1. 概要
巌本善治(巌本 善治いわもと よしはる日本語、1863年7月30日(文久3年6月15日) - 1942年(昭和17年)10月6日)は、明治時代の日本の教育者、女子教育の提唱者、社会改革者、実業家、演劇評論家です。彼は、近代日本における女性の地位向上と教育の普及に尽力し、その思想は当時の社会に大きな影響を与えました。特に、女性の市民権拡大や恋愛に基づく結婚観を提唱しましたが、晩年には国家神道に傾倒するなど、その思想には変遷が見られます。また、私生活における女性問題や事業に関する疑惑が報じられ、「偽善者」と批判されるなど、論争の多い人物としても知られています。
2. 生涯
巌本善治の生涯は、彼の教育者、社会改革者としての活動の基盤を築いた初期の経験と、その後の多岐にわたる活動によって特徴づけられます。
2.1. 出生と家族背景
巌本善治は、1863年7月30日(文久3年6月15日)、但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市出石町)の儒臣である井上長忠の次男として生まれました。1868年(慶応4年)、6歳の時に母方の叔父にあたる福本藩の家老格、巌本範治(琴城)の養子となり、巌本姓を名乗るようになりました。
2.2. 初期教育と学問的影響
1876年(明治9年)、巌本は上京し、中村正直が主宰する同人社に入学しました。ここでは英語や漢文に加え、自由主義思想を学び、特にミルやスペンサーといった西洋の思想家から大きな影響を受けました。
1880年(明治13年)には、津田仙が設立した学農社農学校に進み、農業について学びました。この頃から同社の『農業雑誌』に小論文を寄稿するようになり、また、二宮尊徳の『報徳記』を愛読しました。
1882年には木村熊二の学校でキリスト教神学を学び始め、1883年に洗礼を受けました。1884年(明治17年)には、下谷教会(現在の日本基督教団豊島岡教会)で木村熊二から正式に受洗しました。学農社での学びを終えた後も『農業雑誌』の編集に携わり、『基督教新聞』にも寄稿するなど、キリスト教系のメディアでの活動を活発に行いました。
3. 女性教育と社会改革への提唱
巌本善治は、近代日本社会における女性の地位向上と教育の普及を強く提唱し、その思想と具体的な活動を通じて社会改革を推進しました。
3.1. 女性教育の理想
巌本は、女性の教育機会の拡大が、個人の自立と社会全体の進歩に不可欠であるという強い信念を持っていました。彼が創刊に関わった『女学新誌』や『女学雑誌』における「女学」とは、「女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問」を意味しており、女性が社会で活躍するための知識と教養を身につけることの重要性を説きました。彼は、女性が効率的で衛生的、かつ経済的な家庭を運営し、知的で道徳的、奉仕の精神に富んだ子供たちを育てるために教育されるべきだと考え、女性の家庭内での役割を重視しつつも、そのための質の高い教育を求めました。
3.2. 社会・婚姻制度改革の提言
巌本は、当時の日本の社会制度に対し、女性の市民権拡大や、恋愛に基づく結婚の再構築を強く提唱しました。彼は、夫婦間の愛情と尊敬に基づく結婚こそが理想的であると考え、従来の家制度や因習にとらわれない新しい家族観を提示しました。また、女性が家庭内で果たす役割を重視しつつも、その役割をより効果的に果たすための教育と、社会における権利の拡大が必要であると主張しました。
3.3. 社会的影響と改革運動
巌本の提唱は、当時の日本社会に大きな影響を与えました。彼は『女学雑誌』を通じて女性の役割に関する社会変革を力強く主張し、女性の権利向上と社会進歩に貢献しました。また、東京廃娼会の委員を務め、各地で遊説を行うなど、具体的な社会運動にも積極的に関与しました。彼の活動は、女性の地位向上を目指す多くの人々に影響を与え、近代日本の女性運動の基盤を築く一助となりました。
