1. 経歴
落合英二は、高校、大学で野球に打ち込み、プロ野球選手としての道を切り開いた。プロ入り後は、中日ドラゴンズ一筋で、主に中継ぎ投手として活躍し、引退後も指導者として国内外でその手腕を発揮している。
1.1. プロ入り前
作新学院高等部ではエースとして活躍した。1986年秋季栃木大会では準々決勝に進出するも佐野日大高校に敗れた。翌1987年春季栃木大会では準決勝で足利工の石井忠徳と投げ合い完封勝ちを収め、決勝では高村祐を擁する宇都宮南高校に敗れたものの関東大会出場権を獲得した。しかし、関東大会では2回戦(初戦)で常総学院高校の島田直也に抑えられ完封負けを喫している。同年夏の栃木大会では準決勝で再び足利工の石井と対戦したが、延長10回裏サヨナラ負けでベスト4敗退となった。
高校卒業後、日本大学経済学部に進学し、硬式野球部に入部した。当時の日大は東都大学野球リーグ二部に所属していたが、1989年秋季リーグで6勝を挙げ、二部優勝に貢献。入替戦で國學院大に2連投で勝利し、一部復帰を果たした。その後も優勝には届かなかったものの、投手の主軸として活躍。1990年のワールドカップ日本代表にも選出された。この年の秋の入替戦でも完封、完投を含む3連投で一部残留に貢献した。一部リーグ通算27試合登板で8勝13敗、防御率2.12、148奪三振を記録し、二部では12勝2敗の成績を残している。最速150 km/hのストレートを武器に、同リーグの若田部健一(駒澤大)とともにドラフトの目玉候補とされていたが、大学4年時に投球中に右肘を骨折する重傷を負った。一時は選手生命も危惧されたが、回復すると判断した中日ドラゴンズが、1991年のドラフト会議にて東北福祉大の斎藤隆の外れ1位指名で獲得し、入団に至った。大学の1学年後輩には門奈哲寛、プロで同僚となる渡邉博幸、同郷の真中満がいた。
1.2. プロ入り後
プロ入り後は、中日ドラゴンズ一筋で長きにわたり活躍した。特に中継ぎ投手としてチームに貢献し、数々の記録を残した。
1.2.1. 主な所属球団(中日ドラゴンズ)
プロ1年目の1992年には、肘にサファイアを埋め込む大手術を受けた。2年目の1993年に一軍登板を達成してからは、数年間は肘の状態を考慮し、ショートリリーフ専門として起用された。1995年以降はチーム事情もあり、主に先発として一軍での登板機会を得るようになった。先発としては完投能力はあったものの、投球内容の良い時と悪い時の差が激しく、思うような成績を残せない時期が続いた。
当時、同姓の落合博満が中日に現役選手として在籍していた時期は、基本的にスコアボードの表記は、英二を「落合英」、博満を単に「落合」と表記された。しかし、一時期の東京ドームでは博満が「落合博」となっていたことがある他、読売新聞など一部の活字メディアでは、博満に「落合博」を使用していた。
1998年に就任した大学時代の先輩である投手コーチの宮田征典の意向もあり、抑えを務めていた宣銅烈に繋ぐ中継ぎとして固定されたことが転機となった。この年、弓長起浩に次ぐリーグ2位の55試合に登板し、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ、リリーフポイント19.70で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
翌1999年は、プロ8年目で初めてオールスターゲームに選出された。この年はサムソン・リーや岩瀬仁紀らと強力な中継ぎ陣を形成し、リーグ優勝に大きく貢献した。同年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは3試合に登板し、第2戦では9回から川上憲伸をリリーフして勝利に貢献した。オフの12月24日には2900万円増の年俸8600.00 万 JPYで契約を更改している。
2000年は、キャンプ中に右肩痛を発症し、開幕を二軍で迎えた。3月18日の時点では5月に一軍昇格を目指して調整していると報じられたが、4月中旬と5月中旬に痛みが再発し調整が遅れたため、前半戦は7月19日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に登板しただけであった。最終的に21試合に登板し防御率2.75を記録した。
2001年には、5月10日の対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で2年ぶりにセーブを挙げた。5試合連続で失点したこともあったが、最終的に45試合に登板し、防御率1.73を記録した。
2002年には、3月30日の開幕戦、対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で登板した際に左脇腹を痛め、翌日登録抹消された。この年は37試合に登板し、1勝2敗1セーブ、防御率2.62であった。オフの12月16日には300万円減の年俸8500.00 万 JPYで契約を更改した。
2003年には、シーズン中の8月3日にFA権を取得した。この年は自己最多の61試合に登板し、7勝0敗1セーブ、防御率1.77の成績を残した。FA権を行使せずに3年4.00 億 JPYで残留している。
落合博満が監督に就任した2004年は、3月に右肩に違和感を覚えたことにより、開幕を二軍で迎えた。4月21日に出場選手登録され、翌日の対阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)でシーズン初登板を果たした。この年も中継ぎ陣の柱として活躍し、不調の岩瀬に代わって抑えを務めた時期もあった。9月26日には7年ぶりに先発登板し、5回無失点で勝利に貢献している。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも3試合に中継ぎとして登板した。
