1. Overview
大村三郎(おおむら さぶろう、登録名:サブロー)は、岡山県出身の元プロ野球選手(外野手)であり、現在は千葉ロッテマリーンズの二軍監督を務めている。1994年にPL学園高等学校からドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団し、登録名を「サブロー」とした。プロ生活22年間で、千葉ロッテマリーンズと読売ジャイアンツに在籍。特に千葉ロッテでは、2005年と2010年の2度の日本一に大きく貢献し、その勝負強い打撃と堅実な守備で「つなぎの4番」としてチームを支えた。現役時代にはゴールデングラブ賞を2度受賞するなど、攻守にわたる活躍を見せた。引退後は、球団のスペシャルアシスタントや他球団でのファームディレクター、スカウティングアドバイザーを経て、2023年からは古巣千葉ロッテの二軍監督として若手育成に尽力している。ファンからの人望も厚く、その野球人生は多くの人々に影響を与えている。
2. Personal Information and Background
大村三郎は1976年6月1日に岡山県岡山市北区で生まれた。妻はタレントの中嶋ミチヨで、2000年8月に結婚している。
子供の頃は阪神タイガースのファンであったことを自身のブログで明かしている。少年野球時代には、かつて「黒い霧事件」でプロ野球界を永久追放された森安敏明の指導を受けていた経験を持つ。
3. Amateur Career
大村三郎は岡山市立岡輝中学校(岡山リトルシニア)を卒業後、PL学園高等学校へ進学し、野球部で活躍した。
1994年の第66回選抜高等学校野球大会では、「1番・中堅手」として出場し、チームのベスト4進出に貢献した。PL学園では、2学年上に今岡真訪、1学年上に松井稼頭央、同期に宇高伸次、1学年下に福留孝介、2学年下に前川勝彦といった後のプロ野球選手が多数在籍していた。
同年に行われたドラフト会議において、千葉ロッテマリーンズから1位指名を受け入団した。ロッテにおいて打者が1位指名されるのは、袴田英利(捕手)以来17年ぶりのことであった。入団時の背番号は本名の「三郎」にちなみ、語呂合わせで36に決まった。また、登録名については、同年にイチローが本名の「鈴木一朗」から登録名を変更して才能を開花させたことに倣い、本人の強い希望により「サブロー」とすることが決定した。
4. Professional Career
大村三郎はプロ生活22年間で、主に千葉ロッテマリーンズ、そして短期間読売ジャイアンツに在籍した。
4.1. Chiba Lotte Marines (1995-2011)

プロ入り後の大村は、初期キャリアでポジション変更や背番号変更を経験しながら、やがてチームの主力選手へと成長し、2度の日本一に貢献した。
1995年、プロ1年目にして6月に一軍初昇格を果たし、左翼手を務めていたピート・インカビリアの不振もあってスタメンの機会を与えられた。高卒1年目ながらシーズンを通して28試合に出場し、3つの盗塁を記録した。1996年は当時のロッテ外野陣の選手層が厚かったため、一軍での出場機会は9試合に留まった。1997年からは背番号2を与えられ、プロ入り最多となる33試合に出場したが、打率.179と低調に終わった。1998年はわずか2試合の出場に留まり、プロ入り初のシーズン無安打に終わった。1999年には一軍に定着し、初めて100試合以上に出場してプロ入り後当時の最高成績を残した。
2000年5月18日の対福岡ダイエーホークス戦では、2回裏に松本輝からプロ入り初本塁打となる左越3ランを放った。同年はこの本塁打を含む5本塁打を記録するなど打撃面で成長を見せ、後半戦は右翼手のレギュラーに定着した。出場試合数こそ前年を下回ったが、打席数は大幅に増え、打率.270を記録した。
2001年には大塚明の成長とデリック・メイの獲得により外野手層が厚くなったため、キャンプから内野手へコンバートされた。3月24日の西武ドームでの開幕戦を「9番・二塁手」で先発出場したが、自身の不振と二塁の酒井忠晴の好調が重なり、5月下旬からは再び外野で出場するようになった。
2002年から登録上のポジションが外野手に戻った。シーズンを通して「2番・中堅手」のレギュラーとして活躍し、自身初の規定打席に到達、自己最多の131試合に出場した。この年、オールスターゲームに初出場を果たし、打率.286、9本塁打、13盗塁を記録した。
