1. 生涯と出自
アンナ・イヴァノヴナは、ロシアの皇帝として統治する以前に、クールラント公国の摂政を務めた経験を持つ。彼女の出自とクールラントでの経験は、後の帝位継承において重要な要素となった。
1.1. 出生と家族
アンナは1693年2月7日にモスクワで、ツァーリイヴァン5世とその妃プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァの娘として誕生した。父イヴァン5世は、異母弟であるピョートル大帝と共同統治を行っていたが、精神的な障害があり、国政を効果的に運営する能力が限られていたため、事実上ピョートル大帝が単独で統治していた。イヴァン5世はアンナがわずか3歳であった1696年2月に死去し、ピョートル大帝がロシアの唯一の統治者となった。
アンナは両親の第4子であったが、成人まで生き残った姉はエカチェリーナ・イオアノヴナ、妹はプラスコヴィヤ・イヴァノヴナだけであった。3人の姉妹は、厳格で立派な性格の未亡人である母によって、規律正しく質素に育てられた。比較的質素な家庭に生まれたプラスコヴィヤは、精神的な障害を持つ夫に対して模範的な妻であり、娘たちにも自らの高い道徳と美徳の基準に沿って生きることを求めた。アンナは、女性の美徳と家庭性を何よりも尊び、倹約、慈善、宗教的儀式を強く重んじる環境で育った。
1.2. 幼少期と教育
アンナの教育は、フランス語、ドイツ語、宗教書、民間伝承からなり、音楽やダンスも含まれていた。成長するにつれて、彼女は頑固で意地の悪い少女となり、「恐ろしいイヴ・アンナ」というあだ名がついた。彼女は大きな頬で有名で、トーマス・カーライルは「肖像画に示されているように、ヴェストファーレン産ハムに匹敵する」と評した。
やがて、叔父のピョートル大帝は一家にモスクワからサンクトペテルブルクへ移住するよう命じた。これは場所だけでなく社会も変化させ、アンナに大きな影響を与えた。彼女は母が好んだ質素な生活とは全く異なる宮廷の華やかさや上流社会の贅沢を大いに楽しんだ。
1.3. クールラント公妃時代
1710年、ピョートル大帝は17歳のアンナを、同年代のクールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラーと結婚させた。彼女の結婚式は、自身の意向により盛大に1710年11月11日に執り行われ、叔父から20.00 万 RUBという巨額の持参金が贈られた。結婚式の後の祝宴では、2人の小人が巨大なパイから飛び出してテーブルの上で踊るという寸劇を披露した。
新婚夫婦はクールラントへ向かう前にロシアで数週間過ごした。サンクトペテルブルクからクールラントへの道中でわずか32 kmの地点、1711年1月21日にフリードリヒ公は急死した。死因は不明で、寒さやアルコールの影響など諸説ある。
夫の死後、アンナはクールラント公国の首都ミタウ(現在のイェルガヴァ)へ向かい、1711年から1730年までの約20年間、この地を統治した。この期間中、ロシアの駐在員であるピョートル・ベストゥージェフ伯爵が彼女の顧問(時には愛人)を務めた。彼女は夫の死後再婚しなかったが、敵対者は彼女が長年、著名な廷臣であるエルンスト・ヨハン・フォン・ビロン公爵と恋愛関係にあったと主張した。
2. ロシア帝位への即位
1730年、ピョートル2世の若くして子孫を残さずに亡くなったことで、ロシアは帝位継承の危機に直面した。この危機は、最高枢密院によるアンナの選出と、それに伴う「条件」の提示、そしてアンナによるその「条件」の破棄という劇的な展開を招いた。
2.1. 継承危機と候補者たち
1730年、ピョートル大帝の孫にあたるツァーリピョートル2世が若くして子を残さずに死去した。これにより、1613年以来1世紀以上にわたりロシアを統治してきたロマノフ朝の男系が断絶した。帝位の候補者として可能性があったのは、以下の4人の女性であった。
