1. プロ入り前とユースキャリア
遠藤保仁は、プロサッカー選手としてデビューする前の幼少期から、兄たちの影響を受けながらサッカー選手としての基盤を築き、ユース世代の日本代表としても国際舞台で活躍した。
1.1. 幼少期と教育
遠藤保仁は鹿児島県鹿児島郡桜島町(現:鹿児島市)に三人兄弟の三男として生まれた。6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・遠藤彰弘に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴り、高校サッカー選手権やワールドカップのビデオを見ては気に入ったプレーを真似していたという。実兄の彰弘も元プロサッカー選手であり、横浜F・マリノスやヴィッセル神戸で活躍し、1996年のアトランタオリンピックでは10番を背負った。遠藤保仁は憧れの選手として「2人の兄」を挙げており、特に長男・拓哉は鹿児島実業高校で前園真聖と同期で背番号10を背負ってプレーし、全国高等学校サッカー選手権大会で2年連続優秀選手に選ばれるなど、サッカー界では有名な「遠藤3兄弟」として知られている。
1.2. 初期フットボールの育成
鹿児島実業高等学校では1年生時の1995年に全国高等学校サッカー選手権大会で優勝を経験した。2年生時の1996年には高円宮杯で優勝、高校選手権では準々決勝でPK戦で敗れたものの大会優秀選手に選出され、U-18日本代表にも選ばれた。また、2年生時には当時鹿児島実業サッカー部を指導していたブラジル人コーチのジョゼ・カルロス・ド・ナシメントの勧めにより、1カ月間のブラジル短期留学を経験し、サンパウロ州のECサンベントの練習に参加した。
1999年にはU-20日本代表としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権に出場し、決勝でスペインに敗れたものの、日本代表の準優勝に貢献した。この代表メンバーは後にJリーグやA代表の中心的存在となる選手が多かったことから「黄金世代」と呼ばれている。同年、シドニーオリンピック予選のU-22日本代表にも選出され、アジア1次予選、最終予選はスターティングメンバーとして戦ったが、2000年のシドニーオリンピック本大会では、予備登録メンバーとして選出されたものの、出場機会はなかった。
2. クラブキャリア
遠藤保仁のプロキャリアは、横浜フリューゲルスでのデビューから始まり、京都パープルサンガを経て、最も長くガンバ大阪で過ごし、数々のタイトルと記録を打ち立てた。その後、ジュビロ磐田への移籍を経験し、そのキャリアに終止符を打った。
2.1. 横浜フリューゲルス
高校卒業後の1998年にJ1リーグの横浜フリューゲルスへ加入した。監督のカルロス・レシャックからその才能を見いだされ、リーグ開幕戦の横浜マリノス戦でいきなりプロデビューを果たした。同年8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調なスタートを切った。また、この年、横浜フリューゲルスは天皇杯で優勝を飾った。しかし、財政難によりクラブはシーズン終了後に解散し、横浜マリノスと合併することになった。
2.2. 京都パープルサンガ
1999年、遠藤は横浜フリューゲルスのチームメイトであった手島和希、大島秀夫、辻本茂輝らとともに京都パープルサンガへ移籍した。当時のチームメイトには三浦知良、パク・チソン、松井大輔などがおり、遠藤はレギュラーに定着し、多くの試合に出場した。しかし、翌2000年にチームは年間15位となり、J2へ降格した。
2.3. ガンバ大阪

2001年、遠藤はJ1リーグのガンバ大阪に完全移籍した。翌2002年に監督に就任した西野朗の下で、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手として長期間にわたり活躍した。移籍3年目の2003年には初めてJリーグベストイレブンに選出され、以降、2012年まで10年連続で選出されるという記録を達成した。
2005年にはJ1リーグでクラブ史上初の優勝を経験し、自身にとっても初めてのJリーグ優勝タイトルとなった。同年、自身初のシーズン2桁得点を記録した。2006年には、二川孝広、橋本英郎、明神智和とで構成された「黄金の中盤」と称される中盤を牽引したが、シーズン終盤にウイルス性肝炎で約1か月の戦線離脱を余儀なくされた。
2007年はリーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ優勝に貢献した。2008年6月末には再びウイルス性感染症により約1か月の離脱を余儀なくされ、北京オリンピックのオーバーエイジ枠での出場を辞退することとなった。しかし、復帰後のAFCチャンピオンズリーグではアシストを連発し、クラブ初のアジア制覇に貢献し、大会MVPを受賞した。同年11月にはイングランド2部のプリマス・アーガイルFCからオファーを受けたが、ガンバ大阪に残留した。同年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップでは、準々決勝のアデレード・ユナイテッドFC戦で決勝ゴールを挙げ、準決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦では敗れたものの、PKでゴールを挙げ、アレックス・ファーガソン監督から「キト(決勝で対戦した南米王者)には遠藤と同じくらいのクオリティーを持った選手はいなかった」と賞賛された。さらに、同年度の天皇杯優勝にも貢献し、自身初となる日本年間最優秀選手賞を受賞した。
2009年11月には、AFCから日本人では5人目となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した。リーグ戦では自身5年ぶりとなる2桁得点を記録し、天皇杯決勝の名古屋グランパス戦では2ゴール1アシストと圧巻の活躍を見せ、ガンバ大阪の天皇杯連覇の立役者となった。この頃から、ポジションを代表と同じボランチに移すようになった。