2003年は「1番・右翼手」で開幕先発出場したが、故障のため80試合の出場に留まった。しかし、自身初の2桁本塁打(10本)を記録した。読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄は、大村の打撃について「これほど上半身を上手く使う打者は見たことがない」と評した。
2004年には、9シーズンぶりにロッテの監督に復帰したボビー・バレンタインが背番号2を希望したため、球団側がそれを了承し、背番号を3に変更した。この年は前年を上回る89試合に出場したが、打率.256、5本塁打と成績を落とした。
2005年8月13日のオリックス・バファローズ戦でプロ入り初の4番に抜擢され、2試合連続本塁打を放つなど、チームの31年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。シーズンを通して107試合に出場し、規定打席には届かなかったものの、打率.313、14本塁打、50打点といずれも自己最高の成績を残した。この活躍から、マリンガン打線の「まったく新しいタイプの4番打者、つなぎの4番」と評された。
2006年8月15日付でFA権を取得した。中日ドラゴンズが獲得に興味を示していたが、この年は前年を上回る115試合に出場したものの、打率.218と打撃不振に陥ったこともあり、FA権を行使せず2年契約でチームに残留した。
2007年は開幕こそ出遅れたものの、5月から「4番・右翼手」に定着した。リーグ7位の得点圏打率.310を記録し、チーム2位かつ自己最高の68打点を挙げた。6月6日の対巨人戦(千葉マリン)では、連続打数安打記録を9とし、球団記録である堀幸一の8を塗り替えた(R・J・レイノルズと高橋由伸の11に次ぐ史上第3位)。クライマックスシリーズでは第1ステージのMVPを獲得した。シーズンオフには北京五輪出場を目指す野球日本代表の最終候補に選出され、台湾で開催された北京五輪予選を兼ねたアジア選手権に出場した。打順は8番・9番ながら、韓国戦で同点適時打を放ち、台湾戦では同点のスクイズを決めるなど主軸級の活躍を見せた。また、全3試合において当時はあまり守らなかった左翼を堅実に守り、日本の北京五輪出場権獲得に貢献した。なお、この大会には本名の「大村三郎」で出場していた。
2008年は打率.289と好成績だったものの、春先に左太もも痛で戦線離脱したこともあり、105試合の出場に留まり、前年よりも打点が10点以上も減ってしまい、規定打席にも届かなかった。オフにはメジャーリーグ移籍も考慮に入れFA権を行使するのではないかと報道されたが、結局FA権を行使せず残留した。
2009年は開幕を一軍で迎え、シーズンを通して一軍に帯同した。チームが低迷する中、好調をキープし、2002年以来自身二度目のオールスターゲーム出場を果たした。前年を上回る119試合に出場し、規定打席に到達した年としてはキャリア唯一の3割となる自己最高の打率.314(リーグ3位)、自身初のシーズン20本塁打(22本)、自己最多タイとなる68打点を記録した。その一方で、守備走塁での衰えが顕著となった年でもあった。
2010年からは選手会長に就任した。シーズンでは主に6番、シーズン最後の3連戦からポストシーズンにかけては4番を任された。前年より大きく打率を下げるも、自己最多の71打点を記録した。本塁打も19本と前年に引き続き長打力は健在であり、通算1000安打・100本塁打も記録した。チームのクライマックスシリーズ出場及び2度目の日本一に貢献した。日本シリーズでの成績は優秀選手賞を獲得した前回出場時よりも全体的に上回っていたものの(打率.300、1本塁打、6打点、9安打)、チームメイトの今江敏晃がシリーズMVP、優秀選手賞も同じくチームメイトの清田育宏と内竜也、対戦相手の大島洋平(中日ドラゴンズ)がそれぞれ受賞したため、選ばれなかった。
2011年は開幕当初は主に7番を打っていたが、金泰均の故障により4月末から4番に入ることとなった。守備面では当初は右翼手を務めていたが、清田育宏や伊志嶺翔大らが先発出場するようになったことで、以降は左翼手に回っている。5月4日の埼玉西武ライオンズ戦で死球を受けて右手薬指を打撲した。自身は軽傷をアピールしたが直後に登録を抹消され、そのまま一軍復帰はなく6月29日に工藤隆人+金銭とのトレードで巨人へ移籍した。このトレードは、球団の経費削減と若返りを図る方針によるものであった。同年4月18日からQVCマリンフィールドで和牛メンチカツをパティにした「サブローバーガー日本語」が売り出されたが、巨人移籍により販売終了となった。