4. 出版・メディア活動
巌本善治は、雑誌の創刊・編集や自身の著作活動を通じて、その思想を広く社会に伝え、大きな影響力を持ちました。
4.1. 雑誌の創刊と編集
1884年(明治17年)、巌本は近藤賢三と協力し、修正社から『女学新誌』(女学新誌じょがくしんし日本語)を創刊しました。この雑誌は1年間で終了しましたが、翌1885年(明治18年)には、修正社との意見の相違から『女学新誌』を離れ、近藤を編集人とする『女学雑誌』(女学雑誌じょがくざっし日本語)を新たに創刊しました。
巌本は『女学雑誌』において、「月の舎主人」「月の舎しのぶ」「是空氏」「みどり」「もみぢ」「かすみ」など様々な筆名を用い、毎号のように女性の地位向上や社会改革に関する論説を執筆しました。1886年(明治19年)5月に近藤が急逝すると、巌本が『女学雑誌』の編集人を引き継ぎました。さらに、1887年(明治20年)6月には、東京基督教婦人矯風会の『東京婦人矯風雑誌』の編集名義人にもなりました。1890年(明治23年)には、星野天知とともに女学雑誌社から、キリスト教系の女学校生徒からの投稿を募る雑誌『女学生』を創刊しました。
4.2. 主要な著作と論説
巌本は、広範な執筆活動を通じて自身の思想を体系的に展開しました。彼の著作には、女性教育に関する提言や社会論、文学論などが含まれます。
『女学雑誌』には、「小説論」(82 - 84号)、「文人記者の伉儷」(94、95号)、「理想之佳人」(104 - 108号)、「女学の解」(111号)、「小説家の着眼」(154号)、「国民之友第四十八号 文学と自然」(159号)、「此の大沙漠界に、一人の詩人あれよ」(161号)、「風流を論ず」(210号)、「婚姻論」(273、275、277号)、「非恋愛を非とす」(276号、徳富蘇峰の「非恋愛」への反論)など、多岐にわたる論説を掲載しました。
また、1899年(明治32年)には、かねて『女学雑誌』に連載していた勝海舟との対談をまとめた『海舟余話』を刊行しました。この著作は後に『海舟座談』として増補・改訂され、彼の代表的な編著の一つとなりました。
5. 明治女学校
巌本善治は、明治女学校の設立から運営、教育方針に至るまで深く関わり、日本の女子教育に大きな足跡を残しました。
5.1. 設立と教育理念
1885年(明治18年)秋、巌本は木村熊二が九段下牛ヶ渕(現在の東京都千代田区飯田橋)に開いた明治女学校(明治女学校めいじじょがっこう日本語)の発起人に名を連ねました。この学校は、津田梅子、木村謙蔵、島田三郎、多田馬治らも設立に協力しました。
明治女学校は、女性の自立と社会貢献を目指す教育を掲げ、単なる家事教育に留まらない、幅広い教養とキリスト教精神に基づいた人格形成を重視しました。巌本は、女性が家庭の賢明な管理者であると同時に、社会の良き構成員となるための教育が必要であると考え、その理念を学校運営に反映させました。
5.2. 学校運営と教育実践
1886年(明治19年)5月、木村の妻であり明治女学校の取締役であった木村鐙子が急逝した後、巌本は1887年(明治20年)3月に教頭となり、学校の実務を執り行いました。そして、1892年(明治25年)には校長に就任しました。
しかし、明治女学校は教会や宣教師からの経済的援助をほとんど受けなかったため、その経営は常に困難を伴いました。さらに、1896年(明治29年)2月には失火により校舎、寄宿舎、教員住宅の大半を焼失するという大打撃を受けました。この直後に、彼の妻である若松賤子も肺病のために亡くなりました。
巌本は学校再建に尽力しましたが、1904年(明治37年)春には校主へと退きました。彼の私生活における問題や経営難が重なり、最終的に明治女学校は1909年に閉校へと追い込まれました。
6. 文学・思想的交流と論争
巌本善治は、当時の知識人社会において活発に活動し、特に文学や思想に関する議論に積極的に参加し、その影響を与えました。