2010年は代表との過密日程でコンディションが安定せず、チームもリーグ戦で低迷したが、2010 FIFAワールドカップ後の復帰初戦となった浦和レッズ戦では試合終了間際に決勝ゴールを挙げた。2011年には、Jリーグ開幕戦のセレッソ大阪との大阪ダービーでプロ14年目にして初の開幕戦ゴールを決めた。7月には3試合連続得点を記録するなど、優勝争いを続けるチームを牽引したが、8月以降、右内転筋痛によりプレースキックを蹴れない状態が続き、過密日程と強行出場によりシーズン終盤まで完治しなかった。11月26日、J1第33節の仙台戦で、史上7人目となるJ1通算400試合出場を達成した。
2012年、G大阪の副主将に就任した。6月23日のJ1第15節札幌戦で、三浦淳寛の記録を抜く当時のJリーグ歴代1位となる通算16得点目の直接フリーキックでゴールを決めた。7月21日に行われた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、サポーター投票で最多の320,709票を集め、Jリーグ選抜の一員として出場した。この年、ガンバ大阪は極度の不振に陥り、自身は代表との過密日程ながら5年ぶりにリーグ戦全試合に出場したが、京都時代以来のJ2降格となった。
2013年、J2降格となったG大阪に残留し、プロ入り以来初の主将に就任した。自身初のJ2でのプレーとなったこの年、日本代表との並行日程でリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、終始安定したプレーを発揮し、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献した。シーズン終了後のJリーグアウォーズでは、サポーターの投票で選出されるJ2最優秀選手賞にあたる「J2 Most Exciting Player」を受賞した。
2014年、開幕当初は前年の後半戦同様、前線で起用されたが、4月以降は今野泰幸とダブルボランチを形成した。ブラジルW杯による中断前は降格圏の16位に低迷していたが、中断期間の休養を経て後半戦は調子を取り戻し、攻撃の起点となり多くのアシストを記録した。11月のナビスコカップ決勝のサンフレッチェ広島戦では、前半35分で2点のリードを許す苦しい展開となるも、その3分後にパトリックの得点をアシストし、後半の逆転劇を手繰り寄せ、7年ぶりのナビスコカップ優勝を達成した。シーズン終盤はカップ戦も勝ち進んだことで過密日程になったが、リーグ戦はフィールドプレーヤーでは唯一の全試合に出場し、フリーキックとペナルティーキックではそれぞれJ1最多記録に並んだ。J1昇格1年目で9年ぶり2回目のリーグ優勝を果たし、さらにはクラブ史上初の国内三冠を達成した。Jリーグアウォーズでは11度目のベストイレブンと自身初となるJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
2015年4月18日、J1.1st第6節・湘南戦でJ1でのペナルティーキック通算27得点目を決め、福田正博を抜きペナルティーキック得点単独トップに立った。10月17日のJ1.2nd第14節浦和戦でJ歴代最年少でJ1通算500試合出場を達成した。この年もリーグ戦全試合にフル出場。Jリーグチャンピオンシップ準決勝浦和戦では延長後半にフリーキックからパトリックのダメ押しゴールをアシストした。2015年シーズン最後のタイトルがかかった天皇杯決勝・浦和戦では後半にコーナーキックからパトリックの決勝ゴールをアシストし、天皇杯連覇に貢献した。
2016年10月29日、2ndステージ第16節のアルビレックス新潟戦で史上13人目、MF登録では藤田俊哉以来2人目となるJ1通算100得点を達成した。2017年4月に行われたACL・江蘇蘇寧足球倶楽部戦での失点に絡むミスやアデレード・ユナイテッドFC戦でのPK失敗など不調が続き、4月30日に行われた第9節の横浜FM戦ではルーキーイヤー以来19年ぶりのベンチ入りとなったが出場はなかった。しかし、5月5日に行われた第10節の清水戦では途中出場で存在感を発揮し、チームを引き分けへと導いた。8月9日、第21節の広島戦では20年連続で得点を決め、藤田を抜きMF登録で歴代最多得点を記録した。
2018年2月23日、開幕戦の名古屋グランパス戦で得点を挙げ、21年連続ゴールを達成した。11月10日、第32節の湘南ベルマーレ戦ではフィールドプレーヤー史上初となるJ1リーグ通算600試合出場を達成した。また、Jリーグ通算アシストランキングで1位にランクインした(公式記録ではない)。2019年シーズン開幕戦に先発出場し、Jリーグ史上初の20年連続開幕戦先発の単独記録となった。4月20日、第8節の大分トリニータ戦で22年連続ゴールを達成した。8月2日、第21節のヴィッセル神戸戦で日本人選手としては初となる公式戦1000試合出場を達成した。
2020年7月4日、J1リーグ第2節のセレッソ大阪戦でJ1史上最多となる632試合に出場した。同試合後には「選手である以上はスタメンで出たい。常にアピールしていきたい」と語っていたが、このシーズンはJ1リーグ11試合、ルヴァンカップ2試合のみの出場にとどまり、ベンチ外を経験することもあった。
2.4. ジュビロ磐田
2020年10月5日、出場機会を求めてジュビロ磐田へ期限付き移籍した。10月10日、移籍後初の試合となったJ2リーグ第25節の松本山雅FC戦で先発フル出場を果たし、10月25日、第29節のザスパクサツ群馬戦で公式戦5年ぶりに直接フリーキックを決め、移籍後初得点を上げた。加入後、15試合に先発出場し、チームは18試合で僅か3敗と最終的に6位まで立て直し、低迷していたチームを活性化させた。