- イヴァン5世の3人の生存する娘たち:エカチェリーナ・イオアノヴナ(1691年生)、アンナ自身(1693年生)、プラスコヴィヤ・イヴァノヴナ(1694年生)。
- ピョートル大帝の唯一の生存する娘:エリザヴェータ(1709年生)。
イヴァン5世はピョートル大帝の兄であり、共同統治者であったため、その子女には優先的な継承権があると見なされる可能性があった。しかし、直近の君主の最も近い親族という観点から見れば、ピョートル大帝の娘たちは、死去したピョートル2世の叔母にあたるため、より帝位に近いとされた。このジレンマをさらに深めたのは、ピョートル大帝の娘たちが私生児として生まれ、彼が後にその母エカチェリーナ1世(以前は彼の家政婦であった)と正式に結婚した後で嫡出とされたことである。一方、イヴァン5世の妻プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァは貴族の娘であり、献身的な妻であり母であった。さらに、彼女は貞淑さを含む多くの美徳で大いに尊敬される女性であった。
2.2. 最高枢密院の選択と「条件」
最終的に、ドミトリー・ゴリツィン公爵が率いる最高枢密院は、イヴァン5世の次女であるアンナを新しいロシア女帝として選出した。彼女は当時ロシアに居住していた姉エカチェリーナよりも優先して選ばれた。これにはいくつかの理由があった。アンナは子どものいない寡婦であったため、未知の外国人がロシアで権力を振るう差し迫った危険がなかった。また、彼女は夫が亡くなった後のクールラント公国を約20年間統治してきたため、ある程度の統治経験も有していた。一方、エカチェリーナはメクレンブルク=シュヴェリーン公と結婚していた。彼女は当時夫と離縁してロシアに住んでいたが、それ自体が不名誉であった。夫がいてもいなくても、その存在は彼女の即位式で問題を引き起こす可能性があり、特にエカチェリーナには彼との間に娘がいたため、将来的に彼が政府の事柄に介入することを防ぐことは困難であった。その場合、彼は長年の経験を持つ古参の統治者であるため、最高枢密院の助言に従順ではないと見なされた。また、エカチェリーナに既に娘がいたことは、貴族がおそらく望まなかった継承の確実性をもたらすことになった。
最高枢密院は、子どもがなく寡婦であるクールラント公妃アンナを好んだ。彼らは、彼女が貴族に恩義を感じ、せいぜい名目上の君主にとどまり、最悪でも言いなりになると期待した。これを確実にするため、最高枢密院はアンナに、スウェーデンの先例に倣って君主権を制限する「条件」宣言への署名を説得した。これには、アンナが枢密院の助言に従って統治し、彼らの同意なしに宣戦布告、和平締結、新税の課税、国家収入の支出をしないことが明記された。また、枢密院の同意なくして貴族を裁判なしに処罰したり、土地や村落を授与したり、高官を任命したり、外国人であろうとロシア人であろうと宮廷の役職に昇進させたりすることはできなかった。
2.3. 「条件」の破棄と専制権の回復
最高枢密院の審議は、ピョートル2世が1729年から1730年の冬に天然痘で病死する間にも行われた。「条件」の文書は1月にアンナに提示され、彼女はピョートル2世の死の直後の1730年1月18日にこれに署名した。この承認式は彼女の首都であるクールラントのミタウ(現在のイェルガヴァ)で行われ、その後彼女はロシアの首都へ向かった。
1730年2月20日、到着後まもなく、アンナ女帝は先代の最高枢密院を廃止する特権を行使し、その組織を解体した。重い「条件」を課した最高枢密院は、主にドルゴルーコフ家とゴリツィン家の貴族で構成されていた。数日のうちに、これら2つの家族の支配に反対する別の派閥が宮廷内で台頭した。1730年3月7日、この派閥に属する人々(出典によって150人から800人の間)が宮殿に到着し、女帝に「条件」を否認し、先代の君主のように専制権力を掌握するよう請願した。アンナにそうするよう促した人々の中には、彼女の姉エカチェリーナ・イオアノヴナもいた。アンナは「条件」文書を正式に否認し、さらに文書作成者の一部を処刑台に送り、その他多くをシベリアへ追放した。その後、彼女は専制権力を掌握し、先代の君主たちと同様に絶対君主として統治した。