6.1. 文学論争
1889年(明治22年)4月11日、巌本は『女学雑誌』に「文学と自然」と題する論文を寄稿しました。彼はラルフ・ワルド・エマーソンの影響を受け、「最上の文学は自然のままに自然を写したものである」と主張しました。しかし、これに対して森鴎外が『国民之友』5月11日号で反論し、「イデーを通してこそ文学における美が現れる」と諭しました。巌本はこれに対し、「人間の性向は自然に習うものである」と応答しましたが、森はさらに反論を行い、論争は巌本の6月11日の再応答まで続きました。この論争は、当時の文学界におけるリアリズムと観念論の対立を象徴するものでした。
6.2. 文学界への関与
巌本は、明治女学校で教鞭を執り、『女学雑誌』に寄稿していた星野天知、北村透谷、島崎藤村、平田禿木といった後の浪漫主義文学者たちと交流がありました。しかし、彼らは巌本の思想的制約の下では自由に執筆しにくいと感じるようになり、1893年(明治26年)に彼らは独立して文芸雑誌『文学界』を創刊しました。この出来事は、巌本の元で育った文学者たちが、新たな文学運動を形成していく過程を示すものとなりました。
7. 実業活動と海外進出
巌本善治は、教育者としての顔だけでなく、実業家としても多角的な事業を展開し、海外進出にも関与しました。
7.1. 移民事業への関与
1905年(明治38年)、巌本は大日本海外教育会の構成員として、押川方義とともに朝鮮へ渡航しました。その後、ブラジルへの移民事業を手がける皇国移民会社に関与し、1907年(明治40年)にはペルーへの移民事業を行う明治殖民会社の中心人物となりました。翌年には自らペルーに渡りました。しかし、明治殖民会社は1908年に違法な配耕事件を起こし、1909年には移民の送金に関する延着や不着の問題が表面化し、業務停止処分を受けて解散しました。
7.2. その他の事業
巌本は移民事業以外にも、様々な実業活動に関わりました。1912年(大正元年)には、皇国移民会社の水野龍が設立したコーヒーの直輸入会社であるカフェーパウリスタの創立に関与し、取締役を務めました。1916年(大正5年)には、明治女学校の跡地に信託合資会社を設立しました。さらに、1924年(大正13年)には日活の取締役にも就任するなど、晩年まで多岐にわたる事業に関わりました。
8. 私生活と家族
巌本善治の私生活は、彼の公的な活動とは異なる側面を持ち、特に家族関係においては多くの困難を経験しました。
巌本は1889年(明治22年)、フェリス女学院での講演をきっかけに、同校の助教であった若松賤子と知り合い、横浜海岸教会で結婚しました。しかし、妻の若松賤子は1896年(明治29年)の明治女学校の失火直後に肺病で早世しました。賤子の死後、彼女の妹であるみやが子供たちの養育を担いました。
巌本には、長男の荘民(まさひと)、長女の清子(きよこ)、次女の民子(たみこ)がいました。ヴァイオリニストとして知られる巌本真理は、米国留学後に在日米国大使館に勤務した長男・荘民と、来日後に東京女子大学の英語講師を務めたアメリカ人女性・巌本マーグリートの娘にあたります。また、法学者の中野登美雄は長女・清子の、英文学者の松浦嘉一は次女・民子のそれぞれの女婿となりました。巌本の息子(または弟ともされる)の巌本捷治(そうじ、1885-1954)は、東京音楽学校を卒業後、明治女学校の職員となり、1901年に創刊された『音楽之友』の主宰を務め、後には松本楽器製造株式会社の監査役となりました。
9. 論争と批判
巌本善治の生涯は、その功績だけでなく、様々な論争や批判に晒されました。特に私生活や事業に関する疑惑は、彼の名声と彼が関わった組織に大きな影響を与えました。
9.1. 女性関係や疑惑