2021年5月15日、J2リーグ第14節のザスパクサツ群馬戦において決勝点を挙げ、自身が持つJリーグシーズン連続ゴール記録を24年に更新した。これは1998年のプロデビュー以来毎シーズンゴールを記録したものであり、ゴールを記録したシーズン数も歴代1位の24年となり、同2位の三浦知良の23年を上回った。シーズンを通して主力として活躍し、チームのJ1昇格とJ2優勝に貢献した。12月27日、2022年シーズンより磐田へ完全移籍することが発表された。
2022年3月12日、移籍後初の古巣ガンバ大阪との対戦では、ガンバ大阪に在籍経験のあるチームメイトの鈴木雄斗、大森晃太郎との連携で先制点を演出した。10月29日に行われたガンバ大阪との試合では、ガンバ大阪のホームスタジアムであるパナソニックスタジアム吹田のピッチに移籍後初めて立った。チームはガンバ大阪に敗れJ2降格が決定し、遠藤は元ホームスタジアムで降格を経験することになった。遠藤はその後1年プロを続けた後に引退したため、結果的にこれが現役最後のパナソニックスタジアムでのゲームとなった。シーズンを通してレギュラーとして出場を続けていたが、自身はキャリア初のシーズン無得点に終わり、チームも僅か1年でJ2降格を喫した。
2023年はシーズンを通して中盤まではレギュラーとして多く試合に出場していたが、シーズン中盤以降は先発を外れ、ベンチスタートやベンチ外になることも多くなった。しかし、チームは最終節で栃木SCに勝利し、自動昇格を争うライバルの2位清水エスパルスを抜いてリーグ戦2位に浮上し、1年でのJ1復帰を決めた。
2024年1月9日、2023シーズンをもっての現役引退を発表した。遠藤の引退により、横浜フリューゲルスに在籍経験のある選手が全員引退した。
3. 代表キャリア
遠藤保仁は、ユース年代から日本代表に選出され、各年代別代表で主要な国際大会に出場した。A代表では歴代最多出場記録を樹立し、数々の国際大会で日本代表の躍進に貢献した。
3.1. ユース年代代表
1999年、U-20日本代表としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権に出場し、日本代表の準優勝に貢献した。この代表メンバーは後にJリーグやA代表の中心的存在となる選手が多かったことから「黄金世代」と呼ばれている。同年、シドニーオリンピック予選のU-22日本代表にも選出され、アジア1次予選、最終予選はスターティングメンバーとして戦ったが、2000年のシドニーオリンピック本大会では、予備登録メンバーとして選出されたものの、出場機会はなかった。
3.2. A代表デビューと初期
2002年、当時の日本代表監督ジーコによってフル代表に初招集され、11月20日のキリンチャレンジカップ・アルゼンチン戦で初出場を果たし、以降、代表レギュラーの座を勝ち取った。翌2003年には、FIFAコンフェデレーションズカップ2003に全試合スタメン出場した。同年8月20日のナイジェリア戦で待望の代表初ゴールを挙げた。当時のボランチは同期の小野伸二や稲本潤一、中田浩二といった海外組を始め、同じ国内組の福西崇史などがいたため激戦区であったが、2004年のアジアカップにレギュラーとして出場し、日本代表の優勝に貢献した。翌年、中田英寿のボランチへのコンバート志願の影響もあり、再び控えに回ることになり、2006年のドイツワールドカップではフィールドプレーヤー(GK以外の選手)で、唯一ピッチに立つことがなかった。
3.3. 主要国際大会出場
ドイツワールドカップ後、新監督イビチャ・オシムからの指導でプレースタイルに磨きをかけ、代表の中心的存在に登り詰め、ドイツワールドカップを最後に現役を引退した中田英寿の背番号7を引き継いだ。オシムジャパンではボランチではなく、オフェンシブハーフとして起用されたのが特徴である(ガンバ大阪では同様の起用法は頻繁に見られるが、日本代表では主にボランチで起用されていた)。
2007年12月、オシムが病に倒れて退任し、急遽監督に就任した岡田武史は、当初、オシムのチームを引き継ぐという立場であったため、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用が多かったが、岡田が「俺のやり方でやる」と宣言した2008年の南アフリカワールドカップアジア3次予選から、長谷部誠とダブルボランチを形成した。守備陣と攻撃陣のパイプ役を担って、南アフリカワールドカップ予選突破に貢献し、岡田監督からは「チームの心臓」と称された。その後も、代表でのレギュラーの座を不動のものにしていたが、ワールドカップ直前にリーグ戦やACL、さらには日本代表戦など、連戦による過密日程をこなすことで大きくコンディションを落とし、2010年2月の東アジア選手権や親善試合のセルビア戦では低調なパフォーマンスに終わり、クラブに戻っても数試合は休養を取らざるを得なかったほどに疲労に苛まれていた。

2010年5月10日に南アフリカワールドカップのメンバーに選出され、6月の本大会ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全試合に司令塔としてスタメン出場を果たした。6月25日のグループリーグ第3戦のデンマーク戦では直接フリーキックを決めてワールドカップ初得点を挙げ、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、日本代表初のアウェーでのベスト16入りに大きく貢献した。このフリーキックについて遠藤本人は、「(本田圭佑が蹴ることを希望していたが)圭佑は1本目決めてたんで、俺に蹴らせろみたいな感じ」で自身が蹴ることにしたと語っている。なお、本大会は公式ボールが無回転シュート向けの特性を持ち、横回転を掛け難い"ジャブラニ"が採用されたため、多くのカーブ系のキックを得意とする選手が悪戦苦闘する事態になった。そんな中、遠藤はジャブラニを自在に操り、前述のフリーキックだけでなく起点としてもカメルーン戦の本田のゴール、デンマーク戦の岡崎のゴールを演出した。岡田監督が「このチームの心臓」と評したとおりの活躍を見せ期待に応えた。ワールドカップで1試合2本のフリーキック成功は44年ぶりである。