4.2. Yomiuri Giants (2011)
2011年6月30日に支配下選手登録され、巨人への入団会見を行った。球団側の方針により登録名は本名の「大村三郎」、背番号は交換相手の工藤が着用していた0に決まった。
翌7月1日に一軍に合流し、即出場選手登録された。同日の対中日ドラゴンズ戦(東京ドーム)の8回裏に代打で出場し、吉見一起から左翼席にソロ本塁打を放った。7月2日には東京ドームで移籍後初のスタメンで6番で試合に出場した。その後は、対戦チームの先発投手に左投手が見込まれる際に往年の勝負強さを買われ5、6番としての先発出場が多かったが、それ以外は代打としての出場が主で調子が上がらず、一時期は二軍落ちになるなど、48試合の出場に終わった。クライマックスシリーズファーストステージ第1戦では代打で出場し本塁打を放ったが、チームはファーストステージで敗れ、シーズンを終えた。日本シリーズ終了後、出場機会を求めてフリーエージェント権を行使した。巨人在籍はわずか154日という短い期間であった。
4.3. Return to Chiba Lotte Marines and Retirement (2012-2016)
2011年12月23日、大村のFA権行使により、千葉ロッテマリーンズへの復帰が決定し発表された。大村の放出を決定したフロントが退任し、後任が大村を呼び戻すことに好意的だったため、ロッテ復帰への障害は無くなっていた。登録名は再びサブロー、背番号も3に決まった。
2012年は開幕から5番を任されたが、その後不振のジョシュ・ホワイトセルに代わって4番に起用され、前半戦のチーム快進撃を支えた。しかし、夏場に調子を落とし、ホワイトセル復帰後は6番や7番などの下位に回った。守備は、当初は左翼手で、ホワイトセルが戦線離脱した後は主に指名打者を務め、井口資仁やホワイトセルなど他の野手が指名打者で出場する場合には左翼手も務めた。また、シーズン前から一塁手の練習も始め、9月21日のオリックス戦で初めて一塁手として出場した。この年は最終的に自己最多となる137試合に出場したが、打率.239、7本塁打、52打点と不本意な成績に終わった。それでも得点圏打率は.290、リーグトップの78四球を記録するなど、勝負強さを発揮した。シーズン終了後に右肘の手術を受けた。
2013年は開幕戦を「6番・指名打者」で先発したが、シーズン序盤から不振が続き代打での出場が多くなった。6月29日の福岡ソフトバンクホークス戦では9回裏、代打で登場して12年ぶりのサヨナラ打を放った。調子が上がらないまま7月末に怪我で二軍落ちをしたが、8月末に一軍に復帰。その後は復調し、主に左翼手でスタメンの座を取り戻した。しかしシーズンを通しては73試合の出場で打率.245、5本塁打、24打点と、またしても不本意な成績に終わった。例年は高い打率を残す得点圏打率が.183と、持ち味の勝負強さを発揮できなかった。前年は指名打者の出場が多かったが、当シーズンはクレイグ・ブラゼルやG.G.佐藤の加入もあり左翼手として守備についた試合の方が多かった。
2014年は8年間続けてきた開幕スタメンを逃すも、開幕戦で9回に代打で出場し、安打を放った。しかし、その後は振るわず、10打席以上連続無安打が続くも、4月4日の対北海道日本ハムファイターズ戦でシーズン初適時打を含むマルチ安打を放ってからは、徐々に調子を上げていった。5月は打撃絶好調で、2005年から10年連続となる4番も務め、月間MVP候補に挙がるほどの活躍を見せた(打率.324、2本塁打、11打点、OPS.867)。一時は打率が.330を超えるも、交流戦に入ってからは徐々に調子を落とし、終盤には途中加入のアルフレド・デスパイネの活躍と、自身の失速が重なり、出番が激減した。最終的には打率.248、4本塁打、25打点と前年とほぼ同様の成績に終わった。一方で、得点圏打率は.284と前年から大幅に上昇した。また2年ぶりに右翼の守備にもついた。
2015年は開幕から不調が続き、主に代打起用となった。6月15日の対東京ヤクルトスワローズ戦で初本塁打を放つもその後も調子は上がらなかった。10月4日の対日本ハム戦で勝ち越し2点適時打を放ち、チームのCS出場に貢献した。しかしCSは出番がなくシーズンが終わり、最終的に36試合で打率.217(46打数10安打)、本塁打1、打点4と不調なシーズンとなった。