2005年には、前年オフに首脳陣から先発転向を命じられ、先発に転向した。8年ぶりに開幕ローテーションに入り、5月5日の対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)でシーズン初勝利を挙げた。しかし、翌週のセ・パ交流戦で対西武ライオンズ戦(インボイス西武ドーム)では4回4失点と結果を残せず、中継ぎに再転向した。
2006年は、プロ野球の投球フォームのルール改正により二段モーションであった落合も投球フォーム改造を余儀なくされるなどの問題から開幕を二軍で迎え、一軍に上がっても結果は出せなかった。チームがリーグ優勝した際には一軍にいなかったが、落合をずっと支えてきた永田トレーナーが監督胴上げの瞬間、落合英二の背番号「26」のプレートを掲げ万歳するシーンが見られた。永田トレーナー以外にも、落合を慕っていた荒木雅博や朝倉健太も帽子の裏に「26」と書いて出場していたという。同年は6月26日に一軍昇格したものの、最終的に5試合の登板にとどまり、現役を引退した。
現役時代には、1球勝利投手、1球セーブ投手、1球ホールド、1球敗戦投手、0球登板(交代を告げられてマウンドに上がってから雨天中断、その後降板。投球練習中に右脇腹に違和感で降板したという説もあったが、本人がCBCラジオの『久野誠のドラゴンズワールド』内でこれを否定している)という珍記録を持っている。特に1球勝利と1球敗戦の両方を記録した史上初の選手である。
1.2.2. 背番号・登録名
現役時代の背番号は以下の通り変遷した。
- 19(1992年 - 1993年)
- 71(1994年) - この年入団したディオン・ジェームズが背番号19を希望したため。ただし1994年のキャンプ初日の写真撮影の際に「12」、キャンプ中は「70」をつけていた。「12」から「70」への変更は高橋三千丈コーチの(「12」を付けていた現役時代、終盤は血行障害に苦しみ、縁起が悪いと考えて)、「70」から「71」への変更は高木守道監督の(「70」は投手の番号ではない、というイメージから)意向による。
- 25(1995年)
- 26(1996年 - 2006年)
- 88(2010年 - 2012年、2015年 - 2021年、2025年 - )
- 77(2022年 - 2024年)
登録名も現役時代とコーチ時代で変更があった。
- 落合 英二(おちあい えいじ、1992年 - 2006年、2010年 - 2012年、2015年 - 2016年、2018年 - )
- 英二(えいじ、2017年)
2. コーチ・指導者としての経歴
現役引退後は、野球解説者や評論家として活動しつつ、国内外のプロ野球チームで指導者としてのキャリアを積んでいる。
2007年から2009年まで3年間、中部日本放送(CBC)の野球解説者等を務めた。同局では東海地方ローカルのスポーツ情報番組『サンデードラゴンズ』内で「落合英二ブルブルの輪」というコーナーも担当していた。解説初年度は「ネット裏解説」という扱いでの解説を務めることが多かったが、その後は普通に実況席で解説していた。ただし、全国ネットの場合は2年目以降でも「ネット裏解説」として出演する場合があった。「ネット裏解説」の時は、観客に話しかけられることがあったという。ドラゴンズの選手からは「英二さんがすぐ見えるところにいるのが変な感じ」と言われたという。
ドラゴンズ時代に同僚であった宣銅烈が監督を務めていた縁で、韓国のサムスン・ライオンズでコーチ研修を受けた。2010年からサムスンの投手コーチに就任。落合コーチ就任後、サムスン・ライオンズのチーム防御率は大幅に改善し、2011年からは投手起用の全権を任され、その手腕は高く評価された。2012年シーズン、サムスンは2年連続韓国シリーズ優勝を達成し、同年のアジアシリーズ終了後に退団した。教え子の中には、後に日本プロ野球において阪神タイガースやメジャーリーグで活躍する呉昇桓がいた。
2013年から2014年まで2年間は、野球解説者に復帰。本数契約でCBC・東海ラジオ・テレビ愛知に出演した。また、中日スポーツの野球評論家も務めている。2014年10月16日には千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチに就任することが発表され、背番号は88となった。2017年より登録名を「英二」へ変更した。同年現在、姓を省略し名のみを登録名としているコーチは中日時代のチームメイトでもあった英智外野守備走塁コーチに次いで2人目であった。同年10月11日に翌年コーチ契約を行わないことを通告され、ロッテを退団した。
2017年11月の秋季キャンプから合流し、2018年から韓国サムスンの投手コーチに再就任した。2019年秋より韓国サムスン二軍監督に就任し、純粋な日本人投手出身の二軍監督は落合が唯一である。
2022年より中日の一軍ヘッド兼投手コーチに就任した。この際、監督に就任することとなった立浪和義がニュース番組『ニュースOne』(東海テレビ)に出演した際、立浪が「77は落合英二にと思っています」と発言し、かつて星野仙一が監督時代に使用していた背番号77を付けることとなった。2024年10月6日に同年限りでの退団が一度は発表されたが、直後に就任した井上一樹監督より残留を要請され、同年10月28日、二軍監督への就任が発表された。また、背番号は88に変更された。
2.1. 解説・評論活動
現役引退後は、野球解説者や評論家としても活動していた。