南アフリカワールドカップ後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからもレギュラーとして起用され、2011年1月に開催されたアジアカップでは全6試合にスタメン出場を果たし、チーム最年長、チーム最多出場選手として若いチームを牽引した。中盤の底から決定的なパスを何本も供給し、ゲームをコントロールし続けた大車輪の活躍で、日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に大きく貢献した。大会MVPに輝いた本田圭佑は、MVPについて「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と遠藤を讃えた。2011年3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、先制点となるフリーキックを決めた。
2014年5月、ブラジルワールドカップ代表に選出され、日本代表では唯一ドイツ大会から3大会連続選出となった。本大会では、クラブで調子を落としていたことから直前でレギュラーから外され、第1戦コートジボワール戦、第2戦ギリシャ戦ともに長谷部誠に代わり後半から出場した。第3戦コロンビア戦は出場機会がなく、チームも敗れグループリーグで敗退した。
ブラジルワールドカップ以降、ハビエル・アギーレ体制となってからは代表から外れていたが、11月に代表復帰した。同年12月、AFCアジアカップ2015の代表メンバーに選出され、日本代表としては初のアジアカップ4大会連続選出となった。グループリーグ第1戦パレスチナ戦では先発出場で先制ゴールを決め、三浦知良が持っていたアジアカップの日本代表最年長ゴール記録(29歳9カ月)を34歳11カ月に更新し、さらにアジアカップの出場数も通算最多となった。続く第2戦イラク戦にも先発出場し、国際Aマッチ150試合出場を達成した。しかし、チームは準々決勝でアラブ首長国連邦にPK戦の末に敗れ、敗退した。2015年1月23日、AFCアジアカップ2015の敗退後、遠藤保仁は13年間の日本代表キャリアに幕を下ろし、合計152試合出場15得点の記録を残した。
ヴァイッド・ハリルホジッチ体制後からは代表に選出されておらず、ハリルホジッチ監督はその理由を最初の代表発表の場で「遠藤は日本のレベルを上げてくれた。でもリストには入ってない。私はワールドカップロシア大会の準備のために日本に来ている。メンバーは、今までのリストを中心に、さらに自分の考えを加えて作成している。遠藤はこれまで、日本のために貢献してくれた。敬意を表したい」と述べ、ロシアワールドカップ時の年齢を配慮し選出しないことを宣言している。2013年9月6日に行われたグアテマラ戦で遠藤がフリーキックで決めた得点以降、日本代表は直接フリーキックでの得点は原口元気が2018年11月に決めるまでの約5年間なかった。
3.4. 代表記録と節目
2010年10月12日、親善試合の韓国戦で、井原正巳、川口能活、中澤佑二に次ぐ4人目、ゴールキーパーとディフェンダー以外のポジションの選手では初となるフル代表100試合出場を達成した。続く10月16日のブラジル戦にも出場し、最多出場記録を13年ぶりに更新した。この試合での出場は彼の123試合目となり、井原正巳の122試合を上回った。さらに翌2013年9月10日のガーナ戦に出場したことで、それまで東アジア諸国の国際Aマッチ最多出場記録を持っていた韓国の洪明甫の136試合に並んだ。10月11日のセルビアとの欧州遠征第1戦に出場して137試合目となり、東アジア最多出場記録を更新した。2015年1月16日のAFCアジアカップ2015のイラク戦では、国際Aマッチ150試合出場を達成した。最終的に、日本代表として152試合に出場し、15得点を記録した。
4. プレースタイル
遠藤保仁のプレースタイルは、その広い視野と正確なパス、そして独特なペナルティーキック技術に特徴付けられ、多くの監督や専門家から高く評価された。
4.1. 特徴と技術
遠藤は主にボランチとしてプレーし、ボールキープが巧みでゲームのタメを作ることができた。正確なパスを散らすゲームメーカーであり、特に短距離のパスは相手の重心と反対の方向へ出すことでカットされにくく、日本でも屈指の精度を誇った。中・長距離のパスも非常に高い精度を持っていた。スピードやフィジカルに頼ったプレーやヘディングは得意としていなかったが、プレースキックの精度が高く、直接得点したりアシストする場面が頻繁に見られた。直接フリーキックはプロ入り初期はそれほど蹴っていなかったが、日本代表に選出された後、監督のジーコからプレースキッカーの役割を担うよう提言を受け、以降はクラブや代表でもプレースキックを任されることが多くなった。強い回転系のシュートを得意としており、ペナルティーエリアやや外くらいからゴールマウスを的確にとらえられる高精度のミドルシュートを持っていた。また、テクニックタイプではあるが、ボディーコンタクトも強かった。
元々遠藤は運動量がそれほど多くなく、中盤の底からゲームメイクをするバランサータイプの選手であったが、2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムから「チームのために走りなさい」と指導され、以降は自らドリブル突破やゴール前でのワンツーからの飛び出しなど仕掛ける動きが目立つようになり、攻撃的な役割を担う部分が多くなった。オシムの指導によって豊富な運動量も遠藤の武器となり、南アフリカワールドカップで計測された4試合389分での走行距離は47.02 kmを記録し、同大会に出場した日本代表選手の中で最長であった。また、状況判断力にも長け、パスを供給する位置やタイミングを自在に把握する広い視野と戦術眼も併せ持っていた。何事にも動じない落ち着いた性格から、どんな状況でも常に慌てることなくプレーできるなど精神面も強かった。
