1. 概要
カール=ハインツ・リードレ(Karl-Heinz Riedleドイツ語、1965年9月16日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手であり、現在はサッカー指導者、およびサッカー行政の分野で活動しています。選手時代のポジションはフォワードでした。身長は179 cmと大柄ではありませんでしたが、卓越したヘディング能力とジャンプ力、空中でのタイミングの良さで知られ、「エア・リードレ」(Air Riedle英語)の愛称で親しまれました。また、「メッサーシュミット」(Messerschmittドイツ語)という異名でも呼ばれ、足でのシュートにも長けた決定力のあるストライカーでした。
ブンデスリーガでは8シーズンにわたって207試合に出場し、そのうち62得点をヴェルダー・ブレーメンとボルシア・ドルトムントで記録しています。イタリアのSSラツィオやイングランドのリヴァプールFCでもプレーしました。ドイツ代表としては6年間プレーし、2度のFIFAワールドカップとUEFA欧州選手権1992に出場。特に、1990年のワールドカップでは西ドイツ代表の一員として優勝を経験しました。また、1997年にはボルシア・ドルトムントで2得点を挙げ、クラブの歴史的なチャンピオンズリーグ初優勝に貢献しました。国際Aマッチ通算42試合出場で16得点を記録しています。
2. 幼少期とユースキャリア
カール=ハインツ・リードレは西ドイツのヴァイラー・イム・アルゴイで生まれました。彼は1974年に地元のクラブであるTSVエルホーフェンでサッカーを始め、その後SVヴァイラーを経て、1983年にバイエルンリーガ所属のFCアウクスブルクに入団し、本格的にキャリアをスタートさせました。アウクスブルクでは、1985-86シーズンにリーグ戦で20得点を挙げ、チームのトップスコアラーとなる活躍を見せました。この好調なパフォーマンスは、新たにブンデスリーガに昇格したSpVggブラウ=ヴァイス1890ベルリンの注目を集めることになります。
3. プレースタイル
リードレはストライカーとして、特に優れたヘディング能力で知られました。身長は179 cmと、当時のフォワードとしては特段大柄ではありませんでしたが、並外れたジャンプ力と空中での滞空時間の長さ、そしてクロスボールへの正確なタイミングで飛び込む能力を持ち合わせており、その卓越したヘディングシュートは対戦相手にとって脅威でした。この特徴から、彼は「エア・リードレ」(Air Riedle英語)という愛称で呼ばれました。また、ドイツの有名な戦闘機にちなんで「メッサーシュミット」(Messerschmittドイツ語)という物騒なニックネームでも呼ばれていました。
しかし、彼のプレースタイルは単にヘディングに優れているだけでなく、足でのシュートも得意であり、高い決定力も持ち合わせていました。相手のディフェンスラインの裏を狙う動きや、ボックス内でのポジショニングも巧みで、伝統的なセンターフォワードでありながらも、多才で得点力の高い選手として名を馳せました。特に、UEFA欧州選手権1992では、足技に優れたリードレと、空中戦を得意とするユルゲン・クリンスマンという二人のフォワードがドイツ代表の攻撃を牽引しました。
4. クラブ経歴
カール=ハインツ・リードレは、ドイツ、イタリア、イングランドの各国のクラブで活躍し、特にドイツのクラブで大きな成功を収めました。
4.1. ドイツでの初期キャリア
FCアウクスブルクでの活躍後、リードレは1986年に当時ブンデスリーガに昇格したばかりのSpVggブラウ=ヴァイス1890ベルリンへ移籍しました。この移籍金は3.30 万 DEMでした。彼は1986年8月9日に行われた1.FCカイザースラウテルン戦でリーグデビューを果たし、4対1で敗れたホームゲームで初得点を記録しました。ブラウ=ヴァイス・ベルリンが最下位で降格したシーズンでしたが、リードレは10得点を記録し、好調なプレーを維持しました。