2.1.1. 出演番組・メディア
- 侍プロ野球(CBCテレビ)
- サンデードラゴンズ(CBCテレビ)
- 燃えよドラゴンズ(CBCプロ野球中継)
3. 人物・人間関係
落合英二は「霊感に優れている」と言われており、数々のエピソードが語られている。
- 試合中、当時チームメイトだった大豊泰昭に自分のバットを差し出して「このバットを使ったら打てる」と予言したところ、大豊が本塁打を打った。
- 1996年、山崎武司にもバットを差し出したところ、その年に山崎は本塁打王になった。
- 1999年には、情報番組『ズームイン!!朝!』(日本テレビ)プロ野球イレコミ情報で、どこの球場で優勝を決めるかと質問されると、「ブルペンが外にある球場で星野監督が胴上げされるのが見える」と予言。実際にブルペンが外にある明治神宮野球場で優勝を決めている。
- 2009年6月30日の対阪神タイガース戦の6回裏、一死満塁で藤井淳志が打席に立った際、本塁打打者というわけでもなく、さらにそれまでのシーズンで藤井は満塁の場面の打率が7打席1安打と良くなかったにもかかわらず「藤井が颯爽とベースを回る姿が見える」と予言。そしてその打席、藤井は逆転のプロ初となる満塁本塁打を放った。
- 中日でチームメイトであった川上憲伸が自身のYouTubeチャンネルにて落合との霊感エピソードについて語っている。
3.1. 人間関係
現役時代に監督だった星野仙一に投球などで注意される時、殴られたことがあったが、結婚後は「俺は既婚者の奴は殴らないから安心しろ」と言われたという(落合に限らず、星野は独身選手には手を出すことはあっても、既婚者に対しては基本的に手を出さなかった)。
横浜ベイスターズから移籍してきた谷繁元信は落合よりは1つ年下であるが、何故か「英ちゃん」と呼ばれ、タメ口で話されている。『サンデードラゴンズ』で落合は「歳の分は実績で加味されている」と冗談交じりに語っていた。
2007年に中日ドラゴンズに入団した堂上直倫とは、父である堂上照が球団寮の寮長ということもあって以前から付き合いがあり、2006年のファン感謝デーで行われた引退セレモニーでは「成し遂げられなかった日本一の夢をここにいる選手・コーチ、それにこのナゴヤドームのどこかで見ている堂上直倫君に託します」とあいさつ、場内をどよめかせた(セレモニーの時点では、堂上はドラフト会議で中日が既に交渉権を獲得しており、仮契約を済ませた段階であった)。ちなみにその時堂上は愛工大名電の野球部の仲間と共に変装して来場していた。また、2007年の沖縄キャンプの休日で堂上が報道陣の写真撮影に応じた際、落合からの貰い物と思われる「EIJI 26」とネームの入った短パンを履いていた。その後堂上直倫が入団した2007年に中日ドラゴンズは日本一に輝いている。
4. 家族
妻はフィギュアスケートの元選手で、幼少期の安藤美姫、浅田真央を指導したことがある。
5. 詳細情報
5.1. 年度別投手成績
年 度 | 所 属 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 4 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ ー ブ | ホ ー ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 故 意 四 球 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ ー ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 | 中日 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 36 | 9.1 | 5 | 1 | 5 | 3 | 0 | 7 | 1 | 0 | 2 | 2 | 1.93 | 1.07 |
1994 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | -- | .667 | 146 | 34.0 | 35 | 2 | 14 | 1 | 1 | 23 | 0 | 0 | 13 | 12 | 3.18 | 1.44 | |
1995 | 30 | 14 | 0 | 0 | 0 | 3 | 9 | 2 | -- | .250 | 404 | 96.1 | 119 | 11 | 16 | 4 | 3 | 47 | 0 | 0 | 54 | 51 | 4.76 | 1.40 | |
1996 | 24 | 14 | 3 | 2 | 1 | 4 | 6 | 1 | -- | .400 | 411 | 96.1 | 98 | 6 | 29 | 6 | 2 | 61 | 1 | 0 | 49 | 40 | 3.74 | 1.32 | |
1997 | 19 | 9 | 2 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | -- | .364 | 271 | 66.1 | 66 | 3 | 7 | 1 | 2 | 52 | 0 | 0 | 33 | 27 | 3.66 | 1.10 | |
1998 | 55 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 6 | 5 | -- | .400 | 308 | 73.1 | 81 | 3 | 12 | 2 | 0 | 36 | 0 | 0 | 29 | 23 | 2.82 | 1.27 | |