4.2. 「コロコロPK」
遠藤はPKを蹴る際、しばしば遅めの球速で蹴る場合があった。ボールがピッチ上をコロコロと転がりながらゴールマウスに向かう様子からメディアやファンからは「コロコロPK」と呼ばれた。助走時間を長く取ってゆっくりとボールに近づき、ボールは一切見ず相手ゴールキーパーの動きを最後まで見ることで相手の重心の動きを見極め、ゴールキーパーが動いた方向とは逆方向にインサイドキックでボールを転がすように蹴った。もしゴールキーパーが動かなかった場合はサイドに強く蹴った。近年では詳細が知れ渡ってしまったため、上記のキックをしないことが多かった。リーグ戦でのPK成功率は9割以上であり、J1での通算PK得点(30得点、2015年シーズン終了時点)はJ1最多記録である。2008年のFIFAクラブワールドカップ準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では、コロコロPKで元オランダ代表のエトヴィン・ファン・デル・サールからゴールを奪い、2010年のFIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でも、1人目を任されて成功させるなど(ただし、この時はジャブラニがコロコロPKに合わないという理由でサイドに鋭く蹴った)、代表での試合を含め国際大会においても成功率は高かった。
4.3. 監督・専門家の評価
イビチャ・オシムからは「常に自分をコントロールし、チームメイトや対戦相手もコントロールする。その知性はチームに大きなプラスアルファをもたらす。彼がいれば監督は必要ない」と高い評価を得ていた。遠藤保仁はクラブ・日本代表双方において必要不可欠な存在とされ、様々な見地から「遠藤保仁不在」が不安視されていた。日本代表における遠藤の後継者候補に挙げられていた選手には柴崎岳、扇原貴宏、家長昭博、柏木陽介、高橋秀人がいたが、いずれも候補止まりであり、ポスト遠藤の評価を得るまでには至っていない。2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた。
5. 現役引退後のキャリア
2024年1月9日に現役引退を発表すると同時に、ガンバ大阪のトップチームコーチ就任が発表された。
6. 私生活とパブリックイメージ
遠藤保仁はピッチ上の冷静なプレーとは対照的に、私生活ではマイペースでおっとりとした一面を持つ。また、メディア出演やコラボレーションを通じて、その親しみやすいキャラクターが広く知られている。
6.1. 家族と趣味
遠藤保仁は、プロサッカー選手であった2人の兄、長男・拓哉と次男・遠藤彰弘に影響を受け、幼少期からサッカーに打ち込んだ。家族としては、高校時代の同級生である夫人との間に4人の子供(娘2人、息子2人)がいる。2010年の南アフリカワールドカップでは、夫人の家族と長男が帯同し、長男が「ゴール決めてね」と声をかけた後、遠藤は本当にデンマーク戦でゴールを決めたというエピソードがある。
一番好きな食べ物はレバ刺しである。趣味はゴルフであり、時間があればもっとのめり込んでいたかもしれないと語るほど熱中していた。ゴルフの他には野球にも興味を持つなど、スポーツ全般に強い関心があった。サッカー選手になっていなかったら、漁師になっていたかもしれないとインタビューで答えるなど、昔は釣りをするために海に出かけることも多かったという。
性格はマイペースでおっとりしているところがあり、本人曰くのんびりしすぎる時もあるのでそこが自分の弱点かもしれないと述べている。鹿児島実業高校時代の恩師・松澤隆司監督によると「運動能力が高く、持久走では1番になれる力がありながら、いつも3~4番」とあまり目立とうとしないタイプであった。親友の中村俊輔いわく「プレッシャーをかけてもゆっくり」とのこと。本人は「緊張はしないし、慌てたりすることもない。ストレスは感じない方。人の話をあまり聞いてないところが欠点」と自己分析している。また、趣味は競馬でもあり、2008年スプリンターズステークス優勝馬のスリープレスナイトの一口馬主であった。騎手の福永祐一と交友があった。
2010年の南アフリカワールドカップでの活躍で、セリエAのジェノアが獲得に乗り出したと地元メディアで報じられたが、本人は「レベルの高いところでやりたい気持ちはあるけど、イタリアの(守備的な)スタイルは嫌い」と苦笑いしていた。
6.2. メディア出演とコラボレーション
遠藤保仁は、その容姿がフジテレビ『ポンキッキーズ』のマスコット「ガチャピン」と瓜二つであるとされ、スタジアムではガチャピンのイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多数見られた。2005年9月24日放送の「ポンキッキーズ」に出演した際、本物のガチャピンと共演し、「僕に似てるって言われるでしょ」との質問に対し、「昔は良く似てるって言われてました」と答えた。2010年には所属するガンバ大阪やフジテレビKIDSで、遠藤とガチャピンのコラボグッズが発売された。同年9月8日にはガンバのホーム万博記念競技場へガチャピンが来場し、2011年9月25日にはガンバの練習場に訪れたガチャピンにサッカーを教えた。2011年12月4日に万博記念公園で行われたファン感謝祭では、自らガチャピンの着ぐるみを着て登場し、「本物です」「(似ているといわれて)嬉しいです」と答えた。
2011年3月6日にはアメーバブログに遠藤を名乗る偽ブログが掲載される騒動が起こったが、8日にガンバ側が遠藤本人のブログではないことを公表し、同日中にブログは閉鎖された。2014年1月15日、アメーバで公式ブログが開始され、2016年4月からはLINEブログに移行している。
2012年4月13日放送の『僕らの音楽』では、大のサッカーファンである歌手の森山直太朗と対談した。また、2012年4月14日に公開された劇場版アニメ『名探偵コナン 11人目のストライカー』では声優に初挑戦し、主人公の江戸川コナンにフリーキックの心得を伝授する役で三浦知良、楢﨑正剛、中村憲剛、今野泰幸とともに出演した。遠藤はコナンファンであり、遠藤の家族もコナンファンだと語った。