アンナが「条件」を破棄した夜、空にはオーロラが現れ、ある同時代人の言葉によれば地平線が「血の色に染まって見えた」とされ、これはアンナの治世がどのようなものになるかを示す不吉な前兆として広く受け止められた。
3. 女帝としての統治 (1730-1740)
アンナ・イヴァノヴナの治世は、強権的な統治体制の構築と、ドイツ系貴族の影響力の増大によって特徴づけられる。一方で、教育や文化の分野ではピョートル大帝の改革路線が継承され、対外的には軍事力を背景とした積極的な外交政策が展開された。しかし、その統治は多くの批判と論争を招き、「暗黒時代」と評されることも少なくない。

3.1. 内閣と政府運営
アンナは、統治を開始して間もない1731年に内閣を創設し、その運営は主に外国人の助けと支持を得て行われた。彼女は、権力を制限する「条件」を提示した最高枢密院を解体し、元老院を復元した。
アンナの寵臣ビロンはバルト・ドイツ人であり、彼の影響によりバルト・ドイツ人が政府の要職を占めることが多く、これはロシア民族の貴族たちの反感を買うことにつながった。アメリカの歴史家ウォルター・モスは、「ビロン時代」(Бироновщинаビロノフシチナロシア語)がバルト・ドイツ人によるロシアの完全な支配であったという通説は誇張されていると注意を促した。しかし、長らくドイツ語圏で暮らしたアンナは、ロシア人への不信感が強く、ドイツ人を要職に就けることが多かったため、政府におけるドイツ人の強い影響力は多くのロシア人の反発を招いた。一方で、アンドレイ・オステルマンやミュンニヒ元帥といったピョートル大帝に招聘された「御雇い外国人」から出世した人々は、ビロンを除けば、ドイツ人による寡頭支配を目論んでいたわけではなく、互いに対立していたため、ドイツ人による支配という評価は実際には当たらないという見方もある。

3.2. 政治的弾圧と秘密警察
アンナは、政治犯を処罰することを目的とした秘密捜査局を復活させた。しかし、時には政治的性質を持たない事件も扱われた。アンナの治世以来、ビロンが秘密捜査局の背後にある権力者であると噂されてきたが、実際には元老院議員アレクセイ・イヴァノヴィチ・ウシャコフが運営していた。有罪となった者への処罰はしばしば非常に苦痛で、忌まわしいものであった。例えば、政府に対する陰謀を企てたという者の一部は、鞭で打たれるだけでなく、鼻を裂かれるなどの刑を受けた。ロシア当局は、ビロンとアンナの警察によって犠牲となったロシア人、中には最高位の貴族も含まれる、合計約2万人に上ると記録している。
3.3. 貴族政策と社会構造
アンナは貴族に多くの特権を与えた。1730年には、ピョートル大帝の長子相続制に関する法律(遺産を相続人の間で分割することを禁じるもの)の廃止を確実にした。1731年からは、地主が農奴の税金に責任を負うことになり、これは農奴の経済的束縛をさらに強化する効果をもたらした。1736年には、貴族が国家への義務的な軍務を開始する年齢が20歳に変更され、勤務期間は25年と定められた。アンナと彼女の政府はまた、一族に複数の息子がいる場合、一人を家督継承のために残留させても良いと決定した。
3.4. 教育、文化、西欧化
アンナの治世では、教育と文化の分野で西欧化が継続的に進展した。
1731年には、帝位に就いてわずか1年後に陸軍幼年学校を設立した。陸軍幼年学校は、8歳からの少年たちを軍事訓練のために集めた組織で、軍の要職に就くために必要な全ての教育を含む非常に厳格な訓練プログラムが組み込まれていた。時が経つにつれて、このプログラムはエカチェリーナ大帝のような後の皇帝や女帝によって改善され、軍事科目に加えて芸術や科学が cadet の教育に導入されるようになった。