翌1987年、リードレは名将オットー・レーハーゲルが監督を務めるヴェルダー・ブレーメンへ移籍しました。リードレはこの移籍について、「ブレーメンは若手選手の育成に定評があるセンセーショナルなクラブであり、レーハーゲルのおかげで私は選手として成長し、多くのことを学んだ」と後に語っています。ブレーメン加入初年度の1987-88シーズンには、リーグ戦33試合に出場して18得点を挙げ、チームのブンデスリーガ優勝に貢献しました。これは、リーグ得点ランキングでユルゲン・クリンスマンに次ぐ2位の記録であり、全公式戦では24得点を挙げました。ブレーメンでの3年間で、リードレは公式戦合計58得点を記録し、クラブは2年連続でDFBポカール決勝に進出しましたが、いずれも準優勝に終わりました。特に1989年の決勝では、ボルシア・ドルトムントに1対4で敗れたものの、先制点を挙げています。また、UEFAカップ1989-90の3回戦では、当時ディエゴ・マラドーナが所属していたSSCナポリとの2試合合計で3得点を挙げるなど、印象的な活躍を見せました。
4.2. イタリアへの移籍: ラツィオ
1990年の夏、リードレはイタリア・セリエAのSSラツィオへ移籍しました。この移籍金は1300.00 万 DEMと報じられ、当時のヨーロッパにおける最高額の移籍金の一つとされました。ラツィオでの在籍期間中、クラブはタイトルを獲得したり、決勝に進出することはありませんでしたが、リードレはチームに大きく貢献しました。特に1991-92シーズンには、リーグ戦29試合に出場して13得点を記録する活躍を見せました。また、1992-93シーズンには、クラブにとって1970年代以来最高の成績となるリーグ5位にチームを押し上げる原動力となりました。ラツィオでは3年間を過ごし、そのうち2年間は同胞のトーマス・ドルと共にプレーしましたが、4人の外国籍選手が在籍する中で、徐々に出場機会が減少していきました。
4.3. ボルシア・ドルトムントでの成功
1993年の夏、リードレはドイツへ帰国し、ボルシア・ドルトムントへ移籍しました。移籍金は950.00 万 DEMまたは850.00 万 DEMと推定されています。ドルトムントでは、主にステファン・シャピュイサとコンビを組んでレギュラーとしてプレーしました。ラツィオ時代ほどの得点数を記録することはありませんでしたが、チームにとって重要な存在でした。
彼は1995年と1996年のブンデスリーガ連覇に大きく貢献しました。この2シーズンで合計13得点を挙げています。そして、彼のキャリアの頂点とも言えるのが、1996-97シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝でした。ユヴェントスFCとの決勝戦で、リードレは2得点を挙げる活躍を見せ、チームの3対1での勝利に貢献。ボルシア・ドルトムントにクラブ史上初のチャンピオンズリーグタイトルをもたらしました。
4.4. イングランドでの晩年キャリア
1997年、リードレはプレミアリーグのリヴァプールFCへ移籍しました。イタリアのペルージャ・カルチョも彼の獲得に動いていましたが、リヴァプールはスタン・コリーモアの後釜としてリードレを獲得しました。リヴァプールでは、18歳の若手マイケル・オーウェンの台頭などにより、出場機会が不規則になりました。
1999年9月下旬、34歳となったリードレは、出場機会を求めてフットボールリーグのフラムFCへ移籍しました。フラムでは、かつてリヴァプールで監督を務めたロイ・エヴァンスと共に、ポール・ブレイスウェルの解任後の1999-2000シーズンの残りの期間、選手兼任の暫定監督を務めました。翌2000-01シーズンにはジャン・ティガナが正式監督に就任したため選手に復帰し、リーグ戦14試合に出場して1得点を記録し、チームのプレミアリーグ昇格に貢献しました。このシーズン限りで現役を引退することを発表し、クイーンズ・パーク・レンジャーズFCとのディビジョン1の試合で最後のゴールを決め、2対0の勝利に貢献しました。引退後の2002年1月には、リヒテンシュタインのFCファドゥーツの練習に参加し現役復帰を試みましたが、契約には至りませんでした。
5. 代表経歴
カール=ハインツ・リードレは、ドイツのユース年代からオリンピック代表、そしてフル代表として国際舞台で活躍しました。
5.1. ユース代表とオリンピック代表
リードレは、西ドイツのU-21代表チームで4試合に出場し1得点を記録しています。