その他、アンブロ、ACジャパン(「ルールブックにはないルール」近畿圏のみ)、スカパー!、でん、ウィズガス住宅(鹿児島)、対話式進学塾 1対1ネッツ、サイバード『バーコードフットボーラー』、西川産業『Air』、LION『ソフラン』キャンペーンキャラクター、明治安田生命『Number Extra』などのCMや広告活動にも出演した。
7. 業績と栄誉
遠藤保仁は、その輝かしいキャリアを通じて、所属クラブと日本代表の両方で数多くのタイトルを獲得し、個人としても多くの栄誉に輝いた。
7.1. クラブタイトル
- 鹿児島実業高校**
- 全国高校選手権: 1回(1995年)
- 高円宮杯全日本ユース選手権: 1回(1996年)
- 横浜フリューゲルス**
- 天皇杯: 1回(1998年)
- ガンバ大阪**
- Jリーグ ディビジョン1: 2回(2005年、2014年)
- Jリーグ ディビジョン2: 1回(2013年)
- ナビスコカップ: 2回(2007年、2014年)
- 天皇杯: 4回(2008年、2009年、2014年、2015年)
- ゼロックススーパーカップ: 2回(2007年、2015年)
- AFCチャンピオンズリーグ: 1回(2008年)
- パンパシフィックチャンピオンシップ: 1回(2008年)
- FIFAクラブワールドカップ3位: 2008
- ジュビロ磐田**
- J2リーグ: 1回(2021年)
7.2. 代表タイトル
- AFCアジアカップ: 2回(2004年、2011年)
- アフリカ・アジアチャレンジカップ: 1回(2007年)
- キリンカップサッカー: 4回(2004年、2007年、2008年、2009年、2011年)
7.3. 個人賞
- アジア年間最優秀選手: 2009
- AFCチャンピオンズリーグ最優秀選手: 2008
- JリーグMVP: 2014
- 日本年間最優秀選手賞: 2回(2008年、2014年)
- Jリーグベストイレブン: 12回(2003年 - 2012年、2014年、2015年) ※歴代最多
- J2 Most Exciting Player: 1回(2013年)
- Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年)
- J30ベストアウォーズ ベストイレブン(2023年)
- J30ベストアウォーズ MVP(2023年)
- Jリーグ優秀選手賞: 12回(2003年 - 2012年、2014年 - 2015年)
7.4. その他の表彰
- 週刊サッカーマガジン 年間最優秀選手賞(クリスタルアウォード賞): 1回(2008年)
- 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門: 1回(2008年)
- テレビ朝日 第43回ビッグスポーツ大賞「日本サッカー応援宣言!やべっちF.C.賞 (サッカープロジェクト賞)」: 1回(2008年)
- 関西スポーツ賞 特別賞: 1回(2009年)
- 感動大阪大賞(知事賞詞): 1回(2010年)
- 関西ベストファーザー賞(スポーツ部門): 1回(2012年)
- 第71回南日本文化賞特別賞: 1回(2020年)
8. キャリア統計
遠藤保仁のプロサッカー選手としてのキャリアは、クラブと国家代表の両方で膨大な出場記録と得点数を誇る。
8.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | AFCチャンピオンズリーグ | その他 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
鹿児島実業高校 | 1997 | - | 1 | 0 | - | - | - | 1 | 0 | ||||
横浜フリューゲルス | 1998 | 16 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | - | - | 20 | 1 | ||
京都パープルサンガ | 1999 | 24 | 4 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | - | 27 | 4 | ||
2000 | 29 | 5 | 0 | 0 | 6 | 1 | - | - | 35 | 6 | |||
合計 | 53 | 9 | 1 | 0 | 8 | 1 | - | - | 62 | 10 | |||
ガンバ大阪 | 2001 | 29 | 4 | 3 | 1 | 4 | 0 | - | - | 36 | 5 | ||
2002 | 30 | 5 | 1 | 0 | 8 | 1 | - | - | 39 | 6 | |||
2003 | 30 | 4 | 2 | 0 | 6 | 0 | - | - | 38 | 4 | |||
2004 | 29 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | - | - | 32 | 9 | |||
2005 | 33 | 10 | 2 | 0 | 4 | 0 | - | - | 39 | 10 | |||
2006 | 25 | 9 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 3 | 4 | 1 | 38 | 14 | |
2007 | 34 | 8 | 4 | 0 | 8 | 1 | - | 1 | 0 | 47 | 9 | ||
2008 | 27 | 6 | 3 | 0 | 1 | 0 | 10 | 3 | 3 | 2 | 44 | 11 | |