アンナはピョートル大帝によって設立されたロシア科学アカデミーへの資金提供を継続した。この学校は、当時の西欧諸国の水準にロシアが到達するのを助けるため、ロシアにおける科学の発展を目的として設計された。教えられた科目には、数学、天文学、植物学などがあった。科学アカデミーはまた、多くの探検を主導し、特にベーリング海峡探検が有名である。アメリカとアジアがかつて陸続きであったかを解明しようとする中で、シベリアとその住民も研究された。これらの研究は、探検隊がシベリアから帰還した後も長く参照され続けた。しかし、アカデミーは外部からの干渉に苦しんだ。政府や教会は頻繁に資金調達や実験に干渉し、それぞれの観点に合うようにデータを変更した。この科学学校は非常に小規模で、大学の学生数は12人を超えることはなく、中等学校でも100人強であった。それでも、ロシアの教育にとっては大きな進歩であった。多くの教師や教授はドイツから招聘され、西欧の視点から学生に指導を提供した。これらのドイツ人教授によって教えられた学生の中には、後にエカチェリーナ大帝の家庭教師であったアドドゥーロフのように、将来の指導者の顧問や教師となる者もいた。アンナの治世中に、科学アカデミーはプログラムに芸術を取り入れ始めた。当時はまだ芸術のための学校がなかったためだが、女帝は芸術の熱心な支援者であった。劇場、建築、版画、ジャーナリズムがすべてカリキュラムに追加された。世界的に有名なロシアバレエの基礎が築かれたのはこの時期である。
西欧化はピョートル大帝の治世後も、科学アカデミー、陸軍幼年学校の教育、そして劇場やオペラを含む帝室文化といった顕著な西欧文化の分野で継続された。叔父ピョートル大帝の治世下のような急速な西欧化ではなかったが、アンナの統治期間中も知識の拡大という文化が継続し、主に貴族に影響を与えたことは明らかである。この西欧化の成功は、ドイツ宮廷貴族の努力によるものとされており、外国人による影響は肯定的に評価されることもあれば、否定的に評価されることもある。
アンナの治世は、他のロシア皇帝の治世とある点で異なっていた。彼女の宮廷はほぼ完全に外国人、その大半がドイツ人によって構成されていた。一部の評論家は、歴史家が彼女の統治をロシア史から孤立させるのは、アンナが共感的であったドイツ人に対する長年の偏見によるものだと主張している。
1957年以降ワガノワ・ロシア・バレエ・アカデミーとして知られる帝室演劇学校は、アンナの治世中の1738年5月4日に設立された。これはロシア初のバレエ学校であり、世界で2番目のバレエ学校でもあった。この学校はフランスのバレエ教師ジャン=バティスト・ランデの主導によって設立された。
3.5. 宗教政策
アンナの政府は、正教会への改宗を拡大するため、1740年に「新改宗者事務局」を設立した。カザンのボゴロディツキー修道院に設置されたこの事務局は、修道士が常駐し、国家当局の支援を受けていた。女帝の布告により、彼らは改宗の大幅な増加を主導し、改宗者には「洗礼受け入れの報酬」として物品や現金が提供された。しかし、チュヴァシ人の嘆願書が聖職者が「彼らを容赦なく殴打し、意に反して洗礼を施した」と記述しているように、威圧や暴力も改宗に一役買った。さらに、数百のモスクが破壊された。1750年代までに、40万人以上の異教徒やイスラム教徒が改宗した。アンナはロシア正教会の純粋性を保護するために、異端審問の取り締まりを強化し、その命令によりロシアの16都市に神学校が開校された。1735年には冒涜者に対して死刑を科すよう命じた。
3.6. 外交・軍事政策