1988年には、ユルゲン・クリンスマンやトーマス・ヘスラーらと共に西ドイツオリンピック代表に選出されました。韓国で開催された1988年ソウルオリンピックサッカー競技に出場し、チームは銅メダルを獲得しました。リードレは同大会で1試合に出場しています。
5.2. フル代表
リードレは、1988年から1994年まで西ドイツ/ドイツのフル代表チームでプレーしました。国際Aマッチ通算42試合に出場し、16得点を記録しています。
彼のフル代表デビューは1988年8月31日に行われた1990 FIFAワールドカップ予選のフィンランド戦で、この試合で得点を挙げ4対0のアウェー勝利に貢献しました。
フランツ・ベッケンバウアー監督によってイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップ本大会のメンバーに選出されました。この大会では、ユルゲン・クリンスマンとルディ・フェラーに次ぐ3番手のフォワードと見なされていましたが、フェラーの出場停止により1試合に先発出場するなど、合計4試合に出場し、ドイツの3度目のワールドカップ優勝に貢献しました。準決勝のイングランド戦では、フェラーが負傷退場した後に途中出場し、試合がPK戦にもつれ込んだ際には自身のPKを成功させ、ドイツの勝利に貢献しました。
イタリア大会以降は、フェラーに代わってレギュラーに定着し、1992年にスウェーデンで開催されたUEFA欧州選手権1992で大きな活躍を見せました。特に準決勝のスウェーデン戦では2得点を挙げて3対2の勝利に貢献しました。この大会では合計3得点を記録し、ヘンリク・ラルセン、デニス・ベルカンプ、トーマス・ブロリンと並んで得点王に輝きました。
その後、1994年にアメリカ合衆国で開催された1994 FIFAワールドカップにも出場し、グループリーグの韓国戦で1得点を挙げています。
5.2.1. 代表ゴール
カール=ハインツ・リードレのドイツ代表としての国際試合でのゴールは以下の通りです。
No. | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1988年8月31日 | ヘルシンキ、フィンランド | フィンランド | 4-0 | 4-0 | 1990 FIFAワールドカップ予選 |
2. | 1989年9月26日 | ロッテルダム、オランダ | オランダ | 1-0 | 1-1 | 1990 FIFAワールドカップ予選 |
3. | 1990年12月19日 | シュトゥットガルト、ドイツ | スイス | 2-0 | 4-0 | 親善試合 |
4. | 1991年9月11日 | ロンドン、イングランド | イングランド | 1-0 | 1-0 | 親善試合 |
5. | 1991年10月16日 | ニュルンベルク、ドイツ | ウェールズ | 3-0 | 4-0 | UEFA EURO '92予選 |
6. | 1991年12月18日 | レーヴァークーゼン、ドイツ | ルクセンブルク | 3-0 | 4-0 | UEFA EURO '92予選 |
7. | 1992年6月15日 | ノーショーピング、スウェーデン | スコットランド | 1-0 | 2-0 | UEFA欧州選手権1992 |
8. | 1992年6月21日 | ソルナ、スウェーデン | スウェーデン | 2-0 | 3-2 | UEFA欧州選手権1992 |
9. | 3-1 | |||||
10. | 1992年9月9日 | コペンハーゲン、デンマーク | デンマーク | 1-0 | 1-2 | 親善試合 |
11. | 1993年3月24日 | グラスゴー、スコットランド | スコットランド | 1-0 | 1-0 | 親善試合 |
12. | 1993年6月13日 | シカゴ、アメリカ合衆国 | アメリカ合衆国 | 2-1 | 4-3 | 1993 U.S.カップ |
13. | 3-1 | |||||
14. | 4-1 | |||||
15. | 1993年10月13日 | カールスルーエ、ドイツ | ウルグアイ | 3-0 | 5-0 | 親善試合 |
16. | 1994年6月27日 | ダラス、アメリカ合衆国 | 韓国 | 2-0 | 3-2 | 1994 FIFAワールドカップ |
6. 引退後のキャリア
カール=ハインツ・リードレは、選手引退後もサッカー界に様々な形で関わり続けています。