2009 | 32 | 10 | 4 | 3 | 2 | 0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 45 | 14 | |
2010 | 30 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 36 | 5 | |
2011 | 33 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | - | 40 | 5 | ||
2012 | 34 | 5 | 4 | 3 | 2 | 0 | 4 | 1 | - | 44 | 9 | ||
2013 | 33 | 5 | 0 | 0 | - | - | - | 33 | 5 | ||||
2014 | 34 | 6 | 5 | 0 | 6 | 0 | - | - | 45 | 6 | |||
2015 | 34 | 5 | 4 | 0 | 3 | 1 | 12 | 0 | 5 | 0 | 58 | 6 | |
2016 | 34 | 2 | 2 | 0 | 3 | 1 | 5 | 1 | 1 | 0 | 45 | 4 | |
2017 | 31 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 7 | 0 | - | 43 | 1 | ||
2018 | 34 | 1 | 1 | 0 | 6 | 0 | - | - | 41 | 1 | |||
2019 | 28 | 1 | 1 | 0 | 5 | 0 | - | - | 34 | 1 | |||
2020 | 11 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | - | - | 13 | 0 | |||
合計 | 605 | 98 | 46 | 10 | 64 | 4 | 59 | 10 | 16 | 3 | 790 | 125 | |
ジュビロ磐田 (期限付き移籍) | 2020 | 15 | 2 | - | - | - | - | 15 | 2 | ||||
2021 | 35 | 3 | - | - | - | - | 35 | 3 | |||||
合計 | 50 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 50 | 5 | |
ジュビロ磐田 | 2022 | 31 | 0 | - | 1 | 0 | - | - | 32 | 0 | |||
2023 | 20 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | - | - | 23 | 0 | |||
キャリア総通算 | 775 | 113 | 50 | 10 | 78 | 5 | 59 | 10 | 16 | 3 | 978 | 141 |
Jリーグでの主な記録:
- Jリーグ初出場: 1998年3月21日 J1.1st第1節 vs横浜マリノス(日産スタジアム)
- Jリーグ初得点: 1998年8月1日 J1.1st第15節 vs鹿島アントラーズ(日産スタジアム)
- Jリーグ通算出場数: 672試合(Jリーグ歴代最多)
- J1リーグ通算出場数: 632試合(J1リーグ歴代最多)
- J1リーグ通算500試合出場: 2015年10月17日 J1.2nd第14節 vs浦和レッズ(万博記念競技場) ※Jリーグ歴代最年少
- J1リーグ通算600試合出場: 2018年11月10日 J1第32節 vs湘南ベルマーレ(パナソニックスタジアム吹田) ※フィールドプレーヤー史上初
- Jリーグ通算1000試合出場: 2019年8月2日 J1第21節 vsヴィッセル神戸 ※日本人選手として初
- J1リーグ通算得点数: 103得点
- J1リーグ通算100得点: 2016年10月26日 J1.2nd第16節 vsアルビレックス新潟(市立吹田サッカースタジアム) ※史上13人目、MF登録では2人目
- J1リーグ通算PK得点: 30得点(J1最多記録)
- Jリーグシーズン連続ゴール記録: 24年(歴代1位)
- Jリーグ連続開幕戦先発出場: 20年(Jリーグ史上初)
8.2. 代表統計
年度 | 出場 | 得点 |
---|---|---|
2002 | 1 | 0 |
2003 | 11 | 1 |
2004 | 16 | 2 |
2005 | 8 | 0 |
2006 | 8 | 0 |
2007 | 13 | 1 |
2008 | 16 | 3 |
2009 | 12 | 0 |
2010 | 15 | 2 |
2011 | 13 | 0 |
2012 | 11 | 1 |
2013 | 16 | 2 |
2014 | 8 | 2 |
2015 | 4 | 1 |
通算 | 152 | 15 |
国際Aマッチでの主な記録:
- 国際Aマッチ初出場: 2002年11月20日 キリンチャレンジカップ vsアルゼンチン代表(埼玉スタジアム2002)
- 国際Aマッチ初得点: 2003年8月20日 キリンチャレンジカップ vsナイジェリア代表(国立競技場)
- 国際Aマッチ50試合出場: 2007年7月16日 AFCアジアカップ2007 vsベトナム代表(ミーディン国立競技場)
- 国際Aマッチ100試合出場: 2010年10月12日 国際親善試合 vs韓国代表(ソウルワールドカップ競技場)
- 国際Aマッチ最多出場記録: 123試合(2012年10月16日 vsブラジル代表戦で樹立、歴代最多)
- 東アジア諸国A代表最多出場記録: 137試合(2013年10月11日 vsセルビア代表戦で樹立、歴代最多)
- AFCアジアカップ出場: 4大会連続出場(日本代表初)
- AFCアジアカップ日本代表最年長ゴール記録: 34歳11カ月(2015年1月12日 vsパレスチナ代表戦で樹立)
- 国際Aマッチ150試合出場: 2015年1月16日 AFCアジアカップ2015 vsイラク代表(ブリスベン・スタジアム)