アンナの治世中、ロシアは二つの大きな紛争、すなわちポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)と露土戦争に巻き込まれた。ポーランド継承戦争では、ロシアはオーストリアと協力し、フランス王国に依存し、スウェーデンやオスマン帝国に友好的なスタニスワフ・レシュチンスキの候補に反対して、アウグスト2世の息子アウグスト3世を支援した。しかし、ロシアの紛争への関与はすぐに終わり、露土戦争(1735年 - 1739年)の方がはるかに重要であった。
1732年、ナーディル・シャーはロシアに対し、ピョートル大帝のロシア・ペルシア戦争で獲得したペルシア北部の領土を返還するよう強制した。ラシュト条約はさらに、共通の敵であるオスマン帝国に対する同盟を許可し、いずれにせよシルヴァン、ギーラーン、マーザンダラーンの各州は占領期間を通じて帝国財政にとって純粋な負担であった。3年後の1735年、ギャンジャ条約に従い、10年以上前にペルシアから獲得した北カフカースと南カフカースの残りの領土も返還された。
オスマン帝国との戦争は4年半に及び、10万人の兵士と数百万ルーブルを費やした。その負担はロシア国民に大きなストレスを与え、ロシアが得たのはアゾフとその周辺都市のみであった。しかし、その影響は当初考えられていたよりも大きかった。オステルマンの南方拡大政策は、ピョートル大帝が1711年に署名したプルト条約に勝った。ミュンニヒは、ロシアにとって壊滅的な敗北に終わらなかったトルコに対する最初の遠征を成功させ、オスマン帝国の無敵という幻想を打ち破った。彼はさらに、ロシアの擲弾兵と軽騎兵が、イェニチェリとスィパーヒーの2倍の兵力を打ち破れることを示した。クリミアのタタール騎兵は絶滅させられ、ロシアの顕著で予期せぬ成功はヨーロッパにおけるその威信を大いに高めた。
ロシアはまた、キルギスのハン国に対する保護国を確立し、短期間のヒヴァ征服を支援するために将校を派遣した。18世紀を通じて清がヨーロッパに派遣した唯一の使節団は、アンナの宮廷への2つの使節団であった。1731年にモスクワへ、翌年にはサンクトペテルブルクへ派遣された。これらの使節団は、清の官僚が外国の君主の前で跪拝を行った唯一の機会という点でも独特であった。
3.7. ビロンとの関係
結婚後わずか数週間で夫を亡くして以来、アンナは再婚しなかった。ロシア女帝として、彼女はすべての男性に対する権力を享受しており、結婚が自身の権力と地位を損なうと考えたのかもしれない。
しかし、アンナの治世はしばしば、彼女のドイツ人愛人エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンにちなんで「ビロン時代」(Бироновщинаビロノフシチナロシア語)と呼ばれる。歴史家たちは、ビロンがアンナの内政および外交政策に強い影響を与えただけでなく、時には女帝の意見を問わずに単独で権力を振るったことにも同意している。アンナはビロンの個人的な魅力に惹かれ、彼は彼女にとって良い伴侶であったが、彼の名前は残忍さと恐怖の代名詞となった。世間の認識では、これらの負の特質がアンナの治世の特徴となった。
3.8. 宮廷生活と個人的傾向
アンナはサンクトペテルブルクでの豪華な建築事業に引き続き多額の資金を投じた。彼女はピョートル大帝のもとで建設が始まった水路を完成させ、新しい運河に航海可能な船舶を通し、海軍拡張を継続するよう命じた。
気丈で風変わりなアンナは、その残忍さと下品なユーモアのセンスで知られていた。彼女はミハイル・ゴリツィン公爵を強制的に宮廷道化師にし、彼を魅力のないカルムイク人の召使いアヴドチヤ・ブゼニノワと結婚させた。結婚を祝うため、女帝は高さ10 m、長さ24 mの氷の宮殿を建設させ、氷のベッド、階段、椅子、窓、さらには氷の暖炉に氷の薪まで置かせた。ゴリツィン公爵とその花嫁は象の上の籠に入れられ、この建造物まで通りを練り歩き、極寒の冬の夜にもかかわらず、氷の宮殿で新婚の夜を過ごすことを強いられた。アンナ女帝は、凍え死にたくないなら愛し合って体を寄せ合うように夫婦に命じた。結局、召使いが真珠のネックレスを護衛の一人から毛皮のコートと交換して夫婦は生き延びた。熱心な狩人であったアンナは、狩りたい衝動に駆られるたびに、いつでも窓際に散弾銃を置いて鳥を撃ち落とした。