2016年8月31日、球団オフィシャルサイトにて2016年限りでの現役引退が発表された。年齢に加え、この年は一度も一軍に昇格出来なかったことで退き際を悟ったという。現役引退に際し、「今季限りでの現役を引退することを決めました。千葉ロッテマリーンズで2005年に31年ぶりの日本一など、日本一を2度経験することも出来ました。幸せな野球人生でした。それはすべて、どんな時も応援してくれたファンの皆様、そして関係者を始め、色々な形でサポートしてくれた方々のおかげだと思っています。感謝をしています。22年間、本当にありがとうございました。」とコメントした。
9月25日の対オリックス戦(QVCマリンフィールド)で引退試合を行い、「4番・指名打者」として先発出場。9回表には指名打者を解除し、左翼手および右翼手の守備に就いた。打撃では、第3打席までは全て空振り三振に倒れたものの、最終打席となった9回裏の第4打席では平野佳寿から右中間への二塁打を記録し、自ら引退の花道を飾った。試合後に行われたセレモニーでは、「私にはもう1つの夢があります。この千葉ロッテマリーンズを日本一の球団にすることです。その夢に向かって、勇往邁進してまいります。」と話した。この試合では、ロッテ球団としては初のパブリックビューイングも実施された。また、引退セレモニー、および現役生活を振り返る記事等を通して、西岡剛、鈴木大地、西野勇士等から、一人の野球人として的確なアドバイスを送ったことに対する感謝の言葉が寄せられたほか、引退試合では巨人時代のチームメイト(阿部慎之助、坂本勇人、長野久義、内海哲也、山口鉄也、2014年から2015年にロッテに在籍したルイス・クルーズ)が応援に駆けつけるなど、その人望の厚さがうかがえる引き際となった。その後、12月2日に自由契約公示された。
5. Player Characteristics
サブローは、その打撃、守備、走塁において、それぞれ特徴的な能力を発揮した。
5.1. Batting
サブローの打撃は、内角球すらも右翼方向へ流し打つ技巧が持ち味であった。2008年から2010年にかけての通算得点圏打率.326という勝負強さも特徴であり、対左打率.292に対し対右打率.285と、投手の左右を苦にしない対応力も兼ね備えていた。打球を飛ばす方向を決めてから打席に入ることが多く、早いカウントに強い反面、追い込まれると弱い傾向にあった。
5.2. Fielding and Running
外野手としての守備のうまさには定評があり、特に外野からの本塁への正確な送球は「Laser Beamレーザービーム英語」と評された。一方で、ライト線方向の打球を苦手とする傾向も見られた。
走塁においては、右打者ながら一塁到達までコンスタントに4.3秒台を記録し、特に三塁到達までは11.66秒を記録する俊足を誇った。
6. Awards and Records
サブローは、プロ野球生活において数々の個人タイトルや表彰、そして記念すべき記録を達成した。
6.1. Awards
- ゴールデングラブ賞:2回(2005年、2007年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(2005年)
- このシリーズでは打率.235、4安打、1本塁打、4打点を記録した。
- 月間MVP:1回(2007年6月)
- この月は打率.392、29安打、2本塁打、18打点を記録し、打率・安打・打点はいずれも月間リーグ最高成績であった。
- JA全農Go・Go賞:1回(最多二・三塁打賞:2002年8月)
- セ・パ交流戦 日本生命賞:1回(2007年)
- 打率.347、33安打、3本塁打、23打点を記録し、打点部門は12球団中トップの成績であった。
- パ・リーグクライマックスシリーズ第1ステージMVP:1回(2007年)
- ユーキャン新語・流行語大賞 トップテン(2005年、「ボビーマジック」、今江敏晃と共同で受賞)
6.2. Records
サブローがプロ生活で達成した主な節目の記録とその他の特筆すべき記録は以下の通りである。
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1995年6月25日、対福岡ダイエーホークス13回戦(福岡ドーム)、8番・左翼手で先発出場
- 初打席:同上、2回表に下柳剛から四球
- 初三振:同上、4回表に下柳剛から