1999 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 2 | -- | .556 | 207 | 51.2 | 43 | 8 | 9 | 2 | 2 | 27 | 0 | 0 | 17 | 16 | 2.79 | 1.01 | |
2000 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 83 | 19.2 | 20 | 0 | 6 | 4 | 1 | 18 | 2 | 0 | 7 | 6 | 2.75 | 1.32 | |
2001 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | .000 | 177 | 41.2 | 41 | 1 | 11 | 3 | 1 | 19 | 0 | 0 | 14 | 8 | 1.73 | 1.25 | |
2002 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 138 | 34.1 | 27 | 1 | 7 | 4 | 3 | 21 | 0 | 0 | 12 | 10 | 2.62 | 0.99 | |
2003 | 61 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 215 | 56.0 | 53 | 4 | 5 | 2 | 0 | 35 | 0 | 0 | 11 | 11 | 1.77 | 1.04 | |
2004 | 42 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 10 | -- | .571 | 186 | 44.0 | 46 | 3 | 10 | 2 | 2 | 17 | 0 | 0 | 12 | 12 | 2.45 | 1.27 | |
2005 | 31 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 8 | .667 | 210 | 47.2 | 64 | 6 | 10 | 0 | 1 | 27 | 0 | 0 | 26 | 25 | 4.72 | 1.55 | |
2006 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 20 | 4.1 | 6 | 1 | 1 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 8.31 | 1.62 | |
通算:14年 | 463 | 44 | 5 | 2 | 2 | 37 | 45 | 24 | 8 | .451 | 2812 | 675.0 | 704 | 50 | 142 | 34 | 19 | 393 | 4 | 0 | 283 | 247 | 3.29 | 1.25 |
- 1992年は1軍出場なし。
5.2. タイトル・記録
5.2.1. タイトル
- 最優秀中継ぎ投手:1回(1998年)
5.2.2. 記録
; 初記録
- 初登板:1993年7月28日、対横浜ベイスターズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:1993年8月5日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、8回裏に江藤智から
- 初勝利:1993年9月28日、対読売ジャイアンツ21回戦(ナゴヤ球場)、7回表に4番手で救援登板、1回無失点
- 初セーブ:1994年7月2日、対横浜ベイスターズ15回戦(横浜スタジアム)、8回裏一死に3番手で救援登板・完了、1回2/3無失点
- 初先発登板・初先発勝利:1995年5月27日、対ヤクルトスワローズ7回戦(千葉マリンスタジアム)、6回1失点
- 初完投勝利・初完封勝利:1996年4月24日、対ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)
- 初ホールド:2005年7月1日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、5回裏に2番手で救援登板、2回無失点
; その他の記録
- 1球勝利投手:1999年7月11日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤドーム)、9回表一死に救援登板・完了、今岡誠を遊ゴロ併殺打 ※史上9人目
- 1球敗戦投手:1995年4月27日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、10回裏に救援登板、グレン・デービスにサヨナラ本塁打 ※史上12人目(13度目)
- 1球勝利・1球敗戦を両方記録 ※史上初
- オールスターゲーム出場:2回(1999年、2003年)
6. 外部リンク
- [https://npb.jp/bis/players/71373885.html 選手情報 - NPB.jp 日本野球機構]
- [https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=ochiai001eij Baseball-Reference.com]
- [https://www.thebaseballcube.com/players/profile.asp?ID=53571 The Baseball Cube]
- [https://www.instagram.com/eiji.88.ochiai/ 落合英二 公式Instagram]