プロテスタントの警世家、女性啓蒙家として活動した巌本には、不名誉な噂が付きまといました。彼は女性関係が乱れていたとされ、妻の若松賤子がそれを他言していたと伝えられています。明治女学校の卒業生である相馬黒光は、巌本が教え子に手を出したことを非難し、自殺に追い込まれた犠牲者もいたことを実名を挙げて記しています。また、同じく卒業生の野上弥生子は晩年、自身の人生における三大出来事の一つとして巌本の失脚を挙げ、その影響の大きさを語っています。
星野天知や平田禿木といった関係者も、巌本が詐欺的行為を犯したと書き残しています。
9.2. 名声と学校への影響
こうした女性問題や詐欺的行為の噂は、巌本の評判を著しく傷つけ、彼が失脚した後には「偽善の聖人」「偽善家」といったレッテルを貼られるようになりました。巌本はこれらの風説に対し沈黙を続けましたが、島崎藤村は巌本をモデルにしたとされる短編『黄昏』を発表し、彼の内面を描写したとされます。
また、巌本に憧憬を抱いていた羽仁もと子は、巌本の信仰生活を「本気に神に仕えようとはしていなかった」と厳しく非難しました。彼女は、明治女学校が巌本の「女性問題」が原因で「魔の国へさらわれ」、1909年の廃校へと追い込まれたとして、その責任を巌本に問うています。これらの論争は、巌本の公的な活動と私的な行動の乖離を浮き彫りにし、彼の名声だけでなく、彼が心血を注いだ明治女学校の運営にも壊滅的な影響を与えました。
9.3. 後世の評価
巌本善治に対する後世の評価は、彼の功績と欠点を巡って多角的です。女子教育の先駆者としての功績は認められる一方で、私生活における問題や晩年の思想的変遷は、彼の人物像を複雑なものにしています。「偽善者」という批判的なレッテルは、彼の理想と現実のギャップを示すものとして、現代の歴史的文脈においても議論の対象となっています。
10. 後期活動と思想的変遷
巌本善治は、明治女学校の閉鎖後も様々な活動を続け、晩年にはその思想に大きな変遷が見られました。
10.1. 後期の著作と活動
明治女学校閉鎖後、巌本は著作活動に再び力を入れました。1930年(昭和5年)には、勝海舟との対談をまとめた『海舟座談』を編集出版し、さらに1937年(昭和12年)にはこれを増補しました。この著作は、勝海舟の思想を伝える貴重な資料として、後世に大きな影響を与えました。
10.2. 後期の思想的傾向
1937年、巌本は林銑十郎の組閣に口を出すなど、政治的な発言も行うようになりました。この頃、彼は自宅を「神政書院」と名付け、国家神道を熱心に説くようになりました。また、『大日本は神国なり』という書籍に序文を寄稿するなど、晩年の思想は国家主義的な傾向を強めました。これは、初期の自由主義的・キリスト教的教育思想とは異なる、彼の思想の後半期における顕著な変化を示しています。
11. 死去
巌本善治は、1942年(昭和17年)10月6日、豊島区西巣鴨の自宅で亡くなりました。彼の墓は染井霊園にあります。
12. 評価と遺産
巌本善治の生涯と業績は、近代日本の教育、社会、思想に多大な影響を与えましたが、その評価は多角的であり、功罪両面から考察されるべきものです。
12.1. 歴史的重要性
巌本善治は、明治時代における女子教育の発展に極めて重要な貢献をしました。彼は、女性が社会で自立し、より良い家庭を築くための教育の必要性を強く訴え、そのための具体的な教育機関である明治女学校の設立と運営に尽力しました。また、雑誌の創刊や執筆活動を通じて、女性の地位向上や婚姻制度改革に関する議論を牽引し、当時の社会に新しい価値観を提示しました。
しかし、彼の私生活における女性問題や事業に関する疑惑、そして晩年の国家神道への傾倒は、その名声に影を落とし、彼が提唱した理想と現実の乖離を示すものとして批判の対象となりました。特に、明治女学校の閉校に彼の問題が影響したとされる点は、彼の業績を評価する上で避けて通れない側面です。それでもなお、彼が女子教育の黎明期において果たした役割は、日本の近代化における重要な一章として歴史に刻まれています。
12.2. 持続的な影響と解釈