アンナはギャンブルや狩猟を好み、宮廷は未だ洗練されたものとは言い難かった。イタリアから劇団や音楽家などを招聘したが、彼女は彼ら芸術家を道化のように扱った。建築家バルトロメオ・ラストレッリを庇護し、建築事業には熱心であったが、クールラントに築いたものを除いてはほとんど現存しない。また、1739年の厳冬、中央アジアでの戦勝記念として、凍結したネヴァ川の上にパラディオ様式の壮麗な氷製の宮殿を建設した。3.00 万 RUBの巨費を投じたこの宮殿は氷の彫像で飾られ、庭園の樹木、浴室、家具調度まで全てが氷で出来ていた。この奇妙な氷の宮殿(Ледяной домリェジェノイ ドムロシア語)は女帝のグロテスクな趣味を満足させるために使われたが、アンナの崩御の翌年に溶けてしまったという。
4. 死と後継者問題
健康が悪化するにつれて、アンナは自身の大甥であるイヴァン6世を後継者に指名し、ビロンを摂政に任命した。これは、自身の父イヴァン5世の血統を確実に継承させ、ピョートル大帝の子孫が帝位を継ぐことを排除しようとする試みであった。
彼女は腎臓に潰瘍を患っていたと記録されており、痛風の発作も繰り返した。容態が悪化するにつれて、健康状態は衰え始めた。アンナは1740年10月28日、腎臓結石による緩慢で苦痛を伴う死の過程を経て、47歳で死去した。女帝の最後の言葉はビロンに向けられたものであった。
イヴァン6世は当時生後2ヶ月の乳児であり、その母であるアンナ・レオポルドヴナは、ドイツ人の顧問や親族のために嫌われていた。結果として、アンナの死後まもなく、ピョートル大帝の嫡出の娘であるエリザヴェータ・ペトロヴナが民衆の支持を獲得し、イヴァン6世を地下牢に監禁し、その母を追放した。アンナは3ヶ月後の1741年1月15日に埋葬されたが、ロシアの未来に不確実性を残した。父イヴァン5世の直系に帝位を伝えるというアンナの夢は、もろくも崩れ去った。
5. 遺産と評価
アンナ・イヴァノヴナの統治に対する歴史的評価は、西欧とロシア国内で大きく異なる。その政策は賛否両論を呼び、特に「暗黒時代」という呼称は、彼女の治世の負の側面を強調している。
5.1. 歴史的評価
西欧では、アンナの治世は伝統的に、旧来のモスクワ大公国の慣習からピョートル大帝が構想したヨーロッパ的な宮廷への移行の継続として見なされてきた。しかし、彼女の厳格な統治は普遍的に不評であった。ロシア国内では、アンナの治世はしばしば「暗黒時代」として語られる。彼女の不人気は、個人的な欠点にも由来していた。ロシアの支配者が弱さを見せることを避ける必要性を考慮しても、アンナの統治には臣民に対する疑問を抱かせる行動が含まれていた。彼女は宮殿の窓から動物を狩ることを好み、幾度となく障害を持つ人々を辱めたことが知られている。農奴制、農民や下層階級の奴隷制、課税、不正、そして絶え間ない恐怖による支配といった問題は、彼女の治世中もロシアに根強く残った。
5.2. 批判と論争
彼女の帝国は、ザクセン大臣ルフォールによって「嵐に脅かされた船に例えられる。その船は酔っぱらいか眠っている操舵士と乗組員によって操られており、これといった未来はない」と描写された。アンナの対トルコ戦争、経済問題、そしてその即位を巡る陰謀は、女帝の治世に不吉な影を落とした。彼女はサンクトペテルブルクの宮廷を再建し、ロシアの政治的雰囲気をピョートル大帝が意図した場所に戻し、その壮麗さはヨーロッパやアジアでも比類ないものであったが、その豪華な宮廷生活は、戦争で虐殺された何千人もの人々の影に覆い隠されていた。