- 初安打・初打点:1995年6月27日、対西武ライオンズ14回戦(福井県営野球場)、2回裏に小野和義から適時打
- 初盗塁:1995年7月6日、対近鉄バファローズ14回戦(千葉マリンスタジアム)、5回裏に二盗(投手:小池秀郎、捕手:古久保健二)
- 初本塁打:2000年5月18日、対福岡ダイエーホークス7回戦(千葉マリンスタジアム)、2回裏に松本輝から左越3ラン
- 節目の記録
- 1000試合出場:2007年8月15日、対西武ライオンズ16回戦(千葉マリンスタジアム)、4番・右翼手で先発出場 ※史上421人目
- 1000安打:2010年4月17日、対オリックス・バファローズ4回戦(千葉マリンスタジアム)、5回裏に金子千尋から左中間へ2ラン ※史上257人目
- 100本塁打:2010年7月20日、対北海道日本ハムファイターズ14回戦(札幌ドーム)、5回表に木田優夫から中越ソロ ※史上261人目
- 1500試合出場:2012年5月31日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上176人目
- 1000三振:2012年6月11日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、2回表に杉内俊哉から ※史上54人目
- その他の記録
- 9打席連続安打:2007年6月3日 - 6日 ※史上6人目
- 同一シーズン2球団で本塁打:2011年 ※史上4人目
- オールスターゲーム出場:2回(2002年、2009年)
年
度所
属試
合打
席打
数得
点安
打2
塁
打3
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗
塁
死犠
牲
バ
ン
ト犠
牲
フ
ラ
イボ
ー
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ネ
ッ
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意
四
球死
球三
振併
殺
打打
率出
塁
率長
打
率O
P
S1995 ロッテ 28 61 48 4 9 2 0 0 11 2 3 4 1 1 11 0 0 17 0 .188 .333 .229 .563 1996 9 1 1 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000 1.000 1.000 2.000 1997 33 32 28 2 5 2 0 0 7 1 1 0 2 0 2 0 0 8 0 .179 .233 .250 .483 1998 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000 1999 108 156 130 26 30 9 0 0 39 8 1 5 12 0 12 1 2 27 0 .231 .306 .300 .606 2000 95 314 263 42 71 13 1 5 101 23 8 2 15 1 35 0 0 41 4 .270 .355 .384 .739 2001 108 284 240 37 55 12 1 1 72 25 9 7 17 3 23 0 1 45 8 .229 .296 .300 .596 2002 131 512 441 67 126 33 2 9 190 43 13 1 20 6 36 0 9 93 4 .286 .348 .431 .778 2003 80 333 286 44 78 23 1 10 133 46 4 7 13 4 24 1 6 66 2 .273 .338 .465 .803 2004 89 295 258 31 66 16 3 5 103 33 2 2 5 2 26 0 4 54 12 .256 .331 .399 .730 2005 107 394 351 68 110 19 6 14 183 50 6 3 2 2 38 0 1 77 6 .313 .380 .521 .901 2006 115 344 298 38 65 13 1 9 107 38 6 2 2 8 34 0 2 84 6 .218 .295 .359 .654 2007 133 528 472 67 127 28 4 7 184 68 13 5 3 6 43 1 4 105 5 .269 .331 .390 .721 2008 105 390 346 43 100 22 2 6 144 56 6 4 0 4 36 1 4 70 5 .289 .359 .416 .775 2009 119 489 427 71 134 24 2 22 228 68 4 7 4 9 48 2 1 121 7 .314 .377 .534 .911 2010 125 513 452 58 118 15 2 19 194 71 2 1 2 1 56 0 2 118 14 .261 .344 .429 .774 2011 19 78 70 5 19 4 0 2 29 9 0 0 0 0 6 0 2 13 3 .271 .346 .414 .760 巨人 48 111 103 10 25 5 0 1 33 9 0 2 1 0 7 0 0 26 2 .243 .291 .320 .611 '11計 67 189 173 15 44 9 0 3 62 18 0 2 1 0 13 0 2 39 5 .254 .314 .358 .672 2012 ロッテ 137 560 476 52 114 28 0 7 163 52 0 0 0 4 78 1 2 105 12 .239 .346 .342 .688 2013 73 216 184 17 45 9 0 5 69 24 0 1 1 4 27 0 0 42 6 .245 .335 .375 .710 2014 81 249 218 18 54 13 0 4 79 25 0 2 0 3 27 0 1 60 6 .248 .329 .362 .692 2015 36 52 46 2 10 1 0 1 14 4 0 0 0 0 6 0 0 14 1 .217 .308 .304 .612 2016 1 4 4 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 .500 .750 通算:22年 1782 5917 5143 703 1363 292 25 127 2086 655 78 55 100 58 575 7 41 1190 103 .265 .340 .406 .746 年
度一塁 二塁 遊撃 外野 試
合刺
殺補
殺失
策併
殺守
備
率試
合刺
殺補
殺失
策併
殺守
備
率試
合刺
殺補
殺失
策併
殺守
備
率試
合刺
殺補
殺失
策併
殺守
備
率1995 - - 2 0 1 0 0 1.000 22 19 0 0 0 1.000 1996 - - 4 2 2 0 0 1.000 3 0 0 0 0 ---- 1997 - - - 32 28 0 0 0 1.000 1998 - - - 2 1 0 0 0 1.000 1999 - - - 98 95 5 2 0 .980 2000 - - - 91 145 5 2 1 .987 2001 - 27 79 84 3 15 .982 - 75 111 5 2 2 .983 2002 - - - 130 188 8 3 1 .985 2003 - - - 79 135 8 0 1 1.000 2004 - - - 83 121 3 0 0 1.000 2005 - - - 105 225 7 1 1 .996 2006 - - - 112 158 6 0 0 1.000 2007 - - - 130 278 8 5 1 .983 2008 - - - 103 202 6 4 0 .981 2009 - - - 109 212 5 2 2 .991 2010 - - - 111 209 4 1 1 .995 2011 - - - 51 62 3 1 1 .985 2012 5 50 1 1 2 .981 - - 53 90 0 1 0 .989 2013 - - - 28 39 0 1 0 .975 2014 - - - 20 25 0 1 0 .962 2015 - - - 6 7 0 0 0 1.000 2016 - - - 1 0 0 0 0 ---- 通算 5 50 1 1 2 .981 27 79 84 3 15 .982 6 2 3 0 0 1.000 1444 2350 73 26 11 .989 - 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
6.3. 背番号
- 36(1995年 - 1996年)
- 2(1997年 - 2003年)