6.1. 監督およびフロントとしての役割
彼は2000年にフラムFCで選手兼任の暫定監督を務めました。
2004年11月からは、スイスのグラスホッパー・クラブ・チューリッヒでスポーツディレクターを務めましたが、2007年4月には2006-07シーズン限りでの辞任を表明しました。
サッカー行政の分野では、2014年8月28日にUEFAからUEFAチャンピオンズリーグ2014-15シーズン決勝のアンバサダーに任命されました。この決勝はベルリンで開催されました。その後も、2024年のチャンピオンズリーグ決勝ではレアル・マドリードのレジェンドであるジネディーヌ・ジダンと共に、古巣のボルシア・ドルトムントのアンバサダーに任命されるなど、国際的なイベントでの役割を担っています。2014年11月には、ボルシア・ドルトムントの国際親善大使に就任しました。
6.2. その他の活動
リードレはサッカー以外の事業活動にも従事しています。現在は、ドイツ南部のアルゴイ地方でサッカースクールを運営する傍ら、4つ星ホテルの経営も行っています。
7. 私生活
カール=ハインツ・リードレはガブリエレと結婚しており、アレッサンドロ・リードレ、ドミニク、ヴィヴィアン=ジョアナの3人の子供がいます。長男のアレッサンドロ・リードレもプロサッカー選手であり、父親と同様にストライカーとしてプレーしています。彼はオーバーシュタウフェンの村でホテルを所有し、サッカースクールを経営しています。
8. 功績と栄誉
カール=ハインツ・リードレが選手キャリアを通じて獲得した主要な優勝トロフィーと個人賞は以下の通りです。
ヴェルダー・ブレーメン
- ブンデスリーガ: 1987-88
- DFLスーパーカップ: 1988
- DFBポカール準優勝: 1988-89、1989-90
ボルシア・ドルトムント
- UEFAチャンピオンズリーグ: 1996-97
- ブンデスリーガ: 1994-95、1995-96
- DFLスーパーカップ: 1995、1996
フラム
- フットボールリーグ・チャンピオンシップ: 2000-01
ドイツ代表
- FIFAワールドカップ: 1990
- UEFA欧州選手権準優勝: 1992
- 夏季オリンピック 銅メダル: 1988
- U.S.カップ: 1993
個人
- UEFAカップ得点王: 1989-90 (共同)
- UEFA欧州選手権得点王: 1992 (共同)
9. キャリア統計
カール=ハインツ・リードレのプロ選手としてのクラブおよび代表チームでの総統計データは以下の通りです。
9.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | リーグカップ | 国際大会 | その他 | 合計 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | ||
SpVggブラウ=ヴァイス1890ベルリン | 1986-87 | ブンデスリーガ | 34 | 10 | 3 | 4 | - | - | - | 37 | 14 | |||
ヴェルダー・ブレーメン | 1987-88 | ブンデスリーガ | 33 | 18 | 6 | 2 | - | 10 | 4 | - | 49 | 24 | ||
1988-89 | ブンデスリーガ | 33 | 13 | 6 | 5 | - | 5 | 1 | 1 | 1 | 45 | 20 | ||
1989-90 | ブンデスリーガ | 20 | 7 | 4 | 2 | - | 8 | 6 | - | 32 | 15 | |||
合計 | 86 | 38 | 16 | 9 | 0 | 0 | 23 | 11 | 1 | 1 | 126 | 59 | ||
SSラツィオ | 1990-91 | セリエA | 33 | 9 | 2 | 0 | - | - | - | 35 | 9 | |||
1991-92 | セリエA | 29 | 13 | 4 | 0 | - | - | - | 33 | 13 | ||||
1992-93 | セリエA | 22 | 8 | 4 | 2 | - | - | - | 26 | 10 | ||||
合計 | 84 | 30 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 94 | 32 | ||
