 | 0 | 3 | 52 | 7 | 7 | 63 | 10 | .314 | .403 | .416 | .819 | |
2020 | 86 | 311 | 269 | 25 | 72 | 16 | 1 | 2 | 96 | 28 | 2 | 1 | 0 | 1 | 38 | 0 | 3 | 50 | 5 | .268 | .363 | .357 | .720 | |
2021 | 77 | 119 | 106 | 8 | 22 | 5 | 0 | 3 | 36 | 18 | 1 | 0 | 0 | 3 | 9 | 0 | 1 | 37 | 4 | .208 | .269 | .340 | .609 | |
2022 | 62 | 182 | 163 | 12 | 37 | 3 | 0 | 3 | 49 | 22 | 0 | 0 | 0 | 1 | 16 | 2 | 2 | 29 | 3 | .227 | .302 | .301 | .603 | |
通算:16年 | 1727 | 6900 | 5919 | 822 | 1755 | 339 | 17 | 171 | 2641 | 765 | 300 | 86 | 45 | 30 | 795 | 43 | 111 | 1050 | 112 | .297 | .388 | .446 | .834 |
- 各年度の太字はリーグ最高
6.5. 年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度 | 年齢 | リーグ | 打率 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2007 | 26 | パ・リーグ | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
2008 | 27 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2009 | 28 | 7位 | - | 1位 | - | - | - | 7位 | 6位 | 4位 | 3位 | |
2010 | 29 | - | - | 6位 | 10位 | - | - | 5位 | 5位 | 6位 | 7位 | |
2011 | 30 | 2位 | - | - | - | - | - | 5位 | 1位 | 4位 | 2位 | |
2012 | 31 | 3位 | 2位 | - | - | - | - | 6位 | 1位 | 8位 | 4位 | |
2013 | 32 | 10位 | 9位 | 2位 | - | - | - | 3位 | 9位 | 9位 | 9位 | |
2014 | 33 | 1位 | 3位 | 1位 | - | 8位 | 5位 | 3位 | 1位 | 3位 | 3位 | |
2015 | 34 | - | - | - | - | 9位 | - | - | 10位 | - | - | |
2016 | 35 | 4位 | 5位 | - | - | - | - | 1位 | 5位 | 10位 | 4位 | |
2017 | 36 | セ・リーグ | 10位 | - | - | - | - | - | 4位 | 7位 | 9位 | 9位 |
2018 | 37 | - | - | - | - | - | - | 3位 | 5位 | - | 10位 | |
2019 | 38 | 3位 | - | - | - | - | - | - | 2位 | - | - | |
2020 | 39 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2021 | 40 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2022 | 41 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
- 太字年は規定打席到達年
- -は10位未満(打率、出塁率、長打率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)
6.6. WBCでの打撃成績
年度 | 代表 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 故意四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013 | 日本 | 7 | 31 | 21 | 4 | 6 | 2 | 0 | 1 | 11 | 7 | 2 | 0 | 1 | 0 | 6 | 0 | 3 | 2 | 0 | .286 | .500 | .524 | 1.024 |
6.7. 年度別守備成績
年度 | 球団 | 外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
2007 | 日本ハム | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
2008 | 61 | 112 | 4 | 2 | 1 | .983 | |
2009 | 125 | 234 | 7 | 2 | 2 | .992 | |
2010 | 138 | 302 | 4 | 5 | 0 | .984 | |
2011 | 136 | 286 | 9 | 7 | 1 | .977 | |
2012 | 131 | 266 | 8 | 5 | 0 | .982 | |
2013 | オリックス | 125 | 194 | 5 | 1 | 1 | .995 |
2014 | 139 | 223 | 5 | 3 | 3 | .987 | |
2015 | 88 | 119 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | |
2016 | 118 | 174 | 4 | 6 | 0 | .967 | |
2017 | 阪神 | 105 | 134 | 2 | 4 | 0 | .971 |
2018 | 117 | 165 | 4 | 3 | 1 | .983 | |
2019 | 96 | 130 | 0 | 2 | 0 | .985 | |
2020 | 75 | 68 | 1 | 2 | 0 | .972 | |
2021 | 16 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2022 | 38 | 42 | 0 | 1 | 0 | .977 | |
通算 | 1781 | 2467 | 56 | 43 | 9 | .983 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
7. 背番号
糸井嘉男はプロキャリアを通じて以下の背番号を着用した。
- 26(2004年 - 2010年)
- 7(2011年 - 2022年)
- 1(2012年侍ジャパンマッチ)
- 9(2013年WBC)