- 3(2004年 - 2011年6月29日、2012年 - 2016年)
- 9(2007年第24回アジア野球選手権大会)
- 0(2011年6月30日 - 同年終了)
- 86(2023年 - )
6.4. 登録名
- サブロー(1995年 - 2011年6月29日、2012年 - 2016年、2023年 - )
- 大村 三郎(おおむら さぶろう、2011年6月30日 - 同年終了)
6.5. 登場曲
- 「栄光の架橋」ゆず (2005年 - 2016年)
7. Post-Retirement Career
現役引退後のサブローは、指導者・球団関係者として野球界に貢献し続けている。
2017年3月30日、千葉ロッテマリーンズのスペシャルアシスタントに就任した。2018年7月6日からは、球団スペシャルアシスタントを務める傍ら、日刊スポーツ高校野球記事の編成部長も務めた。
2020年1月8日、東北楽天ゴールデンイーグルスファームディレクターへの就任が発表された。二軍の統括として一・二軍首脳陣のパイプ役を務め、ドラフト会議において助言も行った。2021年も同職を務め、2022年にはスカウティングアドバイザーを務めた後、同年限りで楽天を退団した。
2022年11月13日、2023年から千葉ロッテマリーンズの二軍監督を務めることが発表された。登録名は現役時代と変わらずサブローで、背番号は恩師である山本功児がかつて着用していた86を受け継いだ。2025年からは二軍統括打撃コーチも新たに兼任することになった。
8. Registration Name and Nickname
サブローという登録名と愛称は、彼のキャリアにおいて重要な意味を持っていた。
ロッテ入団に際し、同姓の大村巌が在籍していたことと、同年に史上初のシーズン200安打を達成したイチローにあやかり、登録名を「サブロー」とした。
当時千葉マリンスタジアムのウグイス嬢を務めていた谷保恵美がコールする際は「サブローーーー」と語尾を伸ばすことが恒例となっていた。
巨人移籍後は原則としてファーストネームやニックネームなどでの選手名登録を認めないというチームの事情から、登録名は本名の「大村三郎」となり、スコアボード表記も「大村」となった。ただし「サブロー」の愛称が定着していることから、同姓の選手は球団内に所属していなかったが、場内アナウンスではフルネームで呼称されていた。
2012年からのロッテ復帰後は登録名を再び「サブロー」に戻しており、2023年の二軍監督就任後もこの登録名を使用している。
なお、現役引退後のロッテのスペシャルアシスタント及び楽天のファームディレクター・スカウティングアドバイザーとしては、本名の「大村三郎」名義での活動であった。一方、日刊スポーツで記事に携わるときは「サブロー」名義になっていた。
彼のブログでのニックネームは「Sabutiniサブティーニイタリア語」で、本人がイタリア好きで、知人にイタリアンネームをつけてもらったとのことである。
9. Impact and Evaluation
サブローの野球人生は、チームへの多大な貢献とファンからの絶大な人気、そして指導者としての将来への期待に満ちている。
選手としては、2005年と2010年の千葉ロッテマリーンズの2度の日本一に大きく貢献した。特に2005年には「つなぎの4番」として、チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一の原動力となった。長嶋茂雄が「これほど上半身を上手く使う打者は見たことがない」と評したように、その打撃技術は高く評価されていた。
また、選手会長を務めるなど、チーム内でのリーダーシップも発揮した。
ファンからの人気も非常に高く、2016年の引退試合では、ロッテ球団初のパブリックビューイングが実施されるほどであった。引退セレモニーでは、かつてのチームメイトである西岡剛、鈴木大地、西野勇士らが彼からの的確なアドバイスに感謝の言葉を寄せ、巨人時代のチームメイトである阿部慎之助、坂本勇人、長野久義、内海哲也、山口鉄也、ルイス・クルーズも応援に駆けつけるなど、その人望の厚さを示した。
引退セレモニーで「この千葉ロッテマリーンズを日本一の球団にすることです」と新たな夢を語ったサブローは、現在、千葉ロッテマリーンズの二軍監督として、若手選手の育成に力を注いでいる。その経験と人柄から、将来的にチームを牽引する指導者としての大きな期待が寄せられている。