国際Aマッチゴール一覧:
# | 開催年月日 | 開催地 | スタジアム | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2003年8月20日 | 東京 | 国立霞ヶ丘競技場 | ナイジェリア | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2003 |
2. | 2004年2月7日 | 鹿嶋 | 茨城県立カシマサッカースタジアム | マレーシア | ○4-0 | キリンチャレンジカップ2004 |
3. | 2004年7月7日 | 横浜 | 横浜国際総合競技場 | セルビア・モンテネグロ | ○1-0 | キリンカップサッカー2004 |
4. | 2007年7月16日 | ハノイ | ミーディン国立競技場 | ベトナム | ○4-1 | AFCアジアカップ2007 |
5. | 2008年2月6日 | 埼玉 | 埼玉スタジアム2002 | タイ | ○4-1 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 |
6. | 2008年6月7日 | マスカット | ロイヤル・オマーン・ポリス・スタジアム | オマーン | △1-1 | |
7. | 2008年9月6日 | マナーマ | バーレーン・ナショナル・スタジアム | バーレーン | ○3-2 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア4次予選 |
8. | 2010年2月14日 | 東京 | 国立霞ヶ丘競技場 | 韓国 | ●1-3 | 東アジアサッカー選手権2010 |
9. | 2010年6月24日 | ルステンブルク | ロイヤル・バフォケン・スタジアム | デンマーク | ○3-1 | 2010 FIFAワールドカップ |
10. | 2012年8月15日 | 札幌 | 札幌ドーム | ベネズエラ | △1-1 | キリンチャレンジカップ2012 |
11. | 2013年9月6日 | 大阪 | 大阪長居スタジアム | グアテマラ | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2013 |
12. | 2013年9月10日 | 横浜 | 横浜国際総合競技場 | ガーナ | ○3-1 | |
13. | 2014年6月2日 | タンパ | レイモンド・ジェームス・スタジアム | コスタリカ | ○3-1 | 国際親善試合 |
14. | 2014年11月14日 | 豊田 | 豊田スタジアム | ホンジュラス | ○6-0 | キリンチャレンジカップ2014 |
15. | 2015年1月12日 | ニューカッスル | ニューカッスル・スタジアム | パレスチナ | ○4-0 | AFCアジアカップ2015 |
出場大会一覧:
- U-16日本代表
- U-18日本代表
- U-19日本代表
- 1998年 - アジアユース(準優勝)
- U-20日本代表
- 1999年 - ワールドユース(準優勝)
- U-23日本代表
- 1999年 - シドニーオリンピック最終予選
- 2000年 - シドニーオリンピック予備登録メンバー
- 日本代表
- 2003年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2003(グループリーグ敗退)
- 2003年 - 東アジアサッカー選手権2003(準優勝)
- 2004年 - AFCアジアカップ2004(優勝)
- 2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005(グループリーグ敗退)
- 2005年 - 東アジアサッカー選手権2005(準優勝)
- 2006年 - 2006 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退)
- 2007年 - AFCアジアカップ2007(4位)
- 2008年 - 東アジアサッカー選手権2008(準優勝)
- 2010年 - 東アジアサッカー選手権2010(3位)
- 2010年 - 2010 FIFAワールドカップ(ベスト16)
- 2011年 - AFCアジアカップ2011(優勝)
- 2013年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2013(グループリーグ敗退)
- 2014年 - 2014 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退)
- 2015年 - AFCアジアカップ2015(ベスト8)
9. 遺産と影響
遠藤保仁は、その長きにわたるキャリアと数々の功績によって、日本サッカーに多大な遺産と影響を残した。彼はガンバ大阪と日本代表の「心臓」として、チームの戦術の中核を担い、その卓越したパスワークとゲームメイク能力は、多くの後進選手にとって手本となった。特に「ポスト遠藤」論が長年議論されたが、彼のような広範な視野、正確な技術、そして冷静な判断力を兼ね備えた選手は現れず、その存在の大きさを物語っている。彼は国内リーグでのプレーにこだわりながらも、国際舞台でその能力を遺憾なく発揮し、日本のサッカーが世界に通用することを証明した。遠藤のプロアスリートとしての姿勢や、ピッチ外での親しみやすいキャラクターも、ファンや若手選手に大きなインスピレーションを与え続けている。
10. 関連項目
- 横浜フリューゲルスの選手一覧
- 京都サンガF.C.の選手一覧
- ガンバ大阪の選手一覧
- ジュビロ磐田の選手一覧
- サッカー日本代表出場選手
- 黄金世代
- Aマッチ100試合以上出場したサッカー選手一覧
- 公式戦出場数1000試合以上のサッカー選手一覧