巌本善治の思想や活動は、後世のジェンダー論や社会運動にも間接的な影響を与え続けています。彼の提唱した女性の教育機会の拡大や恋愛結婚の概念は、現代社会においては当然のこととされていますが、その実現には彼の時代からの長い道のりがありました。彼の功績は、女性の権利がまだ十分に認められていなかった時代において、その先駆けとなった点にあります。
一方で、彼の私生活における問題や晩年の思想的変遷は、理想を掲げる人物であっても、その人間性や時代背景の中で複雑な側面を持つことを示唆しています。現代の視点から彼の生涯を解釈する際には、彼の進歩的な側面と、当時の社会倫理や個人的な欠点がどのように絡み合っていたかを多角的に分析することが求められます。彼の生涯は、近代日本の社会変革期における知識人の光と影を映し出すものとして、今日でも考察の対象となっています。
13. 著作一覧
巌本善治は、教育、社会、文学、思想に関する多岐にわたる著作を残しました。
13.1. 書籍
- 『吾党之女子教育』明治女学校、1892年3月31日。
- 『教育学講義』女学雑誌社、1893年5月19日。
- 「一周忌日勝海舟先生を憶ふ」進藤信義 編『先覚詞藻』鍾美堂、1901年10月、177-186頁。
- 「満州からの通信」日本文学研究資料刊行会 編『北村透谷』有精堂出版〈日本文学研究資料叢書〉、1972年。
- 「女学雑誌集 巌本善治 篇」『明治文学全集 32 女学雑誌・文学界集』筑摩書房、1973年。
- 「演劇の改良」野村喬・藤木宏幸 編『近代文学評論大系 9 演劇論』角川書店、1972年。
13.2. 編著
- 『木村鐙子小伝』女学雑誌社〈女学叢書〉、1887年10月。 - 附:外山正一君手紙。
- 『偉人物』女学雑誌社、1894年10月。
- 『高橋伝五郎』女学雑誌社、1895年1月15日。
- 『In memory of Mrs. Kashi Iwamoto, with a collection of her English writings』Z.Iwamoto、1896年。
- 勝海舟 述、巌本善治 編『海舟余波』女学雑誌社、1899年4月1日。
- 勝海舟 述、巌本善治 編『海舟座談』岩波書店〈岩波文庫 376-377〉、1930年7月15日。
- 勝海舟 述、巌本善治 編『海舟座談』(増補)岩波書店〈岩波文庫 376-377〉、1937年9月1日。
- 勝海舟 述、巌本善治 編『海舟座談』(新訂 勝部真長 校注)岩波書店〈岩波文庫 青100-1〉、1983年2月16日。
- 勝海舟 述、巌本善治 編『海舟座談』(新訂 勝部真長 校注、ワイド版岩波文庫)岩波書店、1995年2月16日。
- 高橋要亮 著、巌本善治 閲『廃物利用』経済雑誌社、1885年10月25日。 - 表紙の書名:『経済秘法廃物利用 すたれ物用ゐ方』。
- 高橋要亮 著、巌本善治 閲『廃物利用』経済雑誌社、1886年11月。 - 表紙の書名:『経済秘法廃物利用 すたれ物用ゐ方』。
- 近藤賢三 著、巌本善治 校閲『廢物利用 經濟秘法 すたれ物用ゐ方』(再版)經濟雜誌社、1887年4月18日。
13.3. 翻訳
- フランセス・キング・ケーレー 著、巌本善治 訳『女の未来』輿論社、1887年2月。
- シェイクスピア 著、巌本善治 訳「人肉質入裁判」川戸道昭・榊原貴教 編『明治翻訳文学全集 新聞雑誌編 1(シェイクスピア集 1)』大空社、1996年6月。 - 『文学叢誌』1885年(明治18年)10月-11月の複製。『ヴェニスの商人』の翻訳。
- アンデルセン 著、巌本善治 訳「不思議の新衣裳」川戸道昭・榊原貴教 編『明治翻訳文学全集 新聞雑誌編 46(アンデルセン集)』大空社、1996年6月。 - 『女学雑誌』1888年(明治21年)3月の複製。
- シェイクスピア 著、巌本善治 訳「三人の姫」川戸道昭・榊原貴教 編『明治翻訳文学全集 新聞雑誌編 2(シェイクスピア集 2)』大空社、1996年10月。 - 『女学雑誌』1887年(明治20年)8月-9月の複製。