ボルシア・ドルトムント | 1993-94 | ブンデスリーガ | 22 | 4 | 0 | 0 | - | 5 | 0 | - | 27 | 4 | ||
1994-95 | ブンデスリーガ | 29 | 6 | 2 | 1 | - | 9 | 6 | - | 40 | 13 | |||
1995-96 | ブンデスリーガ | 18 | 7 | 0 | 0 | - | 4 | 1 | - | 22 | 8 | |||
1996-97 | ブンデスリーガ | 18 | 7 | 0 | 0 | - | 5 | 4 | - | 23 | 11 | |||
1997-98 | ブンデスリーガ | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | ||
合計 | 87 | 24 | 2 | 1 | 1 | 0 | 23 | 11 | 0 | 0 | 113 | 36 | ||
リヴァプールFC | 1997-98 | プレミアリーグ | 25 | 6 | 1 | 0 | 5 | 0 | 3 | 1 | - | 34 | 7 | |
1998-99 | プレミアリーグ | 34 | 5 | 1 | 0 | 1 | 0 | 4 | 1 | - | 40 | 6 | ||
1999-2000 | プレミアリーグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | - | 2 | 2 | ||
合計 | 60 | 11 | 2 | 0 | 7 | 2 | 7 | 2 | 0 | 0 | 76 | 15 | ||
フラムFC | 1999-2000 | フットボールリーグ・ファーストディビジョン | 21 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | - | 22 | 5 | ||
2000-01 | フットボールリーグ・ファーストディビジョン | 14 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | 14 | 1 | |||
合計 | 35 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36 | 6 | ||
キャリア合計 | 386 | 119 | 34 | 16 | 8 | 2 | 53 | 24 | 1 | 1 | 482 | 162 |
9.2. 代表統計
代表チーム | 年 | 出場 | ゴール |
---|---|---|---|
ドイツ | 1988 | 1 | 1 |
1989 | 3 | 1 | |
1990 | 9 | 1 | |
1991 | 5 | 3 | |
1992 | 10 | 4 | |
1993 | 8 | 5 | |
1994 | 6 | 1 | |
合計 | 42 | 16 |
10. レガシー
カール=ハインツ・リードレは、その独特なプレースタイルと、特にヘディングにおける並外れた能力によって、サッカー界に強い印象を残しました。「エア・リードレ」という愛称は、彼の空中での支配力を象徴しており、身長がそれほど高くないにもかかわらず、空中戦で常に優位に立つ彼の技術は、多くのフォワードに影響を与えました。
彼は、ヴェルダー・ブレーメンでのブンデスリーガ優勝、ボルシア・ドルトムントでのブンデスリーガ連覇と歴史的なUEFAチャンピオンズリーグ優勝、そしてドイツ代表としてのワールドカップ優勝と欧州選手権準優勝という、輝かしい功績を数多く残しました。特にチャンピオンズリーグ決勝での2ゴールは、彼をクラブのレジェンドとしてだけでなく、ヨーロッパサッカー史における決定的な瞬間に立ち会った選手として記憶させています。
引退後も、ボルシア・ドルトムントの国際親善大使やUEFAのアンバサダーを務めるなど、サッカー界との繋がりを保ち、その影響力を継続させています。また、ドイツ南部のアルゴイ地方でサッカースクールを運営する傍ら、ホテル経営といった事業活動も行い、多岐にわたる分野で活躍しています。彼のキャリアは、努力と才能が成功につながることを示す好例として、今もなお多くの人々に記憶されています。